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楽焼そもそも                      No.406
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◆2011年6月、。   楽焼そもそも

京焼には楽焼は含まれない、(または、楽焼は京焼に含まれない、)という件について京都国立博物館主任研究員の人が面白い考察を書いている文を見つけた、。(この題は奥部屋に書こうと思っていたので、文章は奥部屋風になってます)、。

京都「寿楽第(邸)」の完成を機に豊臣秀吉が田中利休(後の千利休)を伴って大坂から京都へ入ったのは1587年のことだ、。これ以前の楽焼は大坂(今の大阪)が政治経済の中心地であったので、大坂で多く使われ、製造も大坂が主体だったのではないのか、だから、古くから楽焼は京焼には含まれなかったのではないのか、という趣旨だた、。「京焼の範疇に楽焼が含まれない」理由は、「だって、京都で焼かれてなかった」からだ、という仮説だた、。
楽焼あるいは楽焼風焼き物の出土事例を見ると、年代的に古い事例が妙に大坂に偏っている、というのがこの仮説の根拠になっている、。

秀吉が京都へ入るより10年ほど前に「楽焼」始祖阿米夜(阿米也とも飴也とも)は他界している、。阿米夜が帰化して佐々木氏の娘と結婚し、二人の間にできた長男が長次郎である、。田中利休は秀吉から「千」の名字を拝領すると「田中姓」を家督も共に佐々木長次郎に与えた、。長次郎は終生「田中長次郎」を名乗ったのだた、。田中家の出身地は大坂の堺である、。長次郎も京都と大阪の間を行き来していたに違いない、。
ただ、長次郎は程なく1592年に他界してしまうので、秀吉から「天下一」の号と「楽」の金印を賜るのは、2代目常慶であり、これ以後「楽姓」を名乗るようになる、。この頃には楽焼の本拠地は京都に移っていた、。

楽家3代目道入の弟道楽は大坂堺で「楽忠窯」を開窯しているし、2代目常慶の弟宗味が脇窯を開いたのも(京都では許されなかったので)大坂ではないかと思われる、。堺から泉州、貝塚辺り(ほとんど関空に近い南の方)まで楽焼窯はあったように思われるのだ、。

こうなると、楽家の人が書いた文章にも少し疑問が出てくる、。他にも、「本阿弥光悦」が楽焼を焼いていたのは前にも書いたし、京焼の第一人者「野々村仁清」の次に出て来る「尾形乾山」(絵師光琳の弟)も焼いていた、。乾山の次に出て来る高槻出身の初代「清水六兵衛」にも、初代「高橋道八」にも楽焼の作品が残っている、。これらの人は1600年代の中頃から1800年頃の江戸後期に至るまで京都で焼いていたのだ、。楽家にしか許されなかったのは「楽焼」と名乗る事であり、「楽焼風焼き物」を作る事は(本家は苦々しく思っていたようだが)、許されていた様子だ、。

上に書いた事は「お茶碗」の事だけど、我が「楽焼植木鉢」も大坂の堺で焼き始められた、。1656年の事である、。
江戸後期になると京都でも楽焼植木鉢は焼かれるようになる、。短冊屋さんともう一軒、それと粟田口辺りにあった京薩摩の窯元、。少なくとも3窯はあったようだ、。楽焼鉢の歴史も江戸初期から現在にまで伝わっている訳で、大したものだと思います、。

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読み返すと、ずいぶん端折った文章を書いてますね、。説明不足で理解不能と思われても仕方ない、。もっと丁寧に説明するよう心がけます~、^^、。
画像は「楽雅亭」の植木鉢、。当時何を植えたのかは不明、。1700年前後の鉢ですが、作りの丁寧さや「楽忠窯」とのデザインの共通性などを考慮すると、ごく初期の作品、西暦1600年代のものではないかと思われます、。3年前の撮影時は華幸園所蔵(現在は持ち主が代っていると思います)
by evian_th | 2011-06-26 01:34 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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