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紀州藩お庭焼き「偕楽園」鉢              No.425
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◆2011年12月1日、。   紀州徳川藩お庭焼き「偕楽園」鉢

「楽焼鉢」ばかりで食傷気味な部分も出て来たでしょうし、また「楽焼鉢」を近視眼的に見てしまいがちな傾向になることを避けるために、和鉢全体像を見る目を(エビアン自身)養うために、今月は趣を変えて「偕楽園鉢」、。

江戸時代、各地大名は「茶の湯」「茶道具」に凝り、「茶道具」のコレクションに情熱を注ぎました、。
大名の中には、陶工を雇い入れて(主として)「茶道具」などの陶磁器を焼いた藩も出て来たほどです、。これを「お庭焼き」と呼びます、。その最も熱心だったのが紀州藩だったと言われています、。

紀州徳川藩お庭焼き「偕楽園」鉢、。
紀伊藩主十代徳川治宝(はるとみ)統治時代に西浜御殿の庭「偕楽園」で始まったお庭焼きを「偕楽園」(かいらくえん、偕楽園焼)と呼びます、。
製作期間については説により多少の誤差がありますが、1827年(文政10年)の少し前頃から始まり、殿様(治宝)が没する1852年(嘉永5年)頃までの約30年間の製作です、。

紀州藩で独自に陶工を養成したのではなく、各地の陶芸産地から名のある陶工を招請して製作と指導とに当たらせたようです、。
招請された陶工には、青木木米(あおきもくべい)、永楽保全(えいらくほうぜん、一説には長男の和全とも、)、仁阿弥道八(にんなみどうはち、初代高橋道八の子供)、楽家九代目了入、楽家十代目旦入、二代目弥助久楽(楽を焼いた)などそうそうたる面々、。また地元の「男山焼」の陶工も随時来窯したようです、。
これら陶工が自ら制作した茶器には「偕楽園製 仁阿弥造」などの銘書きが入ってますから、残念ながら「植木鉢」にはそういう品は少ない、か、存在しないかも知れません、。単に「偕楽園製」の落款のみです、。

製作期間が僅か30年間だったことと、なにしろ個性豊かな(陶工として)出来上がった陶工を呼んで作らせたので、「偕楽園」としてのオリジナリティーは強くは打ち出せなかったように感じます、。作品の傾向としては「永楽」の手法が主流であるようです、。
華麗な色調の交趾釉を掛けたものが多く、黄・紫・緑・紺・白色などの美しい色彩が特徴です、。

明治8年(1875年)になって「偕楽園焼」の復活を目指して「太田焼窯」が開かれましたが、これといった成果も残せず長続きはしなかったようです、。「偕楽園」の中に、チョッと「ん?、」と感じる作品があるのは、この時の作品かも知れません、。

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<以下、文献から引用>

紀州家お庭焼きは単に偕楽園焼というものではなく、順別して4つの窯に区分される、。
①西の丸御庭焼
②西浜御殿「偕楽園」お庭焼
③湊御殿清寧軒お庭焼き
④水軒養翆亭焼

◆「偕楽園御庭焼」は次の4種に分けることが出来る、。
①楽焼
②永楽焼
③道八焼
④その他

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青木木米、高橋道八、欽古堂亀佑(きんこどうきすけ)などは、京焼で初めて本格的な磁器を焼いた江戸中後期の名工・奥田潁川(おくだえいせん、1753~1811)が育てた弟子たちです、。

奥田潁川の祖先は、中国潁川県から長崎へ渡り京都で帰化し、代々豪商だったと伝えられる、。この家の5代目に当たる茂右衛門は名前を庸徳といい、潁川と号し、陸方山とも号した、。
50歳過ぎから趣味で製陶に専念し、中国風な青華白磁、色絵、交趾、古赤絵などを製作し、中でも「呉須赤絵」において本領を発揮した、。潁川の作品は売り品を目的としない自由な趣味の作風であった、。
その作風を慕って「欽古堂亀佑」「青木木米」「仁阿弥道八・周平兄弟」「三文字屋嘉助」といった陶工がその門に集まり潁川の陶法を吸収して京焼第二次黄金期の担い手として各自の陶技に磨きをかける母胎となった、。

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このように、「京焼」と「紀州御庭焼」とはお互いに助け合いながら両者は密接に関係し発展して行った訳です、。
「京焼の腕のいい陶工」が居なければ紀州御庭焼は無かったし、「紀州御庭焼」という活躍の場が無ければ江戸後期・幕末・明治の京焼の隆盛も無かったのです、。



◆戦国時代、織田信長は足利幕府の官領・細川晴元の執事・松永弾正久秀の所有する「平蜘蛛の茶釜」が欲しくて欲しくて堪らず、攻め滅ぼしてしまう、。弾正は「信長になぞ取られまいぞ、」と「平蜘蛛の茶釜」を鎖で体に巻きつけ、茶釜ごと爆死してしまったというエピソードもあります、。
信長が足利幕府を滅ぼしたのは、彼らが所有していた「茶器、」が欲しかったからだ、という説もあるほど、当時の「茶の湯・茶入れ、」に対する執着は凄いものがあったようです、。

                       (伊藤勝美氏所蔵、撮影は夢楽さん)
by evian_th | 2011-12-01 01:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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