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京焼「平安東福寺鉢」                 No.493
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◆2013年11月、。   京焼「平安東福寺鉢」   


「東福寺」と呼ばれる鉢は、「平安東福寺・水野喜三郎」の作品群の事です、。
水野喜三郎、1890(明治23年)~1970(昭和45年、享年80歳)は京都、泉湧寺界隈の「櫛善」という「梳き櫛屋」(すきぐしや)の養子に入り、義父が趣味で菊や盆栽を作るのを見て喜三郎自身も盆栽を作り、自分の盆栽に合う植木鉢も趣味で作っていた、。

昭和に入り「セルロイド製の櫛」が世に出回るにつれて商売の方も苦しくなり、昭和5年喜三郎40歳の時に「盆栽鉢」の製造販売の道に入った、。40歳から80歳で他界するまでの間に造った樹鉢の数は2万個とも4万個とも言われている、。
自分専門の窯を持たない「借り窯」だったので作品は「小鉢」が多く、画像のような一種の懸崖鉢などは作品群の中では大きい方である、。

作風は「凛とした小鉢」を得意とし、中に「手捻り鉢」も何割かは製造している、。土の肌を大切にした「陶器」が多いが、「染付」や「絵付け」の「磁器」も少数ながら製作している、。磁器の現存数は少ない、。
「陶器の釉薬掛け」の場合は「緑釉」と「瑠璃釉」を得意とした、。

形はあらゆるものがあるが、「正方」「長方」「楕円」などは落款を見なくても「あ、東福寺だ、」と見分けが付くほどだ、。他人には真似のできないキッチリとした鉢を作った、。
「手捻り懸崖鉢」は蘭界にエビアンの知るだけで4~5個あるから全部で10個くらいはあるのかも知れない、。勿論、1個1個手作りだから2つとして同じものは無い、。

生涯に渡って赤貧の生活を強いられた喜三郎だったが、ようやく昭和30年代に入ってからの小盆栽ブームで鉢が売れ、70歳を過ぎてからの晩年の10年間は生活にもゆとりが出来、他界した時には少しの貯えもあったようで、それを聞くと救われる、。大阪万国博の開かれていた昭和45年5月に喜三郎は他界した、。
しかし、「平安東福寺鉢」が本当に評価され売れ始めるのは、喜三郎の死後のことであるのは如何にも皮肉だ、。

エビアンが「東福寺鉢」を買い始めたのもその頃のことで、一時は20個ほどは持っていた、。興花園梅本社長がエビアンとこには中国鉢は左程でもないが和鉢に良いものが多い、と野田谷君に言ったのは東福寺の多さを見ての事だったかも知れないね、。

画像の鉢も手捻り、麻布の上で作業したらしく鉢底に布目が付いている、。縄文模様と胴部分に飛ばした釉薬が一見無造作だが計算ずくのこと、。嫌味には映らない程度に抑えてある、。

「東福寺鉢」の落款は種類が多く、20個くらいあるかも知れない、。「良いものにはXXの落款を使ってある」ということを言う人も居るが必ずしも当て嵌まらない、。水野喜三郎の気に入りと世間の評価とは別物だからだ、。今は二代目と共に東本願寺別院に眠っている、。
「東福寺」は「古鉢」には入らない、。昭和5年~昭和45年の鉢だから、。言うなれば「新古鉢」というところか、。圧倒的な人気がある、。   (数寄者蔵)

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この鉢を何と呼んで表現するかと考えてみた、。
「手捻り櫛目模様懸崖鉢」と呼ぶのがいいだろう、と考えてから、は~ん、昔の「梳き櫛屋の職人意識」が生きてたんだなぁ~と思い至った、。作品の写真を調べてみると、少数ながら「梳き櫛模様」の鉢があった、。喜三郎のルーツだから忘れられなかったんだろなぁ~、。

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東洋蘭センター 寒蘭展示会
時:2013年11月8日~24日
所:東洋蘭センター 蘭の杜




播磨愛蘭会 寒蘭展示会
時:2013年11月23日・24日
所:姫路市北市民広場

by evian_th | 2013-10-31 01:56 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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