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京楽焼鉢「浮田一蕙と楽徳」               No.524
京楽焼鉢「浮田一蕙と楽徳」               No.524_d0103457_22565481.jpg

◆2014年10月24日、。   京楽焼鉢「浮田一蕙と浮田楽徳」

前スレに続いて「大和絵」と「浮田一蕙」「浮田楽徳」を書いておきます、。

江戸幕府の成立と共に「狩野派絵師」の多くは江戸へ下り、信長に付いて京都に残った「京狩野絵師」は冷や飯を食わされることになります、。京都の寺の襖絵を誰に描かせるか、という事まで江戸幕府が握っていたようで、「京狩野」の絵師は京都の寺の仕事もできなかったのです、。幕府に対する不満も溜まっていたのでしょう、。これが後に幕府を倒すエネルギーの一つになって行きます、。

京都の大和絵師「浮田一蕙」(宇喜多とも)は、豊臣政権下の五大老の一人で戦国大名・宇喜多秀家(秀は秀吉から与えられた一字、)の七世の孫に当たる立派な武家の出身です、。
早くから「尊王攘夷派」の絵師として知られ、後に「討幕運動」にも加わります、。そのことが、幕府大老・井伊直弼によって「安政の大獄、」時に江戸へ呼ばれ、吉田松陰らとともに投獄されます、。「安政の大獄」で刑を受けたのは百数十人に上り、その中の一部が処刑や投獄をされた訳ですから、長男・松庵(可成)と共に投獄をされた「浮田一蕙」は相当な重要人物だったのでしょう、。


この辺の一連の出来事は興味が無い限りややっこしいので簡単に箇条書きにします、。
1853年 黒船来航、。これより「日米修好通商条約」に反対する「尊王攘夷派」の中から討幕の運動が始まります、。
1858年から翌年へかけて 「安政の大獄」、。「浮田一蕙」は長男松庵(可成)と共に吉田松陰らと投獄されます、。
1859年  「浮田一蕙と松庵」解き放たれ京都へ帰るも6か月後浮田一蕙は他界してしまいます、。
1860年 「桜田門外の変、」起こる、。不満の残る元水戸藩浪士らによって「大老・井伊直弼」暗殺される、。
1861年  「浮田楽徳窯、」の開窯、。楽徳31歳の時、。
1863年  「湖東焼閉窯」、。彦根藩主井伊直弼の死によってスポンサーを失くした「彦根藩御庭焼・湖東焼」は閉窯に至ります、。「桜田門外の変」から3年後の事です、。
1867年 「坂本竜馬」「近藤勇」他界、。
◆1868年  「明治維新」、。


この一連の年表を見ると、
討幕運動に連座した「浮田一蕙」の井伊直弼による投獄と翌年の死亡
井伊直弼の暗殺
浮田楽徳窯の開窯

は無縁のものとは思えず、「浮田楽徳」は「大和絵師」として「一蕙の親族」であったが故に「絵師」の道を諦めて「陶芸」の世界へ入って行ったのではないでしょうか、。

これが(状況証拠的ではありますが)エビアンが「浮田楽徳」は「浮田一蕙」の親族、と考える根拠です、。同じ時代、同じ京都の大和絵師の中で同じ「浮田姓」の絵師で血縁者ではないというのはあり得ない事でしょうから、。


京楽焼鉢「浮田一蕙と楽徳」               No.524_d0103457_22571530.jpg

「短冊家」の開窯は、これら一連の出来事よりも30年も前の文化文政年のことですが、こう言っちゃぁ何だけど、「短冊家」は「短冊楼」という「御茶屋」(芸妓置屋)の主人という町衆の出身、。
それに比べて「浮田楽徳」は由緒正しい武家の出身、。
まぁ「短冊家」も「浮田楽徳」も素晴らしく、明治の日本に文化的には貢献大ですね、。

「浮田楽徳」というのも本名とは限らず、「浮田一蕙の子供」という考えから、「松庵」(可成)と同一人物ではないかと思ったのですが、松庵は明治21年に他界していました、。楽徳の他界は大正元年ですから、別人です、。二男・三男・甥っ子とも考えられますが、江戸時代というのは大名旗本といえど家督を相続したりという風に名前が残るのは長男だけで、それ以外は余程の事でもない限り名前は残りませんから判断は不能です、。

同じ討幕運動派の「坂本竜馬」と「浮田一蕙」の関係は、と興味本位で考えましたが、坂本竜馬は死んだのは京都ですが、「桜田門外の変」の時には幕府寄りに身を置いていて土佐(高知県)に居り、土佐と江戸との往復で、京都は滅多に寄りませんでした、。時代がズレます、。「坂本竜馬」は「勝海舟」に心酔して師事し日本の海軍力の増強に力を入れる立場に居たのが、突然翻って討幕派になるのですねぇ、。

数スレッド前に京都の古地図を掲載して「東山」のことを書きましたが、今回も「東山の東に位置する琵琶湖の東の湖東焼」と「東山の西の山裾に窯を置いた楽焼」とが不思議な運命を辿ったことが分かりますね、。
「桜田門外の変」により他界した井伊直弼は彦根藩御庭焼に力を注いでいたのですが、その死後は「湖東焼」も閉窯し、湖東焼の陶工達は東山の西の京都・粟田口へ移り住み、湖東焼の陶工だった「瀬戸の陶工・幹山伝七(本名:加藤孝兵衛、)」率いる「幹山工場」の陶工として働き、明治政府の肝いりで外貨を稼ぐために輸出用の磁器製品を作ることになります、。討幕運動派の多い京都に明治政府の御用達工房を開き、近距離でお互いに「陶磁器」を製造したのですから皮肉なものですね、。


こうして見ると、我々「鉢数寄」が持っている「楽焼万年青鉢や蘭鉢、」も中学校時代にイヤイヤ勉強させられた「黒船来航」「安政の大獄」「桜田門外の変」などの出来事とまんざら無関係ではなく、えらく身近に感じるものですねぇ~、。

画像の鉢はエビアン所蔵の「浮田楽徳製波うさぎ紋蘭鉢」、。「鉢縁下」(はちべりした)と腰部分は「七宝繋紋」、胴部分は古典「因幡の白ウサギ」から題材をとった伝統紋様である「波うさぎ紋」、。静かで落ち着いた鉢です、。
by evian_th | 2014-10-24 01:36 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
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