人気ブログランキング | 話題のタグを見る




TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク
以前の記事
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
more...

フォロー中のブログ
東洋蘭風来記奥部屋
東洋蘭 花図鑑 東洋蘭 ...

検索

タグ


なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529
なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529_b0034163_11591068.jpg
なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529_b0034163_1159235.jpg

◆2014年12月25日、。   なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

少し以前(といっても5年ほども前のことだですが)、「なぜ楽焼は京焼ではないのか?」というテーマに関して、曖昧な記憶から引用文を書いたのでしたが、その引用元の本を積読の中から見付けたので、楽焼鉢と関係がありそうな部分を抜き書きしておきます、。

元本は、「茶道誌淡交・2007年10月号増刊」の「江戸期の京焼」という本でした、。その中の・・・
「京焼の本質と定義」(副題:~それが判れば苦労しない~)  京都国立博物館主任研究員 尾野善裕


(中略)
なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

京都のやきものといえば、昔から楽焼が有名だが、楽焼は京焼ではないらしい。「らしい」というのは、私が決めたからではないからで、ものの本にそう書いてある、。
もっとも、こういう話をすると、「えっ!楽焼って京焼の一種じゃないの」という反応がしばしば返ってくるし、「それは、おかしい」と反論までされることも珍しくない、。しかし、意外に思われるかもしれないが、かつて「京焼」という言葉が、楽焼をその範疇に含まない概念として、たびたび用いられていたことは厳然とした事実である、。だから、いくら「おかしい!」と言われたって、そんなことは「あっしには関わりねぇことでござんす」、。

むしろ、なぜ楽焼が京焼ではないとされたのか、それを問うことのほうがよほど生産的な議論だろう、。そうした視点を抜きにして、楽焼を京焼に含めるべきか、否かをとやかく言うことにあまり意味があるとは思われない、。ただ、なぜ楽焼を京焼に含めないことになっているのか、その経緯や理由がよく判らないから困るのである、。

もっとも、こうした問題意識を頭の片隅にとどめておきながら、楽焼あるいは楽焼風のやきものの出土事例を概観してみると、年代的に古い事例が妙に大阪(以下、歴史的表記を重視して「大坂」)に偏っていることに気付く、。何故だろうか、。
実は、この現象は当時の政治・経済の中心がどこであったか、を象徴的に示している、。豊臣秀吉が建設させた寿楽第(邸)が完成し、彼が大坂から京都へ移って来るのは天正15年(1587年)のこと、。それゆえ、「松屋会記」の天正14年(1586年)10月13日条などから、それ以前に創始されていたと考えられる楽焼(あるいは楽焼風やきもの)が、京都よりも秀吉の本拠地であった大坂でたくさん用いられていたらしいことは、別に驚くほどのことではない、。千利休が秀吉の茶堂であり、楽焼初代の長次郎の作陶に利休が深く関与していたに違いないことを考えれば、むしろ当然のことと言ってようだろう、。

このように考えてくると、果たして楽焼は京都で創始されたのだろうか、という疑問も自ずから湧いてこよう、。大坂にいた秀吉と利休、そして利休と長次郎の関わりの深さを考えるならば、楽焼が大坂で焼き初められていたってよさそうである、。時代背景を重視するならば、そう考えることだって不可能ではない、。

「とんでもないことを口にする奴だ」という非難は覚悟の上で、あえて言わせて貰うならば、楽焼を京焼に含めないことに対する疑問の背景には、楽焼は京都のやきものだという先入観があるのではないか、。そして、もしこのように考えることが許されるならば、楽焼を京焼の範疇に含めない理由は、説明するまでもないだろう、。 なにしろ(最初は)京都で焼かれていなかったのであるから、。

もっとも、決定的証拠があるわけでもない以上、こんな話は単なる憶測に過ぎず、そうかもしれないという根拠薄弱な一仮説に過ぎない、。そこで、ついついこういう言葉も吐きたくなるのである、。「だから、そんなに簡単にはいかないんだってば・・・・・」、。
(中略)
なるほど、京焼が京焼であるのは、それが京都(もしくは京都近郊)で焼かれたものであるからだ、。

(以下略)

------------------------------------------------------------<以上>

◆上記のように、楽焼は大坂で焼き始められました、。「楽焼植木鉢」も同じです、。特に植木鉢の方は秀吉や千利休や佐々木長次郎が上洛(京都へ昇る)した後も大坂で作り続けられ、明治に入って京都の楽焼鉢のスタイル(小萬年青の流行に合った形)に追い抜かれるまで200年間の長きにわたって作られたのです、。

◆楽焼鉢の歴史を調べ始めてくれたのは萬年青界です、。この点では萬年青界には感謝しなければならないなぁと常々思っています、。
ただ、萬年青界はその調べ初めに京都の短冊家さんへ行って先代の奥方から「楽焼鉢は短冊家の先祖が文化文政年に作り始め・・・」と聞かされた事から始まっています、。この言葉には、その前文として「京都では、」という言葉が抜けています、。短冊家さんのご先祖が植木鉢を作ったのは事実ですが、京都で初めて、のことであり、楽焼鉢自体はその200年も前から大坂の堺で作り始められていたのです、。

◆京都には国立博物館があり研究員も居られ、愛知県には陶磁博物館というものがあって同じく研究がされているのに、今後大阪を調べようとしてもどこへ行けば、という壁に突き当たるのです、。堺市役所へ電話凸したのですが、古墳を売り込むことには熱心ですが、千利休旧邸は目印1個あるのみ、堺の文化的歴史には興味なしと来ています、。楽忠窯・楽雅亭窯がどこに在ったのか、他の楽焼窯は、となると遠い遠い道のりです、。少しずつでも進歩すればよいと願っています、。
なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529_b0034163_035557.jpg

by evian_th | 2014-12-25 12:17 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
<< 短冊家東洋蘭鉢        ... 富貴蘭鉢・風蘭鉢       ... >>



TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク

Copyright(C) 2005 東洋蘭風来記 All rights reserved.