TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク
以前の記事
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
more...

フォロー中のブログ
東洋蘭風来記奥部屋
東洋蘭 花図鑑 東洋蘭 ...

検索

タグ


京焼から進化した楽焼                     No.563
d0103457_00305305.jpg

◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


d0103457_12082641.jpg

d0103457_12083221.jpg

この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
d0103457_11303171.jpg
◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
d0103457_13400387.jpg
b0034163_01480060.jpg
<奥部屋記事から転載>




by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
<< 楽家             ... 2016年 夏の展示会 風蘭展... >>



TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク

Copyright(C) 2005 東洋蘭風来記 All rights reserved.