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大阪楽                              No.593
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◆2017年10月28日、。   大阪楽(大坂楽)


「大坂楽」(大阪楽)、。
大阪楽は「楽焼初期の頃、大阪で焼かれた楽焼」を指すのですが、そうすると、楽家初代の佐々木長次郎が焼いた茶器・茶碗も含んでしまうので、風来記では「楽焼植木鉢」限定で使っているとご理解ください、。

「楽焼」は、中国福建省から渡来の「阿米也(阿米夜)とも、帰化名を常慶といい、通称は弥吉とも政吉ともいう)」が京都・上長者町西洞院東入るに住み、加茂黒を使って手捻りの柔らかい陶器に焼き付けた焼き物です、。この阿米也(常慶)の時点では京都で作られていたのは確実でしょう、。
この阿米也(常慶)と佐々木氏の娘(不思議に名前がどこにも出て来ない)との間に出来た長男が佐々木長次郎です、。天正2年常慶(阿米也)死去、。ここまで読んで、鋭い風来記ご常連ならお気付きと思うけど、阿米也の帰化名と楽家の2代目とがどちらも「常慶」であり、2代目常慶は長次郎の弟だと13代目は書いているので、つまり阿米也の息子ということになり、楽鉢調べ初めの頃のエビアンの混乱ぶりがご想像頂ける思う、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

天正5年織田信長の命により佐々木長次郎が田中利休(後の千利休)の好みを受けて父・常慶(阿米也)の遺法に基づいた「赤黒の茶碗」(赤楽と黒楽のことだと思われ)を製して献上したる史実がある、・・・と楽家13代目が書いています、。その後、本能寺の変で信長が他界すると、利休の引きで豊臣秀吉の茶碗を作るようになるのですが、信長→秀吉→利休、という流れを見ると、科学的証明を待たずとも、「楽焼は初代佐々木長次郎が天正2年から天正5年の間で大阪・堺で窯を開いて作っていた、と考えるのは極く自然です、。利休は信長から3000石を貰っていたとも書いてあります、。楽家も200石を貰ってお抱えの身分だったようです、。(2代目が自由な作陶をしたくて返上してしまいますが)、。

ですから、時代は少し下りますが、江戸明暦2年(1656年)楽家2代目常慶の弟・宗味や、楽家3代目道入の弟・道楽が「楽雅亭」「楽忠」の窯を大阪の堺で開くに至ったのだと思います、。
宗味の「楽雅亭窯」は明暦以前数年~数十年前に開窯したものと思われますが、それを裏付ける証拠となる文書には出会っていません、。

織田信長が大坂に目を付け、上町台地の最北端に「大坂城」を作ろうと思うに至った一番の原因は、その地の利です、。上町台地は南北に長い台地で、南へ低く北へ高くなっています、。その北の端の最も高い場所へ大坂城を置くことの理由は、当時の上町台地の周辺は、南以外の西の大阪湾までの方位も東も北の方面も「三方が大湿地帯(泥沼状態)で敵が攻めて来にくい」からという理由らしいです、。だから南の方向に「真田丸」を置いて大坂城を守らせれば、非常に安心できるからだったようです、。

で、南にしか開けた(乾いた)土地が無かったので、南の「堺」とは非常に便利な行き来しやすい土地だった、。ここで窯を作っていたと思います、。
なんしろ、運搬が海運に限られていたその頃の「大坂・堺の港」というのは、国内外の物品の集積所であり、松前船も外国船も国内の船も、九州と下関との間から波の静かな瀬戸内海へ入ってしまえば、後は瀬戸内海を東へ東へと進むだけで、突き当りの「大坂・堺の港」へ到着したわけです、。日本中の米も外国からの物産も堺に集まり、米相場が立ち、物が溢れて「堺は日本一の経済の中心地」になっていたのですから、。その後の江戸時代になってもそれは変わらず、270年間繁栄し続けた都市でした、。
長次郎が作る「茶碗」も大阪で最も多く消費されたのでしょう、。
京都寿楽第(邸)の完成後、豊臣秀吉は京都へ上洛し、千利休も長次郎も行動を共にしたので、「楽雅亭」「楽忠」という「楽家脇窯」も開窯しやすい環境が整ったのだと思います、。

明治維新とその後の「廃藩置県」で大阪の両替商の100兆円を超える「大名貸し」は踏み倒され、両替商は銀行へと組織を替えて生き残りを図ったのですが、副業に始めた大同生命が残るだけで大阪の両替商は姿を消し、「大阪不況」に陥ります、。気が付くと海運の時代は終わり、陸蒸気による陸運へと時代は変わっていました、。
おまけに京都から東京の別宅へと天皇が移り、皇城の地でもなくなった京都も不況になるのですが、京都人は商売が上手いので観光業で何とか立ち直っています、。
大坂の堺はなんしろ日本一の商業の中心地だったというプライドは高いので、廃藩置県時には旧:大和の国(今の奈良県)の全域を含めた「堺県」として独立し大阪とは一線を引いて来たのですが、明治20年ごろには大阪府に含まれ、独立した奈良県が誕生します、。だから堺市は今も大阪維新の党に逆らって橋下徹氏の「大阪都構想」には賛成しておりません、。残念ながら「堺」は、70数年前の大戦時に米軍の徹底的な空襲によって焼き尽くされ、原爆投下直後の広島のような都市になり、今は見る影もない貧弱な都市になっています、。仁徳天皇陵など古墳群があるのが不自然に見えるほどの廃れ様です、。市内にほんの数軒ですが戦災を免れた商人住居が残りますが、それはそれは立派な江戸時代そのままの豪邸です、。(こういう家に楽鉢が残っているかも知れない)、。
大阪が再び活気を取り戻すのは不可能と思われます、。


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下画像は、江戸後期になって園芸植物が古典園芸植物を意識し始めた頃の「京都・短冊家の極く初期の鉢」です、。1820年~1830年ごろの鉢、。長野田中家や九州、飛田邦之氏や西口郁夫氏にもあって、案外この加茂黒鉢は残っています、。6寸鉢、。下画像は九州の愛好家蔵、。
大阪楽のデザインの太鼓胴や段替わりは残しながらも、胴部分には形容しがたい微妙な反り(カーブ)を取って、大阪楽に比べると、この頃既に「新しい楽鉢」に変わりつつある感じは受けます、。
「短冊家」が段替わりを取っ払って、一気に引き上げ「段替わりの名残りの2本線」を入れるようになるのは、それから更に30年ー40年近く経った江戸幕末の事でしょう、。1861年開窯の浮田楽徳鉢には段替わりの鉢は見られないので、短冊家のデザイン革命はその頃までには完成していたものと思われます、。


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by evian_th | 2017-10-28 14:58 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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