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なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529
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◆2014年12月25日、。   なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

少し以前(といっても5年ほども前のことだですが)、「なぜ楽焼は京焼ではないのか?」というテーマに関して、曖昧な記憶から引用文を書いたのでしたが、その引用元の本を積読の中から見付けたので、楽焼鉢と関係がありそうな部分を抜き書きしておきます、。

元本は、「茶道誌淡交・2007年10月号増刊」の「江戸期の京焼」という本でした、。その中の・・・
「京焼の本質と定義」(副題:~それが判れば苦労しない~)  京都国立博物館主任研究員 尾野善裕


(中略)
なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

京都のやきものといえば、昔から楽焼が有名だが、楽焼は京焼ではないらしい。「らしい」というのは、私が決めたからではないからで、ものの本にそう書いてある、。
もっとも、こういう話をすると、「えっ!楽焼って京焼の一種じゃないの」という反応がしばしば返ってくるし、「それは、おかしい」と反論までされることも珍しくない、。しかし、意外に思われるかもしれないが、かつて「京焼」という言葉が、楽焼をその範疇に含まない概念として、たびたび用いられていたことは厳然とした事実である、。だから、いくら「おかしい!」と言われたって、そんなことは「あっしには関わりねぇことでござんす」、。

むしろ、なぜ楽焼が京焼ではないとされたのか、それを問うことのほうがよほど生産的な議論だろう、。そうした視点を抜きにして、楽焼を京焼に含めるべきか、否かをとやかく言うことにあまり意味があるとは思われない、。ただ、なぜ楽焼を京焼に含めないことになっているのか、その経緯や理由がよく判らないから困るのである、。

もっとも、こうした問題意識を頭の片隅にとどめておきながら、楽焼あるいは楽焼風のやきものの出土事例を概観してみると、年代的に古い事例が妙に大阪(以下、歴史的表記を重視して「大坂」)に偏っていることに気付く、。何故だろうか、。
実は、この現象は当時の政治・経済の中心がどこであったか、を象徴的に示している、。豊臣秀吉が建設させた寿楽第(邸)が完成し、彼が大坂から京都へ移って来るのは天正15年(1587年)のこと、。それゆえ、「松屋会記」の天正14年(1586年)10月13日条などから、それ以前に創始されていたと考えられる楽焼(あるいは楽焼風やきもの)が、京都よりも秀吉の本拠地であった大坂でたくさん用いられていたらしいことは、別に驚くほどのことではない、。千利休が秀吉の茶堂であり、楽焼初代の長次郎の作陶に利休が深く関与していたに違いないことを考えれば、むしろ当然のことと言ってようだろう、。

このように考えてくると、果たして楽焼は京都で創始されたのだろうか、という疑問も自ずから湧いてこよう、。大坂にいた秀吉と利休、そして利休と長次郎の関わりの深さを考えるならば、楽焼が大坂で焼き初められていたってよさそうである、。時代背景を重視するならば、そう考えることだって不可能ではない、。

「とんでもないことを口にする奴だ」という非難は覚悟の上で、あえて言わせて貰うならば、楽焼を京焼に含めないことに対する疑問の背景には、楽焼は京都のやきものだという先入観があるのではないか、。そして、もしこのように考えることが許されるならば、楽焼を京焼の範疇に含めない理由は、説明するまでもないだろう、。 なにしろ(最初は)京都で焼かれていなかったのであるから、。

もっとも、決定的証拠があるわけでもない以上、こんな話は単なる憶測に過ぎず、そうかもしれないという根拠薄弱な一仮説に過ぎない、。そこで、ついついこういう言葉も吐きたくなるのである、。「だから、そんなに簡単にはいかないんだってば・・・・・」、。
(中略)
なるほど、京焼が京焼であるのは、それが京都(もしくは京都近郊)で焼かれたものであるからだ、。

(以下略)

------------------------------------------------------------<以上>

◆上記のように、楽焼は大坂で焼き始められました、。「楽焼植木鉢」も同じです、。特に植木鉢の方は秀吉や千利休や佐々木長次郎が上洛(京都へ昇る)した後も大坂で作り続けられ、明治に入って京都の楽焼鉢のスタイル(小萬年青の流行に合った形)に追い抜かれるまで200年間の長きにわたって作られたのです、。

◆楽焼鉢の歴史を調べ始めてくれたのは萬年青界です、。この点では萬年青界には感謝しなければならないなぁと常々思っています、。
ただ、萬年青界はその調べ初めに京都の短冊家さんへ行って先代の奥方から「楽焼鉢は短冊家の先祖が文化文政年に作り始め・・・」と聞かされた事から始まっています、。この言葉には、その前文として「京都では、」という言葉が抜けています、。短冊家さんのご先祖が植木鉢を作ったのは事実ですが、京都で初めて、のことであり、楽焼鉢自体はその200年も前から大坂の堺で作り始められていたのです、。

◆京都には国立博物館があり研究員も居られ、愛知県には陶磁博物館というものがあって同じく研究がされているのに、今後大阪を調べようとしてもどこへ行けば、という壁に突き当たるのです、。堺市役所へ電話凸したのですが、古墳を売り込むことには熱心ですが、千利休旧邸は目印1個あるのみ、堺の文化的歴史には興味なしと来ています、。楽忠窯・楽雅亭窯がどこに在ったのか、他の楽焼窯は、となると遠い遠い道のりです、。少しずつでも進歩すればよいと願っています、。
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by evian_th | 2014-12-25 12:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
富貴蘭鉢・風蘭鉢                    No.528
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◆2014年12月20日、。   東洋蘭・富貴蘭・風蘭


富貴蘭鉢(風蘭鉢)
東洋蘭風来記も満10年を経過いたしましたが、その間、毎月のトップ画面は「蘭鉢」と「万年青鉢」が大部分であり、「富貴蘭鉢(風蘭鉢)」は掲載していません、。
現在、富貴蘭界で使用されているいわゆる「風蘭鉢」は、いつ頃どういう経緯で東洋蘭界に出現したのか、がイマイチ判然としなかったから、というのが一番の理由です、。

「富貴蘭風蘭」は既に江戸時代から栽培されていたらしいことは上掲の絵をご覧頂けば一目瞭然です、。ですが鉢は欽古堂亀祐型といいますか赤土瑠璃浮絵紋様六角鉢です、。
「植え込み材料」は上掲の画像や、最下段1835年出版の「長生草」(堀籠浩史氏提供)文中の挿絵を見れば、現在使用されている「水苔」のように見えます、。が、説明文中には「水苔」という言葉は出て来ません、。
代わりに「水草」(みずくさ)という用語が出て来ます、。、。(<訂正>出て来るそうです、。「水苔とヘゴを混ぜ合わせて植える」という文章が出て来るようです、。訂正しておきます、。)
これより前1818年に出版された「草木育種」(そうもくそだてぐさ)には「へご」という用語が出て来ます、。「へご」を使っていたくらいですから、この絵に描かれた植え込み材は現在の「水苔」でしょう、。「水苔」が江戸時代には既に園芸植物の植え込み材として使用されていたのです、。


残る問題は「鉢」です、。
明治33年に発行された東京の福富京楽堂のカタログには「萬年青鉢・蘭用高鉢・紫金牛鉢」と載っていますし、
◆大正14年発行の東京の錦園堂・手島揫二窯のカタログには「万年青鉢・蘭用高鉢・仙人掌鉢」と載っています、。
いずれも「富貴蘭鉢」は載っていません、。
◆昭和10年に発行された京都の短冊家のカタログに至っては「万年青鉢・蘭用高鉢」のみです、。


さて、ここからが風来記エビアン得意の当て推量・想像・デタラメですが・・・

「富貴蘭」は元々は大株物に作って「京焼」や「三河鉢」などの適当なのに植え込んでいたのです、。時を得て、貴重品種が出現するに至って風蘭も小株になり、それに合う鉢の需要が出て来たのですが当時は専用鉢も無く、「紫金牛鉢」として売られていた鉢の高さを縮めた鉢を注文するに至ったのでしょう、。

それというのも、「ヤブコウジ」や「シャボテン」の大ブームがあって専用の鉢が飛ぶように売れた、とは考えにくいのです、。にも拘らず価格表に「ヤブコウジ鉢」や「シャボテン鉢」が載っていたということは、それらを「風蘭鉢」として用いる需要があったと判断するのです、。

したがって、「福富京楽堂カタログの紫金牛鉢」というのや「錦園堂・手島揫二窯の仙人掌鉢」というのは今でいう「富貴蘭鉢」の事だったのだろうと推察します、。

古くからあった「紫金牛鉢」のデザインを基本とし、それの背丈を低くした鉢や、低くした上に胴体部分を袋式に膨らませた鉢や直線状に下へ向かってすぼめた鉢や、妙に底の浅い鉢などというように、注文主の要望によって形が一定しなかったのだと思います、。「富貴蘭鉢」のルーツは「紫金牛鉢」だと風来記は考えます、。

そして、「紫金牛鉢」が「富貴蘭鉢」へと変化して行くのは、鉢の縁のツバがシッカリとできあがってからだということと、使われている極彩色の顔料が赤色や黄色が多いことから、赤色顔料や黄色顔料が輸入されたり国内生産された明治中期(明治15年~30年)以降のことだろうと考えます、。

ただ、この形の鉢を「風蘭鉢」と呼び、風蘭の根を水苔で巻いて風蘭鉢に入れる現在の栽培法が確立したのは、グッと新しく、昭和の時代の事だろうと思います、。



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この記事ご協力者様・堀籠浩史様・野生ラン編集子様・西口郁夫様・野町敦志様・華幸園さん
by evian_th | 2014-12-20 01:16 | 東洋蘭富貴蘭風蘭
楽焼鉢の顔料                       No.378
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◆2010年12月、。     顔料から見た楽焼鉢

「上絵付け」と「下絵付け」
釉薬をかける前に素焼きした素地上に絵付けをするものを「下絵付け」と呼び、代表的なものには「呉須」を用いた「古染付」や「酸化鉄」を使った鉄絵の唐津や志野などがあります、。
これに対して、本焼きした陶磁器の表面にかかった上釉(うわぐすり)の上に、赤、緑、黄、青、紫、などの色釉で彩画着色することを「上絵付け」とよび、九谷焼、有田焼、薩摩焼、などがあります、。

我が「楽焼錦鉢」の絵付けは、一種の「上絵付け」でしょうけど、イッチン絵付けの顔料が盛り上がった絵付けは、一般的に呼ばれる「上絵付け」とは少し異なると感じます、。九谷や有田や薩摩よりも絵付け部分が盛り上がっています、。このような「顔料」は、他の焼き物よりも歴史は新しいように感じられます、。
「楽焼鉢」自体は、盆栽鉢よりも遥かに歴史の古い焼き物ですが、あの多彩な顔料を使った楽焼鉢はいつごろから焼かれたのかを「陶磁器の顔料」の面から見ると・・・

慶応3年(1867年・明治維新の前年)、瑞穂屋卯三郎という人が「パリ万国博覧会」を見物の帰路、「陶磁用絵具」数十種を持ち帰り、佐賀藩に売り込んだと盆栽鉢の本に出てきます、。九州佐賀藩は有田を中心とした陶磁器産地です、。
その4年後の明治3年にはドイツ人化学者ワグネル(陶磁器の世界では有名な人)を佐賀藩が雇い入れ、陶絵具使用法の解明の研究をしたようです、。
同じ明治3年には、「京都舎密局」(化学局)が設立され、ワグネルの指導の元、永楽善五郎や入江道仙などが「陶磁器顔料の研究助手」として加わったと記述されています、。

これらのことから、どうも我が「楽焼鉢」に使用される顔料(釉薬)は、一部の「呉須」や「瑠璃」や「金彩」を除けば、この時期辺りが「楽焼鉢」に華やかな彩色を施され始めた最古の時期ではないかと思われます、。
資料的には出て来ませんが、少しゆずっても、1853年~1868年の幕末くらいまでで、それ以前に多彩な彩色を施した「楽焼鉢」が存在したとは考えにくいのです、。

江戸幕府は、庶民が贅沢に溺れるのを抑制するため、たびたび「奢侈禁止令(しゃしきんしれい・贅沢禁止令)を出しています、。効き目は直後のみで、たびたび禁止令を出していたようで、奢侈禁止令を最後に出したのは1842年のことです、。それまでは、庶民の着物の布地の種類や色まで地味な色に指定していたほどですから、陶磁器に派手な彩色を施すことは世情から見ても無理だったと思われます、。

こうして、「明治維新」を境に、楽焼鉢の彩色も、顔料供給面や政府の束縛などの制約から解き放たれ、一気に彩色文化が開花したものと思われます、。楽焼鉢の絵付けに使用されている顔料(釉薬)は、見ようによっては「油絵具」のような見た目と手触りですから、この頃に研究開発された顔料(釉薬)だったのでしょう、。

これが、「楽焼鉢」に於ける「江戸時代」と「明治時代」との境界です、。(画像提供:飛田邦之氏)

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ついでながら、同じ頃(明治6年)、尾張瀬戸の窯元の息子で加藤友太郎という人物が上京し、陶芸家・井上良斉門下に入り、もっぱら「楽焼」を焼いていたようです、。現在の帝国ホテルの地に明治政府が「勧業寮」という洋式陶磁器試験所を作り、加藤友太郎は明治9年に勧業寮を卒業後、明治15年独立して、牛込区新小川町に製陶所「友玉園」を作りました、。
これは想像ですが、「福富京楽堂」は、この「友玉園」の指導の元、東京で楽焼鉢を製造し始めたのではないかと思われます、。東京での楽焼鉢は、明治15年過ぎに製造し始められ、明治30年頃にはカタログを発行して全盛を誇るまでになっていたようです、。(京都にも、こういう資料が出てくればいいのに、)

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「京焼」というのは、もともと京都に住んでいた陶工が興した焼き物ではなく、安土桃山時代から江戸初期に、皇城の地であり、華やかな王朝文化が花咲く京都に憧れた瀬戸や信楽や備前の陶工たちが上洛し、東山一帯に住み着いて窯を開いたものです、。
京都の焼き物は「茶道」と共に発展し、町衆の中の「茶道具数寄者」の影響により発展した焼き物です、。この茶道具コレクターを「茶数寄」と呼び、彼らの好みが京焼を育てて行ったのでした、。

「京焼」は、江戸初期に野々村仁清や尾形乾山などの名工が出て隆盛を極めた時期と、江戸後期・文化文政年間に奥田頴川や青木木米や欽古堂亀佑や三文字屋嘉助などの名工が出た時期とに隆盛を極めるのですが、この江戸初期のころ、既に「楽焼」の「蘭鉢」や「菖蒲鉢」は作られていたようです、。
ただ、「楽焼」は、その生い立ちが日本の陶工が作ったものではない点と、千利休などを介して時の朝廷と結び付いた焼き物であったために、通常「京焼」と呼ぶような焼き物とは区別され、いわゆる「京焼」には含まれません、。それだけ特殊な焼き物であった訳です、。

江戸初期の「京焼」の名工・野々村仁清の「上絵の具」には・・・
赤色は「金珠」と呼ばれる「特殊な紅柄丹土」を材料とし、萌黄(緑)色は「岩緑青」と「舶来の萌黄ガラス」を用い、紺色には中国産の「岩紺青」を、紫色には中国産の「呉須」と「丹土」「金珠」を混合したものを、黒色は「銕粉」(刀鍛冶が使う鉄粉)と「中国産呉須」の混合、をそれぞれ使用しました、。「金銀彩」は漆蒔絵に使う金箔・銀箔を粉にして膠で溶き、金銀泥にしたものを使用しました、。
非常に高価貴重な顔料を手の込んだ技法で使用したもので、とても後の世の楽焼鉢に使用されるものではありませんが、「明治以前の京焼にも彩色上絵付けしたものが存在するじゃないか、だから楽焼鉢も江戸時代の古くから絵付け物が有ったのじゃないのか、」という疑問に応えるために、一応記しておきます、。
by evian_th | 2014-12-09 13:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭楽焼鉢「楽徳花鳥図」              No.527
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◆2014年12月、。   楽焼鉢「楽徳花鳥図万年青鉢」

師走、。
今年も多くの御訪問を頂きまして誠にありがとう御座います、。来年以降も「植木鉢記事」を掲載して行こうと思いますので、何卒よろしく御ひいきのほどをお願いします、。


京楽焼「浮田楽徳製花鳥図万年青鉢」
風来記で楽徳の万年青鉢を取り上げる事は少なかった、。というのも下に掲載の鉢を入手してから、楽徳には2種類の万年青鉢があるのか、それとも窯元が違うのかと悩んだせいです、。結局、下の鉢が「石斛鉢」だと判明して疑問は解決したのでした、。

白胴部分にイッチンで細かなポツポツを密に打ち、その上から花鳥図の大和絵を描いてあります、。楽徳絵付けはデザイン化した紋様が多く、写実的な絵は少ないので貴重品、。鳥の種類は不明ですが、表は羽を広げた姿、背後には羽を閉じた姿を描いています、。金泥を使った高級品で、注文主の特注品だったのでしょう、。上品な仕上がりになっています、。腰部分下部「高台脇」に絵具が剥げ落ちたような白い所があり、何度も見返したのですが、やはり一旦塗った白色泥漿が部分的に剥げ落ちたものだと思います、。

白地に金色絵付けなので目立ちにくく、コントラストを強めに修正しました、。少しドギツイ画像になっているかも知れません、。(口径15センチ・高さ14センチ、第2回・華幸園展より、数寄者蔵)

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「浮田楽徳製魚の子紋様石斛鉢」
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by evian_th | 2014-12-01 00:05 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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