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五柳菊花紋万年青鉢                     No.574
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◆2016年12月、。   五柳・菊花紋万年青鉢


師走!!!,、。
今年も誠にお世話になりました、。東洋蘭風来記も13年目に入っています、。これからも引き続きましてご訪問下さいますようお願いします、。

「五柳・菊花紋万年青鉢」、。
年末に相応しく、背筋がシャキッと伸びるような鉢をご覧頂きます、。

台の鉢は短冊家製、。五柳の持てる技を存分に注ぎ込んだ逸品です、。
残念ながら1の足方向からの画像しかありません、。2の足・3の足の絵付けも是非見てみたいと思わせる鉢です、。
「腰」部分には五柳の青海波紋様、「鉢縁下」(はちべりした)は唐草紋(?)、「胴」には写実的な菊花紋を散らしてあります、。ま、上出来の格調高い「五柳鉢」です、。

このクラスになると価格も跳ね上がるてもんです、。五柳もいろいろだから、。
短冊家の作りもいいですね、。時代乗りもいいけど元々の鉢の造り自体が素晴らしいと感じます、。
万年青鉢のこの形、全体のフォルムを完成させたのは「京都・短冊家」だと思います、。
西暦1800年代初頭の「大阪楽の万年青鉢」からいきなりこの形の「短冊家の京楽鉢」へ飛びます、。短冊家の極く初期の作品は既に大阪楽とは違い完成度が高いのです、。
大阪楽の万年青鉢の最後の方は「園芸ジャパン2016年1月号の16ページ17ページ」に掲載の2個ですが、その後に古典園芸用楽鉢の製造が京都へ移ると、突然完成度の高い短冊家鉢が登場します、。デザイン的にその途中の移行期の作品は見ません、。(今後出て来るかも知れませんが)、。

そう考えると「京都・短冊家」というのは大したものです、。特に初代が凄かったのだと感じています、。
その後に出て来る多くの窯元、浮田楽徳・福富京楽堂・愛知県三河地方の窯元、などなど、みんな「短冊家のフォルム」を継承しています、。他のデザインを工夫させる余地も無い程の完成度の高さを江戸時代・文化文政年には完成していたのですから短冊家というのは大したものです、。それから200年経った今現在も同一のデザインなんですからねぇ、。驚きですよ、。

激動の2016年を終えるに当たって、素晴らしい鉢をご覧下さい、。
口径14センチ高さ14センチ、。(河野祝之氏蔵)






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上画像、1枚目と2枚目とは同じ画像に見えますが、2枚目の方は少し緑色を強調して少しクッキリとさせてあります、。実物の見た目は1枚目画像のようでしょうが、絵付けの説明は2枚目の方が分かり良いと思います、。






大阪東洋蘭会 2017年 春季展示会
時:2017年3月12日。(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会








# by evian_th | 2016-12-01 00:29 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
秋季展示会2016                       No.568
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◆2016年秋季展示会



大阪東洋蘭会 2016年 秋季展示会
時:2016年10月16日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター
◆古典楽焼鉢を使った席飾り。
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




中部蘭趣会 春蘭柄物展示会
時:2016年8月26日・27日・28日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




全国日本春蘭連合会 春蘭展示大会(全春連)
時:2016年11月26日・27日、。
所:上野グリーンクラブ(東京都台東区上野公園3-42)
<注>全春連展示会は今回から「上野グリーンクラブ」に変更されました。



全日本東洋蘭 秋季美術品評大会(全東連)
時:2016年10月22日・23日
所:東京蒲田 プラザアペア




花ごよみ 秋の蘭展
時:2016年10月7日~10日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




東洋蘭総合大展示会
時:2016年10月14日・15日・16日、。
所:上野グリーンクラブ(東京都台東区上野公園3-42)
日本伝統園芸協会



兵庫春蘭友の会 柄物展
時:2016年11月27日(11am~16pm)
所:相生園芸センター




杭州寒蘭展示会
時:2016年12月3日・4日
所:三重 メッセウイングみえ




蘭遊楽座 柄物展
時:2016年12月4日
所:東京 大森 「大林寺」







「全春連のホームページ」ができました。(文字クリックでHPへ飛びます)

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# by evian_th | 2016-11-21 17:20 | 東洋蘭春蘭展示会
東洋蘭風来記お蔭様で12年                  No.573
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◆2016年11月、。     お蔭様で12年



「東洋蘭風来記」、お蔭様で満12年、。
多くのご訪問に感謝します、。
これからも「東洋蘭」や「植木鉢」の楽しい話題を続けて行こうと思います、。
今後とも、何卒宜しくお願いします、。




<お蔭様で満12年>
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# by evian_th | 2016-11-16 00:32 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「梅花紋万年青鉢」                   No.572
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◆2016年11月、。   楽焼鉢「梅花紋万年青鉢」


2012年の「華幸園植木鉢展示会」に出品されていた鉢らしいのですが、手に取って見るチャンスがあったのに気づかず見逃した万年青鉢、。今回使おうとしてフォルダーを見た時には「あ~、短冊家の万年青鉢ね」という軽い気持ちで使用を決めたのでした、。「短冊家万年青鉢」について書く事もあまりないなぁと思いながら、。

画像を作り始めて直ぐに「あれ?、違うかもな」と思い始め、画像が出来上がった時点では「短冊家である確率は50%」程度まで気持ちが変化していた、。
「短冊家」作品に共通する何かが不足していると感じたのでした、。最初に気になったのは「鉢ヘリ」の形、。ヘリ周辺が丸みを持って中央部よりも少し下がっている気がしたのと、一番の気がかりは「短冊家らしさ共通のピシッとした品格」が不足する点でした、。

絵付けは良く描けています、。珍しい梅花紋を肉厚く描いてあります、。使われている「緑土」も非常に上質、。段替わりの上、「鉢縁下」(はちべりした)の絵付けも何の絵かは不明ながら面白い、。「腰部分」には「金泥の花と緑土の唐草模様」が描かれていて纏まりがある、。上品な鉢に仕上がっていると感じます、。

鋏み痕も短冊家風に鉢縁直下にあり、もうほとんど短冊家に見えるんだけど、短冊家ではない可能性の方が多いですね、。「短冊家に見えて短冊家よりも少し色気がある」のは「福井楽印窯」に多いのですが、これも福井楽印かも知れません、。季節感のある良い鉢です、。
(口径8.5㎝、高さ8㎝。野町敦志氏所蔵)


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下に掲載の「大阪楽・太鼓胴楽鉢」は典型的な「段替わり様式」で作られています、。
太鼓の鋲がある「鉢縁下」(はちべりした)は最も太く、「胴部分」で一段胴回りは細くなり、更に「腰部分」でもう一段細くなるという古典の様式です、。
今月の「梅花紋万年青鉢」はこの様式を踏襲しようとしています、。小さい鉢では見栄えがしませんが、。
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# by evian_th | 2016-11-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「白唐草文様蘭鉢」                    No.571
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◆2016年10月、。   楽鉢「霞取りに白唐草紋蘭鉢」


「白胴に薄緑色の透明釉薬を掛けた上から白唐草紋」を描く楽鉢を最初に製作したのは江戸後期の「初代・京都・短冊家」だろうと思います、。「短冊堂」の落款入り6寸万年青鉢が残っています、。
それ以前の「大阪楽」には、このデザインの鉢を今までのところでは見かけません、。

結構難しいイッチン技術が必要だと見えるのですが、明治・大正・昭和初期にかけて、全国各地の多くの窯元が同様の模様の鉢を作っています、。
愛知県の興楽園・杉浦勘之助窯の製品も多く残っていますし、東京の手島揫二窯・福富京楽堂窯ほか京都の窯元も製作した様子です、。このデザインに関しては、どこの窯元製品も出来具合が良く、比較的完成度の高い鉢が多いデザインです、。

今年1月号の「園芸ジャパン楽鉢特集」では「短冊家」に分類してありますが、今回トップ画面で使おうと思って改めて見てみると、鋏み痕が足にあるような気がしますし、内掛けの釉薬の切れ方も短冊家らしくない気もします、。何しろ実物を触った訳でも無いので、窯元特定の判断に迷う部分があります、。

鉢の出来具合は良く、全体に上品な出来具合に仕上がっていると感じます、。花物柄物どちらに使っても似合いそうな雰囲気です、。鉢の胴部分の色は、1枚目と2枚目画像の中間的な色ではないかと思います、。(飛田邦之氏蔵)





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# by evian_th | 2016-09-30 11:01 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大隈重信侯と蘭1  楽鉢                   No.570
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◆2016年9月4日、。   大隈重信侯と蘭、その1     楽鉢の事など



今読んでいる本に面白い記述があるので抜粋してご紹介しとこ、。

「愛蘭の中興は大隈老侯」
文章は当時大隈重信侯邸に住み込んで蘭の手入れをしていた栗原彦三郎という人の書いたものから抜粋しました、。
(中略)
大隈侯爵はご自分で蘭を愛し、沢山栽培せられた許りで無く、愛蘭家の少なくなり蘭栽培の方法なども後世に伝はらなく成る事を憂ひられて、余に愛蘭家の会を作れと命じたので、当時東京に蘭商を本業として只壹人残って居り、亦栽培にも精通した新井仙之助翁を世話役として大正九年十月明治15・6年頃より31・2年頃までに東京市内に2・3百名の蘭商人があり、現今の組合組織の如き会もあったそうであるが蘭の廃れると共に段々減って大隈侯爵を総裁に、後藤新平伯を副総裁に、私が会長となって大日本蘭蕙会を組織し、全国から5百余名の愛蘭家を集めて、日本橋倶楽部で発会式を挙げ、同時に日本で最初の蘭蕙陳列観賞会を開催したのであった。

「当代の愛蘭家」
この大隈侯の蘭を愛されたのと同じ頃今の岩崎両男爵家の御先代弥太郎弥之助の両氏が素心蘭を好み、上等のものなら値を問はず買ったのが動機となって、明治18年頃から27・8年迄蘭が非常な勢いで日本全国に流行したのである。(注*岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者)
(後略)

上掲の写真説明文には「後藤新平伯大日本蘭蕙会副総裁親任式」と書いてあります、。

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長文の極く一部分の抜粋だけど、驚くね、。明治中期に「東京で商う蘭商人だけでも200~300人も居た、」という記述に驚く、。
それと、ここには書いてないのですが、明治時代には既に「春蘭」という概念が確立されていて、それも「日本春蘭花物」の栽培が盛んにされていたという記述も、上記以外の箇所に書いてあります、。「日本春蘭の葉や花の鑑賞の仕方」とかもちろん「栽培法」とかも、。

上記の文章は、できるだけ「原文のまま」に載せました、。どうしても今では存在しない漢字を除いては、。句読点も原文まま、少し読みにくいというか意味不明の部分もありますね、。


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画像の鉢は「五柳寿運絵付けの6寸万年青鉢」、。
15年ほど前にこの鉢を現在の所有者に商ったのは横浜の蘭商故野田谷治男君で、売値はたしか280万だったと記憶しています、。
280万で驚いてちゃいけないのであって、明治時代の「古典楽焼鉢」の価格は、現在の貨幣価値で、数十万から数百万、それも1千万に近い数百万だったといいますから、蘭も鉢も、ごく限られたエリートたちの遊び場だったわけですね、

それにしても、現存する鉢が少なすぎて、鉢市場に活気が出ない、。古典の楽鉢が現在どの程度残っているかと考えると、現在古典園芸界と盆栽界と植物には興味はないけど鉢だけは買っている人の分・蔵の奥にしまってあって所有者さんさえ気付かないで居る鉢も含めても、最大数で現在の2倍程度じゃないかと思いますね、。

いや、違うな、。上に書いたことは正しくないかも知れないな、。
明治時代中頃には東京だけで蘭商が300人も生計を立てていた、。
一方大阪や京都は、大阪不況が起きたり、天皇陛下が東京へ居を移されたりして、明治中期には京大阪は不況だった筈で、お金持ちは東京に集中していた、。
京楽6窯の窯元が最も多くの錦鉢を作ったのは明治中期を中心とした時期である、。それらを買ったのは東京も多かったかも知れない、。
だとすると、東京に現存する古典楽鉢の数が少なすぎる気がする、。まだ多くが東京で隠れている可能性は大いにあるね、。大正12年に関東大震災があり、昭和16年―20年に大東亜戦争があったにしろ、それらの要因を差し引いても、まだ残っている筈だ、。希望はあるね、。





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# by evian_th | 2016-09-04 12:49 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「魚の子紋万年青鉢」                   No.569
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◆2016年9月、。     楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」


◆楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」、。
久々登場、エビアンの好きな「魚の子紋様鉢」です、。
非常に良く描けている紋様です、。描き方は過去に掲載した飛田邦之氏やエビアンの「楽徳製魚の子石斛鉢」にも似ています、。よほど研究したのでしょう、。違いはと言えば、飛田邦之氏の分は「魚の卵1個の中に金色の点々が2~3個」だったのに対して、画像の鉢では「卵1個に金点1個」であることくらいです、。下に過去に使用の石斛鉢の「魚の子紋様」を掲載しておきます、。

使われている「緑土」も同じ質の製品で、乾燥すると何とも言えぬ「緑青色」になる分を使用しています、。まぁ「緑土テールベルト」は乾いても緑色濃い方が上質とされ、価格も高価だったので、浮田楽徳窯の製品に使われた緑土はあまり高価な品質ではなかった様子で、そこがこの「魚の子紋」に一層の良さを醸し出しています、。短冊家は一概には言えませんが、比較的高価な「緑色が濃い緑土」を使っていることが多いようです、。

下方から霞取りを残し、「金泥で雲形風模様」も描いて手の込んだ絵付けです、。鉢の大きさは4寸3分くらいと大きく、画像からは予想外に大きな鉢です、。
鉢数寄泣かせの垂涎の一品ですね、。
窯元はというと、これが判断できないのです、。「楽徳鉢」ではない、「短冊家」とは足の作りと足に描かれた5本の金線と縁のツバの作りや内掛けの刷毛を使わず釉薬が分厚く垂れ下がって溜まっていることなどの点で疑問符が付きます、。1ヶ所だけ思い当たる窯元はありますが、そこがこれほどの絵付けをできたかというと疑問もあるので、窯元は不明ということでお願いします、。
飛田邦之氏蔵、4.3号鉢、。





下画像は浮田楽徳窯の石斛鉢の魚の子模様部分
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# by evian_th | 2016-08-31 14:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
短冊堂「花唐草紋万年青鉢」                 No.567
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◆2016年8月、。   短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」


短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」、。6号鉢、。
この鉢に出会ったのは、2012年10月「第2回・華幸園植木鉢展示会」の会場でした、。まだ「楽焼鉢歴史調べ」の旅の真っ最中の事で、突然目の前に「短冊堂落款」のある万年青鉢が現れて、華幸園さんもエビアンも混乱してしまい、短冊堂=短冊家製品、ということを受け入れられないで戸惑った思い出が残っています、。
「短冊堂落款=短冊家製品」という事実を受け入れることが出来たのは、昨年2015年6月の「華幸園展」にこの記事下に掲載のサムネイル画像にある「短冊堂落款・瑠璃釉六角神獣浮彫紋鉢」の出現のお蔭です、。同一鉢が京都の短冊家さんにも残っていたからなのです、。

上に掲載の今月の万年青鉢は、某大棚東洋蘭愛好家所蔵品ですが、その愛好家は蘭友が蘭を止める時にプレゼントされた鉢だそうで、贈られた2鉢の楽鉢以外には鉢を持ってない人ですから、商人が鉢の分譲をせがんでも贈られた品物だから売れないと断り続けて居られる鉢です、。

2008年の展示会場で手に取ってみたのですが、この鉢はズッシリと重いのです、。最近の楽鉢の重さではなく大阪楽の楽忠・楽雅亭に似た重さがあります、。6寸という大きさを考えに入れてもなお重かった記憶があります、。
では「大阪楽」に近いかというと、そうではなく、鉢のスタイルは現在に通じる完成度ですし、鉢内側には大阪楽に見られる「轆轤挽きの指痕」は無く、現代鉢のような一面がザラついた均一仕上げになっています、。
「足」の作り方も現代風ですが、鉢底は平らで時代乗りがあり、鉢数寄の手を得て、何とも言えぬ良さを醸し出しています、。
これらを総合して考えると、製作年は江戸後期とは言い難く、幕末頃ではないかと思います、。


◆2012年10月「第2回華幸園植木鉢展」
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# by evian_th | 2016-07-31 15:24 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」           No.566
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◆2016年7月9日、。   「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」

この文章を読んで頂くには、下2つの記事も参考に見て頂きたいので、クリックで各スレッドへ飛ぶようにしています、。
◆2015年12月、スレッドNo.553、「瑠璃釉薬の顔料」


◆2010年12月、スレッドNo.378、「楽焼鉢の顔料」


(このスレッドは、下スレNo.563「京焼から進化した楽焼」の最後の章の続きです)
黒一色だった「楽焼植木鉢」に最初に絵付けされた「顔料」が上画像にありますように「瑠璃釉」です、。
ところが今のところ、この時の「瑠璃釉薬」に用いられた「顔料」が判明しておりません、。

江戸時代初期(1600年代)、丹波の国桑田郡野々村に生まれた「清右衛門」という陶工がいました、。若い頃は京都粟原口(あわたぐち)や瀬戸で修業を積み、1644年~1648年頃に金閣寺の西方の仁和寺の門前に「御室窯」(おむろがま)を開き、生まれ故郷から姓を取り、仁和寺の「仁」と「清右衛門」の「清」を取って名を取り「野々村仁清」(ののむらにんせい)と名乗るようになります、。
江戸初期の京焼は、この野々村仁清と絵師・尾形光琳の弟で陶工の尾形乾山という二大巨匠によって非常に栄えます、。
尾形乾山はどちらかというと土着の落ち着いた陶器を製作したのとは対照的に野々村仁清は多彩な色調とモダンな意匠の陶器を作りました、。Google検索窓に「野々村仁清」と打ち込んで頂くと沢山の作品画像が出て来ます、。

その野々村仁清が「青色」「紺色」「紫色」を出すのに用いた顔料は風来記2010年12月スレッドNo.378「楽焼鉢の顔料」の末尾に書いています、。
ただし、「瑠璃色」というのは「青色」でも「紺色」でも「紫色」でもなく、もっと輝くような艶のある色だと思うのです、。野々村仁清の作品画像の中から瑠璃色に近いかなと感じる茶碗画像を上に掲載しました、。似ているかも知れないし違うかも知れませんが、もし同一なら、「ラピスラズリ(瑠璃)」を使わずにあの時代に「瑠璃色」は出すことが出来た事になります、。
ただし、上段の瑠璃色に見える所の下半分は緑色になって来ていますから。ここは「岩群青(アズライト)」を使用してあり、350年という時間の経過で酸化が進み「岩緑青(マラカイト)」に変化したものと思われます、。このように「岩群青」だけでは化学的安定性に欠けるのです、。下画像の楽鉢の「瑠璃釉」は同時期の製作なのに「瑠璃色」は変色せず安定していますから、「岩群青」よりも安定性の良い顔料を使用してあります、。それが「瑠璃(ラピスラズリ)」だったのではないかとエビアンは考えるのです、。



瑠璃色と言うのはもっと輝く様な、しかも深みがあると感じるので、それを出すには「ラピスラズリ(瑠璃)」か少なくとも「アズライト(岩群青)」を混ぜて使わないと発色しないのではないかと思います、。
この頃(1600年代)はこれら顔料の多くは中国からの輸入品に頼っており、400年後の現在でさえ信用のおけない中国人が、注文通りの物を送ったかどうかという点にも疑問はあります、。「岩紺青」という注文に「岩群青」を送ったほどなのですから、。

「支那呉須」では瑠璃色は出ない、。「岩群青」だけでも出ない、。「瑠璃」を日本人陶工が使ったという記録が見当たらない、。しかし、それらの混合によって「陶器の瑠璃色」は出されたに違いないと思います、。


◆京都の「野々村仁清」と大阪の「楽忠や楽雅亭」とは、製作年は1650年前後からという風にほぼ重なりますが、お互いに交流があったかというと、相互の作品に共通点は見当たらないので、交流は全く無かったのだろうと思います、。
◆野々村仁清はあの時代には珍しい芸術家肌の作品を製作したのと比べ、楽忠・楽雅亭は生活雑器の製作を主とした職人だったように見受けられます、。
◆時代が一致するので一応参考に両者の使用した顔料を比べてみました、。



今現在の時点で分かる所はこの辺までです、。後の時代に解明される事を期待しています、。

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# by evian_th | 2016-07-09 01:43 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「五柳万年青鉢」                    No.565
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◆2016年7月、。   京楽鉢「五柳青海波紋万年青鉢」


現代陶画工の第一人者である「布施覚さん」が絵付けした鉢は「布施鉢」と呼んで古典園芸界から親しまれ、絵付けの腕前も高く評価されていて、台として使用している鉢が「澤製陶所の利山鉢」とは呼ばない、。同じように「五柳寿運が絵付けの鉢」は「五柳鉢」と呼んで、愛好家垂涎的であるけど、「短冊家」とは呼ばれない、。
昭和平成と明治の秀でた二人の絵師は、それほどまでに親しまれ愛された作品を描くのである、。


「五柳・青海波紋万年青鉢」(10センチ×高さ9センチ)
「五柳」定番の「青海波紋」鉢なんだけど、五柳の鉢を掲載すると、ホッとするような安定感のある雰囲気が漂うのは、「五柳鉢」の持つ神秘的な奥深さやポテンシャルエネルギーの高さを感じさせられます、。今更面白い絵付けではないのに、見ると落ち着く、風来記サイトが安心するように思うのです、。流石ですよ、。

「五柳定番の雲形」、「五柳独自の青海波」、「段替わりの横線のピシッとした引き方」、どこを見ても「あ~、五柳だなぁ~」と感心するばかりです、。
鉢内側の「白丸とその両側の紅ポッチ」はこの鉢の場合、削り落としたか鉢を使用中に自然に落ちてしまったらしく、赤い丸状の線の中に元々の紅点の痕跡が見られます、。いい鉢ですね、。
                             (西口郁夫氏蔵)








# by evian_th | 2016-07-01 00:40 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽家                               No.564
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◆2016年6月24日、。   楽家


「楽鉢」の記事を書くに当たって、エビアンは自分が分かっていることを念頭に置きながら勝手なことを書きますが、ここで一応「楽焼」の「楽家」の初めの頃の人の事を書いておきます、。楽家2代目常慶の弟宗味が「楽焼鉢」に関係してくるからです、。

「楽家」の初めの頃に関しては、資料曖昧で諸説あり、「何がどうなっているのか全く分からない状態」です、。生誕年も没年も(本によりまちまちで)不確実です、。
「楽焼」の「植木鉢」に関係する事以外は、風来記が知った事ではないので、ここでは、講談社・1999年出版の「やきもの名鑑3・楽と京焼」を基本的に採用して書いておきます、。一部、昭和5年出版の楽家12代(と思う)の「楽焼」も参考、。


◆楽焼始祖「阿米也」(阿米夜・帰化名宗慶・弥吉・政吉)
阿米也が焼いた作品は知られていない、。残ってないことになっています、。
阿米也の死後、妻の佐々木氏(何故か名前は不明)は「尼焼」という窯を開き、作品は少数ながら残っているようです、。

◆楽家初代「佐々木長次郎」(長二郎・長祐)、~1589年没
後に「千利休」から利休の旧姓「田中」を与えられ「田中長次郎」と名乗る、。
優秀な作品がそこそこの数量知られていますが「落款」はありません、。
田中姓を名乗っていたから秀吉から与えられた「楽」を名乗らず、「楽の落款」を使用しなかったのか、
「楽」の姓と「落款」を与えられたのは2代目常慶だったから「長次郎作品には楽の落款」は無いのか、は不明です、。


◆楽家12代の本では初代長次郎の弟が2代目常慶ということになっていますが、講談社の本では、初代と2代の間に「謎の人物・田中宗慶」という人物が存在し、2代目常慶は田中宗慶の子供ということになっています、。
2代目常慶には「宗味」という弟が居ますが、楽家の「楽焼」では2代目は長次郎と10歳違いの弟という事になっており、2代目が初代長次郎の弟なら「宗味」も長次郎の弟ということになり、他と矛盾しますので、風来記では「田中宗慶」の存在を認めるものです、。田中宗慶の存在は、5代宗入の「宗入文書」(元禄元年・1688)によって知られることとなりました、。

◆楽家2代「楽常慶」、~1635年没
この辺がややっこしいのですが、豊臣秀吉より「楽の金印」と「楽の名字」を与えられたのは2代目常慶だということになっています、。常慶の作品には「楽の落款」が入ったり無かったりします、。3代目以降は全部の作品に「楽の落款」が入ります、。
「長次郎の作った寿楽第(邸)の鬼瓦の出来栄えが素晴らしかったので、その功績により」というエピソードも怪しくなって来ます、。長次郎の作った瓦は二条城のための物であったとする意見もあります、。
この、初代長次郎・二代常慶までの作品を「古楽」と称して、3代目道入以後の作品と区別するらしいです、。

常慶には「宗味」という弟がおり、「長次郎窯では、長次郎・田中宗慶・常慶・宗味」の4人が働いていた筈だと書いてあります、。


◆1589年に長次郎が他界し、1635年に兄常慶が他界すると「宗味」は「脇窯」として独立したようです、。
楽家「楽焼」には「2代常慶の弟の窯は脇窯だ」と書いてあります、。
この「宗味」が開いた窯こそが「楽雅亭」だろうと確信しています、。当時他に脇窯として独立した人は居なかったのですから、。
このスレッドで言いたかったことは、この事です、。

従って「楽・宗味」が「楽雅亭窯」を開くのは、兄常慶の死後1635年から、「三代目道入の弟道楽が楽忠窯を開く1656年」までの間21年間のどこかの時点でしょう、。京都では開くことは許されないので、大阪府堺市でしょう、。後に、甥にあたる「道楽(忠右衛門)が楽忠窯」を同所でを開く先鞭をつけたのでしょう、。
すると、例の「瑠璃釉」を「黒楽鉢に初めて使用したのも、宗味の楽雅亭」だろうということになります、。


◆楽家3代「道入」(別名ノンコウ)、1599~1656

楽家歴代の中で最も人気の高い作品を残した、。
弟の「道楽」は兄道入の死後、同年に「楽忠窯」を開いた事になります、。
それまでは京都で兄の仕事を手伝っていたのでしょう、。

◆楽家4代「一入」
これ以後は「楽焼植木鉢」には関係しませんので、以下略、。

◆結局、渡来人阿米也が創始し、長男である長次郎に引き継がれた「血縁」は、資料上からは「長次郎」で途絶えたことになりますね、。「精神と技法」とは伝承されているでしょうが、。
田中長次郎には子供が居なかったのか、結婚はしたのか、などなど、何も分かっていません、。



◆「宗味が開窯した楽雅亭」に関しては、以前から上記のように考えていましたが資料的には証明できません、。、「園芸ジャパン2016年1月号」では資料に基づいた記事を無難に書く事を選び、「1656年・楽忠窯の開窯」のみを記しました、。楽雅亭は楽忠から見れば叔父、楽忠は甥、年齢的にも「楽雅亭」が先に開窯したと見るのが妥当な判断だと思います、。楽雅亭の宗味、楽忠の道楽、共に生年没年などは不明です、。
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# by evian_th | 2016-06-25 12:47 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京焼から進化した楽焼                     No.563
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◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


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この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
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◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
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<奥部屋記事から転載>




# by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
2016年 夏の展示会 風蘭展                   No.562
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◆2016年6月、。


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)




華幸園 富貴蘭展
時:201○年○月○日・○日
所:華幸園展示場(香川県高松市生島町。ナビ用TEL:087-881-0260)



兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター








# by evian_th | 2016-06-14 21:48 | 東洋蘭春蘭展示会
楽焼蘭鉢                          No.561
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◆2016年6月、。   古典楽焼蘭鉢


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)



今月の鉢は非常に判断が難しい蘭鉢です、。画像だけを普通に見れば「三河鉢」の中の優秀品と判断される人も多いかと思いますが、この鉢画像はエビアンの撮影で、撮影時に手で持って触っています、。その時の印象から、一概に三河鉢とは決められない、。京楽鉢の可能性も多いと感じたので、従前なら「古京楽」と言う分類になるのでしょうが、風来記では鉢のチョットした特徴から「大虎一群の鉢」であるかも知れないと思います、。

下に掲載の「京楽5窯の位置関係図」の内、「短冊家窯」「浮田楽徳窯」「佐々木松楽窯」は単独の窯元ですが、その後の調べで「大虎窯」というのは、どうも一つの窯を指すのではなく、3~5窯の集合体であったようです、。(誤解を招く表現でした、。祇園馬町の周辺には明治時代以来多くの陶磁器窯元があり、馬町の窯元の中で、現在のところ名前の判明しているのは”大虎窯”だけなので、祇園馬町に在った窯元の代表として”大虎窯”と書いた訳です、。今後の調べで個別の名前が判明すれば、それぞれ独立させます、。)

下に掲載の2枚目画像は、明治12年ごろの京都東山・清水寺近辺の地図です、。(この地図では上が東の方角になっています)、。
現在のように東山山麓に沿って南北に直線状に通る「東大路通り」などは無く、農道のような道が込み入ってます、。
①は、清水寺(きよみずでら)
②は、葬送の地である「鳥辺野」(とりべの)
③は、鳥辺山の南側一帯が「祇園馬町」(ぎおん・うままち)です、。
鳥辺野一帯は平安京以来1000年に渡って葬送の地であり、こんな不気味な場所に多くの陶磁器窯元が窯を開いていた訳です、。この馬町には現在も「清水焼」(きよみずやき・磁気)の窯元が多くあるようです、。
陶磁器を焼く窯元などは嫌われていたのかも知れませんね、。
徒然草に「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ・・・」と書かれている通り、鳥辺野は火葬の地でした、。陶磁器窯元も煙が出ますので、そういう所へ集まったのかも知れません、。

現在の京都は観光地化されていて、清水寺へ昇る東大路通りと五条通の交差する五条の交差点は広い道路で、馬町の信号で止まっていると、1回の青信号で京阪電車からの観光客が数百人も交差点を渡り清水坂を昇って行きます、。平安京以来の屍が埋まった上を踏みつけているのも知らないで、。清水坂の右側の土産物店の裏側は「鳥辺山の墓地」なのも知らず、気味悪い場所であるのも知らず、明るい観光客で溢れています、。

「鳥辺野」の南側一帯の馬町に在った窯元の内、「楽焼鉢」を焼いて現在名前が判明しているのは「大虎窯」だけです、。風来記では、便宜上この馬町周辺の窯を「大虎窯」と表現することがあるかも知れません、。ご承知おきください、。「福井楽印窯」についてもエビアンの気持ちの中では、最近は新しい考えになりつつあります、。いずれ機会があれば、。

今月の鉢は「桐唐草に十六枚菊花一重紋」の蘭鉢です、。
菊花紋が描かれているから皇室関係献上品という訳ではありません、。菊花の花弁の描き方が雑ですし、皇室献上品の場合は「十六枚八重菊」の筈です、。まぁ、献上品は絶対に無いでしょうね、。絵付け全体も隙だらけですし、。
この鉢の良い所は、何といっても使い心地の良さそうなところです、。口径と高さのバランスがいいし、足の広がり具合も良い、。嫌味な所が感じられない、。柄物春蘭を入れると一段と映える鉢でしょう、。好もしい蘭鉢に仕上がっています、。使い勝手の良さそうな蘭鉢です、。
大正時代から昭和初期の製作、。口径13cm高さ17cm、。(鈴木学氏蔵)


下画像の地図は大きめサイズで掲載しています、。画像をクリックして拡大してご覧下さい、。
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以前風来記ページか奥部屋かに「京楽鉢に第六の窯元が在ったかも知れない」と書いた時に、エビアンの頭にあったのは下画像の、「足が腰へ着く部分を横から見ると、ポコンと丸く出た一群の鉢」です、。
この鉢は窯元不明のままに置くにはあまりにも惜しい鉢なのです、。台の作りもいいし絵付けも非常に巧み、。高級感あふれる鉢に仕上がっています、。この鉢の窯元名は是非とも調べたいと願っています、。

陶磁器の資料を調べていても「楽鉢」は本当に出て来ないのです、。大々的な登り窯などは必要が無く、民家のような家の中で焼けてしまうものですから、陶磁器窯元として資料に出て来ない場合が多いのです、。短冊家さんでさえ資料的には出て来ないのですよ、。
浮田楽徳は出て来ました、。しかしそれも「楽焼を焼いたらしい」というような短い一文だけです、。「植木鉢を焼いた」とは出て来ません、。植木鉢を焼く事は陶磁器窯元としては恥ずかしい事だったかのように、「楽焼」とは出ても「楽鉢」とは書いてありません、。「京楽」や「大阪楽」を調べるのは想像を超えて困難な作業なのです、。それでもなお、下画像の鉢の窯元は突き止めたいと思っています、。

「祇園馬町」の周辺も不明な窯元が多いのですが、エビアンが気になっているのは、東山の「八坂神社や知恩院の裏側」にあたる「粟田口近辺」です、。この辺にも江戸時代以後、陶磁器、特に「陶器の窯元」が集まっていた記録があります、。下画像の鉢は、この辺の「粟田焼」「京薩摩焼」の系統に属する鉢ではないかと考えています、。
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「京都平安京」を開いた「桓武天皇」という人は大変な怖がりでした、。
京都に都を開くに当たり、「四神相応の土地」にすべく、東に琵琶湖からの流れを引き「青龍の気」とし、南に「巨椋池」を置いて「朱雀の気」とし、西に「西国街道」を引いて「白虎の気」とし、「北に北山」があって「玄武の気」としました、。
都の東西南北に大きい石を置いて「岩倉」とし「荒ぶる神様であった素戔嗚尊(すなのおのみこと)」を降臨させて都を護らせ、「大将軍八神社」を置いて都の守りとし、死者の怨霊を閉じ込めるために変死者が出るとその場所に多くの寺を建て、死者の怨霊を弔う「祇園祭」をし、陰陽師安部の清明のような「陰陽師」に「式神」を使って悪霊を払わせ、「白拍子」「かむろ」を使って市民を見張らせたほどです、。また、北東の「表鬼門」には数々の「鬼門除け」の神社を置き、北東の奥には「比叡山延暦寺」を置いて「表鬼門払い」としたのです、。

「表鬼門」をそれほどまでに気味悪がったのに、吉祥事が入って来る南東の「風門」の「鳥辺野を火葬の地」とし、主人(桓武天皇自身)を護る北西の「天門」に「風葬の地・化野(あだしの)」を置いたのが、どうにも合点が行かないのです、。

◆在りし日の「巨椋池」(おぐらいけ)
京都十条の辺から宇治市を含み、南は大阪・淀の競馬場までを含むほど大きい池でした、。湖と呼べるほどの広さがあったのです、。南の「朱雀の気」を失うわけです、。これを埋め立てると京都が四神相応の地ではなくなるのに埋めてしまったのでした、。
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明治から昭和20年頃へかけて埋め立ててしまった、。近年話題の伊藤若冲が描いた「蓮の葉の下を泳ぐアユ(鮎)」は、この巨椋池でのみ見られる光景でした、。(蓮は濁った水に咲き、鮎は清流を好みますから、伊藤若冲の代表的な絵の中に「蓮の葉の下を泳ぐ鮎の絵」があるのはおかしいのではないか、という文句をつける学者が居り、調べた結果「巨椋池」でのみ見られる現象だったことが判明しました、。伊藤若冲の観察眼の鋭さが見直された出来事でした)、。







# by evian_th | 2016-06-01 00:14 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽長生蘭鉢                        No.560
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◆2016年5月、。   京楽鉢・石斛鉢


5月の鉢は「長生蘭鉢」、。
江戸時代後期1830年頃から、京都の公家を中心に流行し始めた「長生蘭」、。明治時代に入ってからは一般の町衆にも広まり「長生蘭鉢」も作られたのですが、現存数は非常に少ないものです、。
1835年には「長生草」という色刷りの本も出版されている所を見ると、ある程度の流行はあったのだろうと推察できますが、今に残る鉢は少数です、。「長生草」に描かれた鉢も見かけません、。
流行は京都から始まり、どこまで流行したのかをエビアンは知りません、。江戸まで広まったのかどうかが、今月の画像の鉢の特定に影響します、。

今月の鉢は、一見して「手島揫二窯」の製品ではないことは風来記御常連なら見抜いておられる事でしょう、。やはり「京楽鉢」と見るのが妥当だと思います、。

2の足、3の足を左右揃えると1の足が芯をそれる事から「短冊家」と見える人もおられると思いますが、「短冊家」と決めるには何か微妙な違和感があります、。「短冊家」も「大波紋」は描きます、。この鉢の大波紋も「光琳波」に似て品良く描かれてます、。大波を描いた絵具が貫入の様にひび割れているところは「短冊家」らしくないと思います、。波涛紋の描き方も「短冊家」らしくない、むしろ「手島風」です、。
「大波」の上部には鉢縁下までイッチンで点々を打ってますが、等間隔すぎて短冊家風ではない、などと感じてしまうのです、。

鉢底は轆轤挽きの糸切り痕も鮮明で、真っ平らに作られており、非常に好もしい印象を受けます、。一般論として、時代が下るほど鉢底にはクレーター状に傾斜が付けられる傾向がありますから、この点だけを見れば”台の作りは古い”と見えます、。そこが迷わせられる所ですが、全体を総合して、エビアンは「佐々木松楽窯」の製造だろうと思うのです、。それとても決定的な確信があってのことではありませんが、。

大波紋の絵の具使いに色気があって、鉢下部に良さがあり、何とも好ましい鉢です、。
口径13センチ・高さ8センチ、(飛田邦之氏蔵)





兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター





# by evian_th | 2016-04-30 11:15 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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