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短冊堂「花唐草紋万年青鉢」                 No.567
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◆2016年8月、。   短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」


短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」、。6号鉢、。
この鉢に出会ったのは、2012年10月「第2回・華幸園植木鉢展示会」の会場でした、。まだ「楽焼鉢歴史調べ」の旅の真っ最中の事で、突然目の前に「短冊堂落款」のある万年青鉢が現れて、華幸園さんもエビアンも混乱してしまい、短冊堂=短冊家製品、ということを受け入れられないで戸惑った思い出が残っています、。
「短冊堂落款=短冊家製品」という事実を受け入れることが出来たのは、昨年2015年6月の「華幸園展」にこの記事下に掲載のサムネイル画像にある「短冊堂落款・瑠璃釉六角神獣浮彫紋鉢」の出現のお蔭です、。同一鉢が京都の短冊家さんにも残っていたからなのです、。

上に掲載の今月の万年青鉢は、某大棚東洋蘭愛好家所蔵品ですが、その愛好家は蘭友が蘭を止める時にプレゼントされた鉢だそうで、贈られた2鉢の楽鉢以外には鉢を持ってない人ですから、商人が鉢の分譲をせがんでも贈られた品物だから売れないと断り続けて居られる鉢です、。

2008年の展示会場で手に取ってみたのですが、この鉢はズッシリと重いのです、。最近の楽鉢の重さではなく大阪楽の楽忠・楽雅亭に似た重さがあります、。6寸という大きさを考えに入れてもなお重かった記憶があります、。
では「大阪楽」に近いかというと、そうではなく、鉢のスタイルは現在に通じる完成度ですし、鉢内側には大阪楽に見られる「轆轤挽きの指痕」は無く、現代鉢のような一面がザラついた均一仕上げになっています、。
「足」の作り方も現代風ですが、鉢底は平らで時代乗りがあり、鉢数寄の手を得て、何とも言えぬ良さを醸し出しています、。
これらを総合して考えると、製作年は江戸後期とは言い難く、幕末頃ではないかと思います、。


◆2012年10月「第2回華幸園植木鉢展」
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# by evian_th | 2016-07-31 15:24 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」           No.566
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◆2016年7月9日、。   「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」

この文章を読んで頂くには、下2つの記事も参考に見て頂きたいので、クリックで各スレッドへ飛ぶようにしています、。
◆2015年12月、スレッドNo.553、「瑠璃釉薬の顔料」


◆2010年12月、スレッドNo.378、「楽焼鉢の顔料」


(このスレッドは、下スレNo.563「京焼から進化した楽焼」の最後の章の続きです)
黒一色だった「楽焼植木鉢」に最初に絵付けされた「顔料」が上画像にありますように「瑠璃釉」です、。
ところが今のところ、この時の「瑠璃釉薬」に用いられた「顔料」が判明しておりません、。

江戸時代初期(1600年代)、丹波の国桑田郡野々村に生まれた「清右衛門」という陶工がいました、。若い頃は京都粟原口(あわたぐち)や瀬戸で修業を積み、1644年~1648年頃に金閣寺の西方の仁和寺の門前に「御室窯」(おむろがま)を開き、生まれ故郷から姓を取り、仁和寺の「仁」と「清右衛門」の「清」を取って名を取り「野々村仁清」(ののむらにんせい)と名乗るようになります、。
江戸初期の京焼は、この野々村仁清と絵師・尾形光琳の弟で陶工の尾形乾山という二大巨匠によって非常に栄えます、。
尾形乾山はどちらかというと土着の落ち着いた陶器を製作したのとは対照的に野々村仁清は多彩な色調とモダンな意匠の陶器を作りました、。Google検索窓に「野々村仁清」と打ち込んで頂くと沢山の作品画像が出て来ます、。

その野々村仁清が「青色」「紺色」「紫色」を出すのに用いた顔料は風来記2010年12月スレッドNo.378「楽焼鉢の顔料」の末尾に書いています、。
ただし、「瑠璃色」というのは「青色」でも「紺色」でも「紫色」でもなく、もっと輝くような艶のある色だと思うのです、。野々村仁清の作品画像の中から瑠璃色に近いかなと感じる茶碗画像を上に掲載しました、。似ているかも知れないし違うかも知れませんが、もし同一なら、「ラピスラズリ(瑠璃)」を使わずにあの時代に「瑠璃色」は出すことが出来た事になります、。
ただし、上段の瑠璃色に見える所の下半分は緑色になって来ていますから。ここは「岩群青(アズライト)」を使用してあり、350年という時間の経過で酸化が進み「岩緑青(マラカイト)」に変化したものと思われます、。このように「岩群青」だけでは化学的安定性に欠けるのです、。下画像の楽鉢の「瑠璃釉」は同時期の製作なのに「瑠璃色」は変色せず安定していますから、「岩群青」よりも安定性の良い顔料を使用してあります、。それが「瑠璃(ラピスラズリ)」だったのではないかとエビアンは考えるのです、。



瑠璃色と言うのはもっと輝く様な、しかも深みがあると感じるので、それを出すには「ラピスラズリ(瑠璃)」か少なくとも「アズライト(岩群青)」を混ぜて使わないと発色しないのではないかと思います、。
この頃(1600年代)はこれら顔料の多くは中国からの輸入品に頼っており、400年後の現在でさえ信用のおけない中国人が、注文通りの物を送ったかどうかという点にも疑問はあります、。「岩紺青」という注文に「岩群青」を送ったほどなのですから、。

「支那呉須」では瑠璃色は出ない、。「岩群青」だけでも出ない、。「瑠璃」を日本人陶工が使ったという記録が見当たらない、。しかし、それらの混合によって「陶器の瑠璃色」は出されたに違いないと思います、。


◆京都の「野々村仁清」と大阪の「楽忠や楽雅亭」とは、製作年は1650年前後からという風にほぼ重なりますが、お互いに交流があったかというと、相互の作品に共通点は見当たらないので、交流は全く無かったのだろうと思います、。
◆野々村仁清はあの時代には珍しい芸術家肌の作品を製作したのと比べ、楽忠・楽雅亭は生活雑器の製作を主とした職人だったように見受けられます、。
◆時代が一致するので一応参考に両者の使用した顔料を比べてみました、。



今現在の時点で分かる所はこの辺までです、。後の時代に解明される事を期待しています、。

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# by evian_th | 2016-07-09 01:43 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「五柳万年青鉢」                    No.565
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◆2016年7月、。   京楽鉢「五柳青海波紋万年青鉢」


現代陶画工の第一人者である「布施覚さん」が絵付けした鉢は「布施鉢」と呼んで古典園芸界から親しまれ、絵付けの腕前も高く評価されていて、台として使用している鉢が「澤製陶所の利山鉢」とは呼ばない、。同じように「五柳寿運が絵付けの鉢」は「五柳鉢」と呼んで、愛好家垂涎的であるけど、「短冊家」とは呼ばれない、。
昭和平成と明治の秀でた二人の絵師は、それほどまでに親しまれ愛された作品を描くのである、。


「五柳・青海波紋万年青鉢」(10センチ×高さ9センチ)
「五柳」定番の「青海波紋」鉢なんだけど、五柳の鉢を掲載すると、ホッとするような安定感のある雰囲気が漂うのは、「五柳鉢」の持つ神秘的な奥深さやポテンシャルエネルギーの高さを感じさせられます、。今更面白い絵付けではないのに、見ると落ち着く、風来記サイトが安心するように思うのです、。流石ですよ、。

「五柳定番の雲形」、「五柳独自の青海波」、「段替わりの横線のピシッとした引き方」、どこを見ても「あ~、五柳だなぁ~」と感心するばかりです、。
鉢内側の「白丸とその両側の紅ポッチ」はこの鉢の場合、削り落としたか鉢を使用中に自然に落ちてしまったらしく、赤い丸状の線の中に元々の紅点の痕跡が見られます、。いい鉢ですね、。
                             (西口郁夫氏蔵)








# by evian_th | 2016-07-01 00:40 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽家                               No.564
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◆2016年6月24日、。   楽家


「楽鉢」の記事を書くに当たって、エビアンは自分が分かっていることを念頭に置きながら勝手なことを書きますが、ここで一応「楽焼」の「楽家」の初めの頃の人の事を書いておきます、。楽家2代目常慶の弟宗味が「楽焼鉢」に関係してくるからです、。

「楽家」の初めの頃に関しては、資料曖昧で諸説あり、「何がどうなっているのか全く分からない状態」です、。生誕年も没年も(本によりまちまちで)不確実です、。
「楽焼」の「植木鉢」に関係する事以外は、風来記が知った事ではないので、ここでは、講談社・1999年出版の「やきもの名鑑3・楽と京焼」を基本的に採用して書いておきます、。一部、昭和5年出版の楽家12代(と思う)の「楽焼」も参考、。


◆楽焼始祖「阿米也」(阿米夜・帰化名宗慶・弥吉・政吉)
阿米也が焼いた作品は知られていない、。残ってないことになっています、。
阿米也の死後、妻の佐々木氏(何故か名前は不明)は「尼焼」という窯を開き、作品は少数ながら残っているようです、。

◆楽家初代「佐々木長次郎」(長二郎・長祐)、~1589年没
後に「千利休」から利休の旧姓「田中」を与えられ「田中長次郎」と名乗る、。
優秀な作品がそこそこの数量知られていますが「落款」はありません、。
田中姓を名乗っていたから秀吉から与えられた「楽」を名乗らず、「楽の落款」を使用しなかったのか、
「楽」の姓と「落款」を与えられたのは2代目常慶だったから「長次郎作品には楽の落款」は無いのか、は不明です、。


◆楽家12代の本では初代長次郎の弟が2代目常慶ということになっていますが、講談社の本では、初代と2代の間に「謎の人物・田中宗慶」という人物が存在し、2代目常慶は田中宗慶の子供ということになっています、。
2代目常慶には「宗味」という弟が居ますが、楽家の「楽焼」では2代目は長次郎と10歳違いの弟という事になっており、2代目が初代長次郎の弟なら「宗味」も長次郎の弟ということになり、他と矛盾しますので、風来記では「田中宗慶」の存在を認めるものです、。田中宗慶の存在は、5代宗入の「宗入文書」(元禄元年・1688)によって知られることとなりました、。

◆楽家2代「楽常慶」、~1635年没
この辺がややっこしいのですが、豊臣秀吉より「楽の金印」と「楽の名字」を与えられたのは2代目常慶だということになっています、。常慶の作品には「楽の落款」が入ったり無かったりします、。3代目以降は全部の作品に「楽の落款」が入ります、。
「長次郎の作った寿楽第(邸)の鬼瓦の出来栄えが素晴らしかったので、その功績により」というエピソードも怪しくなって来ます、。長次郎の作った瓦は二条城のための物であったとする意見もあります、。
この、初代長次郎・二代常慶までの作品を「古楽」と称して、3代目道入以後の作品と区別するらしいです、。

常慶には「宗味」という弟がおり、「長次郎窯では、長次郎・田中宗慶・常慶・宗味」の4人が働いていた筈だと書いてあります、。


◆1589年に長次郎が他界し、1635年に兄常慶が他界すると「宗味」は「脇窯」として独立したようです、。
楽家「楽焼」には「2代常慶の弟の窯は脇窯だ」と書いてあります、。
この「宗味」が開いた窯こそが「楽雅亭」だろうと確信しています、。当時他に脇窯として独立した人は居なかったのですから、。
このスレッドで言いたかったことは、この事です、。

従って「楽・宗味」が「楽雅亭窯」を開くのは、兄常慶の死後1635年から、「三代目道入の弟道楽が楽忠窯を開く1656年」までの間21年間のどこかの時点でしょう、。京都では開くことは許されないので、大阪府堺市でしょう、。後に、甥にあたる「道楽(忠右衛門)が楽忠窯」を同所でを開く先鞭をつけたのでしょう、。
すると、例の「瑠璃釉」を「黒楽鉢に初めて使用したのも、宗味の楽雅亭」だろうということになります、。


◆楽家3代「道入」(別名ノンコウ)、1599~1656

楽家歴代の中で最も人気の高い作品を残した、。
弟の「道楽」は兄道入の死後、同年に「楽忠窯」を開いた事になります、。
それまでは京都で兄の仕事を手伝っていたのでしょう、。

◆楽家4代「一入」
これ以後は「楽焼植木鉢」には関係しませんので、以下略、。

◆結局、渡来人阿米也が創始し、長男である長次郎に引き継がれた「血縁」は、資料上からは「長次郎」で途絶えたことになりますね、。「精神と技法」とは伝承されているでしょうが、。
田中長次郎には子供が居なかったのか、結婚はしたのか、などなど、何も分かっていません、。



◆「宗味が開窯した楽雅亭」に関しては、以前から上記のように考えていましたが資料的には証明できません、。、「園芸ジャパン2016年1月号」では資料に基づいた記事を無難に書く事を選び、「1656年・楽忠窯の開窯」のみを記しました、。楽雅亭は楽忠から見れば叔父、楽忠は甥、年齢的にも「楽雅亭」が先に開窯したと見るのが妥当な判断だと思います、。楽雅亭の宗味、楽忠の道楽、共に生年没年などは不明です、。
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# by evian_th | 2016-06-25 12:47 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京焼から進化した楽焼                     No.563
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◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


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この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
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◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
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<奥部屋記事から転載>




# by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
2016年 夏の展示会 風蘭展                   No.562
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◆2016年6月、。


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)




華幸園 富貴蘭展
時:201○年○月○日・○日
所:華幸園展示場(香川県高松市生島町。ナビ用TEL:087-881-0260)



兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター








# by evian_th | 2016-06-14 21:48 | 東洋蘭春蘭展示会
楽焼蘭鉢                          No.561
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◆2016年6月、。   古典楽焼蘭鉢


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)



今月の鉢は非常に判断が難しい蘭鉢です、。画像だけを普通に見れば「三河鉢」の中の優秀品と判断される人も多いかと思いますが、この鉢画像はエビアンの撮影で、撮影時に手で持って触っています、。その時の印象から、一概に三河鉢とは決められない、。京楽鉢の可能性も多いと感じたので、従前なら「古京楽」と言う分類になるのでしょうが、風来記では鉢のチョットした特徴から「大虎一群の鉢」であるかも知れないと思います、。

下に掲載の「京楽5窯の位置関係図」の内、「短冊家窯」「浮田楽徳窯」「佐々木松楽窯」は単独の窯元ですが、その後の調べで「大虎窯」というのは、どうも一つの窯を指すのではなく、3~5窯の集合体であったようです、。(誤解を招く表現でした、。祇園馬町の周辺には明治時代以来多くの陶磁器窯元があり、馬町の窯元の中で、現在のところ名前の判明しているのは”大虎窯”だけなので、祇園馬町に在った窯元の代表として”大虎窯”と書いた訳です、。今後の調べで個別の名前が判明すれば、それぞれ独立させます、。)

下に掲載の2枚目画像は、明治12年ごろの京都東山・清水寺近辺の地図です、。(この地図では上が東の方角になっています)、。
現在のように東山山麓に沿って南北に直線状に通る「東大路通り」などは無く、農道のような道が込み入ってます、。
①は、清水寺(きよみずでら)
②は、葬送の地である「鳥辺野」(とりべの)
③は、鳥辺山の南側一帯が「祇園馬町」(ぎおん・うままち)です、。
鳥辺野一帯は平安京以来1000年に渡って葬送の地であり、こんな不気味な場所に多くの陶磁器窯元が窯を開いていた訳です、。この馬町には現在も「清水焼」(きよみずやき・磁気)の窯元が多くあるようです、。
陶磁器を焼く窯元などは嫌われていたのかも知れませんね、。
徒然草に「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ・・・」と書かれている通り、鳥辺野は火葬の地でした、。陶磁器窯元も煙が出ますので、そういう所へ集まったのかも知れません、。

現在の京都は観光地化されていて、清水寺へ昇る東大路通りと五条通の交差する五条の交差点は広い道路で、馬町の信号で止まっていると、1回の青信号で京阪電車からの観光客が数百人も交差点を渡り清水坂を昇って行きます、。平安京以来の屍が埋まった上を踏みつけているのも知らないで、。清水坂の右側の土産物店の裏側は「鳥辺山の墓地」なのも知らず、気味悪い場所であるのも知らず、明るい観光客で溢れています、。

「鳥辺野」の南側一帯の馬町に在った窯元の内、「楽焼鉢」を焼いて現在名前が判明しているのは「大虎窯」だけです、。風来記では、便宜上この馬町周辺の窯を「大虎窯」と表現することがあるかも知れません、。ご承知おきください、。「福井楽印窯」についてもエビアンの気持ちの中では、最近は新しい考えになりつつあります、。いずれ機会があれば、。

今月の鉢は「桐唐草に十六枚菊花一重紋」の蘭鉢です、。
菊花紋が描かれているから皇室関係献上品という訳ではありません、。菊花の花弁の描き方が雑ですし、皇室献上品の場合は「十六枚八重菊」の筈です、。まぁ、献上品は絶対に無いでしょうね、。絵付け全体も隙だらけですし、。
この鉢の良い所は、何といっても使い心地の良さそうなところです、。口径と高さのバランスがいいし、足の広がり具合も良い、。嫌味な所が感じられない、。柄物春蘭を入れると一段と映える鉢でしょう、。好もしい蘭鉢に仕上がっています、。使い勝手の良さそうな蘭鉢です、。
大正時代から昭和初期の製作、。口径13cm高さ17cm、。(鈴木学氏蔵)


下画像の地図は大きめサイズで掲載しています、。画像をクリックして拡大してご覧下さい、。
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以前風来記ページか奥部屋かに「京楽鉢に第六の窯元が在ったかも知れない」と書いた時に、エビアンの頭にあったのは下画像の、「足が腰へ着く部分を横から見ると、ポコンと丸く出た一群の鉢」です、。
この鉢は窯元不明のままに置くにはあまりにも惜しい鉢なのです、。台の作りもいいし絵付けも非常に巧み、。高級感あふれる鉢に仕上がっています、。この鉢の窯元名は是非とも調べたいと願っています、。

陶磁器の資料を調べていても「楽鉢」は本当に出て来ないのです、。大々的な登り窯などは必要が無く、民家のような家の中で焼けてしまうものですから、陶磁器窯元として資料に出て来ない場合が多いのです、。短冊家さんでさえ資料的には出て来ないのですよ、。
浮田楽徳は出て来ました、。しかしそれも「楽焼を焼いたらしい」というような短い一文だけです、。「植木鉢を焼いた」とは出て来ません、。植木鉢を焼く事は陶磁器窯元としては恥ずかしい事だったかのように、「楽焼」とは出ても「楽鉢」とは書いてありません、。「京楽」や「大阪楽」を調べるのは想像を超えて困難な作業なのです、。それでもなお、下画像の鉢の窯元は突き止めたいと思っています、。

「祇園馬町」の周辺も不明な窯元が多いのですが、エビアンが気になっているのは、東山の「八坂神社や知恩院の裏側」にあたる「粟田口近辺」です、。この辺にも江戸時代以後、陶磁器、特に「陶器の窯元」が集まっていた記録があります、。下画像の鉢は、この辺の「粟田焼」「京薩摩焼」の系統に属する鉢ではないかと考えています、。
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「京都平安京」を開いた「桓武天皇」という人は大変な怖がりでした、。
京都に都を開くに当たり、「四神相応の土地」にすべく、東に琵琶湖からの流れを引き「青龍の気」とし、南に「巨椋池」を置いて「朱雀の気」とし、西に「西国街道」を引いて「白虎の気」とし、「北に北山」があって「玄武の気」としました、。
都の東西南北に大きい石を置いて「岩倉」とし「荒ぶる神様であった素戔嗚尊(すなのおのみこと)」を降臨させて都を護らせ、「大将軍八神社」を置いて都の守りとし、死者の怨霊を閉じ込めるために変死者が出るとその場所に多くの寺を建て、死者の怨霊を弔う「祇園祭」をし、陰陽師安部の清明のような「陰陽師」に「式神」を使って悪霊を払わせ、「白拍子」「かむろ」を使って市民を見張らせたほどです、。また、北東の「表鬼門」には数々の「鬼門除け」の神社を置き、北東の奥には「比叡山延暦寺」を置いて「表鬼門払い」としたのです、。

「表鬼門」をそれほどまでに気味悪がったのに、吉祥事が入って来る南東の「風門」の「鳥辺野を火葬の地」とし、主人(桓武天皇自身)を護る北西の「天門」に「風葬の地・化野(あだしの)」を置いたのが、どうにも合点が行かないのです、。

◆在りし日の「巨椋池」(おぐらいけ)
京都十条の辺から宇治市を含み、南は大阪・淀の競馬場までを含むほど大きい池でした、。湖と呼べるほどの広さがあったのです、。南の「朱雀の気」を失うわけです、。これを埋め立てると京都が四神相応の地ではなくなるのに埋めてしまったのでした、。
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明治から昭和20年頃へかけて埋め立ててしまった、。近年話題の伊藤若冲が描いた「蓮の葉の下を泳ぐアユ(鮎)」は、この巨椋池でのみ見られる光景でした、。(蓮は濁った水に咲き、鮎は清流を好みますから、伊藤若冲の代表的な絵の中に「蓮の葉の下を泳ぐ鮎の絵」があるのはおかしいのではないか、という文句をつける学者が居り、調べた結果「巨椋池」でのみ見られる現象だったことが判明しました、。伊藤若冲の観察眼の鋭さが見直された出来事でした)、。







# by evian_th | 2016-06-01 00:14 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽長生蘭鉢                        No.560
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◆2016年5月、。   京楽鉢・石斛鉢


5月の鉢は「長生蘭鉢」、。
江戸時代後期1830年頃から、京都の公家を中心に流行し始めた「長生蘭」、。明治時代に入ってからは一般の町衆にも広まり「長生蘭鉢」も作られたのですが、現存数は非常に少ないものです、。
1835年には「長生草」という色刷りの本も出版されている所を見ると、ある程度の流行はあったのだろうと推察できますが、今に残る鉢は少数です、。「長生草」に描かれた鉢も見かけません、。
流行は京都から始まり、どこまで流行したのかをエビアンは知りません、。江戸まで広まったのかどうかが、今月の画像の鉢の特定に影響します、。

今月の鉢は、一見して「手島揫二窯」の製品ではないことは風来記御常連なら見抜いておられる事でしょう、。やはり「京楽鉢」と見るのが妥当だと思います、。

2の足、3の足を左右揃えると1の足が芯をそれる事から「短冊家」と見える人もおられると思いますが、「短冊家」と決めるには何か微妙な違和感があります、。「短冊家」も「大波紋」は描きます、。この鉢の大波紋も「光琳波」に似て品良く描かれてます、。大波を描いた絵具が貫入の様にひび割れているところは「短冊家」らしくないと思います、。波涛紋の描き方も「短冊家」らしくない、むしろ「手島風」です、。
「大波」の上部には鉢縁下までイッチンで点々を打ってますが、等間隔すぎて短冊家風ではない、などと感じてしまうのです、。

鉢底は轆轤挽きの糸切り痕も鮮明で、真っ平らに作られており、非常に好もしい印象を受けます、。一般論として、時代が下るほど鉢底にはクレーター状に傾斜が付けられる傾向がありますから、この点だけを見れば”台の作りは古い”と見えます、。そこが迷わせられる所ですが、全体を総合して、エビアンは「佐々木松楽窯」の製造だろうと思うのです、。それとても決定的な確信があってのことではありませんが、。

大波紋の絵の具使いに色気があって、鉢下部に良さがあり、何とも好ましい鉢です、。
口径13センチ・高さ8センチ、(飛田邦之氏蔵)





兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター





# by evian_th | 2016-04-30 11:15 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼「佐々木松楽窯雲龍図万年青鉢」             No.559
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◆2016年4月、。   京楽焼「青海波に雲龍図佐々木松楽窯万年青鉢」


さて、気候温暖な春4月に入りました、。

今月の「万年青鉢」は、先月の「蘭鉢」と同じ所有者さんの鉢です、。
先月の鉢は、こう言うと何だけど、少し見劣りのする鉢でしたが、今月の鉢は絢爛にして豪華な絵付けが施された飾り鉢です、。
つまり、「鉢数寄旦那」であろうとすれば、商人が持って来る鉢を「これは要るがこれは要らない、」と言っていると商人が良い鉢を持って来なくなる、。「そうかそうか」と全部受けてやれるだけの資金力と気持ちの余裕が必要な訳です、。そうすれば、三度に一度くらいは「これは、」という良い鉢も集まろうというものです、。これが、日本中でも鉢数寄者がほんの数えられる程度しか居ない理由です、。半端に鉢が見えると駄目で、何も分からないふりして全部買い受ける度量が必要になるのです、。(だからエビアンには鉢が集まらない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。)


「京楽焼佐々木松楽窯青海波に雲龍図万年青鉢」、。

「金」(きん)をふんだんに使った豪華な絵付けですね、。このスレッド下方に掲載の鉢も同じ窯元の似た絵付け鉢です、。腰部分に段替わりの横線が入っている所くらいの違い、。
雲は丁寧な縁取りを施した「瑞雲」、青海波の描き方は佐々木窯の特徴を表しています、。龍は右向き、。佐々木窯が「龍の置物の製作」から始まった事を象徴するような見事な「龍図」です、。
言う事無し、。明治時代後期の製作、。口径14cm,高さ16.5cm、。(新倉善秀氏所蔵)




こちらの鉢は、現在の所有者不明です、。
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北関東中国奥地蘭愛好会主催「九華を鑑賞する会」
時:2016年4月29日・10時~15時
所:埼玉県  熊谷市緑化センター展示室





# by evian_th | 2016-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
春季展示会2016     No.554
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◆2016年      春季展示会(春蘭展示会)


059.gif展示会は必ずしも日付の早い順には並んでいませんので、ご注意下さい、。.....040.gif.....



大阪東洋蘭会 2016年 春季展示会
時:2016年3月13日。(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




全国日本春蘭連合会 第45回春蘭展示大会(全春連)
時:2016年3月19日・20日、。
所:芝 弥生会館(東京都港区海岸1丁目)




北関東中国奥地蘭愛好会展示会
時:2016年2月27日・28日
所:埼玉県  熊谷市緑化センター展示室




兵庫春蘭友の会 春蘭遅花展示会
時:2016年3月26日~3月30日
所:相生園芸センター




中部蘭趣会 春蘭展示会
時:2016年3月11日・12日・13日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




愛知県春蘭合同展示会
時:2016年3月18日・19日・20日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




紀州蘭友の会 春蘭展示会
時:2016年3月12日・13日
所:オークワ パームシティー和歌山店3階(和歌山市中野31-1)




全日本東洋蘭 春季美術品評大会(全東連)
時:2016年3月18日・19日
所:東京蒲田 プラザアペア




蘭遊楽座 花物展
時:2016年3月6日
所:東京 大森 「大林寺」




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# by evian_th | 2016-03-03 00:51 | 東洋蘭春蘭展示会
楽鉢「龍虎図蘭鉢」                     No.558
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◆2016年3月、。   楽鉢「龍虎図蘭鉢」


楽鉢「龍虎図蘭鉢」、。
窯元はおろか製造地さえも不明の蘭鉢です、。
龍の角と火焔に使われている朱紅の顔料と、虎の足元の竹の葉(笹)に使われた青色絵具などから製作年代は少し下り、大正時代から昭和初期頃の製作だと思われます、。
足裏の土が剥げ落ちている部分を見ると、陶土は白く砂混じりの陶土であることなどからある程度の生産地は想像できますが確実ではありません、。

蘭界や萬年青界に現存する鉢の内で、窯元や産地が判断できるものは約半分程度に過ぎず、残り半分の鉢は判断不能なものです、。判断が付くものは貴重だと言えます、。
14×h16.5cm、。(新倉善秀氏蔵)









# by evian_th | 2016-03-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「隠し絵付け蘭鉢」                    No.557
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◆2016年2月、。   楽鉢「隠し絵付け蘭鉢」


新年なのだから、パッと華やかな鉢画像が良いと思ったのだけど先月の鉢画像は地味過ぎた、。それで今月は華やかで賑やかな鉢画像、。

この鉢の画像を見た時には「1の足」を見て「松をアレンジして描いてある」ものとばかり思ってました、。今月掲載しようと思って見直すと、なんと「隠し絵」になっていた事を知ったという次第、。

隠された本当のテーマは「加茂黒釉部分を塗り残した唐獅子」と白色泥漿で描かれた「牡丹」の図、。
”唐獅子ぼーた~ん~♪♪”なーんてのは演歌の世界かヤクザの彫り物かと思っていたら、ものの本によると意外にも古く、元はライオンをアフリカや中東でデザイン化した図柄だったものが中国へ伝わり、日本へは中国の唐の時代の紋様が伝わったので「唐獅子紋」と呼ぶらしいです、。「獅子」は中国でデザイン化される内に「目出度い神獣」としての側面を強め、頭と首と尾には「火焔状の渦巻く毛」を持つように変化して行ったようです、。同じく吉祥紋の牡丹と併せるデザインも中国伝来のもの、。

その「唐獅子牡丹紋」を「塗り残しの隠し絵」にしたこの絵師の腕前は大したものだけど、なんしろ「隠し絵」だから「足の正面」へメインテーマを持って来る訳には行かず、「獅子は足と足の間」に置くという矛盾に直面している所が、なんとも笑えますね、。
まぁ、獅子図の蘭鉢は多く見たけれど、この鉢が一番上手く獅子を描いていると感じます、。

窯元は不明、。京都かどうかさえも不明です、。エビアンは直感的に足の横から画像の形と加茂黒の肌理の質感から「福富京楽堂」だと感じましたが、福富の他の鉢の絵付けとは違い過ぎるとは思っています、。
短冊家と楽徳窯と佐々木松楽窯とは外しても良いと思います、。段替わりを取らず、でも腰部分には紋様を描いてあるので「総絵付け」とは呼べず、こういう点が「伝統紋様」を継承していないと思われ、そのことが「京都以外の鉢」と思わせるのです、。(佐々木松楽窯は有りかも知れないな~)、。

台の作りは硬そうで非常に良く、絵付けの腕前も上手く、しっかりと作られています、。顔料は、白と金以外に緑色、紫色、赤色、空色、が使われており、顔料の多彩さがこの鉢の製作年代が明治後期頃であろうということを示しています、。派手で目立つ鉢に仕上がっており、欲しいと思わせる逸品です、。(口径14センチ、高さ18センチ。飛田邦之氏蔵)







# by evian_th | 2016-01-30 12:59 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼「短冊家牡丹模様万年青鉢」               No.556
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◆2016年1月、。   短冊家「緑土牡丹模様万年青鉢」


本年も「風来記ページ」を宜しくお願いします、。


京楽焼・短冊家「緑土牡丹紋様万年青鉢」、。(口径14.5センチ、高さ14.5センチ)
昨年1月の蘭鉢と同時代・同一窯の万年青鉢です、。緑土の種類が少し違いがあり、昨年の蘭鉢とは緑土が違いますね、。
「「鉢縁下」(はちべりした)」と「腰」部分は「鋸歯紋(ぎょしもん)」、。段替わりを取った中央の胴部分には牡丹と他に1種の花模様を描き無難に上手に仕上げてあります、。「緑土」の他は「白色」と「金色」のみを使った地味な絵付けですが、こういう風な顔料で仕上げられると「時代」が読み難いものです、。


昨年末の「園芸ジャパン誌」に「楽鉢」の由来や歴史を書きましたので、今ただちに書く事もあまり無いのですが、個々の窯元作品の見分け方や特徴は避けました、。そういう事は、この「風来記ページ」の過去スレにさんざん書いています、。本のページ数にも限りがありますから、。


「楽鉢」の「窯元判断」で最も難しいのが、この「短冊家」と「手島窯」とです、。
「短冊家」の場合は、他の全ての窯元が短冊家作品を目指したのですから、「短冊家もどき」や「なんちゃって短冊家」が多く存在し、判断に苦しみます、。
というのも、「短冊家」は西暦1820年頃から現在に至るまで、200年近い製作年数があり、「短冊家の鉢」であっても、時代によって、また蘭鉢か万年青鉢かの違いによって、また鉢の大きさによって、デザインや陶土、加茂黒釉薬、が微妙に違うからなのです、。「足の形」一つ取り上げても「短冊家の足はこういう形」というものがありません、。箇条書きに出来るほどの具体的な違いではありません、。しかし、微妙ぉ~に「短冊家の足は、こういうのもある、またこういう風に作られたものもある、しかーし、こういう形は無い、」という風な違いはあります、。これは口では言えませんし、一言で言えるような具体的な物でもありません、。

まぁ強いて言うなら、「短冊家の鉢にはパイオニアとしての風格がある」という事でしょうか、。そこを見るのが最も判断し易い「短冊家製品の見分け方」ということでしょう、。誤魔化して言うのではありません、。正直に言うなら、そういうことです、。

画像の鉢は、園芸ジャパン誌1月号に掲載写真中、「翆蓋縞」が植わっている鉢です、。口径と高さが同じという見た目に良いバランスに作られています、。これを「胴返し」と呼ぶのだと思います、。

1枚目画像・2枚目画像のように、2の足、3の足、の左右の見え方を揃えると、1の足が曲がったように見える、というのも全部ではありませんが短冊家鉢の一つの特徴です、。

明治中期頃の製作の鉢かな、。


◆この「楽鉢絵付けに使われる緑土」は、土製顔料のテールベルトであると思っています、。
江戸時代には「陶磁器用の緑色顔料」は存在しました、。透明感のある美しい緑色の顔料です、。この古くから使われた「緑色顔料」は、銅山の副産物として「岩群青(アズライト)」と一緒に出て来る「マラカイト(岩緑青)」だろうと思われます、。京焼や1800年代初頭の楽鉢にも一部使われましたが、透明感のある美しい緑色顔料です、。
上掲の短冊家鉢などの楽鉢に使われた緑色は、透明感の無い(不透明な)土性顔料です、。
”緑色の土”そのものが顔料になっています、。透明感は無く、白色を混ぜたような不透明な緑色で、江戸時代に使われた中国産の岩緑青とは別物です、。
◆江戸後期の緑色には「岩緑青」が使われ、幕末から明治時代には「緑土(テールベルト)」が楽鉢に使われて、同時代に用途に応じて2種類の緑色顔料が使われる状態でしたので、一応書き添えておきます、。
(京焼の緑色は中国産岩緑青、幕末明治の楽鉢は緑土、という訳です)、。









# by evian_th | 2016-01-04 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
奥地蘭・蓮弁蘭                        No.555
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◆2016年元旦、。


昨年末には「100万アクセス」を頂きまして、御礼申し上げます、。
本年も楽しんで頂ける記事を掲載できるように努力いたしますので,何卒宜しくお願いします、。









# by evian_th | 2016-01-01 08:53 | 奥地蘭(中国蘭)
瑠璃釉薬の顔料                        No.553
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◆2015年12月10日、。   楽鉢「瑠璃釉薬の顔料」

ここ最近、急に「楽鉢スレ」が多いのは、もう今日明日にも皆さんの手元に「楽鉢特集の園芸ジャパン」が届くので、その文中に抜けている箇所の補足をしておきたいと思っての事です、。

上段に掲載の鉢画像は、江戸明暦2年(1656年)に(今の)大阪府堺市に窯を開いた「楽忠」や「楽雅亭」の鉢です、。
京都の「楽本家筋」の窯元であっても、京都で開窯することは許されず、楽家所縁の堺での開窯でした、。朝廷の引立ても無く自分で楽焼を製造し販売して行かねばならない立場だった訳です、。「茶道のお茶碗」や「食器」としての楽焼は評判が悪く、売れなかったようです、。生活のためにはあらゆる陶器製品を作った事でしょう、。
そうした状況で「楽忠」や「楽雅亭」が「楽焼植木鉢」を作るに至るのには、時間を要しなかったと思います、。案外早い時点、開窯からほんの2~3年以内には「植木鉢製作」を始めたと思います、。生活のために何か売れ筋商品を作る必要があったからです、。


東洋蘭風来記では、過去に「風来記ページ」で、上掲の楽鉢の花模様に塗られている「瑠璃釉」の原料は「ラピスラズリ」だったのだろうと書きました、。「ラピスラズリ」の和名が「瑠璃」であるという単純な理由からです、。
ところが、その後、調べてみても、1600年代の陶器の瑠璃顔料は何を用いたのかは不明のままで、「ラピスラズリ説」を肯定も否定も出来ない状態なのです、。

可能性から最も考えられる原材料顔料は幾つかあり、それらの内のどれかだろうとは思うのですが、特定には至っておりません、。

◆「岩群青」(いわぐんじょう)というのは「アズライト」の事です、。2枚目画像の石です、。
銅山の銅鉱脈から産し、「マラカイト」がくっ付いた状態で採掘されます、。「マラカイト」は和名を「孔雀石」といい、それから作る顔料は「岩緑青」(いわりょくしょう)と呼ばれ「緑色の顔料」です、。
「岩群青」は時間が経つと酸化して「岩緑性」に変化するので、この両者は同時にくっ付いた状態で出て来るのです、。
欧州ではフレスコ画の空を描いたりするのに用いられますが、時間が経つに従って「緑色に変化」して来るようです、。
日本での銅山の発見は古く、「栃木県の足尾銅山」が1550年頃には発見され、1610年には幕府が採掘を始めていますから、同時期には「岩群青」(アズライト)も採掘された事でしょう、。

ところが、当時「陶磁器界」で顔料としたのは、足尾銅山のものではなく、「中国産の岩群青」なのです、。
この中国産岩群青が純粋なアズライトだったのかどうかは問題です、。上の鉢の瑠璃色の浮彫紋に塗られた「瑠璃釉」の色は、緑色にも変化せず非常に安定しているようですから、単純に「支那岩群青」と決め付ける訳にも行きません、。

◆「岩紺青」(いわこんじょう)、江戸時代1700年初頭に作られる「プルシアンブルー」と区別するために、日本古来からある方を「岩紺青」としたが、暗い色をしていたというから「岩群青」のことらしい、。

◆「花紺青」(はなこんじょう)というのもあります、。原石は「スマルト」といい、明るい青色の顔料です、。「ラピスラズリ」(瑠璃)や「アズライト」(岩群青)の代用品として使われた古い時代からある顔料です、。

◆江戸初期1600年代は、「第一次京焼隆盛期」に当たり、京焼の名工「野々村仁清」や「尾形乾山」(絵師尾形光琳の弟)が出て、名作品を今に残しています、。
この「野々村仁清」が絵付けに使った顔料は、「緑色は岩緑青」、「紺色は中国産岩紺青」、「紫色は支那呉須と丹土と金珠との混合」を使用しており、「野々村仁清」と「忠右衛門」や「宗味」とが交流があった事が証明されれば、此の線も可能性は出て来ます、。調合法を教えられないと出せない色だからです、。

◆「ラピスラズリ」(瑠璃)の線もまだ可能性としては残っています、。

そういう訳で、1600年代に「あの楽焼鉢」に「瑠璃色の花模様」を描いた顔料は、今時点では特定できていません、。今回の「園芸ジャパン」では、ここの説明が抜けています、。それでフォローしておきます、。


◆「ラピスラズリ」(瑠璃原石)には”夢”がありました、。
玄奘三蔵が天山南道を旅した7世紀、新疆ウイグル自治区キジル国は仏教がもっとも発達した土地でした、。「庫車」(クチャ)の西方67キロにある亀慈(キジ)は大いに栄えており、仏教文化が花開いていたのです、。その中から生まれた「キジル青の石窟」で青色顔料として「ラピスラズリ」は発見されたのです、。
西欧人が西へ持ち帰り、シリアからは船に乗せてヨーロッパで売られ「ウルトラマリン顔料」として金(GOLD)よりも高価に取引され、その深い青色に魅せられたのが、1600年代オランダデルフトの画家「フェルメール」だったので「フェルメールブルー」と呼ばれるようになります、。

どうせ顔料が特定できないのならば、当時の日本・中国での「瑠璃顔料」は「瑠璃と岩群青の混ぜ物」だったというくらいな方が夢があって楽しかったと思います、。



尚、江戸後期1800年代になってからは、「楽忠」「欽古堂亀祐」「頂山」などが風来記でも過去にご紹介した「赤土六角鉢に瑠璃浮彫紋」とか「紀州偕楽園の瑠璃六角鉢」とか、今月トップ画面の「短冊家瑠璃浮彫鉢」とか、数多くの「瑠璃釉薬」を施した鉢が登場します、。、時代が100年以上も経った後では、どんな顔料が使われたのかは不明ですが、1600年代の顔料と同じでは無いと考えています、。

1730年頃には、ドイツで「コバルト」という金属が特定されているから、そこから後の時代の鉢は何が使われても不思議ではなく、様々な顔料で「瑠璃色」を出せたのだと思います、。




大阪東洋蘭会 2016年 春季展示会
時:2016年3月13日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会







# by evian_th | 2015-12-10 02:12 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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