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京楽鉢「楽徳蘭鉢」                         No.578
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◆2017年1月、。


新年おめでとうございます、。今年も「東洋蘭風来記」の風来記ページを宜しくお願いします、。


◆京楽鉢「浮田楽徳製菊花唐草紋蘭鉢」、。
新年は楽徳蘭鉢です、。珍しく無傷完品、。楽徳鉢にしては見た目よりも重く、短冊家製品ほどの重みがあります、。
1の足、2の足、3の足の正面に菊花紋を置き、他は唐草模様とその間の空間は緑色の点々(ドット)を細かく打ってあります、。段替わりの横線は描かず、腰の部分には金泥で雷紋をきっちりと描いてある鉢、。ヘリ上面には雲形のような唐草紋のような文様を金で描いてあり、高級品だった事をうかがわせます、。

高級品というよりも高価格品だった様子です、。が、どうもこの鉢は大旦那の注文制作だったらしく、楽徳が喜んでは製作していなかったような印象を受けます、。”楽徳らしさ”を発揮させてもらえなかったような気がします、。「金を多用せよ」「足の正面に菊の花を描け」とかいう小うるさい注文をされて、嫌々ながらというほどではないにしろ、何かしら”楽徳が乗ってない”ような気がするのです、。旦那からは相当ふんだくって鬱憤を晴らしたことでしょう、。最下段7枚目は前所有者さんの頃に撮影された画像で、金色や緑色が少し強すぎますが、この鉢の色を表しています、。(142mm×180mm)

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ところで、この鉢の「唐草紋」の隙間にビッシリと描き込まれた「細かな点々」は、「正式には何と呼ぶべきなのだろう」と常々考えて来た、。風来記では過去には「細かな点々」などと書いてきたのだが、ヒョンなことから判明したので書いておきます、。
奈良春日大社の社殿から発見された平安時代の「金鈿荘の太刀(きんでんそうのたち)」の純金のツカ部分に掘られた文様の隙間にビッシリと鏨で打ち込まれた細かな点々を「魚子(ななこ)」とNHKBSで放送していました、。800年ぶりに複製を作り春日大社に収蔵することになり、現代の人間国宝の人たちが協力して2年半かかって複製品を造り上げる様子を記録した番組中にスーパーインポーズで表示されたから信頼できる情報だと思います、。
楽焼鉢の世界では、「魚の子紋」は別個にイッチン描きや筆描きで「魚の子文様」は存在しますが、本来の意味からすれば「魚の卵に似せた細かな点々」は「魚の子紋」と呼ばれるようですから、今後は説明を加えながら「魚の子紋」という呼び名も使っていこうと思います、。


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浮田楽徳は京狩野大和絵派の絵師でしたが、1830年生まれで1861年(明治維新7年前)に窯を開き、大正元年に他界しており、その作品は紛れもなく明治時代の製作で、こんなに安心して時代が分かる窯元もめずらしいものです、。残された作品の多さを見ると短冊家や手島揫二と同数程度残っていて、絵師から窯元へ転身してからは、楽鉢製作一筋に打ち込んだのでしょう、。絵師といっても職人ですから、お客の旦那が買ってくれてこその商売で、この点でも旦那筋にも愛されたのでしょう、。

「浮田家」といえば、宇喜多秀家と加賀前田藩から嫁いだ豪姫は徳川家康に対する逆族として八丈島へ流刑に処されますが、その間も加賀前田家は毎年お金と米とを八丈島へ送り続けます、。家康の死後は一部親族は許され江戸へ戻りますが、この人たちも前田藩の江戸屋敷に住まわせて面倒を見ます、。代々それは引き継がれ、270年後の明治2年に赦免された時に浮田家の人々の職探しなどの面倒を見たのも加賀前田家だったといいますから、加賀前田家の義理堅さは大したものです、。凄いものです、。

浮田家の一族は現在は中国地方と九州地方、一部は東京方面に住んでおり、京都で探しましたが京都には居られないようでした、。(浮田一蕙や浮田楽徳の子孫の方が現在も京都にお住まいなら、伺ってご先祖のお話を聞こうと思い探したところ、現在の京都市に浮田姓のお宅が3軒あり、うち一軒は歯科医を開業されているので、人を介してその歯科医さんに聞いてもらったのです、。残念ながら浮田一蕙や楽徳の血縁者ではなく、エビアンが探している浮田姓の人は現在は京都には居られない、と歯科医さんから聞きました、。)

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歴史を振り返れば、西暦1600年代に絵師尾形光琳・陶工尾形乾山兄弟のように、京都の呉服商・雁金屋の次男三男という恵まれた環境に生まれ、才能に恵まれたのに、膨大な親の遺産を遊郭に入り浸って使い果たすような(ある種)天才も居り、様々だなぁと感じます、。余談ながら、尾形兄弟の曾祖母は本阿弥光悦の姉に当たり、従兄弟は楽家4代目の養子に入り、楽家5代目になった宗入であったという芸術家の血筋も引いています、。

この尾形光琳乾山と同時代の1600年代後半には、オランダ・デルフトの絵師(というより画家)フェルメールも出ています、。フェルメールも親から娼婦の館(まぁ売春宿)を受け継ぎ、自分は画商として生計を立てていましたが、ある時、自分でも絵を描いてみたところ評判が良く、生涯で34点の名画を残しますが、途中でアフガニスタンで産しヨーロッパで精製されたラピスラズリのウルトラマリン顔料に憑りつかれ、死んだ時には膨大な借金が残ったと言われます、。

真面目に楽鉢製作に取り組んで生涯を送った絵師も居れば、才能とお金に恵まれながら後世に名作品と名を残したけれどお金は使い果たした絵師も居たという歴史の皮肉も知ることになる楽焼鉢の研究です、。

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「画家とお金」の関係では、フェルメールと同じオランダデルフト出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホも思い出します、。日本の明治時代に当たる時代の画家(わずか100年チョイ前の人)で、その存命中に描いた絵は1点しか売れず、生活は苦しく、ゴッホの生活と絵画用品代金は弟のテオが結婚もせずに働いて支えたといいます、。今になってヨーロッパではゴッホ美術館ができ、その絵は高価に取引され、郷土が生んだ大芸術家のように自慢しますが、わずか100年前に理解して買ってもやらずに今頃になって何だ、とエビアンは思うのです、。












# by evian_th | 2017-01-03 21:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「大阪焼」2つの提案                        No.577
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◆2016年12月28日、。   「大阪焼」の呼称の提案


早いもので、今年もこのスレッドまでです、。インフルエンザウイルスやノロウイルスや食中毒の菌が繁殖しているようです、。12月の末になってもウイルスや菌の活動が活発だということは、蘭の方もフザリウム菌などが動いていると考えられますので、雨の当たる外棚物は乾き気味に管理するのが重要だと思います、。(昨日、外棚物で葉が黒くなって枯れる株を見付けたのでね)、。


「大阪焼」という呼称の提案、。

1枚目画像は、先日BBSのkumasannが入手の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」です、。
この鉢の落款は「楽忠」とあるように「楽忠窯の製品」なのですが、これを「楽焼鉢」と呼べるのかと考えると、少し無理があるように思われます、。古典園芸界では一般的に「楽焼」と言えば「加茂黒釉」を分厚く掛けた鉢を指す用語だからです、。

「楽焼」というのは、豊臣秀吉が「京都寿楽第(邸)」の出来栄えが素晴らしく良かったので、「佐々木家」に対して「寿楽第」の一字を取って「楽の金印」と共に「楽家」という姓(苗字)を与えたもので、以来、「楽家の焼き物」という意味で使われるべき呼称です、。従って、「楽家の焼き物はどんなものであっても楽焼」な訳ですし、楽家以外の人が作る「加茂黒釉の焼き物」は「楽焼」と名乗ってはいけない筈なのです、。

しかし、楽家と血縁の無い「本阿弥光悦」の造った「白楽茶碗・白富士」が国宝に選ばれているのを初め、江戸後期には短冊家も楽焼を名乗り、明治時代には東京の福富京楽堂も「京楽東京本舗」を名乗っているのが実情です、。

ですから、「楽焼は楽家が焼いた製品だけを指す言葉」であるべきところが、「楽焼は加茂黒釉を掛けた焼き物を指す言葉」へと転用されて使われつ続けて来ました、。今となっては動かしがたい既成事実化しています、。

では、紛れも無く楽家3代目道入の弟道楽が開窯した楽窯「楽忠窯」の製品である1枚目画像の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」は「楽焼鉢」と呼べるのかというと、詳しい事情を知らない人には違和感を感じられるでしょう、。
楽家の焼き物であっても加茂黒釉薬を掛けてない鉢は「楽鉢」とは認められないのです、。

では、この「楽忠鉢」を何鉢と呼べば良いのかと考えると、当て嵌まるカテゴリーが存在しないのです、。
2枚目画像の2つの万年青鉢には「大阪楽」という呼び名を2016年1月号の「園芸ジャパン誌」で与えて頂きました、。しかし、この大阪で楽家の手で焼かれたのに加茂黒を使ってない鉢は「大阪楽」には含まれないでしょうから、新たな別個の呼び名が必要です、。

そこで、大阪で焼かれ、楽焼とは呼べない鉢には「大阪焼」というカテゴリーを作り「大阪焼」と呼んではいかがでしょうか、というのが風来記の提案です、。(「大阪焼」と聞くと「たこ焼き」か「お好み焼き」のイメージ強くて、何かしら食べ物それも粉もん(こなもん)の感じを受けますが、いくら考えてもこれしか思い浮かばない)、。

強いて別な呼び方というと「浪速(難波・浪花)焼」(いずれも・なにわやき)と呼べないことは無いのですが、。
競技かるた大会(注1)の初めの序歌として詠まれる事が多い、「難波津(なにわず)に、咲くやこの花冬籠り、いまは春べと咲くやこの花」というような歌を平素から耳にしているような粋人なら、「難波焼」も受け入れられるかも知れません、。どうしたものでしょう?

「大阪」は江戸時代には「大坂」と呼ばれていた、。更にそれ以前には「なには」と呼ばれていた事を御存知の方には通用するかも知れませんが、一般には興味も無く、「なには?、なにそれ?」という程度の理解だと思います、。

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もう一つ、画像3枚目は「頂山鉢」です、。
盆栽界では、「頂山鉢」は「京焼」に含まれ「謎の京焼」ということになっています、。
が、この鉢に使われている「チョコレートのような色をした陶土」を見て下さいよ、。京都にこの陶土は出ないでしょう、。「京土」にも存在しないじゃないですか、。(京土は壁土として現在でも各種の土が販売されている)、。
1枚目画像の「楽忠」に使用の陶土を見れば、この手の「チョコレート色陶土」は大坂南の産の陶土だということは一目瞭然、。
風来記では「頂山鉢」というのは、江戸後期1830年ごろに紀州徳川藩の御庭焼「偕楽園」へ呼ばれた陶工が、和歌山からの帰路、大阪の世話になった貝塚市水間寺で窯を開いて焼いた「水間焼」(貝塚焼)(みずまやき)というのが、この「頂山」だろうと思っています、。従って「頂山鉢」も「大阪焼(または難波焼)」に分類すべきではないかと思っています、。いかがなもんでしょうか?
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(注1)競技かるた大会、。
毎年お正月に滋賀県大津市近江神宮で開催される「競技かるたの全国大会」で、クイーン戦と名人戦が行われる、。2016年のかるたクイーン「坪田クイーン」は目元が涼しいなかなかの美人ですよ、。ただし人妻、。
「近江神宮」には「百人一首の第一番目の歌を詠んだとされる天智天皇が祀られており競技かるた人の聖地」とされている、。この時の名人戦やクイーン戦で詠まれる序歌が「難波津に咲くやこの花・・・」なのです、。
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「なにわ(なには)」というのも一定しないんですよねぇ、。PC変換すると「難波」「浪速」「浪花」と3つにも変換される始末、。「浪曲・なにわぶし」の場合は「浪花節」だし、高校野球で名を馳せた「なにわ商業高校」は「浪華商業高校」だし、昔の芸人「なにわ千栄子」は「浪花千栄子」だった、。百人一首の「なにわず」は「難波津」だしなぁ~、。こういうの困るなぁ~、。
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楽家12代目だかが執筆した「楽焼」という本によると・・・
豊臣秀吉から「楽」の金印と「楽の姓」を賜ったのは、2代目常慶ではないかという事です、。初代佐々木長次郎が製作した「お茶碗」は「無落款」らしいです、。2代目常慶のお茶碗には「楽の落款」が有ったり無かったりで、3代目道入以降の作品には全部の作品に「楽の印」が押してあるそうです、。

その事ともう一つ、「楽姓」を賜るきっかけになったと言い伝えられる「瓦職人・佐々木長次郎」が作ったとされる「寿楽第のための鬼瓦」が残り伝わっているそうです、。この瓦には長次郎が書いたと思われる「製作年号」が入っているらしいですが、その年号が寿楽第の作られた年代とは一致しないのだそうです、。
この2つの事から、楽家に伝わる初期の頃の話の信憑性に疑問があると書いてあります、。初代長次郎と2代目常慶とが10歳しか年齢が離れてなかったことから、親子とも思えないとも書いてあります、。

「楽家」に関しては、その誕生の頃の話にあやふやな部分が多く、楽家の人でさえこの状態ですから、他の人が書く文章が一致しないのも当然で、この辺が「楽焼は京焼に含まれない」ということや、「国宝に選ばれた楽焼は本阿弥光悦のお茶碗である」ことなどの原因ではないかと思われます、。
風来記が、楽焼の初めの頃は大阪府堺市で焼かれていた、楽雅亭も大阪堺だったであろう、と書くのには、このように楽家の初期に疑問があるからです、。

また別な本では、楽家の初期に「田中宗慶」という人物が登場して、「田中宗慶」というのは「2代目常慶の父親である」とか、千利休の旧姓が「田中」であることから、「田中宗慶」とは「千利休本人の事である」とか「千利休の息子が2代目常慶である」とか、まぁ言いたい放題、書きたい放題であり、風来記ではその辺の事を無視して伏せて来ました、。今となっては真実は闇の中なのです、。
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# by evian_th | 2016-12-30 00:41 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢の形状の歴史                      No.576
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◆2016年12月20日、。   楽鉢の形状からの歴史


12月のトップ画面に使用した「五柳鉢」の件に関してBBSに書き込みがあった、。その時に返信レスを書いた中に「楽焼鉢の形状の大革命を起こしたのは京都・短冊家である。」と書いた、。そこのところ説明スレを一度書いておかねばならないと思う、。

画像は手持ちの写真を古いと思われる順に並べたものです、。エビアンの鉢は3個だけで他の3個は別な所有者さんの鉢です、。
①は1650年過ぎに大阪の堺市で「楽雅亭」や「楽忠」が作り始めた頃の「楽鉢の造り始めのパターン」なので、これを一応1650年型とした、。
②は同じ「楽雅亭」の鉢ですが、少し古典園芸風な形をしているので、これを時代を少し下って1700年型としました、。
③は、「大阪楽」ではあるけれど窯元が違うので比較の対称としては変ですが、縁のつば部分が「黒鍔(くろつば)風な形」なので、これを1700年後半型とします、。
④は、3よりも足やヘリに工夫の痕跡が見られ、ツバも横広がりに完成して来たので、1800年型としました、。

④の画像の時代までは「太鼓胴・段替わり」という形を忠実に引き継ぎ、「段替わりの度に鉢の太さを3段階に細く削って」います、。今まで見た大阪楽鉢はみんな同一パターンのデザインです、。③の右横に引いた線はその事を示しています、。

⑤ところが、楽鉢製造が京都へ移った(というか1820年頃に短冊家が製作を始めると)直後から、楽鉢の形に変化が起こり始めます、。⑤の鉢は一応は大阪楽の太鼓胴・段替わりを引き継いでいるように見えるのですが、よく見ると、胴部分にカーブを付けて、段替わりでも絞り込まれてない、。
⑥は、⑤を作ることで短冊家は「ロクロで下から上まで一気に引き上げる方式」を思い付いたのでしょうね、。⑥の鉢は「総絵付け」ですが、これ以後の作品には「段替わりの名残」として「鉢縁下・下部」と「腰部分・上部」とに「イッチン描きで1本か2本の線を描き、これを段替わりの名残とした」のでしょう、。


このことによって、製造に掛かる時間の短縮が出来る、鉢の肉厚を薄く出来る、自由な絵付けが出来る、などなどの利点が生まれ、これ以後「楽焼鉢」は大きく発展して行く事になりました、。
この「短冊家が作り始めた形状の変化は、楽鉢の世界における大革命」だったと思います、。以降、現在まで200年弱の時間が経過しますが、完璧なデザインでしかも簡単な製造方法であるために、他に工夫の余地も無く、同じデザインが引き継がれています、。「初代短冊家」というのは大したものです、。


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上に掲載の画像は楽忠楽雅亭の小型楽鉢です、。植わっているのは中春梅弁代表花「宋梅」、。これを見ると、随分小さい鉢も作ったんですね、。同じデザインの鉢は「楽忠窯の中盤1800年頃」まで造られたようです、。
画像は50年近く前に大阪府枚方市牧野に住んでいた竹島健太郎氏方で開催の「幽香会」の折に出品された貝塚市の道浦氏の作品、。道浦氏は当時「植木鉢数寄者」として知られ、没後はそのコレクションの多くは静岡の新谷氏経由で高木禮二氏(明光商会会長・msシュレッダー)コレクションに集められた、。撮影はエビアン、カメラはゼンザブロニカ、。







# by evian_th | 2016-12-21 15:08 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳菊花紋万年青鉢                     No.574
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◆2016年12月、。   五柳・菊花紋万年青鉢


師走!!!,、。
今年も誠にお世話になりました、。東洋蘭風来記も13年目に入っています、。これからも引き続きましてご訪問下さいますようお願いします、。

「五柳・菊花紋万年青鉢」、。
年末に相応しく、背筋がシャキッと伸びるような鉢をご覧頂きます、。

台の鉢は短冊家製、。五柳の持てる技を存分に注ぎ込んだ逸品です、。
残念ながら1の足方向からの画像しかありません、。2の足・3の足の絵付けも是非見てみたいと思わせる鉢です、。
「腰」部分には五柳の青海波紋様、「鉢縁下」(はちべりした)は唐草紋(?)、「胴」には写実的な菊花紋を散らしてあります、。ま、上出来の格調高い「五柳鉢」です、。

このクラスになると価格も跳ね上がるてもんです、。五柳もいろいろだから、。
短冊家の作りもいいですね、。時代乗りもいいけど元々の鉢の造り自体が素晴らしいと感じます、。
万年青鉢のこの形、全体のフォルムを完成させたのは「京都・短冊家」だと思います、。
西暦1800年代初頭の「大阪楽の万年青鉢」からいきなりこの形の「短冊家の京楽鉢」へ飛びます、。短冊家の極く初期の作品は既に大阪楽とは違い完成度が高いのです、。
大阪楽の万年青鉢の最後の方は「園芸ジャパン2016年1月号の16ページ17ページ」に掲載の2個ですが、その後に古典園芸用楽鉢の製造が京都へ移ると、突然完成度の高い短冊家鉢が登場します、。デザイン的にその途中の移行期の作品は見ません、。(今後出て来るかも知れませんが)、。

そう考えると「京都・短冊家」というのは大したものです、。特に初代が凄かったのだと感じています、。
その後に出て来る多くの窯元、浮田楽徳・福富京楽堂・愛知県三河地方の窯元、などなど、みんな「短冊家のフォルム」を継承しています、。他のデザインを工夫させる余地も無い程の完成度の高さを江戸時代・文化文政年には完成していたのですから短冊家というのは大したものです、。それから200年経った今現在も同一のデザインなんですからねぇ、。驚きですよ、。

激動の2016年を終えるに当たって、素晴らしい鉢をご覧下さい、。
口径14センチ高さ14センチ、。(河野祝之氏蔵)






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上画像、1枚目と2枚目とは同じ画像に見えますが、2枚目の方は少し緑色を強調して少しクッキリとさせてあります、。実物の見た目は1枚目画像のようでしょうが、絵付けの説明は2枚目の方が分かり良いと思います、。






大阪東洋蘭会 2017年 春季展示会
時:2017年3月12日。(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会








# by evian_th | 2016-12-01 00:29 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
秋季展示会2016                       No.568
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◆2016年秋季展示会



大阪東洋蘭会 2016年 秋季展示会
時:2016年10月16日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター
◆古典楽焼鉢を使った席飾り。
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




中部蘭趣会 春蘭柄物展示会
時:2016年8月26日・27日・28日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




全国日本春蘭連合会 春蘭展示大会(全春連)
時:2016年11月26日・27日、。
所:上野グリーンクラブ(東京都台東区上野公園3-42)
<注>全春連展示会は今回から「上野グリーンクラブ」に変更されました。



全日本東洋蘭 秋季美術品評大会(全東連)
時:2016年10月22日・23日
所:東京蒲田 プラザアペア




花ごよみ 秋の蘭展
時:2016年10月7日~10日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




東洋蘭総合大展示会
時:2016年10月14日・15日・16日、。
所:上野グリーンクラブ(東京都台東区上野公園3-42)
日本伝統園芸協会



兵庫春蘭友の会 柄物展
時:2016年11月27日(11am~16pm)
所:相生園芸センター




杭州寒蘭展示会
時:2016年12月3日・4日
所:三重 メッセウイングみえ




蘭遊楽座 柄物展
時:2016年12月4日
所:東京 大森 「大林寺」







「全春連のホームページ」ができました。(文字クリックでHPへ飛びます)

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# by evian_th | 2016-11-21 17:20 | 東洋蘭春蘭展示会
東洋蘭風来記お蔭様で12年                  No.573
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◆2016年11月、。     お蔭様で12年



「東洋蘭風来記」、お蔭様で満12年、。
多くのご訪問に感謝します、。
これからも「東洋蘭」や「植木鉢」の楽しい話題を続けて行こうと思います、。
今後とも、何卒宜しくお願いします、。




<お蔭様で満12年>
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# by evian_th | 2016-11-16 00:32 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「梅花紋万年青鉢」                   No.572
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◆2016年11月、。   楽焼鉢「梅花紋万年青鉢」


2012年の「華幸園植木鉢展示会」に出品されていた鉢らしいのですが、手に取って見るチャンスがあったのに気づかず見逃した万年青鉢、。今回使おうとしてフォルダーを見た時には「あ~、短冊家の万年青鉢ね」という軽い気持ちで使用を決めたのでした、。「短冊家万年青鉢」について書く事もあまりないなぁと思いながら、。

画像を作り始めて直ぐに「あれ?、違うかもな」と思い始め、画像が出来上がった時点では「短冊家である確率は50%」程度まで気持ちが変化していた、。
「短冊家」作品に共通する何かが不足していると感じたのでした、。最初に気になったのは「鉢ヘリ」の形、。ヘリ周辺が丸みを持って中央部よりも少し下がっている気がしたのと、一番の気がかりは「短冊家らしさ共通のピシッとした品格」が不足する点でした、。

絵付けは良く描けています、。珍しい梅花紋を肉厚く描いてあります、。使われている「緑土」も非常に上質、。段替わりの上、「鉢縁下」(はちべりした)の絵付けも何の絵かは不明ながら面白い、。「腰部分」には「金泥の花と緑土の唐草模様」が描かれていて纏まりがある、。上品な鉢に仕上がっていると感じます、。

鋏み痕も短冊家風に鉢縁直下にあり、もうほとんど短冊家に見えるんだけど、短冊家ではない可能性の方が多いですね、。「短冊家に見えて短冊家よりも少し色気がある」のは「福井楽印窯」に多いのですが、これも福井楽印かも知れません、。季節感のある良い鉢です、。
(口径8.5㎝、高さ8㎝。野町敦志氏所蔵)


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下に掲載の「大阪楽・太鼓胴楽鉢」は典型的な「段替わり様式」で作られています、。
太鼓の鋲がある「鉢縁下」(はちべりした)は最も太く、「胴部分」で一段胴回りは細くなり、更に「腰部分」でもう一段細くなるという古典の様式です、。
今月の「梅花紋万年青鉢」はこの様式を踏襲しようとしています、。小さい鉢では見栄えがしませんが、。
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# by evian_th | 2016-11-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「白唐草文様蘭鉢」                    No.571
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◆2016年10月、。   楽鉢「霞取りに白唐草紋蘭鉢」


「白胴に薄緑色の透明釉薬を掛けた上から白唐草紋」を描く楽鉢を最初に製作したのは江戸後期の「初代・京都・短冊家」だろうと思います、。「短冊堂」の落款入り6寸万年青鉢が残っています、。
それ以前の「大阪楽」には、このデザインの鉢を今までのところでは見かけません、。

結構難しいイッチン技術が必要だと見えるのですが、明治・大正・昭和初期にかけて、全国各地の多くの窯元が同様の模様の鉢を作っています、。
愛知県の興楽園・杉浦勘之助窯の製品も多く残っていますし、東京の手島揫二窯・福富京楽堂窯ほか京都の窯元も製作した様子です、。このデザインに関しては、どこの窯元製品も出来具合が良く、比較的完成度の高い鉢が多いデザインです、。

今年1月号の「園芸ジャパン楽鉢特集」では「短冊家」に分類してありますが、今回トップ画面で使おうと思って改めて見てみると、鋏み痕が足にあるような気がしますし、内掛けの釉薬の切れ方も短冊家らしくない気もします、。何しろ実物を触った訳でも無いので、窯元特定の判断に迷う部分があります、。

鉢の出来具合は良く、全体に上品な出来具合に仕上がっていると感じます、。花物柄物どちらに使っても似合いそうな雰囲気です、。鉢の胴部分の色は、1枚目と2枚目画像の中間的な色ではないかと思います、。(飛田邦之氏蔵)





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# by evian_th | 2016-09-30 11:01 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大隈重信侯と蘭1  楽鉢                   No.570
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◆2016年9月4日、。   大隈重信侯と蘭、その1     楽鉢の事など



今読んでいる本に面白い記述があるので抜粋してご紹介しとこ、。

「愛蘭の中興は大隈老侯」
文章は当時大隈重信侯邸に住み込んで蘭の手入れをしていた栗原彦三郎という人の書いたものから抜粋しました、。
(中略)
大隈侯爵はご自分で蘭を愛し、沢山栽培せられた許りで無く、愛蘭家の少なくなり蘭栽培の方法なども後世に伝はらなく成る事を憂ひられて、余に愛蘭家の会を作れと命じたので、当時東京に蘭商を本業として只壹人残って居り、亦栽培にも精通した新井仙之助翁を世話役として大正九年十月明治15・6年頃より31・2年頃までに東京市内に2・3百名の蘭商人があり、現今の組合組織の如き会もあったそうであるが蘭の廃れると共に段々減って大隈侯爵を総裁に、後藤新平伯を副総裁に、私が会長となって大日本蘭蕙会を組織し、全国から5百余名の愛蘭家を集めて、日本橋倶楽部で発会式を挙げ、同時に日本で最初の蘭蕙陳列観賞会を開催したのであった。

「当代の愛蘭家」
この大隈侯の蘭を愛されたのと同じ頃今の岩崎両男爵家の御先代弥太郎弥之助の両氏が素心蘭を好み、上等のものなら値を問はず買ったのが動機となって、明治18年頃から27・8年迄蘭が非常な勢いで日本全国に流行したのである。(注*岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者)
(後略)

上掲の写真説明文には「後藤新平伯大日本蘭蕙会副総裁親任式」と書いてあります、。

****************************

長文の極く一部分の抜粋だけど、驚くね、。明治中期に「東京で商う蘭商人だけでも200~300人も居た、」という記述に驚く、。
それと、ここには書いてないのですが、明治時代には既に「春蘭」という概念が確立されていて、それも「日本春蘭花物」の栽培が盛んにされていたという記述も、上記以外の箇所に書いてあります、。「日本春蘭の葉や花の鑑賞の仕方」とかもちろん「栽培法」とかも、。

上記の文章は、できるだけ「原文のまま」に載せました、。どうしても今では存在しない漢字を除いては、。句読点も原文まま、少し読みにくいというか意味不明の部分もありますね、。


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画像の鉢は「五柳寿運絵付けの6寸万年青鉢」、。
15年ほど前にこの鉢を現在の所有者に商ったのは横浜の蘭商故野田谷治男君で、売値はたしか280万だったと記憶しています、。
280万で驚いてちゃいけないのであって、明治時代の「古典楽焼鉢」の価格は、現在の貨幣価値で、数十万から数百万、それも1千万に近い数百万だったといいますから、蘭も鉢も、ごく限られたエリートたちの遊び場だったわけですね、

それにしても、現存する鉢が少なすぎて、鉢市場に活気が出ない、。古典の楽鉢が現在どの程度残っているかと考えると、現在古典園芸界と盆栽界と植物には興味はないけど鉢だけは買っている人の分・蔵の奥にしまってあって所有者さんさえ気付かないで居る鉢も含めても、最大数で現在の2倍程度じゃないかと思いますね、。

いや、違うな、。上に書いたことは正しくないかも知れないな、。
明治時代中頃には東京だけで蘭商が300人も生計を立てていた、。
一方大阪や京都は、大阪不況が起きたり、天皇陛下が東京へ居を移されたりして、明治中期には京大阪は不況だった筈で、お金持ちは東京に集中していた、。
京楽6窯の窯元が最も多くの錦鉢を作ったのは明治中期を中心とした時期である、。それらを買ったのは東京も多かったかも知れない、。
だとすると、東京に現存する古典楽鉢の数が少なすぎる気がする、。まだ多くが東京で隠れている可能性は大いにあるね、。大正12年に関東大震災があり、昭和16年―20年に大東亜戦争があったにしろ、それらの要因を差し引いても、まだ残っている筈だ、。希望はあるね、。





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# by evian_th | 2016-09-04 12:49 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「魚の子紋万年青鉢」                   No.569
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◆2016年9月、。     楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」


◆楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」、。
久々登場、エビアンの好きな「魚の子紋様鉢」です、。
非常に良く描けている紋様です、。描き方は過去に掲載した飛田邦之氏やエビアンの「楽徳製魚の子石斛鉢」にも似ています、。よほど研究したのでしょう、。違いはと言えば、飛田邦之氏の分は「魚の卵1個の中に金色の点々が2~3個」だったのに対して、画像の鉢では「卵1個に金点1個」であることくらいです、。下に過去に使用の石斛鉢の「魚の子紋様」を掲載しておきます、。

使われている「緑土」も同じ質の製品で、乾燥すると何とも言えぬ「緑青色」になる分を使用しています、。まぁ「緑土テールベルト」は乾いても緑色濃い方が上質とされ、価格も高価だったので、浮田楽徳窯の製品に使われた緑土はあまり高価な品質ではなかった様子で、そこがこの「魚の子紋」に一層の良さを醸し出しています、。短冊家は一概には言えませんが、比較的高価な「緑色が濃い緑土」を使っていることが多いようです、。

下方から霞取りを残し、「金泥で雲形風模様」も描いて手の込んだ絵付けです、。鉢の大きさは4寸3分くらいと大きく、画像からは予想外に大きな鉢です、。
鉢数寄泣かせの垂涎の一品ですね、。
窯元はというと、これが判断できないのです、。「楽徳鉢」ではない、「短冊家」とは足の作りと足に描かれた5本の金線と縁のツバの作りや内掛けの刷毛を使わず釉薬が分厚く垂れ下がって溜まっていることなどの点で疑問符が付きます、。1ヶ所だけ思い当たる窯元はありますが、そこがこれほどの絵付けをできたかというと疑問もあるので、窯元は不明ということでお願いします、。
飛田邦之氏蔵、4.3号鉢、。





下画像は浮田楽徳窯の石斛鉢の魚の子模様部分
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# by evian_th | 2016-08-31 14:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
短冊堂「花唐草紋万年青鉢」                 No.567
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◆2016年8月、。   短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」


短冊堂落款「花唐草紋万年青鉢」、。6号鉢、。
この鉢に出会ったのは、2012年10月「第2回・華幸園植木鉢展示会」の会場でした、。まだ「楽焼鉢歴史調べ」の旅の真っ最中の事で、突然目の前に「短冊堂落款」のある万年青鉢が現れて、華幸園さんもエビアンも混乱してしまい、短冊堂=短冊家製品、ということを受け入れられないで戸惑った思い出が残っています、。
「短冊堂落款=短冊家製品」という事実を受け入れることが出来たのは、昨年2015年6月の「華幸園展」にこの記事下に掲載のサムネイル画像にある「短冊堂落款・瑠璃釉六角神獣浮彫紋鉢」の出現のお蔭です、。同一鉢が京都の短冊家さんにも残っていたからなのです、。

上に掲載の今月の万年青鉢は、某大棚東洋蘭愛好家所蔵品ですが、その愛好家は蘭友が蘭を止める時にプレゼントされた鉢だそうで、贈られた2鉢の楽鉢以外には鉢を持ってない人ですから、商人が鉢の分譲をせがんでも贈られた品物だから売れないと断り続けて居られる鉢です、。

2008年の展示会場で手に取ってみたのですが、この鉢はズッシリと重いのです、。最近の楽鉢の重さではなく大阪楽の楽忠・楽雅亭に似た重さがあります、。6寸という大きさを考えに入れてもなお重かった記憶があります、。
では「大阪楽」に近いかというと、そうではなく、鉢のスタイルは現在に通じる完成度ですし、鉢内側には大阪楽に見られる「轆轤挽きの指痕」は無く、現代鉢のような一面がザラついた均一仕上げになっています、。
「足」の作り方も現代風ですが、鉢底は平らで時代乗りがあり、鉢数寄の手を得て、何とも言えぬ良さを醸し出しています、。
これらを総合して考えると、製作年は江戸後期とは言い難く、幕末頃ではないかと思います、。


◆2012年10月「第2回華幸園植木鉢展」
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# by evian_th | 2016-07-31 15:24 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」           No.566
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◆2016年7月9日、。   「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」

この文章を読んで頂くには、下2つの記事も参考に見て頂きたいので、クリックで各スレッドへ飛ぶようにしています、。
◆2015年12月、スレッドNo.553、「瑠璃釉薬の顔料」


◆2010年12月、スレッドNo.378、「楽焼鉢の顔料」


(このスレッドは、下スレNo.563「京焼から進化した楽焼」の最後の章の続きです)
黒一色だった「楽焼植木鉢」に最初に絵付けされた「顔料」が上画像にありますように「瑠璃釉」です、。
ところが今のところ、この時の「瑠璃釉薬」に用いられた「顔料」が判明しておりません、。

江戸時代初期(1600年代)、丹波の国桑田郡野々村に生まれた「清右衛門」という陶工がいました、。若い頃は京都粟原口(あわたぐち)や瀬戸で修業を積み、1644年~1648年頃に金閣寺の西方の仁和寺の門前に「御室窯」(おむろがま)を開き、生まれ故郷から姓を取り、仁和寺の「仁」と「清右衛門」の「清」を取って名を取り「野々村仁清」(ののむらにんせい)と名乗るようになります、。
江戸初期の京焼は、この野々村仁清と絵師・尾形光琳の弟で陶工の尾形乾山という二大巨匠によって非常に栄えます、。
尾形乾山はどちらかというと土着の落ち着いた陶器を製作したのとは対照的に野々村仁清は多彩な色調とモダンな意匠の陶器を作りました、。Google検索窓に「野々村仁清」と打ち込んで頂くと沢山の作品画像が出て来ます、。

その野々村仁清が「青色」「紺色」「紫色」を出すのに用いた顔料は風来記2010年12月スレッドNo.378「楽焼鉢の顔料」の末尾に書いています、。
ただし、「瑠璃色」というのは「青色」でも「紺色」でも「紫色」でもなく、もっと輝くような艶のある色だと思うのです、。野々村仁清の作品画像の中から瑠璃色に近いかなと感じる茶碗画像を上に掲載しました、。似ているかも知れないし違うかも知れませんが、もし同一なら、「ラピスラズリ(瑠璃)」を使わずにあの時代に「瑠璃色」は出すことが出来た事になります、。
ただし、上段の瑠璃色に見える所の下半分は緑色になって来ていますから。ここは「岩群青(アズライト)」を使用してあり、350年という時間の経過で酸化が進み「岩緑青(マラカイト)」に変化したものと思われます、。このように「岩群青」だけでは化学的安定性に欠けるのです、。下画像の楽鉢の「瑠璃釉」は同時期の製作なのに「瑠璃色」は変色せず安定していますから、「岩群青」よりも安定性の良い顔料を使用してあります、。それが「瑠璃(ラピスラズリ)」だったのではないかとエビアンは考えるのです、。



瑠璃色と言うのはもっと輝く様な、しかも深みがあると感じるので、それを出すには「ラピスラズリ(瑠璃)」か少なくとも「アズライト(岩群青)」を混ぜて使わないと発色しないのではないかと思います、。
この頃(1600年代)はこれら顔料の多くは中国からの輸入品に頼っており、400年後の現在でさえ信用のおけない中国人が、注文通りの物を送ったかどうかという点にも疑問はあります、。「岩紺青」という注文に「岩群青」を送ったほどなのですから、。

「支那呉須」では瑠璃色は出ない、。「岩群青」だけでも出ない、。「瑠璃」を日本人陶工が使ったという記録が見当たらない、。しかし、それらの混合によって「陶器の瑠璃色」は出されたに違いないと思います、。


◆京都の「野々村仁清」と大阪の「楽忠や楽雅亭」とは、製作年は1650年前後からという風にほぼ重なりますが、お互いに交流があったかというと、相互の作品に共通点は見当たらないので、交流は全く無かったのだろうと思います、。
◆野々村仁清はあの時代には珍しい芸術家肌の作品を製作したのと比べ、楽忠・楽雅亭は生活雑器の製作を主とした職人だったように見受けられます、。
◆時代が一致するので一応参考に両者の使用した顔料を比べてみました、。



今現在の時点で分かる所はこの辺までです、。後の時代に解明される事を期待しています、。

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# by evian_th | 2016-07-09 01:43 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「五柳万年青鉢」                    No.565
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◆2016年7月、。   京楽鉢「五柳青海波紋万年青鉢」


現代陶画工の第一人者である「布施覚さん」が絵付けした鉢は「布施鉢」と呼んで古典園芸界から親しまれ、絵付けの腕前も高く評価されていて、台として使用している鉢が「澤製陶所の利山鉢」とは呼ばない、。同じように「五柳寿運が絵付けの鉢」は「五柳鉢」と呼んで、愛好家垂涎的であるけど、「短冊家」とは呼ばれない、。
昭和平成と明治の秀でた二人の絵師は、それほどまでに親しまれ愛された作品を描くのである、。


「五柳・青海波紋万年青鉢」(10センチ×高さ9センチ)
「五柳」定番の「青海波紋」鉢なんだけど、五柳の鉢を掲載すると、ホッとするような安定感のある雰囲気が漂うのは、「五柳鉢」の持つ神秘的な奥深さやポテンシャルエネルギーの高さを感じさせられます、。今更面白い絵付けではないのに、見ると落ち着く、風来記サイトが安心するように思うのです、。流石ですよ、。

「五柳定番の雲形」、「五柳独自の青海波」、「段替わりの横線のピシッとした引き方」、どこを見ても「あ~、五柳だなぁ~」と感心するばかりです、。
鉢内側の「白丸とその両側の紅ポッチ」はこの鉢の場合、削り落としたか鉢を使用中に自然に落ちてしまったらしく、赤い丸状の線の中に元々の紅点の痕跡が見られます、。いい鉢ですね、。
                             (西口郁夫氏蔵)








# by evian_th | 2016-07-01 00:40 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽家                               No.564
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◆2016年6月24日、。   楽家


「楽鉢」の記事を書くに当たって、エビアンは自分が分かっていることを念頭に置きながら勝手なことを書きますが、ここで一応「楽焼」の「楽家」の初めの頃の人の事を書いておきます、。楽家2代目常慶の弟宗味が「楽焼鉢」に関係してくるからです、。

「楽家」の初めの頃に関しては、資料曖昧で諸説あり、「何がどうなっているのか全く分からない状態」です、。生誕年も没年も(本によりまちまちで)不確実です、。
「楽焼」の「植木鉢」に関係する事以外は、風来記が知った事ではないので、ここでは、講談社・1999年出版の「やきもの名鑑3・楽と京焼」を基本的に採用して書いておきます、。一部、昭和5年出版の楽家12代(と思う)の「楽焼」も参考、。


◆楽焼始祖「阿米也」(阿米夜・帰化名宗慶・弥吉・政吉)
阿米也が焼いた作品は知られていない、。残ってないことになっています、。
阿米也の死後、妻の佐々木氏(何故か名前は不明)は「尼焼」という窯を開き、作品は少数ながら残っているようです、。

◆楽家初代「佐々木長次郎」(長二郎・長祐)、~1589年没
後に「千利休」から利休の旧姓「田中」を与えられ「田中長次郎」と名乗る、。
優秀な作品がそこそこの数量知られていますが「落款」はありません、。
田中姓を名乗っていたから秀吉から与えられた「楽」を名乗らず、「楽の落款」を使用しなかったのか、
「楽」の姓と「落款」を与えられたのは2代目常慶だったから「長次郎作品には楽の落款」は無いのか、は不明です、。


◆楽家12代の本では初代長次郎の弟が2代目常慶ということになっていますが、講談社の本では、初代と2代の間に「謎の人物・田中宗慶」という人物が存在し、2代目常慶は田中宗慶の子供ということになっています、。
2代目常慶には「宗味」という弟が居ますが、楽家の「楽焼」では2代目は長次郎と10歳違いの弟という事になっており、2代目が初代長次郎の弟なら「宗味」も長次郎の弟ということになり、他と矛盾しますので、風来記では「田中宗慶」の存在を認めるものです、。田中宗慶の存在は、5代宗入の「宗入文書」(元禄元年・1688)によって知られることとなりました、。

◆楽家2代「楽常慶」、~1635年没
この辺がややっこしいのですが、豊臣秀吉より「楽の金印」と「楽の名字」を与えられたのは2代目常慶だということになっています、。常慶の作品には「楽の落款」が入ったり無かったりします、。3代目以降は全部の作品に「楽の落款」が入ります、。
「長次郎の作った寿楽第(邸)の鬼瓦の出来栄えが素晴らしかったので、その功績により」というエピソードも怪しくなって来ます、。長次郎の作った瓦は二条城のための物であったとする意見もあります、。
この、初代長次郎・二代常慶までの作品を「古楽」と称して、3代目道入以後の作品と区別するらしいです、。

常慶には「宗味」という弟がおり、「長次郎窯では、長次郎・田中宗慶・常慶・宗味」の4人が働いていた筈だと書いてあります、。


◆1589年に長次郎が他界し、1635年に兄常慶が他界すると「宗味」は「脇窯」として独立したようです、。
楽家「楽焼」には「2代常慶の弟の窯は脇窯だ」と書いてあります、。
この「宗味」が開いた窯こそが「楽雅亭」だろうと確信しています、。当時他に脇窯として独立した人は居なかったのですから、。
このスレッドで言いたかったことは、この事です、。

従って「楽・宗味」が「楽雅亭窯」を開くのは、兄常慶の死後1635年から、「三代目道入の弟道楽が楽忠窯を開く1656年」までの間21年間のどこかの時点でしょう、。京都では開くことは許されないので、大阪府堺市でしょう、。後に、甥にあたる「道楽(忠右衛門)が楽忠窯」を同所でを開く先鞭をつけたのでしょう、。
すると、例の「瑠璃釉」を「黒楽鉢に初めて使用したのも、宗味の楽雅亭」だろうということになります、。


◆楽家3代「道入」(別名ノンコウ)、1599~1656

楽家歴代の中で最も人気の高い作品を残した、。
弟の「道楽」は兄道入の死後、同年に「楽忠窯」を開いた事になります、。
それまでは京都で兄の仕事を手伝っていたのでしょう、。

◆楽家4代「一入」
これ以後は「楽焼植木鉢」には関係しませんので、以下略、。

◆結局、渡来人阿米也が創始し、長男である長次郎に引き継がれた「血縁」は、資料上からは「長次郎」で途絶えたことになりますね、。「精神と技法」とは伝承されているでしょうが、。
田中長次郎には子供が居なかったのか、結婚はしたのか、などなど、何も分かっていません、。



◆「宗味が開窯した楽雅亭」に関しては、以前から上記のように考えていましたが資料的には証明できません、。、「園芸ジャパン2016年1月号」では資料に基づいた記事を無難に書く事を選び、「1656年・楽忠窯の開窯」のみを記しました、。楽雅亭は楽忠から見れば叔父、楽忠は甥、年齢的にも「楽雅亭」が先に開窯したと見るのが妥当な判断だと思います、。楽雅亭の宗味、楽忠の道楽、共に生年没年などは不明です、。
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# by evian_th | 2016-06-25 12:47 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京焼から進化した楽焼                     No.563
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◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


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この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
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◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
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<奥部屋記事から転載>




# by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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