TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
more...

フォロー中のブログ
東洋蘭風来記奥部屋
東洋蘭 花図鑑 東洋蘭 ...

検索

タグ


楽徳と五柳の共通点                      No.552

d0103457_00143577.jpg

d0103457_00144671.jpg

d0103457_00145558.jpg

◆2015年12月7日、。   楽徳と五柳の共通点


浮田楽徳と五柳寿運の共通点、。
「楽鉢」の調べ始めの頃には、誰でも同じだと思うけど、「五柳鉢」の魅力に魅かれる、。自分で五柳鉢を持つチャンスも無い頃には五柳鉢の画像を送ってもらって、その特徴を観察し研究した、。

「古典楽焼鉢」を見ていて、今も不思議に感じる事の一つに、「これほどの高級絵付けを施した工芸品なのに、宗教の影響を感じない」ということがある、。西欧諸国の民芸品・工芸品でも、中近東もアジアでも、普通なら「宗教から影響を受ける」ものが多いからだた、。
現在に残る「楽焼鉢」の多くが作られたのは江戸後期から明治・大正・昭和初期のものであって、仏教・神道・の影響を受けた絵付けがどこかで描かれても不思議ではない思う、。

そう思いながら見ていた時に目に止まったのが「五柳鉢」にのみ描かれた「雲形」(くもがた)だった、。「雲形」は神社仏閣や日本家屋の「入母屋作りの屋根の頂上(三角形の頂点)に「木製で作る飾りのこと」だ、。
この「雲形」のみが、まぁ宗教の影響を受けた絵柄と言えると感じた、。それで初めの頃に「五柳は狩野派絵師の仏画の影響を受けた絵師だ、」という風に「風来記ページ」にエビアンが書きこんだ、。
その時点では、「雲形を描いた鉢は五柳寿運の鉢」でしか知らなかったのだた、。
萬年青界で出版されていた本にも「五柳は狩野派絵師の影響を受けている」と書いてあったが納得した、。

それから後、千葉県の某園芸店の園主さんが最上段に掲載の鉢を持っている事を携帯電話でスナップ撮影し、画像を送ってくれた人が居た、。足を正面にした位置での撮影画像だったし、当時の携帯電話画像じゃハッキリとは写ってなかったけれど、足の横の腰部分に「雲形らしき絵付け」が描かれているのが、かろうじて見えた、。デジカメで撮影した画像も送ってもらって、「これは雲形だ」と確信した、。

その鉢はヘリが割れた繕い鉢だった、。が、何としても欲しい、。見た所では「浮田楽徳の鉢」である、。「楽徳にも雲形を描いた鉢があった」という思いで、どうにも入手したくなった、。人を通じて根気よく交渉してもらった、。1年半を過ぎるころに持ち主さんから譲ってもいいと連絡を受けて入手した鉢なのだ、。

鉢の腰部分を撮影してみると、実に手馴れた調子で「雲形」が描かれている、。「金泥のイッチン描きか筆描きか」は判らないけど、雲形が描かれている、。
描かれた「台の鉢の古さ」から、「これを最初に描いたのは浮田楽徳の方」であると直感した、。

なぜ「楽徳と五柳のみが雲形を描くのか」と考えると、二人は狩野派の大和絵師であったのであろうと結論出来た、。こういうのは先輩絵師が描くのを見ていないと描けない、。さらに言えば、その紋様の持つ意味を理解していたからこそ描くことが出来た紋様だったろうと思う、。
浮田楽徳は1830年生まれの狩野派絵師で、師匠の復古大和絵師「浮田一蕙」を直接見ていたのは楽徳の方だけであると思う、。五柳は絵付け鉢の完成度の新しさから、楽徳よりも30歳くらい年下の絵師だったろうと思う、。

雲形は、五柳の方が多く絵付けしている、。「鉢縁下」(はちべりした)や段替わりの線の間にも書く事がある、。楽徳は鉢縁の上側(上面)に描くことがあるが胴部分に描くことはあまりない、。



極く稀に、二人とは全く無縁の後世の偽絵師によってヘンテコリンな雲形を描いた鉢を見受けることもあるが、これはどなたがご覧になっても見分けられる、。





# by evian_th | 2015-12-07 01:34 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢                  No.551
b0034163_10554824.jpg

b0034163_10555646.jpg

b0034163_10560366.jpg

b0034163_10561013.jpg

b0034163_10561719.jpg

◆2015年12月、。   短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢


師走~、。
本年も「東洋蘭風来記」をご覧いただきまして、ありがとう御座いました、。寒い季節ですから、お身体をお大切にお過ごしください、。


短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢、。

「楽焼鉢」ではありませんが、楽鉢窯元の短冊家の極く初期の頃の製作になる鉢で、非常に珍しいのでご紹介、。
よほど大切に保存されて伝わって来た鉢の様子、。一見すると新しそうに見える鉢ですが、この鉢は製作されてから200年経っています、。江戸後期・文化文政年(1804年~1829年)の製作だと思います、。


この鉢を作るには、一般の楽焼窯元にとっては誰かに2つの事を教わらないと製作できない鉢なのです、。
◆柔らかい感じのする半磁器(磁陶という)の作り方
◆型押しの方法と6枚の面の張り合わせ技術
この事を一人で教えることが出来たのは、江戸後期の第二期京焼ブーム時に出て来た京都の陶工「欽古堂亀祐」しか居なかったと思われます、。


「欽古堂亀祐」(きんこどうきすけ)明和2年(1765年)生まれ、天保8年(1837年)没は、毎度御馴染みの「奥田頴川」(おくだえいせん)の門下生の筆頭とも言って良い程の存在、。奥田頴川は亀祐よりも12歳年上で、家業の質屋は弟に任せて京都三条粟田口に窯を開き、中国陶磁を学びながら人柄を慕って寄って来る多くの陶工を育てた後期・京焼盛隆の功労者です、。
この奥田頴川が「磁陶」の作り方を門下生に教えたのでのです、。後に欽古堂亀祐が陶芸指導に行く「三田青磁」なども、この「磁陶」の分類に入る焼き物です、。
当時の京都粟田口には陶磁器の窯元は多く、清水焼のような硬質の白くて硬い磁器とは違って、温かみのある焼き物です、。

また、欽古堂亀祐は京都伏見の「伏見人形作り」の家の出身、。伏見人形は前姿と後姿とを別々の2枚の木型に押し付けて陶板を作り、薄く溶いた陶土で張り合わせて作ります、。この「木版に押し型技術」と「張り合わせ技術」とで一体の人形を作るのです、。

これら2つの技を併せ持った陶工は欽古堂亀祐だけだったと思われ、初代短冊家が祇園短冊楼から窯を開いた時期と亀祐が活躍した時期とが一致するのです、。


短冊家初代は余程研究熱心な人だったらしく、亀祐に執拗に頼み込んだのでしょう、。というのも、普通一般的には、6面の神獣の鉢を作るには、同じ獣が繋がらないように、2~3種の版木を使用して別々の神獣を繋げる筈なのですが、画像をご覧頂くとお分かりのように、全部が同一の神獣です、。つまり亀祐は版木を1枚だけしか短冊家に使わせなかったものと思われます、。

そういう苦労をして短冊家初代はこの鉢を製作したのです、。その研究心は脱帽ものです、。
江戸後期なのにテールベルトが手に入らない筈なのに緑色があるじゃないか、と思われるでしょうが、ここに使われる顔料は日本古来(といっても、江戸時代直前の頃)からある顔料で、江戸初期の陶工・野々村仁清などが使用した天然顔料で、主として磁器専用のものです、。透明感があり、非常に高価な顔料だったのだろうと思います、。

鉢裏には初代が使ったと思われる「短冊堂」の落款、。
この鉢は、エビアンが知る限りは2個現存し、他に盆栽界の蒐集家に残っているとしても、あと1~2個でしょう、。大量に作るほどは亀祐も木型を貸さなかったと思われるからです、。
いずれにしても非常に貴重な鉢であることは間違いのない事実です、。
贅沢を言わせてもらえるなら、少しは使っておいて欲しかったですね、。時代乗りが欲しかった、。
(現在の所有者は不明)









# by evian_th | 2015-12-01 00:05 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢特集号が出るらしい                   No.550
d0103457_01575113.jpg

d0103457_01580281.jpg

◆2015年11月22日、。   「楽焼鉢特集号」が出版されるらしい


「園芸JAPAN」誌が次の号(12月14日発売)で「楽焼鉢特集」を出すらしい、。
それでエビアンに「楽焼鉢の歴史」についての原稿依頼が来た、。

まぁ、いずれは「楽焼鉢」もネットのバーチャル空間で取り上げるだけではなく、リアルの世界で活字にするべきなのだろうけど、突然に言われるとまごついてしまう、。
ネットでは、その時々に思い付いた話題を断片的に取り上げてればすむ話でも、出版物となると、その生い立ちから連続して時系列に沿った形で論じなければならないという難しさがある、。

そもそも、「ネット東洋蘭風来記」を見て下さっている人以外は、「楽焼」や「楽焼鉢」が江戸時代に大阪で焼き始められた事すら御存知ないわけです、。いきなり「楽焼は大阪焼から始まった、」と聞けば気を失いかねない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

でも「大阪焼」から始めないと話が進まないから、今回初めてリアル世界に「大阪焼」(大阪楽)を登場させる決断をした、。その後、江戸時代後期になって、楽焼植木鉢は「京都」へ移るのですが、「京楽焼」は「短冊家」と、証拠が出て来てしまった「佐々木松楽鉢」だけで済ませて、その他は「その他古京楽」に分類してお茶を濁そうと思ったのに、一群の銘絵付けを施した「浮田楽徳鉢」を「古京楽」に分類する訳にも行かず、「浮田楽徳窯」も初めてリアル世界デビューさせることになってしまった、。

同じく、明治時代にカタログまで発行している「東京楽」の「福富京楽堂」も隠す訳には行かない、。で、出すことになった、。


今までネットをしない人、東洋蘭風来記を見た事も無い多くの人、にとっては驚天動地モノだろう思う、。
人を驚かせて喜ぶような趣味は持ち合わせてない、。それでここしばらくは奥部屋更新や余剰苗にも気分が乗らず、考え込んでました、。
ネット上で楽しんで来ただけだったし、出版物にしたいとも思ってなかったので気分が乗らなくて考え込んでた、。まぁしようがない、いつかはこういう日が来るのは必然だったのだろうと腹を決めたところです、。

ネットとリアルとの間にどれほどの温度差があるのかを知ることも楽しい、。

(掲載画像は短冊家(だと思う、下の方は怪しいけど)、青蔭さん所蔵)




# by evian_th | 2015-11-23 00:37 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭風来記、お陰様で満11年                 No.549
b0034163_13140078.jpg
◆2015年11月、。   「東洋蘭風来記」満11年



「東洋蘭風来記」、お蔭様で満11年、。
多くのご訪問に感謝します、。
これからも「東洋蘭」や「植木鉢」の楽しい話題を続けて行こうと思います、。
今後とも、何卒宜しくお願いします、。




<お蔭様で満11年>




# by evian_th | 2015-11-17 13:16 | 東洋蘭(春蘭)
秋季冬季・展示会情報                      No.548
b0034163_09305069.jpg
◆2015年11月、。   東洋蘭・秋季冬季展示会情報



兵庫春蘭友の会 秋季柄物展示会
時:2015年11月29日(11:00am~16:00時)
所:相生園芸センター内
参加費:500円


杭州寒蘭展示会
時:2015年12月5日・6日
所:三重 メッセウイングみえ












# by evian_th | 2015-11-14 09:32 | 東洋蘭春蘭展示会
京楽焼「五柳・菊花散らし紋」万年青鉢              No.547
b0034163_16280670.jpg

b0034163_16281331.jpg

b0034163_16282056.jpg

b0034163_16282738.jpg

b0034163_16283463.jpg

◆2015年11月、。   京楽焼「五柳菊花散らし紋」万年青鉢、。

寒さ厳しい11月の入りになりそうです、。皆さまのご健康を祈念いたしております、。

風来記は「六輝」(六曜)に従って更新しています、。ゲン担ぎにすぎませんが、記事や余剰苗の更新も「大安」「友引」「先勝の午前中」「先負の午後」に更新しています、。今月は「六輝」が上手く合わず、31日の午後更新になりました、。

11月のトップ画面は、京楽焼「五柳・菊花散らし紋・万年青鉢」です、。
横から画像の1の足の先に「繕い」が見られます、。「見好い繕い」だと感じます、。
楽焼鉢が作られ始めた江戸時代明暦年間の製造の鉢は、他の中国渡来の磁器や陶器の「花盆」と同様に分厚い鉢でした、。西暦1600年代後半と1700年代とはそのままの製法で伝わって来たのです、。江戸後期1800年代に入り、趣味者の栽培植物が小型化するに従って楽焼鉢も小型化し始め、明治時代初期の「小万年青」の流行と共に、根が腐りやすい万年青や蕙蘭の植生を考えに取り入れられ、徐々に鉢の肉厚は薄くなって行きます、。

「京楽焼鉢」銘品の大部分は明治時代の製作のもの、。平成と昭和と大正とを合わせて105年、明治元年は150年前の事になります、。
この肉厚の薄い楽焼鉢が今日までとにもかくにも残り伝わって来ているだけでも奇跡的です、。戦争も大地震も時代の変化も乗り越えて伝えられたのです、。「無傷完品」など望むべきもなく、多少の「傷」は古さの証だとエビアンは考えます、。骨董界や盆栽界では、「汚れ」を「時代」と呼び、「見好い傷」を「景色」と呼んで100年以上の風雪に耐えて伝わって来た品物を称えています、。

楽焼鉢の「傷」は「見好い繕い」を施してやって欲しいと願っています、。そして、その繕いを鉢と共に称えてやって欲しいものだと考えています、。「ひび割れや欠けや割れ」を「見なかった事にしよう」「何も無かった事にしよう」という風な「姑息な繕い」はむしろ鉢の価値を下げてしまいます、。
その意味で、今月掲載の鉢の「足の繕い」はこの鉢が大切にされて来た証でもあり、見好いと感じるのです、。

「台の鉢」は京都・短冊家製、。絵付けは「五柳寿運」、。
鉢の腰部分に描かれた雷紋の見事なイッチン裁き、思わず背筋が伸びて正座したくなるような段替わりの金の帯の描き方、。胴部分に散らした菊花紋と唐草紋の描き方、。台の鉢の作りの見事さ、。全て完璧です、。その上に以前の持ち主による愛情の籠った足先の繕いを見て、ホッとするのです、。繕い部分に上から唐草紋などを描き加えてない所を見ても、以前の所有者さんの愛情深さと骨董に対する考え方の正道を行く理解の深さが窺がえるのです、。


「鉢内側の白い丸印し」に関して、古典園芸界には2つの説があります、。
1つは、短冊家当代さんと愛知県陶磁博物館の主任研究員Sさんが言っている「箱詰めするのに20個に1個の割合で焼き色の色見をするために入れた焼き見の丸印」という意見、。
2つは、「五柳寿運」という絵師が居て、自分の絵付けした鉢には鉢の内掛け部分に丸印を入れた「五柳印し」という意見、。

1の意見では、「五柳寿運」は登場せず、萬年青界と蘭界とにそれぞれ1個存在する「五柳寿運」という手描きの署名の説明がつきません、。
風来記では現在までのところ、2つ目の「五柳マークである」という意見を支持する立場を取っています、。
学術的に真実がどうであれ、古典園芸界の商人が過去数十年間に渡って「五柳鉢」として丸印の無い鉢よりも高価に商って来た経緯があります、。今さら「丸印には意味がない」とは言えないでしょう、。


このことに関連して・・・
「ごりゅう」というのは「五柳」か「五龍」かという議論もあります、。
上に記したように、風来記は「五柳寿運」を名乗る絵師が存在した、という立場を取っています、。

ご存知の通り「五柳」というのは、4世紀末の中国重慶市の詩人「陶淵明」の別名または愛称「五柳先生」から取ったものだと思われます、。「五柳先生」を真似た漢詩(韻を踏んでないので陶淵明の漢詩ではないようだが)も描いてあります、。「五柳」だからいいんです、。風流味があっていいんです、。「五柳」を風流だと感じない人にはこれ以上何を言っても無駄でしょう、。

ヤクザの組の名前のような「五龍」という呼び名は、「五龍」と書いてある鉢が見つかったり、書物文献などによる証拠が出て来れば、その時に大いに議論すればいいのです、。
「五龍」をダサイと感じない分には「五柳」に馴染めと言っても無駄かもしれませんが、「南京大虐殺が中国のいうように実際に有ったか無かったかの問題」(当時の南京の総人口が20万人、どうやって30万人を虐殺するんだよ。南京市民が無かったと証言してるじゃないか。)や「従軍慰安婦の日本軍による強制連行があったか無かったかの問題」じゃないんだから、小さい業界の内部の問題なんだから、何時までも意地を張らずに「五柳寿運」に統一しませんか、。

エビアン自身は8年ほど前に書いた通り、歴史の昔に馬鹿が居て「ごりゅう」と耳で聞いて「五龍」と書き記し、それがそのまま伝わったのではないか と今でも思ってます、。


鉢内側の内掛け部分に丸印しのある鉢は、全部「五柳寿運」が描いた鉢なのか?、と問われれば、これは正直に言って「分からない」としか答えようがありません、。今のところ、丸印しがある鉢は全部「五柳鉢」と呼んでいます、。
確実に言える事は、「五柳鉢には30万円から350万円まで値幅がある」という事だけです、。
13cm×h12cm、。(飛田邦之氏所蔵)

<参考画像>「芳虎斎・五柳寿運」のサインのある万年青鉢、。
b0034163_17134581.jpg






# by evian_th | 2015-10-31 18:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
秋季柄物展示会2015                     No.546
d0103457_00092789.jpg
d0103457_00093444.jpg
d0103457_00094216.jpg
d0103457_00095492.jpg
d0103457_00115964.jpg
d0103457_00102861.jpg
◆2015年10月12日、。   東洋蘭春蘭秋季展示会2015


秋季展示会を開いた、。
画像上から4枚は「古鉢を使った席飾り」、5枚目は入賞品席、。
6枚目は交換会風景、。競り台は相生園芸、チラ検は三香園と京都蘭センター、補助は華幸園、。競り台の左3人は帳場、。


エビアンは昨年の秋季展で手痛い敗北感を味わったから、昨年の秋季展終了直後から今年のための用意に取り掛かり、飾り棚や敷き台を買ったりして敗北感のトラウマからの脱出を図ったのだたが、今年もまたダメだた、。どうにも垢抜けないんだもんなぁ、。他の席を見ると垢抜けていてイヤになるよ、。こういうのはセンスの問題だもんね、どうにもならないと思い知ったね、。エビアンは席飾りした人の中では最も年を食ってるのに、どうにもギトついてる、。駄目だわ、。

個別展示の最高賞の「大阪東洋蘭会会長賞」は「福富京楽堂蘭鉢」に植わった鈴木学氏の「娘子(アガシ)」、二席の「全国日本春蘭連合会会長賞」は吉野章氏の「湖亭」、。

良い展示会だった、。

エビアン自身は来年、再チャレンジする、。



d0103457_14262775.jpg

<展示会席飾り>
画像1枚目:四国有志三名様(山本瑛雄氏・伊藤勝美氏・住田幸弘氏)
画像2枚目:杉野達実様
画像3枚目:某エビアン
画像4枚目:立岩信彦様

出版社取材:園芸ジャパン誌・伝統園芸誌
協賛:ハイポネックスジャパン・愛楽園・伝統園芸・園芸ジャパン

---------------------------------------------------------------
個人名が出て不都合なお方様はご連絡ください、。
プライバシー問題や個人情報問題の関係もあり、風来記では過去10年間は個人名をあまり出さないようにして来ましたが、少し軌道修正します、。


加茂川真黒石(加茂黒)、銘:箕面の大滝
見た目よりは相当重い、。手に持った人が一様に「こんなに重いの、」て驚いてた、。これを粉末にして釉薬と混ぜ、鉢表面へ焼き付けて楽焼の素焼鉢を造る、。
d0103457_21520335.jpg


# by evian_th | 2015-10-21 01:49 | 東洋蘭春蘭展示会
秋季展示会2015 No.545
b0034163_15165462.jpg
◆2015年10月、。   秋季展示会案内


◆展示会情報は必ずしも開催日の早い順には並んでいませんのでご注意ください。


大阪東洋蘭会 2015年 秋季展示会
時:2015年10月11日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(駐車場は係員の指示に従ってください。)
◆古典楽焼鉢を使った席飾り。
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




全国日本春蘭連合会 春蘭展示大会(全春連)
時:2015年11月7日・8日、。
所:芝 弥生会館(東京都港区海岸1丁目)




全日本東洋蘭 秋季美術品評大会(全東連)
時:2015年10月22日・23日
所:東京蒲田 プラザアペア




花ごよみ 秋の蘭展
時:2015年10月9日~12日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)



東洋蘭総合大展示会
時:2015年10月16日17日18日
所:東京上野グリーンクラブ(クリック)



兵庫春蘭友の会 柄物展
時:2015年11月29日(11am~16pm)
所:相生園芸センター





# by evian_th | 2015-10-01 15:18 | 東洋蘭春蘭展示会
京楽焼武者絵万年青鉢                    No.544
b0034163_10390460.jpg

b0034163_10391114.jpg

b0034163_10391984.jpg
◆2015年10月、。   京楽焼万年青大鉢



「京楽焼万年青大鉢」、。
10月のトップ画面はこの鉢で行こうと決めて10月フォルダーへ入れてました、。画像を作る段になっていざ画像を詳しく見ると、鉢底画像と上から画像がないのは分っていましたが、横から画像も「1の足画像」しか無いのでした、。3枚とも1の足画像です、。この鉢の裏側にはどんな絵付けが施してあるのかも分かりません、。
横から画像1枚だけから判断できる情報はあまり多くはありません、。


「口径24センチ・高さ25センチ」という8寸の大鉢、。「台の鉢」はこれだけの大鉢となると重さも相当なもので、乾燥した完成品でもかなり重いのに、製作途中の陶土が湿った状態の時はどれほど重かったことか想像を絶します、。それにも拘らず、鉢ヘリが垂れ下がらず、鍔の先端部分の切れ味は鋭く全体の作りもしっかりしています、。足はこれほどの大鉢だとこういう形にならざるを得ず、短冊家の大鉢もこの足型です、。したがって、足の形から窯元を判断することは不可能です、。

「絵付けは大和絵の武者絵」、絵師は相当な腕前の人です、。イッチンで線は引けますが、面を塗りつぶす時はどういう風にしたのかは知りません、。細かく振るった陶土と顔料とを混ぜイッチン袋に入れて描くのですから筆描きよりも随分難しかったことでしょう、。
「浮田楽徳」や「五柳寿運」は狩野派大和絵師ですが、ほかにも浮世絵師・錦絵師など狩野派以外の絵師も多く、この鉢の絵師を特定することはできません、。

顔料の種類の多さなどから、鉢の製昨年は明治中後期の作と見られ、注文絵付けだったと思われます、。それらを総合して考えると、この鉢は「短冊家製の万年青鉢」だろうと思われます、。鉢の作りの上手さから他の窯元はチョッと考えられないのです、。短冊家ならこれくらいの絵付けもできたかも知れないと思います、。絵付けだけなら浮田楽徳も描けたでしょうけど鉢が楽徳鉢ではないし、五柳ならいくら何でも例の五柳マークを撮影したでしょうからね、。
「楽忠鉢」や「楽雅亭鉢」にならありますが、古京楽鉢で8寸の大鉢というのは見たことがありません、。絵付けも上手く、見応えのある鉢だと思います、。実物を見てみたいものです、。野田谷君存命時の上野グリーンクラブ展示品です、。(当時:栗塚光夫氏蔵)

まぁ、この横から画像1枚から分かることはその程度です、。





# by evian_th | 2015-10-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭・秋季展示会情報                    No.543
b0034163_17190772.jpg

◆2015年(平成27年)、東洋蘭・春蘭・秋季展示会情報


◆展示会情報は必ずしも開催日の早い順には並んでいませんのでご注意ください。



大阪東洋蘭会 2015年 秋季展示会
時:2015年10月11日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(駐車場は係員の指示に従ってください。)
◆古典楽焼鉢を使った席飾り。
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




全国日本春蘭連合会 春蘭展示大会(全春連)
時:2015年11月7日・8日、。
所:芝 弥生会館(東京都港区海岸1丁目)




全日本東洋蘭 秋季美術品評大会(全東連)
時:2015年10月22日・23日
所:東京蒲田 プラザアペア




花ごよみ 秋の蘭展
時:2015年10月9日~12日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




百喜千遊会 柄物展
時:2015年9月26日・27日
所:京都蘭センター(京都府綴喜郡宇治田原町郷之口田中19)






# by evian_th | 2015-09-01 17:19 | 東洋蘭春蘭展示会
京楽焼蘭鉢「8割がた大虎窯」                 No.544
b0034163_23024643.jpg

b0034163_23025631.jpg

b0034163_23030601.jpg

b0034163_23031316.jpg

b0034163_23032176.jpg

b0034163_23033156.jpg

b0034163_23033995.jpg

◆2015年9月、。   楽焼鉢蘭鉢「8割がた大虎窯製」


例年よりも早くから秋の雰囲気漂う9月の入りです。皆様方にはお元気に高温度の夏を乗り切られましたでしょうか、お見舞い申し上げます。



今月の鉢は「8割がた大虎窯製の蘭鉢」です、。

持ち主さんから画像を頂いた時には、チョッと見に「あ、佐々木松楽窯ね、」と思った鉢です、。
9月はこれで行こうと決めて風来記用に画像修正を進めると”あれ、おかしいぞ”となったのです、。
「佐々木松楽窯」にしては絵付けに吉兆の絵が見当たらずテーマ性が無い、。足の絵付けが「菊花に唐草紋」ではなく「牡丹図に唐草紋」である、足の作りが「大虎風」だ、と感じるようになったのです、。

「1の足」には「老松に止まる雄の孔雀図」、「2の足」「3の足」には正面に絵付けが無く、見せ場の絵付けは足と足の間に描いてある、と言う変則型、。描かれているのは「老松」「孔雀一対」「牡丹」の組み合わせです、。孔雀図自体が珍しい上に松や牡丹と組み合わせるところが珍しい鉢になっています、。
段替わりを全く取らない総絵付け、。明治後期から大正時代の製作だと思います、。

「8割がた大虎窯」と書いたのは、細い金泥のイッチンで縁取りする絵付けテクニックを施す絵師は三河鉢にも1ヶ所存在するから、と言う理由と、実物を触ってないので他の窯の可能性も2割程度残してのことです、。
口径12.8センチ、高さ16.7センチ。(飛田邦之氏蔵)



◆確たる証拠あっての話ではありませんが、「佐々木松楽窯の楽焼鉢の素焼鉢は外注だった、」と聞こえて来たことがあります、。今月の鉢を見た時に「あ、佐々木松楽ね、」とエビアンが感じてしまった所からすると、もし万一その噂が正しかったとするならば、「佐々木松楽窯」へ「素焼鉢(楽焼鉢で”素焼”と言う場合には加茂黒釉薬を施した黒楽鉢の段階を指す言葉です、)」を納めていたのは、地理的に見て「大虎窯」しかありません、。「短冊家」や「浮田楽徳」は「素焼」を売って他の窯元の下請け仕事のような事はしなかっただろうと思われるからです、。




# by evian_th | 2015-09-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢「8割がた福富京楽堂蘭鉢」               No.542
b0034163_15073131.jpg

b0034163_15074377.jpg

b0034163_15075140.jpg

b0034163_15075918.jpg

b0034163_15080663.jpg

◆2015年8月、。   古楽焼鉢「8割がた福富京楽堂蘭鉢」


この鉢画像を送って頂いてから、もう数年間経過します、。
「いい鉢だな」とは思いつつ、窯元判断ができないでいました、。「短冊屋かな」とか「京楽かな」とかと思ってしまうともうダメで、全く分からなくなってしまう鉢です、。
最下段5枚目の鉢底が見える画像だけを見ると、まぁ何とか「福富かな、」とは思えるのですが、それでも100%の自信は無く、これ以上は実物を手に取ってみないと判断は不可能です、。「鋏み痕」が胴なのか足なのかが分かれば多少は判断もし易いのですが、。
ともかく最近は迂闊に窯元名の断定はできなくなりました、。今までの方が「怖いもの知らず」で行けたのですが、。

「一の足」に描かれた「虫」は何でしょうね、。「蛾」なのか「蝶」なのか「ガチョウ」なのかはわかりませんが、上手くデザイン化され、それを取り囲むように「サッカーボール」に見えてしまう「(多分)花文様」が描かれています、。「鉢縁下」(はちべりした)の「雷紋」と「花」の間の「唐草紋?、蔦?、雲形?」とは古典の描き方をされています、。
「腰部分」の「虎革模様」のようなのは何を描いたものか、何を意味するのかは不明です、。

鉢質は硬そうなので、前の持ち主さんは結構使われたように見えるものの、鉢底画像を見ると案外そうでもなく、まったく惑わされる鉢です、。鉢底面には「轆轤挽きの糸切り痕」も見えません、。従って、製作年代の特定も不能です、。

窯元名や製作者も特定できないのに、これ以上はこの鉢に関しては書ける事もなく、今月は「ただ鉢画像をご覧頂く」だけに留めたいと思います、。
猛暑の最中、みなさんご自愛ください、。     (飛田邦之氏蔵)







# by evian_th | 2015-07-31 15:11 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢「浮田楽徳鉢」                    No.541
b0034163_01291483.jpg

d0103457_15294023.jpg

◆2015年7月、。   京楽焼「浮田楽徳鉢」


◆京楽焼鉢「浮田楽徳鉢」のルーツを求めて
と、大そうなタイトルを付けるほど大して新しい情報は何もないのだけど、なぜどうして浮田楽徳が幕末1861年に「狩野派絵師」から「植木鉢窯元」へと転身することになったのかを自分なりに納得したくて思いを馳せた、。

「浮田楽徳」は、戦国時代「豊臣五大老」の一人、「備前岡山64万石城主・宇喜多秀家」の七世の孫に当たる「幕末の狩野派絵師・浮田一蕙」の血縁者でほぼ間違いのないところでしょう、。
戦国時代には「宇喜多」と記し、その後の直系の血族を「浮田」と記したようです、。このことから「浮田楽徳」も「宇喜多秀家や一蕙の血縁者」だと判断できます、。

宇喜多秀家は西暦1600年、西軍の副将として「関ヶ原の戦」に敗れ、一時は逃れるも、囚われて「八丈島へ流刑」の身となりますが、加賀前田家から豪姫が嫁いでいる関係で前田家から絶大な支援を受け続けます、。
まぁ、我々「楽鉢愛好家視点」では、徳川幕府から徹底的に虐げられた家系の様子、。1616年・徳川家康の死後(今年は家康没後400年に当たる、)、刑が解かれ血縁者は江戸に移り、現在「浮田姓の人々」は八丈島・東京・京都・九州に住んで居られます、。「楽徳直系の人」を探したのですが、京都には居られないようです、。

幕末、京都の狩野派絵師の中でも、「討幕派」の家系ではあるし、狩野派は主流が「唐絵」を描くのに反して楽徳は「大和絵」を描くし、「家長の浮田一蕙」は安政の大獄の罪人だし、1859年に一蕙の死後は狩野派には居辛くなったのでしょうね、。1861年に窯を開いて「陶芸の道」へと進むことになります、。

「浮田楽徳」は1830年生まれ大正元年83歳で没します、。上画像の「腰部分」に描かれた「雲形」を楽焼鉢に描くのは「浮田楽徳」と「五柳寿運」だけだと思います、。(短冊家さんの鉢にも無いと思いますが、見落としがあるかも知れません。)
この「金絵具」による「雲形」を楽焼鉢に初めに描いたのが「浮田楽徳」だろうと思っています、。「五柳」もこの雲形を見事に描き、このことが以前からエビアンが「楽徳と五柳とは師弟関係だ」と言っている根拠となっています、。筆先に金絵具を付けて、サッサッサッと実に手馴れた様子で雲形を描くのはこの二人だけです、。

古典園芸界には「五柳鉢」は数十個存在しますが、中には怪しげな鉢もあり、この「雲形の描き方の手馴れ加減」で見るのも一つの見分けのポイントになるかも知れません、。
筆をトンッと入れた所が太い線になり、スッと細くなり、曲がり角でまた太くなるという風に筆跡にリズム感を感じさせるのが手馴れている証拠、。チリチリチリと同じ太さの線で雲形を恐る恐る描いた風なのは手馴れてない印しでしょう、。

話は前後しますが、「宇喜多姓の人々」が正式に赦免されるのは、「関ヶ原の戦」から270年も後の明治2年に明治政府によって赦免されたのですから、江戸時代270年間は宇喜多秀家直系の人達の無念は想像を絶します、。
まぁ、そういう中での「浮田楽徳」の独立だったのでしょうね、。徳川藩の支配する江戸へは行けない、大きい仕事は江戸狩野が全部請け負ってしまう、京都の狩野派に居て「大和絵」を描いていても先が見えない、京狩野は狩野山楽の直系が主流だ、といった心境だったのでしょう、。その無念さを胸に秘めこつこつと楽焼鉢絵付けに打ち込む姿が目に浮かびますし、作品に甘さ(妥協)が見られないのも「浮田楽徳鉢」の特徴だと感じます、。

みなさんが江戸時代の絵師(今ではテレビなどでは「江戸時代の大画家」などと言いますが、絵師です。)と聞いて思い浮かぶ名前の90%以上は「江戸の狩野派絵師」です、。長谷川等伯・狩野探幽・尾形光琳・俵屋宗達・丸山応挙・(まだ誰かたくさん抜けてるな)とかも皆なそうです、。
京都に居て、狩野派と言われながら、浮田姓の大和絵師、と来てはまともな仕事の依頼も来なかったことでしょう、。

(いつもながら、エビアンは下書きなどせずに、画像をアップした後に考えながらの文字打ちですから、文章が変で申し訳ありません、)、。

◆「浮田楽徳」は「浮田一蕙」の血縁者であること、。
◆「楽徳と五柳」とは師弟関係(または血縁)だということ、。
◆萬年青界が言っていたように、「楽焼鉢絵師」は「狩野派」の影響を受けていること、。(どころか、狩野派絵師そのものだった)、。


まぁ、この辺が最近エビアンが思っていることです、。(まだ何か書き忘れている気がする)




# by evian_th | 2015-07-29 01:30 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼風蘭鉢                          No.540
b0034163_00131385.jpg

b0034163_00132286.jpg

b0034163_00133242.jpg

b0034163_00134043.jpg

b0034163_00134760.jpg

◆2015年7月、。   楽焼鉢・風蘭鉢


◆東洋蘭鉢「風蘭鉢」(富貴蘭鉢)

東洋蘭風来記がトップ画面に「蘭鉢」の写真を使用し、この風来記ページに「東洋蘭の植木鉢」の記事を書き始めてから既に10年半を超える時間が経つのですが、「楽焼・風蘭鉢」を取り上げるのは、今回が初めてのことです、。
今まで掲載しなかった理由の内の最大のものは、「風蘭鉢という専用鉢が何時の時代から作られ始めたのか、」が明確ではなかったからという理由です、。

*注:違いましたですね、。昨年2014年12月20日、スレッドNo.528に「富貴蘭鉢」のことを書いていました、。今回の「風蘭鉢は紫金牛鉢の形の変化形」だということを書いてました、。訂正します、。すみません、。


「風蘭」は着生ランであって、栽培鉢も飾り鉢もその植生から発生したものではないところが「風蘭専用鉢」の必要性を無くして来たのだと思われます、。「蘭鉢」や「万年青鉢」が、その腐り易い根の性質を考慮しながら、昔から在った「楽焼植木鉢」の形を小さくしたり細くしたりと工夫を凝らした結果として栽培に最も適した形に行き付いた事とは、この点に於いて大きく違っています、。



(専門外なので詳しくは知りませんが) 「風蘭栽培の歴史」は、江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり、天明7年(1787年)~天保8年(1837年))ごろに人気が高まり、明治15年前後と昭和初期とにも人気が高まり、平成時代に入ってからの現在の人気に繋がっています、。*注:将軍家斉は風蘭を非常に愛玩したので、各地大名は風蘭の変化物を探し出しては競って将軍に献上した、。

「風蘭鉢」は江戸時代から明治時代には下に掲載の画像の「赤土瑠璃釉浮彫六角鉢」が主として用いられ、明治時代後期辺りからは楽焼鉢窯元で生産された「紫金牛鉢」(こうじばちを代用して来たもようです、。
「紫金牛鉢」では背が高過ぎると感じた旦那さんは窯元に「高さを縮めた紫金牛鉢」を個人的に注文した結果が今日に残る「古典の楽焼・風蘭鉢」なのだろうと思います、。ですから「古典風蘭鉢」は形が一定せず、高さはまちまち、形も胴体部分が膨らんだ袋式のもの、「鉢縁下」から曲線を描くように底部へ向かってすぼむ擂り鉢状のもの、「鉢縁下」から一旦直線状に垂直に下りて来て腰部分から丸みを帯びて底部へすぼまる鍋型のもの、など様々な形があり一定しません、。

◆「風蘭」は柄物が主体で、葉の柄模様を鑑賞するために鑑賞者は斜め上方から見下ろす姿勢で観賞するので、「背の低い楽焼・風蘭鉢」では胴部分の絵付けが鑑賞者には見えず、鍔(つば)の上辺を見下ろす形になりがちです、。「風蘭鉢」の悲劇その1です、。
◆「楽焼・風蘭鉢」は上に書いたように形が一定しませんが、共通する事柄として「絵付けを施す胴部分」の面積が狭く、複雑な絵や凝った絵付けを施しにくいという事もあります、。「風蘭鉢」の悲劇その2です、。
◆「風蘭栽培用土」は江戸時代から「山苔」や「水苔」が用いられ、蘭や万年青のように「京土(七条土)」は使用されなかったために「京土」の溶出による汚れ(時代乗り)が無く綺麗なままであること、。「楽焼鉢の汚れ」はある意味では「良さ」に通じるので、そこが乗りにくい、。「風蘭鉢」の悲劇その3です、。


このような事情から、最近の展示会ではある程度背の高い展示鉢が用いられることも多く、楽焼では「紫金牛鉢」「万年青鉢」「石斛鉢」などが使われているようです、。また、楽焼以外の「古典の京焼」「古典伊万里鉢」や最近のものでは「欅窯製品」も多用されます、。東洋蘭展示会や万年青展示会で欅窯を見ることはありませんが風蘭界では多く、この点は他の古典園芸界と違った風景です、。

「古典楽焼鉢の風蘭鉢」も、手に取ると惚れ惚れするほど良いものが多く、「短冊家製風蘭鉢」などは使い道のないエビアンでも「欲しいな」と思う程なのですが、肝心の富貴蘭愛好家が鉢には関心が薄いように見えるのは残念なことです、。


◆今月トップ画面に掲載の風蘭鉢は、(多分)福井楽印窯製「雲龍図富貴蘭鉢」です、。
見る人は、まずこの漫画チックな龍図を見てあっ気にとられることでしょう、。分かります、^^。なんしろ現代の日本人は「龍図」といえば「中国古典の龍の顔」と「狩野派絵師の手になる龍図」ばかりを「龍の顔」だと思ってしまっているところがあります、。龍は古代中国で考え出された想像上の生き物で、鳳凰・麒麟・亀と共に四瑞 のひとつ、。角は鹿、顔は駱駝(らくだ)、爪は鷹、を組み合わせられたもの、。吉祥紋です、。これをどのように描くかは絵師の自由であって正解はありません、。この鉢はユニークだと思いますよ、。
この鉢は「台の作り」がしっかりしていて、目を閉じて手で触れると「まるっきり短冊家」です、。土質は硬く、鉢角は鋭く尖り、持ち重りがあり、楽焼鉢としては非常に上出来物です、。この事と、口径0.1ミリほどの細い口金を使ったイッチン絵付けとから、この鉢は福井楽印製だろうと判断するのです、。明治後期ごろの製作、。                
                  (飛田邦之氏蔵)


b0034163_02151174.jpg

昭和初期に東京の風蘭愛好家・山崎天然氏が「紫金牛鉢の胴に万年青鉢の足」をデザインして窯元に作らせた「風蘭鉢」、。
b0034163_01431940.jpg


# by evian_th | 2015-06-30 00:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」「頂山鉢」                No.454
b0034163_0314933.jpg
b0034163_032619.jpg
b0034163_0321853.jpg

◆2012年8月、。   大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」

---------------------------------------------------------------------
◆風来記側の都合で、「大阪楽」の過去スレッドを上に上げます、。(2015年6月22日)
---------------------------------------------------------------------

「楽忠」赤土(中国風では紫泥または朱泥)六角瑠璃釉浮彫文鉢、。
「楽忠窯」は、楽家三代目道入(通称:のんこう)の弟・道楽(別名:忠右衛門)が明暦2年(1656年)に大阪堺に開いた窯で、主として生活雑貨を焼いた窯だったようです、。明治11年まで続きました、。

画像の「赤土六角瑠璃釉浮彫鉢」の形は、一般には「欽古堂亀祐型」と呼ばれる形状の鉢です、。江戸期の京焼の名工「欽古堂亀祐」(きんこどうきすけ・きんこどうかめすけ)に同じタイプの鉢が残っており、京焼の方が有名なのでそういう風に呼ばれたのだと思いますが、欽古堂亀佑は江戸時代・明和2年(1765年)生まれですから、この形を初めに作ったのが欽古堂亀祐が先か、欽古堂より100年以上も古い楽忠窯が先かは判然としません、。

楽焼鉢の表面に瑠璃釉の浮彫で花唐草文様をデザインし作り始めたのは「楽雅亭」や「楽忠」です、。
このデザインをそのまま「赤土六角鉢」に使うようになったのも「楽忠窯」の方ではないか、と考える方が自然です、。


では、京焼の有名な陶工であった欽古堂亀祐が大阪で作られたデザインを真似たのかと考えると、これもあり得ません、。京都が大阪のまねをする筈が無いからです、。
逆に、大阪の「楽忠窯」が京焼を真似たのかと考えると、これもまたあり得ない、。「楽家」本家血筋を引く「楽忠窯」が他の陶工のデザインを真似るとは考え難いからです、。


このタイプの鉢は「欽古堂亀祐窯」や「楽忠窯」の製品は数が少なく、最も多く製造したのは「頂山」落款の窯元と、無落款の窯元です、。


これらのことから導き出せる結論は一つ、。
「赤土六角瑠璃釉浮彫文鉢」は全て大阪で作られたのではないか、というものです、。


紀州徳川藩お庭焼き「偕楽園」を作るに当たって、徳川治宝が京焼の陶工を指導者として招いた事は過去スレに書きました、。
これら陶工が紀州に滞在したのは、数か月から1年未満ていどの期間で、その内の幾人かの陶工は、紀州偕楽園の帰途、大阪に寄り窯を開いたりしています、。この時に、この大阪焼きのデザインを試作したのではないかと考えるのです、。

次回掲載の「頂山」落款の鉢も、現在は「窯元や製作者不明の謎の京焼」という分類をされてますが、「京焼」は歴史的に詳しく調べられ、あれほど多くの作品を残した窯が「不明」というのは、いかにも不自然です、。

そもそも、この「赤黒茶色くきめの細かなチョコレートのような陶土が「京都産の京土」とは考えにくいのです、。「京土」にも赤土はあるにはあるのですが、もっと明るい桃色を含んだ色の土です、。
大阪南の堺市から南や東、貝塚市・岸和田市・和泉市・大阪狭山市、などの方面の陶土ではないかと思われます、。

------------------------------------------------------------

さて、大阪という所は、陶芸文化的に言うと日本最古の製作地なのです、。

5世紀の終わり雄略天皇の時に大阪府北部の豊能郡来狭狭村(くささむら)で天皇家の食器類を焼き始めました、。
一方、大阪南部の和泉の国大鳥群を初め、大阪狭山市から堺市・岸和田市・貝塚市などの地方の丘陵地帯には1000基以上の「須恵器」の窯跡が発掘調査されており(陶邑窯群・すえむらかま)、また北部の吹田市・豊中市の千里丘陵一帯にも多数の「須恵器」窯跡が見られ、発掘調査されています、。今ではそれらの調査結果に基づいて得られた情報を使って日本各地で発掘される「須恵器窯跡」の年代特定に用いられているほどです、。
行基焼という窯があり、日本で最初の「轆轤」(ロクロ)を使って陶器を焼いたのも和泉の国、つまり大阪なのです、。5世紀ごろから平安京の頃まで続きました、。

これらの「ロクロ」を使った「須恵器」製造の技術と、南部地方の「赤色陶土」とが後世になって出会った結果に生まれたのが「赤土瑠璃釉浮彫文鉢」ではないかとエビアンは想像しています、。

--------------------------------------------------------------

現在知られている大阪での陶磁器生産窯元は・・・(順序不同)

音羽焼、。・・・1627年~1883年(明治16年)、大阪府貝塚市堀新町で開窯、。陶器を焼いた、。
御室焼、。・・・和泉の国(関空のある方面)、別名・湊焼、。1818年~1870年、に開窯、。交趾風陶器、。一種の楽焼といえる焼き物を製造した、。京都の御室焼とは別、。
貝塚焼、。・・・和泉の国貝塚御坊願泉寺のお庭焼き、。
仁阿弥道八と、その実弟・尾形周平が紀州偕楽園に招かれた帰路、願泉寺住職・南冥上人のために興したお庭焼き、。偕楽園風の作品を作り、「吟花園製」「清月軒焼」と称した、。
吉向焼、。(亀甲焼とも)・・・1761年、大阪十三(じゅうそう・三十国船で京都伏見から数えて13番目の船着き場、)で開窯、。1861年没、。楽焼を焼いたらしい、。
玄斎焼、。・・・和泉の国堺で天正年間に開窯、。
高津焼、。・・・大阪高津で開窯、。難波近辺で焼いたので別名・難波焼とも、。
古曽部焼、。・・・摂津の国島上郡古曽部(高槻市古曽部)で1790年~1911年まで開窯、。高取・唐津・高麗・南蛮などの写しを制作した、。
堺焼、。・・・「楽忠窯」のこと、。
菱古山焼、。・・・1854年~1900年代初めまで開窯、。陶器を焼いた、。
桜井の里焼、。・・・三島郡島本町桜井で1782年~大正時代初期まで茶器を焼いた、。別名・楠公焼、。二代目・清水太左衛門清太の時、尾形周平が身を寄せ、多彩な作品を多く製作した、。
汐見焼、。・・・1830年頃の開窯、。堺の楽焼、。主として茶器を製造、。赤楽に白釉薬を掛け、茶人垂涎の的といわれる、。
半田焼、。・・・八田焼とも、。焙烙(ほうろく)を焼いた、。
吉田焼、。・・・江戸中期に興った大阪の楽焼の一種、。大阪市東区や枚方市で開窯、。
水間焼、。・・・貝塚市で開窯、。京焼の流れをくんだ窯、。
高槻焼、。・・・高槻市で永楽保全が晩年の短期間だけ磁器を焼いた、。1852年ごろの事、。
高原焼、。・・・摂津から大阪市内で窯を開き、楽焼風焼き物を製造、。
那古焼、。・・・1798年~1898年まで製造、。陶器、。


桃原、。・・・雄略天皇7年(西暦463年)、朝鮮半島人の進言により、その半島人自身が出向いて百済から高貴という名の陶工を連れて帰り、河内の国・桃原に窯を開いた、。これにより、百済の陶磁器製法が日本に伝わり、諸国の陶業がようやく始まった、。このことは、日本の各種技術は奈良県で始まったのに(過去スレNo.430(クリック))、なぜ陶業の中心が大阪であったのかの疑問の答えになる思う、。

◆「楽忠窯」は大阪堺市にあったのですが、「堺市」が陶業などで栄えたのは、摂津の国・和泉の国・河内の国の三国の境目に位置していたので「堺、」と呼ばれるようになり、漁港として、西日本の海運の拠点として、貿易港として非常に繁栄したからなのです、。
1868年(明治元年)に「大阪府」が誕生した時には、「堺」は大阪府には含まれませんでした、。その頃の「堺」は、和泉の国・河内の国・大和の国(現在の奈良県全域)をも含む「堺県」を形成し(明治4年)隆盛を極めていたからです、。(奈良県ができるのは明治20年のことです)、。

ね、こうして見て来ると、「大阪焼」は「京焼」よりも古く、窯元も多く、「頂山落款の鉢」も上記のどこかの窯で焼かれた可能性が非常に高いと思いませんか、。それを真似た「赤土瑠璃釉浮彫鉢」も多く大阪で作られた可能性がありますね、。
これがエビアンが「大阪焼」という陶芸分野の独立を進める所以です、。
(口径17.5センチ、高さ14センチ、。鉢所蔵:半田太氏)


「貝塚焼」の項と「桜井の里焼」の項に追記あり、。
「御庭焼き」の項目に追記あり、。
---------------------------------------------------

どうも、上品に書こうとすると本音を書けなくて、なんだか内容が理解し辛くなっているので、エビアンが感じていることを率直に書きますが、・・・

この「赤土瑠璃釉薬浮彫文六角鉢」には、「大・中・小の三つ組み」が存在したり、中型や小型の分の中には、「どう見ても型押しもの、」が存在したりするので、ある時期には相当大量に作られたデザインではないか、と思われます、。
「大量生産・大量販売」は、京都の商風じゃないと思うのです、。そこだけを見ても、「こりゃぁ大阪だな、」と感じてしまうのです、。
大阪堺は経済的に繁栄していて、こういうものの需要も相当多かったのだと思います、。「京都の商風」は、需要が多かろうと信念は曲げない、というか、「細く長く引っ張ろう、」という商風です、。「売れるなら売れる内にどんどん作れ、」というのは「大阪風」だな~、と感じています、。

---------------------------------------------------

江戸時代後期から幕末へかけて、各地大名が競って「お庭焼き」を開窯したので、京焼の陶工達はあちこちの窯へ指導に呼ばれたのと、自分からもあちこちへ出かけて行って陶工を指導し、自分の作品も残したのです、。
「紀州瑞芝焼」は奥田潁川の命により青木木米と永楽善五郎保全が出かけて窯を開いたものですし、「三田青磁」は欽古堂亀祐が開窯2年目から出かけて行って指導し再興したものです、。そういう時には欽古堂亀祐が作っても、地元に遠慮して自分の個人落款を押すことをしなかった場合も多いと聞きます、。
こういう風によく知られた窯だけでなく無名の窯へも出かけて行っていたのです、。ずっと京都に居座って作品を作っていたのではありません、。日本中のどこの地方に京焼の陶工の作品が残っていても不思議ではないのです、。
「お庭焼き」は、大名や大旦那や茶人が個人的に自分好みの作品を作ったもので、販売を目的としなかったために作品が広く知られることなく全国に眠っています、。

代表的な御庭焼、。
御庭焼に特に力を注いだのは「徳川御三家」です、。

尾州徳川家御庭焼「御深井焼」(おふけやき)
  「魁翆園焼」(かいすいえんやき)
紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」(かいらくえん)
  「清寧軒焼」(せいねいけんやき・治宝候の後、斎順候の御庭焼)
  「大福山焼」(御庭焼には含まれないかも知れないが、偕楽園を模した作品が作られた。)
  「瑞芝焼」(ずいしやき)
水戸徳川家御庭焼「後楽園焼」(こうらくえん)
  「三楽園焼」(江戸で焼いたもの)

その他、御庭焼として有名なものは・・・
「湖東焼」「三井御浜焼」「柳原焼」
などがあります、。

---------------------------------------------------

<旧国名>関西の旧国名地図、。「摂津の国」は現在の大阪府北部と兵庫県南東部を含みます、。「和泉の国」と「河内の国」は現在は大阪府南部に含まれます、。「大和の国」はほぼ現在の奈良県です、。「山城の国」は現在の京都府南部地方です、。
b0034163_0324985.jpg

# by evian_th | 2015-06-22 23:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



TOP写真風来記余剰苗掲示版リンク

Copyright(C) 2005 東洋蘭風来記 All rights reserved.