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楽焼鉢「浮田楽徳鉢」                    No.541
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◆2015年7月、。   京楽焼「浮田楽徳鉢」


◆京楽焼鉢「浮田楽徳鉢」のルーツを求めて
と、大そうなタイトルを付けるほど大して新しい情報は何もないのだけど、なぜどうして浮田楽徳が幕末1861年に「狩野派絵師」から「植木鉢窯元」へと転身することになったのかを自分なりに納得したくて思いを馳せた、。

「浮田楽徳」は、戦国時代「豊臣五大老」の一人、「備前岡山64万石城主・宇喜多秀家」の七世の孫に当たる「幕末の狩野派絵師・浮田一蕙」の血縁者でほぼ間違いのないところでしょう、。
戦国時代には「宇喜多」と記し、その後の直系の血族を「浮田」と記したようです、。このことから「浮田楽徳」も「宇喜多秀家や一蕙の血縁者」だと判断できます、。

宇喜多秀家は西暦1600年、西軍の副将として「関ヶ原の戦」に敗れ、一時は逃れるも、囚われて「八丈島へ流刑」の身となりますが、加賀前田家から豪姫が嫁いでいる関係で前田家から絶大な支援を受け続けます、。
まぁ、我々「楽鉢愛好家視点」では、徳川幕府から徹底的に虐げられた家系の様子、。1616年・徳川家康の死後(今年は家康没後400年に当たる、)、刑が解かれ血縁者は江戸に移り、現在「浮田姓の人々」は八丈島・東京・京都・九州に住んで居られます、。「楽徳直系の人」を探したのですが、京都には居られないようです、。

幕末、京都の狩野派絵師の中でも、「討幕派」の家系ではあるし、狩野派は主流が「唐絵」を描くのに反して楽徳は「大和絵」を描くし、「家長の浮田一蕙」は安政の大獄の罪人だし、1859年に一蕙の死後は狩野派には居辛くなったのでしょうね、。1861年に窯を開いて「陶芸の道」へと進むことになります、。

「浮田楽徳」は1830年生まれ大正元年83歳で没します、。上画像の「腰部分」に描かれた「雲形」を楽焼鉢に描くのは「浮田楽徳」と「五柳寿運」だけだと思います、。(短冊家さんの鉢にも無いと思いますが、見落としがあるかも知れません。)
この「金絵具」による「雲形」を楽焼鉢に初めに描いたのが「浮田楽徳」だろうと思っています、。「五柳」もこの雲形を見事に描き、このことが以前からエビアンが「楽徳と五柳とは師弟関係だ」と言っている根拠となっています、。筆先に金絵具を付けて、サッサッサッと実に手馴れた様子で雲形を描くのはこの二人だけです、。

古典園芸界には「五柳鉢」は数十個存在しますが、中には怪しげな鉢もあり、この「雲形の描き方の手馴れ加減」で見るのも一つの見分けのポイントになるかも知れません、。
筆をトンッと入れた所が太い線になり、スッと細くなり、曲がり角でまた太くなるという風に筆跡にリズム感を感じさせるのが手馴れている証拠、。チリチリチリと同じ太さの線で雲形を恐る恐る描いた風なのは手馴れてない印しでしょう、。

話は前後しますが、「宇喜多姓の人々」が正式に赦免されるのは、「関ヶ原の戦」から270年も後の明治2年に明治政府によって赦免されたのですから、江戸時代270年間は宇喜多秀家直系の人達の無念は想像を絶します、。
まぁ、そういう中での「浮田楽徳」の独立だったのでしょうね、。徳川藩の支配する江戸へは行けない、大きい仕事は江戸狩野が全部請け負ってしまう、京都の狩野派に居て「大和絵」を描いていても先が見えない、京狩野は狩野山楽の直系が主流だ、といった心境だったのでしょう、。その無念さを胸に秘めこつこつと楽焼鉢絵付けに打ち込む姿が目に浮かびますし、作品に甘さ(妥協)が見られないのも「浮田楽徳鉢」の特徴だと感じます、。

みなさんが江戸時代の絵師(今ではテレビなどでは「江戸時代の大画家」などと言いますが、絵師です。)と聞いて思い浮かぶ名前の90%以上は「江戸の狩野派絵師」です、。長谷川等伯・狩野探幽・尾形光琳・俵屋宗達・丸山応挙・(まだ誰かたくさん抜けてるな)とかも皆なそうです、。
京都に居て、狩野派と言われながら、浮田姓の大和絵師、と来てはまともな仕事の依頼も来なかったことでしょう、。

(いつもながら、エビアンは下書きなどせずに、画像をアップした後に考えながらの文字打ちですから、文章が変で申し訳ありません、)、。

◆「浮田楽徳」は「浮田一蕙」の血縁者であること、。
◆「楽徳と五柳」とは師弟関係(または血縁)だということ、。
◆萬年青界が言っていたように、「楽焼鉢絵師」は「狩野派」の影響を受けていること、。(どころか、狩野派絵師そのものだった)、。


まぁ、この辺が最近エビアンが思っていることです、。(まだ何か書き忘れている気がする)




# by evian_th | 2015-07-29 01:30 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼風蘭鉢                          No.540
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◆2015年7月、。   楽焼鉢・風蘭鉢


◆東洋蘭鉢「風蘭鉢」(富貴蘭鉢)

東洋蘭風来記がトップ画面に「蘭鉢」の写真を使用し、この風来記ページに「東洋蘭の植木鉢」の記事を書き始めてから既に10年半を超える時間が経つのですが、「楽焼・風蘭鉢」を取り上げるのは、今回が初めてのことです、。
今まで掲載しなかった理由の内の最大のものは、「風蘭鉢という専用鉢が何時の時代から作られ始めたのか、」が明確ではなかったからという理由です、。

*注:違いましたですね、。昨年2014年12月20日、スレッドNo.528に「富貴蘭鉢」のことを書いていました、。今回の「風蘭鉢は紫金牛鉢の形の変化形」だということを書いてました、。訂正します、。すみません、。


「風蘭」は着生ランであって、栽培鉢も飾り鉢もその植生から発生したものではないところが「風蘭専用鉢」の必要性を無くして来たのだと思われます、。「蘭鉢」や「万年青鉢」が、その腐り易い根の性質を考慮しながら、昔から在った「楽焼植木鉢」の形を小さくしたり細くしたりと工夫を凝らした結果として栽培に最も適した形に行き付いた事とは、この点に於いて大きく違っています、。



(専門外なので詳しくは知りませんが) 「風蘭栽培の歴史」は、江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり、天明7年(1787年)~天保8年(1837年))ごろに人気が高まり、明治15年前後と昭和初期とにも人気が高まり、平成時代に入ってからの現在の人気に繋がっています、。*注:将軍家斉は風蘭を非常に愛玩したので、各地大名は風蘭の変化物を探し出しては競って将軍に献上した、。

「風蘭鉢」は江戸時代から明治時代には下に掲載の画像の「赤土瑠璃釉浮彫六角鉢」が主として用いられ、明治時代後期辺りからは楽焼鉢窯元で生産された「紫金牛鉢」(こうじばちを代用して来たもようです、。
「紫金牛鉢」では背が高過ぎると感じた旦那さんは窯元に「高さを縮めた紫金牛鉢」を個人的に注文した結果が今日に残る「古典の楽焼・風蘭鉢」なのだろうと思います、。ですから「古典風蘭鉢」は形が一定せず、高さはまちまち、形も胴体部分が膨らんだ袋式のもの、「鉢縁下」から曲線を描くように底部へ向かってすぼむ擂り鉢状のもの、「鉢縁下」から一旦直線状に垂直に下りて来て腰部分から丸みを帯びて底部へすぼまる鍋型のもの、など様々な形があり一定しません、。

◆「風蘭」は柄物が主体で、葉の柄模様を鑑賞するために鑑賞者は斜め上方から見下ろす姿勢で観賞するので、「背の低い楽焼・風蘭鉢」では胴部分の絵付けが鑑賞者には見えず、鍔(つば)の上辺を見下ろす形になりがちです、。「風蘭鉢」の悲劇その1です、。
◆「楽焼・風蘭鉢」は上に書いたように形が一定しませんが、共通する事柄として「絵付けを施す胴部分」の面積が狭く、複雑な絵や凝った絵付けを施しにくいという事もあります、。「風蘭鉢」の悲劇その2です、。
◆「風蘭栽培用土」は江戸時代から「山苔」や「水苔」が用いられ、蘭や万年青のように「京土(七条土)」は使用されなかったために「京土」の溶出による汚れ(時代乗り)が無く綺麗なままであること、。「楽焼鉢の汚れ」はある意味では「良さ」に通じるので、そこが乗りにくい、。「風蘭鉢」の悲劇その3です、。


このような事情から、最近の展示会ではある程度背の高い展示鉢が用いられることも多く、楽焼では「紫金牛鉢」「万年青鉢」「石斛鉢」などが使われているようです、。また、楽焼以外の「古典の京焼」「古典伊万里鉢」や最近のものでは「欅窯製品」も多用されます、。東洋蘭展示会や万年青展示会で欅窯を見ることはありませんが風蘭界では多く、この点は他の古典園芸界と違った風景です、。

「古典楽焼鉢の風蘭鉢」も、手に取ると惚れ惚れするほど良いものが多く、「短冊家製風蘭鉢」などは使い道のないエビアンでも「欲しいな」と思う程なのですが、肝心の富貴蘭愛好家が鉢には関心が薄いように見えるのは残念なことです、。


◆今月トップ画面に掲載の風蘭鉢は、(多分)福井楽印窯製「雲龍図富貴蘭鉢」です、。
見る人は、まずこの漫画チックな龍図を見てあっ気にとられることでしょう、。分かります、^^。なんしろ現代の日本人は「龍図」といえば「中国古典の龍の顔」と「狩野派絵師の手になる龍図」ばかりを「龍の顔」だと思ってしまっているところがあります、。龍は古代中国で考え出された想像上の生き物で、鳳凰・麒麟・亀と共に四瑞 のひとつ、。角は鹿、顔は駱駝(らくだ)、爪は鷹、を組み合わせられたもの、。吉祥紋です、。これをどのように描くかは絵師の自由であって正解はありません、。この鉢はユニークだと思いますよ、。
この鉢は「台の作り」がしっかりしていて、目を閉じて手で触れると「まるっきり短冊家」です、。土質は硬く、鉢角は鋭く尖り、持ち重りがあり、楽焼鉢としては非常に上出来物です、。この事と、口径0.1ミリほどの細い口金を使ったイッチン絵付けとから、この鉢は福井楽印製だろうと判断するのです、。明治後期ごろの製作、。                
                  (飛田邦之氏蔵)


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昭和初期に東京の風蘭愛好家・山崎天然氏が「紫金牛鉢の胴に万年青鉢の足」をデザインして窯元に作らせた「風蘭鉢」、。
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# by evian_th | 2015-06-30 00:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」「頂山鉢」                No.454
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◆2012年8月、。   大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」

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◆風来記側の都合で、「大阪楽」の過去スレッドを上に上げます、。(2015年6月22日)
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「楽忠」赤土(中国風では紫泥または朱泥)六角瑠璃釉浮彫文鉢、。
「楽忠窯」は、楽家三代目道入(通称:のんこう)の弟・道楽(別名:忠右衛門)が明暦2年(1656年)に大阪堺に開いた窯で、主として生活雑貨を焼いた窯だったようです、。明治11年まで続きました、。

画像の「赤土六角瑠璃釉浮彫鉢」の形は、一般には「欽古堂亀祐型」と呼ばれる形状の鉢です、。江戸期の京焼の名工「欽古堂亀祐」(きんこどうきすけ・きんこどうかめすけ)に同じタイプの鉢が残っており、京焼の方が有名なのでそういう風に呼ばれたのだと思いますが、欽古堂亀佑は江戸時代・明和2年(1765年)生まれですから、この形を初めに作ったのが欽古堂亀祐が先か、欽古堂より100年以上も古い楽忠窯が先かは判然としません、。

楽焼鉢の表面に瑠璃釉の浮彫で花唐草文様をデザインし作り始めたのは「楽雅亭」や「楽忠」です、。
このデザインをそのまま「赤土六角鉢」に使うようになったのも「楽忠窯」の方ではないか、と考える方が自然です、。


では、京焼の有名な陶工であった欽古堂亀祐が大阪で作られたデザインを真似たのかと考えると、これもあり得ません、。京都が大阪のまねをする筈が無いからです、。
逆に、大阪の「楽忠窯」が京焼を真似たのかと考えると、これもまたあり得ない、。「楽家」本家血筋を引く「楽忠窯」が他の陶工のデザインを真似るとは考え難いからです、。


このタイプの鉢は「欽古堂亀祐窯」や「楽忠窯」の製品は数が少なく、最も多く製造したのは「頂山」落款の窯元と、無落款の窯元です、。


これらのことから導き出せる結論は一つ、。
「赤土六角瑠璃釉浮彫文鉢」は全て大阪で作られたのではないか、というものです、。


紀州徳川藩お庭焼き「偕楽園」を作るに当たって、徳川治宝が京焼の陶工を指導者として招いた事は過去スレに書きました、。
これら陶工が紀州に滞在したのは、数か月から1年未満ていどの期間で、その内の幾人かの陶工は、紀州偕楽園の帰途、大阪に寄り窯を開いたりしています、。この時に、この大阪焼きのデザインを試作したのではないかと考えるのです、。

次回掲載の「頂山」落款の鉢も、現在は「窯元や製作者不明の謎の京焼」という分類をされてますが、「京焼」は歴史的に詳しく調べられ、あれほど多くの作品を残した窯が「不明」というのは、いかにも不自然です、。

そもそも、この「赤黒茶色くきめの細かなチョコレートのような陶土が「京都産の京土」とは考えにくいのです、。「京土」にも赤土はあるにはあるのですが、もっと明るい桃色を含んだ色の土です、。
大阪南の堺市から南や東、貝塚市・岸和田市・和泉市・大阪狭山市、などの方面の陶土ではないかと思われます、。

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さて、大阪という所は、陶芸文化的に言うと日本最古の製作地なのです、。

5世紀の終わり雄略天皇の時に大阪府北部の豊能郡来狭狭村(くささむら)で天皇家の食器類を焼き始めました、。
一方、大阪南部の和泉の国大鳥群を初め、大阪狭山市から堺市・岸和田市・貝塚市などの地方の丘陵地帯には1000基以上の「須恵器」の窯跡が発掘調査されており(陶邑窯群・すえむらかま)、また北部の吹田市・豊中市の千里丘陵一帯にも多数の「須恵器」窯跡が見られ、発掘調査されています、。今ではそれらの調査結果に基づいて得られた情報を使って日本各地で発掘される「須恵器窯跡」の年代特定に用いられているほどです、。
行基焼という窯があり、日本で最初の「轆轤」(ロクロ)を使って陶器を焼いたのも和泉の国、つまり大阪なのです、。5世紀ごろから平安京の頃まで続きました、。

これらの「ロクロ」を使った「須恵器」製造の技術と、南部地方の「赤色陶土」とが後世になって出会った結果に生まれたのが「赤土瑠璃釉浮彫文鉢」ではないかとエビアンは想像しています、。

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現在知られている大阪での陶磁器生産窯元は・・・(順序不同)

音羽焼、。・・・1627年~1883年(明治16年)、大阪府貝塚市堀新町で開窯、。陶器を焼いた、。
御室焼、。・・・和泉の国(関空のある方面)、別名・湊焼、。1818年~1870年、に開窯、。交趾風陶器、。一種の楽焼といえる焼き物を製造した、。京都の御室焼とは別、。
貝塚焼、。・・・和泉の国貝塚御坊願泉寺のお庭焼き、。
仁阿弥道八と、その実弟・尾形周平が紀州偕楽園に招かれた帰路、願泉寺住職・南冥上人のために興したお庭焼き、。偕楽園風の作品を作り、「吟花園製」「清月軒焼」と称した、。
吉向焼、。(亀甲焼とも)・・・1761年、大阪十三(じゅうそう・三十国船で京都伏見から数えて13番目の船着き場、)で開窯、。1861年没、。楽焼を焼いたらしい、。
玄斎焼、。・・・和泉の国堺で天正年間に開窯、。
高津焼、。・・・大阪高津で開窯、。難波近辺で焼いたので別名・難波焼とも、。
古曽部焼、。・・・摂津の国島上郡古曽部(高槻市古曽部)で1790年~1911年まで開窯、。高取・唐津・高麗・南蛮などの写しを制作した、。
堺焼、。・・・「楽忠窯」のこと、。
菱古山焼、。・・・1854年~1900年代初めまで開窯、。陶器を焼いた、。
桜井の里焼、。・・・三島郡島本町桜井で1782年~大正時代初期まで茶器を焼いた、。別名・楠公焼、。二代目・清水太左衛門清太の時、尾形周平が身を寄せ、多彩な作品を多く製作した、。
汐見焼、。・・・1830年頃の開窯、。堺の楽焼、。主として茶器を製造、。赤楽に白釉薬を掛け、茶人垂涎の的といわれる、。
半田焼、。・・・八田焼とも、。焙烙(ほうろく)を焼いた、。
吉田焼、。・・・江戸中期に興った大阪の楽焼の一種、。大阪市東区や枚方市で開窯、。
水間焼、。・・・貝塚市で開窯、。京焼の流れをくんだ窯、。
高槻焼、。・・・高槻市で永楽保全が晩年の短期間だけ磁器を焼いた、。1852年ごろの事、。
高原焼、。・・・摂津から大阪市内で窯を開き、楽焼風焼き物を製造、。
那古焼、。・・・1798年~1898年まで製造、。陶器、。


桃原、。・・・雄略天皇7年(西暦463年)、朝鮮半島人の進言により、その半島人自身が出向いて百済から高貴という名の陶工を連れて帰り、河内の国・桃原に窯を開いた、。これにより、百済の陶磁器製法が日本に伝わり、諸国の陶業がようやく始まった、。このことは、日本の各種技術は奈良県で始まったのに(過去スレNo.430(クリック))、なぜ陶業の中心が大阪であったのかの疑問の答えになる思う、。

◆「楽忠窯」は大阪堺市にあったのですが、「堺市」が陶業などで栄えたのは、摂津の国・和泉の国・河内の国の三国の境目に位置していたので「堺、」と呼ばれるようになり、漁港として、西日本の海運の拠点として、貿易港として非常に繁栄したからなのです、。
1868年(明治元年)に「大阪府」が誕生した時には、「堺」は大阪府には含まれませんでした、。その頃の「堺」は、和泉の国・河内の国・大和の国(現在の奈良県全域)をも含む「堺県」を形成し(明治4年)隆盛を極めていたからです、。(奈良県ができるのは明治20年のことです)、。

ね、こうして見て来ると、「大阪焼」は「京焼」よりも古く、窯元も多く、「頂山落款の鉢」も上記のどこかの窯で焼かれた可能性が非常に高いと思いませんか、。それを真似た「赤土瑠璃釉浮彫鉢」も多く大阪で作られた可能性がありますね、。
これがエビアンが「大阪焼」という陶芸分野の独立を進める所以です、。
(口径17.5センチ、高さ14センチ、。鉢所蔵:半田太氏)


「貝塚焼」の項と「桜井の里焼」の項に追記あり、。
「御庭焼き」の項目に追記あり、。
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どうも、上品に書こうとすると本音を書けなくて、なんだか内容が理解し辛くなっているので、エビアンが感じていることを率直に書きますが、・・・

この「赤土瑠璃釉薬浮彫文六角鉢」には、「大・中・小の三つ組み」が存在したり、中型や小型の分の中には、「どう見ても型押しもの、」が存在したりするので、ある時期には相当大量に作られたデザインではないか、と思われます、。
「大量生産・大量販売」は、京都の商風じゃないと思うのです、。そこだけを見ても、「こりゃぁ大阪だな、」と感じてしまうのです、。
大阪堺は経済的に繁栄していて、こういうものの需要も相当多かったのだと思います、。「京都の商風」は、需要が多かろうと信念は曲げない、というか、「細く長く引っ張ろう、」という商風です、。「売れるなら売れる内にどんどん作れ、」というのは「大阪風」だな~、と感じています、。

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江戸時代後期から幕末へかけて、各地大名が競って「お庭焼き」を開窯したので、京焼の陶工達はあちこちの窯へ指導に呼ばれたのと、自分からもあちこちへ出かけて行って陶工を指導し、自分の作品も残したのです、。
「紀州瑞芝焼」は奥田潁川の命により青木木米と永楽善五郎保全が出かけて窯を開いたものですし、「三田青磁」は欽古堂亀祐が開窯2年目から出かけて行って指導し再興したものです、。そういう時には欽古堂亀祐が作っても、地元に遠慮して自分の個人落款を押すことをしなかった場合も多いと聞きます、。
こういう風によく知られた窯だけでなく無名の窯へも出かけて行っていたのです、。ずっと京都に居座って作品を作っていたのではありません、。日本中のどこの地方に京焼の陶工の作品が残っていても不思議ではないのです、。
「お庭焼き」は、大名や大旦那や茶人が個人的に自分好みの作品を作ったもので、販売を目的としなかったために作品が広く知られることなく全国に眠っています、。

代表的な御庭焼、。
御庭焼に特に力を注いだのは「徳川御三家」です、。

尾州徳川家御庭焼「御深井焼」(おふけやき)
  「魁翆園焼」(かいすいえんやき)
紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」(かいらくえん)
  「清寧軒焼」(せいねいけんやき・治宝候の後、斎順候の御庭焼)
  「大福山焼」(御庭焼には含まれないかも知れないが、偕楽園を模した作品が作られた。)
  「瑞芝焼」(ずいしやき)
水戸徳川家御庭焼「後楽園焼」(こうらくえん)
  「三楽園焼」(江戸で焼いたもの)

その他、御庭焼として有名なものは・・・
「湖東焼」「三井御浜焼」「柳原焼」
などがあります、。

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<旧国名>関西の旧国名地図、。「摂津の国」は現在の大阪府北部と兵庫県南東部を含みます、。「和泉の国」と「河内の国」は現在は大阪府南部に含まれます、。「大和の国」はほぼ現在の奈良県です、。「山城の国」は現在の京都府南部地方です、。
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# by evian_th | 2015-06-22 23:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
2015年・富貴蘭展                      No.539
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◆2015年     富貴蘭展示会案内




花ごよみ 夏の蘭展
時:2015年6月26日~29日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2015年7月5日(11am~16pm)
所:相生園芸センター




三香園 富貴蘭展
時:2015年7月4日・5日
所:三香園




# by evian_th | 2015-06-19 22:18 | 東洋蘭春蘭展示会
第3回・華幸園展示即売会                   NO.538
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◆2015年6月、。   第3回・華幸園展示即売会


急な話なのだけど、四国の華幸園さんが「第3回・華幸園展」を開催されることが決まったらしい、。
ごく一部の人は別にして、こういう「古典植木鉢」を見せて貰える機会は少ないんだから、拝見して目に貯金しておくことは無駄にはならない、。何といっても、実物を見ない事にはね、。目の肥やしになると思います、。




花ごよみ 夏の蘭展
時:2015年6月26日~29日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)



兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2015年7月5日(11am~16pm)
所:相生園芸センター




三香園 富貴蘭展
時:2015年7月4日・5日
所:三香園




# by evian_th | 2015-06-03 13:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼・佐々木松楽鉢                     No.537
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◆2015年6月、。   京楽焼・佐々木松楽・花鳥紋鉢


◆6月の植木鉢は、京楽焼・佐々木松楽窯製の「花鳥図鉢」、。
「佐々木松楽窯」は、明治後期の明治38年の開窯、。
元は「錦絵師」(錦絵というのは浮世絵の絵師のこと、)だった佐々木吉之介が「龍の置物」を作った事が始まりの製陶所、。清水寺門前に窯を開き、昭和19年に現在の京都府亀岡市へ窯を移し今に至っています、。
現在は4代目で茶道具専門窯元になっていますが、初代と二代目までは「楽焼鉢」を焼きました、。これらは、過去スレに(奥部屋にも)書いた通りです、。

風来記No.514「佐々木松楽窯」(クリックで表示)

◆一昨年2013年秋、京都の丸山健氏によって短冊家当代から聞き出して頂いた情報に基づき「短冊家・浮田楽徳」以外の3窯「佐々木松楽・大虎・福井楽印」の名前が判明しました、。その情報を元に1年間考えを纏め古書籍等から研究して来て、昨年2014年6月に突然判明した窯元です、。主として「能や浄瑠璃」からテーマを取る事が多く、「目出度い絵付け、」を得意とします、。楽焼鉢では「万年青鉢」の製造を主とし、「蘭鉢」も少しはあるようです、。「佐々木松楽窯」に関する情報は、エビアンが直接「佐々木松楽窯の当代」と話をし、お聞きした内容です、。佐々木家には「萬年青が大流行すれば万年青鉢を造れ、」という家訓が伝わっているともお聞きしました、。

足の絵付けに特徴があり、「菊花紋の周囲に緑色の葉」を描き、外側を金泥イッチンの唐草紋で囲みます、。
元々が「絵師」の出身ですから絵付けは非常に上手く、京都にある窯元でありながらも京都の伝統紋様に縛られることなく、自分でテーマを探し出しての絵付けを施しました、。この点は、同じように「京狩野・大和絵派」の出身の絵師から転身した「浮田楽徳窯」とはテーマ性に於いて大きく違うところです、。「浮田楽徳」は京都の西陣や友禅など着物界に伝わる伝統紋様を忠実に踏襲した作品を得意としました、。(大虎窯も浮田楽徳窯の同系の窯だと、今の所エビアンは考えています)、。

◆「佐々木松楽窯」にしろ「浮田楽徳窯」にしろ、元は「絵師」の身であり、「絵付け」を得意とした窯元なので、「台となる素焼鉢」は言わば「目的の絵を描くためのキャンバスに過ぎない」わけですから、台の鉢の作りは「陶工出身の窯元の製品」には鉢質の硬さの点において敵いません、。
「絵師出身の窯元製品」は柔らかくニュウが入り易いのです、。恐らく、初めの陶土の練り込み段階での空気抜きが不完全で、陶土に空気が多く残っている状態で素焼鉢の製作に掛かってしまったのでしょう、。陶工出身窯では練り込みに多大の時間を掛け、一度練り込んだ陶土を更に寝かせたりします、。
「ニュウ」があることは陶磁器としては勿論大きい欠点ではありますが、この事が窯元判断の決め手の一つでもあるので、特徴とも言えると思っています、。

同じようなことは、江戸後期の「京焼界」の製品にも当て嵌まります、。、奥田頴川門下の欽古堂亀祐・中川嘉介(三文字屋嘉助(加介)・青木木米等の1830年頃の「交趾写し」の陶器も、釉薬(この場合はウワグスリ)と下地の陶器との接着が完全ではなく、「釉薬が剥がれ落ち易い」のです、。
従って、この時代の名工の作品には釉薬が剥がれ落ちた作品が多く、これが「本物であること、」の大きな目安となります、。剥げ落ちた部分に「漆繕い」や「金繕い」を施しても構いませんが、「まるで無かった事」のように「剥がれが見えないよう」に補修してしまってはいけません、。

◆さて、今月のトップ画面の鉢は「佐々木松楽窯」の作品ですが、2つの疑問があります、。
1、これは何鉢であろうか
2、主役として描かれている鳥は何鳥であろうか
・・・という点です、。

鉢は時代乗りから見て初代の作と思われ、明治後期の製造でしょう、。その頃の京都ではどんな園芸植物が流行っていたのかが不明なのです、。鉢の大きさは、口径22センチ、高さ15センチの鍋型です、。「福寿草」などでしょうかねぇ、。
一の足に描かれた鳥は、頭頂部に鶏冠(とさか)が見られないので「鳳凰」ではないようです、。羽が青色ではないので「雉」でもない、雉のメスかも知れないけれど、。「山鳥」あたりでしょうか、。耳のようなものがありますね、。

他の小鳥も写実的に描かれ、下草には「小菊」、上からは「楓(?)」(桐の葉のようでもあるけど)、小菊の中に「亀」が居て、これも「佐々木松楽」の得意の絵付けです、。腰部分下部には鋸歯紋に菊花、。
全体的に見て、絵のテーマ、色使い、絵具の種類、など「佐々木松楽」の持ち味を充分に発揮した銘品だと思います、。(西口郁夫氏蔵)


最近のエビアンは、「京楽焼」に「第六番目の窯」があるのではないかと考えています、。「京楽5窯」には分類できない鉢の存在が頭から消えないからです、。京楽五窯に当て嵌めようと思ってみるのですが、どうにも無理があってね、。「京楽鉢」もまだまだ奥深い、。

最近は御常連の中の若い東洋蘭愛好家が時々楽焼鉢を買って下さる、。鉢は若い頃から始めた方がいいから歓迎すべき傾向だと思ってます、。エビアンが無言の抵抗圧力を受けながら進めて来た「楽焼鉢の研究」だからね、ようやくここまで判明したのを将来的に引き継いでくださる「鉢数寄」が出て来ることは大いに喜ばしいと思ってます、。鉢は所有してみないとね、理解できない部分も多いものだから、。





# by evian_th | 2015-05-31 19:00 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
楽焼万年青鉢                         No.536
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◆2015年5月、。   楽焼万年青鉢


明るく暖かい初夏の気候に誘われて、華やかな鉢を掲載したくなりました、。「楽焼万年青鉢」、。
「御所車に白鶴図」、。
この鉢画像は随分前からもらっていたのに使えなかったのは、この鉢の正体が判明しなかったからです、。白状すると、今も分からないのです、。

製作された年代は、製法と土目・顔料などから、明治後期(明治30年)~大正~昭和初期までの45年間のどこかでしょう、。「京楽焼」とも言えない、「東京楽」とも言えない、「三河楽」かも知れないが出来過ぎだ、などと考える内に時間が経過してしまいました、。同じ窯元、同年代、同様の絵付けを施した「蘭鉢」もあり画像を頂いているのに、それでも決め手にならないのですからお手上げです、。

「三段の段替わり」を取っている所は古典の決まり事を守ってますし、足に描かれた菊花とも言えないような絵も一応古典鉢の形式を踏襲しています、。正面の「御所車図」も古典の紋様です、。が、古典はそこまでで、腰部分には古典紋様は描かれず、「鉢縁下」の一段目の片輪紋のような花模様も曖昧です、。
強いて言えば、2枚目・3枚目画像には「白鶴」の他に「松」と「笹(竹)」が描かれており、だとすると、この「コスモス」のように見える花は「梅」なのかな、「松竹梅紋様」かなとも思ったり、。まぁ、決め手に欠ける鉢です、。「陶土」もベージュ色で、これもどこの土かが分からない原因の一つです、。

こういう絵付けは愛楽園杉浦重平さんが錦園堂・手島揫二窯での修行を終えた初期の頃に作られた鉢にも存在します、。事実、この鉢の現所有者の前の持ち主は東京の人だったそうですから、手島時代の終わり頃に杉浦重平氏や勘之助氏が作っていたとしてもおかしくはないのです、。
それに第一、「錦園堂・手島揫二窯」と言えば「波千鳥紋様」と決め込んでいる人が多いのですが、昭和7年出版の本に掲載されている東京の萬年青愛好家棚の写真に写っているのは「手島製の七々子鉢」ばかりで、「波千鳥鉢」などは全く見当たらず、どういう経緯を経て「手島といえば波千鳥」になってしまったのかも判然としません、。この万年青鉢が「手島揫二窯」であっても不思議はないのです、。現所有者は「手に持つと見た目よりも軽い、」と仰ってます、。「手島鉢」かも知れません、。
また、「手島窯に居た杉浦重平」が作った鉢なら「東京楽」なのか「三河楽」と呼べばよいのかも判りません、。

どうも「京楽焼」とも思えない所もあるので、案外上記のような鉢「東京風三河鉢」ではないかと考えてますが決め手はありません、。「手島鉢の陶土」は「灰色」が多いからです、。それと、鉢の胴部分辺りに「鋏み痕」があるらしいからです、。もう、全く混乱してます、。仮説を立てて窯元の特定をするのですが、ことごとく否定されます、。「三河鉢」だとすると、随分出来の良い三河鉢です、。今まで見た中でも秀逸です、。

あ~、でも、やはり「京楽鉢」の線も捨て切れないなぁ、。本当に分からないのです、。これだけ上出来の鉢なのに窯元特定できないのは何とも歯がゆい、。

この鉢のサイズは大きいのです、。「21.5cm×高さ23cm」、7寸鉢ですね、。
鉢底画像で足裏に水抜き穴が開いているから新しいのじゃないか、という疑問は当たりません、。「江戸時代の古い短冊家の万年青鉢」で、サイズの大きい鉢の足には穴が開けてあったのは「短冊堂落款」のある古く大きい鉢で確認済みです、。足穴は必ずしも時代特定の決め手にはなりません、。(飛田邦之氏蔵)




# by evian_th | 2015-04-30 22:00 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢                  No.535
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◆2015年4月、。   楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢


楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢、。
楽鉢の窯元「福富京楽堂」というのは、明治33年発行の「価格表」が唯一の存在の証明で、この価格表(カタログ)が無ければ、その他の「陶磁器」や「植木鉢」の資料のどこを探しても痕跡が見当たらない、。よくぞ価格表を発行してくれたものだと感謝の念をおぼえるほどです、。

鉢の「台の作り」はしっかりしていて、チョッと出の窯元ではないことは作品を見れば判ります、。「楽鉢」を作り始める前に、相当期間の陶磁器製作の経験があったのでしょう、。
カタログ発行が明治33年、ということは、「福富京楽堂」の創業は明治25年~30年のことでしょう、。創業し、試行錯誤の集客の期間があり、ある程度軌道に乗って来た明治33年に至って、更なる飛躍のためにカタログ発行になったのだろうと想像します、。

作風からは「京楽焼」の面影は全く感じ取れないので、京都での修行時代を経験しなかった可能性があります、。同じ東京の「手島揫二窯」とは、この点に於いて大きな違いが見られます、。
では、東京に居ながら、どのようにして「楽焼鉢」の製法を学んだかということになります、。尾張瀬戸の陶工・加藤與八の二男・加藤友太郎という人が明治6年、単身上京して、陶芸家井上良斎の門に入りました、。「専ら楽焼を主とする所にして・・」と記録にあるように、この人が東京へ楽焼製法を持ち込んだ人のようで、福富はこの加藤友太郎に楽焼の製法を学んだのではないかと思われます、。(自分で瀬戸へ出向いて修業した可能性もありますが)、。

絵付けにも「京都風」は感じられず、京都で修業した可能性は低いと思います、。京都では、「西陣」や「友禅」など着物界からの影響は拭えず、日本の伝統紋様を学ぶことが必定でしょうから、。
あくまで「東京」に居て、自由気ままなデザインを創造して絵付けした鉢が大部分です、。そこが、この福富窯の持ち味なのです、。

「鉢の台」の作りは硬く、縁がゆがんだり波打ったりした鉢を見たことがありません、。鉢の胴は直線的です、。陶工としてはかなり上級です、。絵付けのデザインは特徴的ですが、絵具の仕入れ先が瀬戸経由らしく、例えば上掲の鉢にも多用されている「緑土」(テールベルト)はあまり高級品が入手できなかった様子で、窯から出した後では緑色は色褪せ、暗く沈んで見えます、。明治中~後期には国産絵具も出て来たでしょうから、その絵具を使ったように見えます、。京楽鉢とは絵具が違うのです、。

それにしても(と、エビアンは思うのですが)、「福富鉢」は明治時代の関東地方の古典園芸愛好家を独占するほど多くの製品を量産した筈なのに、現存数が少なすぎると感じています、。東海地方以北、関東、北関東、東北地方まで広く残っている筈です、。製品の硬度は高く、割れにくい鉢ですから、。                  11.5×h15センチ、(西口郁夫氏蔵)

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・・・と、断定的に書きましたが、「段替わり」という古典の習慣を踏襲してるし、足回りに緑土で縁取りを描いたりと、古典の決まり事も取り入れてますね、。
鉢底画像で見ると、足裏への加茂黒の掛け方も短冊家や佐々木松楽に通じるものもあります、。少なくとも、「京楽鉢」を参考にはしてますね、。
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江戸東京へ楽焼の製法が伝わるのがずいぶんと遅いと感じられた人も居られるだろう思う、。
江戸時代は(エビアンもさほど詳しくは無いのだけど)、参勤交代に江戸へ出向かねばならなかった諸藩は220とか230とかもあり、距離や贅沢のしようで違っただろうけど、各藩は1回の参勤交代で現在の価格に換算して2億円ものお金を必要としたようです、。
江戸屋敷の維持費もバカにならず、各藩は様々なお金を稼ぐ工夫をしなければならなくなっていたようです、。

当時、大名旗本と名の付く位に居た人は全国で5000人を超え、それに対する役職は2500程度しかなかったというのですから、賄賂心づけが横行したことでしょう、。石300石を超えると、家来を10人雇わねばならない幕府からの決まりもあり、旗本の名跡は長男一人が継ぎ、弟妹の面倒まで見たのですから大変だったろうと思います、。

それら大名旗本のお金は、参勤交代の費用や江戸屋敷の維持費に消費し、どんどん江戸にだけお金が吸収される仕組みが出来上がっていたのです、。

植木鉢や陶磁器のものの本によると、「国焼」(御庭焼)というのは文化文政年以降、競って焼き始められ、京都の陶工(欽古堂亀祐・青木木米・中川嘉助・高橋道八・尾形周平・永楽善五郎保全・永楽和全、)たちは、全国各地の大名や御大臣、大旦那、などに「陶磁器製造の指導」に呼ばれ、東奔西走したようです、。
これら「国焼」(御庭焼)は、出版物によると、大名や大旦那が自分だけの焼き物を焼かせて楽しんだ、いわば道楽だったように書いていますが、江戸時代後期の大名旗本の生活を知ると、伊達や酔狂で作っていたとは思えず、資金作りのための販売目的の窯、御庭焼も多かったのではないかとエビアンは推察しています、。

一方「江戸」は、そういう風に各地大名からお金が入って来る訳ですから資金的には豊かで、「製造業」が発達しなくても、全国から買えば良かったのですから、陶磁器を作ろうという気持ちになるのは日本の他の地方に比べると、本当に遅かったのだと思います、。
道具類は作るよりも安く買って、それを使った文化を発達させる方向へ流れて行ったのは、ごく自然のことです、。東京で「楽焼鉢」の製造が遅くなったのは、そういう時代背景があったからだと思います、。

江戸時代というと、ずいぶん昔のように感じられますが、今から150年前は江戸時代だった訳で、その半分をエビアンは生きていますから、エビアンから見れば、自分の生まれる70年前は江戸時代だった訳です、。30年前は明治時代、。エビアンにとっては身近な時間帯での話です、。それなのに、どうしてもっと資料が見つからないのだという焦りの気持ちを感じるのです、。

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「福富京楽堂の価格表」を追加掲載しておきます、。
大き目サイズで載せておきますので、画像をクリックし、表示された画像の右下の「虫眼鏡画像」を再度クリックし拡大画像で文字をお読みください、。
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拝啓 弊店儀,従来より京楽焼植木鉢を製造販売仕(つかまつ)り,汎(ひろ)く諸君のご愛顧を蒙(こうむ)り,有難く拝謝奉り候(そうろう)。然(しか)るに今回,特に元料〔原料)品を精撰(精選)し,植木培養法に最も適合なる品を製造致し,左表の直段(値段)にて販売仕り候間(あいだ),多少に拘(かか)わらず何卒(なにとぞ)ご注文下されたく,偏(ひとえ)に希(ねが)い奉(たてまつ)り候。
追って販売お望みのお方は,ご照会次第ご相談仕るべく,尚(な)お遠国よりご注文の節は,ご送金は駒込郵便局宛ご送付下されたく此の段予(あらかじ)め申し上げ候也。敬具




# by evian_th | 2015-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
2015年春蘭展示会案内                 No.531
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◆2015年、。   春蘭春季展示会

058.gif<展示会日時は、かならずしも会期の早い順には並んでいません>040.gif


大阪東洋蘭会 2015年 春季展示会
時:2015年3月8日(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会




全国日本春蘭連合会 第44回春蘭展示大会(全春連)
時:2015年3月21日・22日、。
所:芝 弥生会館(東京都港区海岸1丁目)
「全春連」は今年2月「東京ドーム世界蘭展」にもディスプレー展示参加します、。




全日本東洋蘭 春季美術品評大会(全東連)
時:2015年3月18日・19日
所:東京蒲田 プラザアペア




北関東中国奥地蘭同好会展示会
時:2015年2月28日・3月1日
所:埼玉県  熊谷市緑化センター



蘭遊楽座 花物展
時:2015年3月1日
所:東京 大森 「大林寺」




中部蘭趣会 春蘭展示会
時:2015年3月13日・14日・15日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




愛知県春蘭合同展示会
時:2015年3月20日・21日・22日
所:名古屋市 庄内緑地グリーンプラザ




百喜千遊会春蘭展
時:2015年3月28日・29日
所:京都市 梅小路公園・緑の館



兵庫春蘭友の会 春蘭遅花展示会
時:2015年3月28日~4月1日
所:相生園芸センター




三香園 春蘭展
時:2015年3月21日・22日・
所:三香園




花ごよみ 春の蘭展
時:2015年3月27日~30日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)


# by evian_th | 2015-03-21 00:12 | 東洋蘭春蘭展示会
中国春蘭「小型西神梅」                   No.534
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◆2015年3月13日、。   中国春蘭「小型西神梅」(せいしんばい)

今春の展示会情報は、下スレNo.531、にあります、。

開花後約2週間経過の「小型西神梅」、。
展示会2日前に飾り鉢へ入れ、展示会時には5輪共正面を向いていたように思う、。2日後に画像撮影してみると左2輪は横を向いてしまっていた、。正面を向かせようとしたがもう無理だった、。ようやく咲き上がったようだった、。
「小型西神梅」は(時には多少花弁の一枚が下を向くことはあります、)咲き始めの愛嬌の良さは少し失われますが、花弁はパチッと咲き上がります、。

展示会出品をしない場合には、開花後に主弁(天弁)が立ち上がり、花弁が円く愛嬌が残っている内に画像撮影されることをお奨めします、。

「西神梅」には肥培すると葉が平葉で大きく葉数も5~6枚も振る分と、葉辺のギザが強く細葉で葉繰りも3~4枚にしかならない分とがあります、。
後者の「細葉西神梅」の中に「咲き始めにパチッと花弁を開き、花の咲き上がり後でもそのままの形で咲き続ける”小型西神梅”」があります、。葉が細いからといっても「小型西神梅」とは限りません、。



# by evian_th | 2015-03-13 00:03
京楽焼「短冊家蘭鉢」                   No.533
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◆2015年3月、。   京楽焼「短冊家・蘭鉢」

今春の展示会情報は、No.531に掲載しています。


◆「短冊家」の製品で「明治時代」の「蘭鉢」は非常に少ない、。
1月に続いて「明治時代の短冊家蘭鉢」をご紹介、。
画像を見れば、一見して「短冊家」なのですが、「京楽鉢5窯」の窯元が判明してからは、以前と違って、逆に、慎重に慎重に見るようになりました、。短冊家に似た鉢も多いからです、。

「楽焼鉢の歴史調べ、」を始めるまでは、「短冊家」「古京楽」「手島」「重平」「勘之助」「信楽」程度に大雑把に分類されていて、古い楽焼鉢が手に入ると、とりあえず「短冊家」と言っておくのが無難だった時代が永かったのです、。
それで、なんでもかんでも「短冊家」で取引したもので「短冊家鉢」は多いように思われてますが、分かってみると案外少なく貴重なものです、。

画像の鉢を手で触ったことはありません、。画像を見ると一見して短冊家なのでしたが、5枚目の鉢底画像の上へ伸びた足の形が「福富京楽堂」に見えて、2~3日置いて3~4回考え、やはり短冊家だと確信しました、。
「鉢縁下」(はちべりした)の「鋸歯紋(ぎょしもん)」、「腰部分」の「雷紋」、段替わりの緑土の線の描き方、台の鉢の作り、足の形、鉢底の雰囲気、胴部分の曲線、などなど、短冊家独自の雰囲気を感じ取りました、。

「胴部分」の絵付けは、「花散らし紋」ですが、こういう絵柄を見たのは初めてでした、。派手に見えて実は非常に落ち着いている絵付けです、。花の散らし方の配置も見事なものです、。「1の足」は、1枚目画像の「金色の花」が正面に来る足だと思います、。12.5×16センチ、(飛田邦之氏蔵)


「楽焼鉢」のルーツは中国福建省の「交趾鉢」だと以前に書きました、。
柔らかく厚みが薄い陶器の表面に分厚目に釉薬を掛けてあります、。
「楽焼鉢」の場合は、この釉薬に「加茂川真黒石」を混ぜて焼き付けるので、表面は石なのです、。”石”というのは人の思いを吸収します、。古典園芸を愛し、楽焼鉢を愛おしむ人に使われ触られて今日まで何人かの愛好家の手を得て今ここにあります、。
ですから、楽焼鉢は比較的良い思いを吸収しています、。集めて、手元に置くと、代々の所有者の、その良いエネルギーを感じるのです、。






# by evian_th | 2015-03-01 00:03 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
京楽焼鉢「短冊家紫金牛鉢」              No.532
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◆2015年2月、。   京楽鉢「短冊家・紫金牛鉢」(こうじばち)


◆京楽焼・短冊家製紫金牛鉢、。
久々に「紫金牛鉢」、。いいですねぇ、。明治の福富京楽堂のカタログにある「紫金牛鉢」というのや、大正時代の錦園堂・手島揫二窯のカタログにある「仙人掌鉢」(サボテン鉢)というのは「風蘭鉢」を含むのだろうと思います、。「風蘭鉢」は明治20年前後に「紫金牛鉢」を基本にして、旦那さんの注文に応じて、その高さを様々に変えた結果としての鉢型だったろうと見当を付けています、。

画像の「紫金牛鉢」は「菊花散らし紋」の総絵付け、。見事なバランスで各種の菊花を描いています、。鉢の窯元は短冊家、。製造年代は古くは無く、見た目に昭和の初め、。使用法や保存法で時代乗りは変わるものですが、多分まぁ、あまり古くは無いと思われ、。しかし、いい鉢です、。(口径9.3センチ、高さ8.3センチ、西口郁夫氏蔵)

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今月この鉢をトップ画面に使うのには相当考えました、。最も大切な「正面画像」が無いからです、。しかし、この鉢の良さを使わずにしておくのは可哀想だし、エビアンが紫金牛鉢を好きなので、。
「植木鉢画像撮影」には、どうしても「正面画像」は必要です、。「お見合い写真」でも「運転免許証写真」でも正面から写します、。横顔や上から頭頂部を見下ろし画像では役立ちません、。当然のことですよね、。

下画像は上掲の1枚目と2枚目とを継ぎ合せて合成しました、。
これが「正面画像」です、。

1枚目は頭頂部見下し画像、2枚目は横顔画像、。第一、和服美人が脚を開いて膝を曲げたような角度は下品です、。足を左右に開いた画像は、その部分の胴の絵付け説明にどうしても必要な場合に限られる角度だとエビアンは考えます、。

3本の足を順に正面に据えて眺めると、3本のどこかに必ず「正面」が存在します、。同じように見えても、必ず「正面」は在ります、。「一の足」「二の足」「三の足」とある筈です、。無神経に撮影せずに正面を確認しましょう、。せめてもの絵付け絵師に対する敬意を払って、。
脚は「一の足」を正面としますが「二の足」「三の足」は左右均等に見えるような角度で、。
上部の「鉢縁」は「横一直線」になる角度、かまたは、縁上面の向こう側が少しだけ見える程度、。この「正面画像」が必ず必要ですし、これ一枚の撮影には随分と神経を使います、。
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# by evian_th | 2015-01-31 21:04 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
短冊家東洋蘭鉢                     No.530
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◆2015年1月、。   短冊家東洋蘭鉢(と万年青鉢)

謹賀新年
本年も東洋蘭風来記の「風来記ページ」を宜しくお願いします、。

短冊家「伝統紋様蘭鉢」
過去に何度か「短冊家が見切れない症候群」に罹り、一昨年後半にも過去最長の迷いの期間に入っていた時、昨年1月にこの鉢を入手して「あ~、やはり、な」という思いで腑に落ちました、。一気に迷いから脱出した記念すべき鉢です、。
一昨年くらいから立て続けに「福井楽印鉢」と思しき鉢と出会い、迷いの期間に入っていたのでした、。

「明治の短冊家蘭鉢を手に入れて自分の手で触ってみたい、」と願っていたのでしたが、明治の短冊家の蘭鉢となると、製作数が少なくてそうおいそれとは品物もなく、ましてや高級絵付け鉢となると見る機会さえほとんどない状況です、。世間で言われるほどには実物は存在しないですよ、。「これは、」と思っても、どこかが違う、腑に落ちないモヤモヤした気分が残る鉢がほとんどです、。

画像の鉢は割れ鉢です、(大きくニューが入ってます、)が、本物だけが持つ雰囲気を伝えるには十分、。鉢内側から接着剤で着け、鉢表面にはあえてニューを残しました、。無理な繕いは不要、エビアンにはこれで十分です、。展示会で使おうと考えています、。

この鉢は手に取ると見た目よりも”重い”と感じます、。
短冊家の鉢(万年青鉢・蘭鉢を問わず)の見分けのポイントとして重要な、ヘリ上面から見込みへの落ち込み部分にエッジが立ってません、。一旦製作した後に角部分をヘラで削ぎ取ってあります、。「短冊家の鉢は落ち込み部分が鋭く角張る」という過去記事が間違いだったと証明しています、。こういう風に作った鉢もあったのだと知ったことは単純な見分け方をしがちなエビアンには新鮮な驚きでした、。


緑土(テールベルト)を多用し、絵付け職人の腕の冴えを「これでもか」と見せつける仕事っぷりです、。
正面は「亀甲繋ぎ紋」の場所でしょうが、見た目に派手な「花菱繋ぎ紋」の足を正面の画像をトップ画面に選びました、。残る足には「青海波」が描かれています、。
「鉢縁下」(はちべりした)と腰部には「鋸歯紋(ぎょしもん)、を描いて段替わりとし、胴部分はS字状曲線で「片身替わり」を取り、3本の足の間の胴には「蛸唐草紋」のようなものが描かれています、。

品良く仕上げるために使われている顔料も「テールベルト」と「金」と「白」と「少しの黄色」のみに抑えています、。見るべきは絵付け職人の腕の良さでしょう、。
「短冊家」を初め「楽焼鉢の窯元」の規模に関しては風来記は過去に大きな誤解をしていたかも知れません、。「京町屋」(間口が狭く奥行きの長い屋敷)で鉢や茶碗を細々と焼いていたのです、。そんなに大規模な制作場所ではありません、。職人といってもその大部分は窯元の当主自身とせいぜいその家族程度だったでしょう、。極端に言えば「町の豆腐屋さん程度」と同規模の家内工業だったと最近のエビアンは思っています、。
「窯元絵付け」というのは「窯元に住み込みの絵付け職人の仕事」ではなく「窯元自身の絵付け」だったものが大部分だったと考えるようになって来ています、。

上掲の鉢も短冊家当主自身の絵付けだった可能性が大きいと思います、。それにしては凄い絵付けの腕前ですね、。

◆下画像の短冊家万年青鉢は10年ほど前に蘭商人野田谷治男氏から購入したものです、。
上掲の蘭鉢と、同一時代、同一デザイン、同一職人による絵付け、である事は一目瞭然で、この「蘭鉢と万年青鉢をもって一対」とするのではないかと考えている所です、。この件については、
◆2014年7月、京楽焼短冊家「五柳雲鶴図万年青鉢」(クリックで表示)
にも書きました、。
決定事項ではありませんが、現時点ではそのように考えています、。

これらの鉢が「短冊家」のご先祖さん自身の作陶・絵付けなら、「短冊家さん」のご先祖はなるほど凄い腕前をした人だったと感心しきり、。

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# by evian_th | 2015-01-03 00:11 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529
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◆2014年12月25日、。   なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

少し以前(といっても5年ほども前のことだですが)、「なぜ楽焼は京焼ではないのか?」というテーマに関して、曖昧な記憶から引用文を書いたのでしたが、その引用元の本を積読の中から見付けたので、楽焼鉢と関係がありそうな部分を抜き書きしておきます、。

元本は、「茶道誌淡交・2007年10月号増刊」の「江戸期の京焼」という本でした、。その中の・・・
「京焼の本質と定義」(副題:~それが判れば苦労しない~)  京都国立博物館主任研究員 尾野善裕


(中略)
なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

京都のやきものといえば、昔から楽焼が有名だが、楽焼は京焼ではないらしい。「らしい」というのは、私が決めたからではないからで、ものの本にそう書いてある、。
もっとも、こういう話をすると、「えっ!楽焼って京焼の一種じゃないの」という反応がしばしば返ってくるし、「それは、おかしい」と反論までされることも珍しくない、。しかし、意外に思われるかもしれないが、かつて「京焼」という言葉が、楽焼をその範疇に含まない概念として、たびたび用いられていたことは厳然とした事実である、。だから、いくら「おかしい!」と言われたって、そんなことは「あっしには関わりねぇことでござんす」、。

むしろ、なぜ楽焼が京焼ではないとされたのか、それを問うことのほうがよほど生産的な議論だろう、。そうした視点を抜きにして、楽焼を京焼に含めるべきか、否かをとやかく言うことにあまり意味があるとは思われない、。ただ、なぜ楽焼を京焼に含めないことになっているのか、その経緯や理由がよく判らないから困るのである、。

もっとも、こうした問題意識を頭の片隅にとどめておきながら、楽焼あるいは楽焼風のやきものの出土事例を概観してみると、年代的に古い事例が妙に大阪(以下、歴史的表記を重視して「大坂」)に偏っていることに気付く、。何故だろうか、。
実は、この現象は当時の政治・経済の中心がどこであったか、を象徴的に示している、。豊臣秀吉が建設させた寿楽第(邸)が完成し、彼が大坂から京都へ移って来るのは天正15年(1587年)のこと、。それゆえ、「松屋会記」の天正14年(1586年)10月13日条などから、それ以前に創始されていたと考えられる楽焼(あるいは楽焼風やきもの)が、京都よりも秀吉の本拠地であった大坂でたくさん用いられていたらしいことは、別に驚くほどのことではない、。千利休が秀吉の茶堂であり、楽焼初代の長次郎の作陶に利休が深く関与していたに違いないことを考えれば、むしろ当然のことと言ってようだろう、。

このように考えてくると、果たして楽焼は京都で創始されたのだろうか、という疑問も自ずから湧いてこよう、。大坂にいた秀吉と利休、そして利休と長次郎の関わりの深さを考えるならば、楽焼が大坂で焼き初められていたってよさそうである、。時代背景を重視するならば、そう考えることだって不可能ではない、。

「とんでもないことを口にする奴だ」という非難は覚悟の上で、あえて言わせて貰うならば、楽焼を京焼に含めないことに対する疑問の背景には、楽焼は京都のやきものだという先入観があるのではないか、。そして、もしこのように考えることが許されるならば、楽焼を京焼の範疇に含めない理由は、説明するまでもないだろう、。 なにしろ(最初は)京都で焼かれていなかったのであるから、。

もっとも、決定的証拠があるわけでもない以上、こんな話は単なる憶測に過ぎず、そうかもしれないという根拠薄弱な一仮説に過ぎない、。そこで、ついついこういう言葉も吐きたくなるのである、。「だから、そんなに簡単にはいかないんだってば・・・・・」、。
(中略)
なるほど、京焼が京焼であるのは、それが京都(もしくは京都近郊)で焼かれたものであるからだ、。

(以下略)

------------------------------------------------------------<以上>

◆上記のように、楽焼は大坂で焼き始められました、。「楽焼植木鉢」も同じです、。特に植木鉢の方は秀吉や千利休や佐々木長次郎が上洛(京都へ昇る)した後も大坂で作り続けられ、明治に入って京都の楽焼鉢のスタイル(小萬年青の流行に合った形)に追い抜かれるまで200年間の長きにわたって作られたのです、。

◆楽焼鉢の歴史を調べ始めてくれたのは萬年青界です、。この点では萬年青界には感謝しなければならないなぁと常々思っています、。
ただ、萬年青界はその調べ初めに京都の短冊家さんへ行って先代の奥方から「楽焼鉢は短冊家の先祖が文化文政年に作り始め・・・」と聞かされた事から始まっています、。この言葉には、その前文として「京都では、」という言葉が抜けています、。短冊家さんのご先祖が植木鉢を作ったのは事実ですが、京都で初めて、のことであり、楽焼鉢自体はその200年も前から大坂の堺で作り始められていたのです、。

◆京都には国立博物館があり研究員も居られ、愛知県には陶磁博物館というものがあって同じく研究がされているのに、今後大阪を調べようとしてもどこへ行けば、という壁に突き当たるのです、。堺市役所へ電話凸したのですが、古墳を売り込むことには熱心ですが、千利休旧邸は目印1個あるのみ、堺の文化的歴史には興味なしと来ています、。楽忠窯・楽雅亭窯がどこに在ったのか、他の楽焼窯は、となると遠い遠い道のりです、。少しずつでも進歩すればよいと願っています、。
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# by evian_th | 2014-12-25 12:17 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
富貴蘭鉢・風蘭鉢                    No.528
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◆2014年12月20日、。   東洋蘭・富貴蘭・風蘭


富貴蘭鉢(風蘭鉢)
東洋蘭風来記も満10年を経過いたしましたが、その間、毎月のトップ画面は「蘭鉢」と「万年青鉢」が大部分であり、「富貴蘭鉢(風蘭鉢)」は掲載していません、。
現在、富貴蘭界で使用されているいわゆる「風蘭鉢」は、いつ頃どういう経緯で東洋蘭界に出現したのか、がイマイチ判然としなかったから、というのが一番の理由です、。

「富貴蘭風蘭」は既に江戸時代から栽培されていたらしいことは上掲の絵をご覧頂けば一目瞭然です、。ですが鉢は欽古堂亀祐型といいますか赤土瑠璃浮絵紋様六角鉢です、。
「植え込み材料」は上掲の画像や、最下段1835年出版の「長生草」(堀籠浩史氏提供)文中の挿絵を見れば、現在使用されている「水苔」のように見えます、。が、説明文中には「水苔」という言葉は出て来ません、。
代わりに「水草」(みずくさ)という用語が出て来ます、。、。(<訂正>出て来るそうです、。「水苔とヘゴを混ぜ合わせて植える」という文章が出て来るようです、。訂正しておきます、。)
これより前1818年に出版された「草木育種」(そうもくそだてぐさ)には「へご」という用語が出て来ます、。「へご」を使っていたくらいですから、この絵に描かれた植え込み材は現在の「水苔」でしょう、。「水苔」が江戸時代には既に園芸植物の植え込み材として使用されていたのです、。


残る問題は「鉢」です、。
明治33年に発行された東京の福富京楽堂のカタログには「萬年青鉢・蘭用高鉢・紫金牛鉢」と載っていますし、
◆大正14年発行の東京の錦園堂・手島揫二窯のカタログには「万年青鉢・蘭用高鉢・仙人掌鉢」と載っています、。
いずれも「富貴蘭鉢」は載っていません、。
◆昭和10年に発行された京都の短冊家のカタログに至っては「万年青鉢・蘭用高鉢」のみです、。


さて、ここからが風来記エビアン得意の当て推量・想像・デタラメですが・・・

「富貴蘭」は元々は大株物に作って「京焼」や「三河鉢」などの適当なのに植え込んでいたのです、。時を得て、貴重品種が出現するに至って風蘭も小株になり、それに合う鉢の需要が出て来たのですが当時は専用鉢も無く、「紫金牛鉢」として売られていた鉢の高さを縮めた鉢を注文するに至ったのでしょう、。

それというのも、「ヤブコウジ」や「シャボテン」の大ブームがあって専用の鉢が飛ぶように売れた、とは考えにくいのです、。にも拘らず価格表に「ヤブコウジ鉢」や「シャボテン鉢」が載っていたということは、それらを「風蘭鉢」として用いる需要があったと判断するのです、。

したがって、「福富京楽堂カタログの紫金牛鉢」というのや「錦園堂・手島揫二窯の仙人掌鉢」というのは今でいう「富貴蘭鉢」の事だったのだろうと推察します、。

古くからあった「紫金牛鉢」のデザインを基本とし、それの背丈を低くした鉢や、低くした上に胴体部分を袋式に膨らませた鉢や直線状に下へ向かってすぼめた鉢や、妙に底の浅い鉢などというように、注文主の要望によって形が一定しなかったのだと思います、。「富貴蘭鉢」のルーツは「紫金牛鉢」だと風来記は考えます、。

そして、「紫金牛鉢」が「富貴蘭鉢」へと変化して行くのは、鉢の縁のツバがシッカリとできあがってからだということと、使われている極彩色の顔料が赤色や黄色が多いことから、赤色顔料や黄色顔料が輸入されたり国内生産された明治中期(明治15年~30年)以降のことだろうと考えます、。

ただ、この形の鉢を「風蘭鉢」と呼び、風蘭の根を水苔で巻いて風蘭鉢に入れる現在の栽培法が確立したのは、グッと新しく、昭和の時代の事だろうと思います、。



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この記事ご協力者様・堀籠浩史様・野生ラン編集子様・西口郁夫様・野町敦志様・華幸園さん
# by evian_th | 2014-12-20 01:16 | 東洋蘭富貴蘭風蘭



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