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五柳                              No.592
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◆2017年10月20日、。   五柳




上掲の画像は、「万年青界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」と「蘭界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」のサイン部分の抜出画像です、。
園芸ジャパン誌」に五柳を書く時も「栃の葉書房」に五柳を書く時も、出版社が最も警戒するのが「著作権・画像の所有権」の問題です、。
だから、この2つの鉢を比べて同時に掲載することは出版社では無理なのです、。


ネットじゃ構わないのか?てと、やはりマズイにはマズイのですが、蘭界の分は野田谷君の上野の展示会に展示されスナップ撮影も禁止じゃなかったし、萬年青界の分は現在の所有者が判然とせず、画像の所有者から流れ出た写真だから、まぁ風来記では使ってます、。


この2枚の画像を揃えないと説明がつかない話もあるからです、。


画像向かって左の万年青界にある分は「芳古園主・五柳寿運」と本人が描いており
向かって右の蘭界にある分には「芳虎斎・五柳寿運」と描いています、。
これらの事から判断できることは、五柳は五柳寿運と名乗っていた絵師で、「芳古園」の暖簾を出し、「芳虎斎・五柳寿運」を名乗っていたこと、。
<div>昔の人はいくつもの名や号を持ち、本名も3つくらいは平気で名乗っていた、。この事で、初めの頃に「楽家の人名」で苦労した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、一人で5個くらいも名前を持っているんだもの、。


「五柳」は短冊家の雇われ絵師ではありません、。独立した陶画工(陶磁器専門絵師)でした、。
他の窯元の鉢にも絵付けをしましたが非常に少数です、。余程高価だったのでしょう、。


「京都」という特殊な土地柄は、京都自体がお互いに助け合いながら動いている一つのシステムのような都市で、あの道路沿いにずらりと並ぶ「京町屋」の2階部分は「各種職人の仕事場」になっている、。
<div>「京扇子」一つ作るにも、竹を削る人、扇状に割る人、扇面に絵付けする人、絵付けされた紙に竹の骨を入れる専門職の人、仕上げする人、売る人、などと、京都の町をアチコチ回って、ようやく1本の「京扇子」が完成する、。
<div>基本的に、人を雇わず「身内だけの家内工業」が多く、このことが不況に強く100年以上の「老舗」を多く残す原因に繋がっている、。


こういうことを考え合わせると、「芳虎斎・五柳寿運さん」は「芳古園」という暖簾のかかった町屋の奥の離れで「持ち込まれた楽鉢に絵付けだけをしていた」のでしょう、。短冊家には全盛時には内窯が5個も存在したらしいから、絵付けを終えた楽鉢を短冊家の窯で最後の焼付作業をしたのかも知れません、。この事が、短冊家以外の窯元への絵付けの少なさの証明になるかも知れない、。


「五柳寿運」は80歳くらいまで生きたようです、。
短冊家が「短冊家錦画鉢模様控」を作った明治25年は、短冊家が「高級楽鉢」の注文が殺到した全盛期でしょう、。この短冊家の全盛期を「外注絵師」として強力に支えたのが五柳です、。この時「五柳が30歳」だったとすると(大体そんなもんでしょう)、短冊家が「短冊家楽鉢価格表」を出した昭和10年には、五柳寿運さんは75歳、。まぁこの辺までなら職人として絵を描ける、。どう見ても昭和初期の製作だと思われる蘭鉢を2個ほど見たことが有ります、。風来記でも紹介しています、。そうだとすると、五柳の生誕年は「江戸幕末・文久3年」ということになり、文久元年に31歳で窯を開いた「浮田楽徳」との関係があるように思えてならないのです、。もしかすると、「五柳は浮田楽徳の子供かな?」、。窯を開いた翌年か欲翌年に子供が生まれたんじゃないか、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、これはエビアンの飛躍した”夢”ですよ、。



「五柳さんは大酒飲みで、酒代が切れると仕事をした」という噂話も根拠がなく眉唾ものです、。
<div>調べ初めの頃に聞いた噂話ですが、五柳と会ったという人が居た、。東京の手島窯でのエピソードとして聞いたのだたが、五柳が手島鉢に絵付けした形跡も見当たらず、東京へ流れて行った事自体が信憑性に欠けます、。最後まで京都に居て絵付け仕事をしていたものと思われます、。昭和初期の短冊家鉢への絵付け鉢の存在が、その根拠です、。



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出版物には書けない”あやふやな話”もネットになら残せる、。世間であれやこれやと噂話が実話のように伝わることも多いから、「五柳」に関する話を一応総括しておきました、。
「楽鉢の歴史」を調べる人は過去に万年青界にも蘭界にも数人居られた、。それらの人は、まず初めの取っ掛かりに「京都・短冊家」へ話を訊きに行っておられる、。短冊家は「短冊家の歴史」を語る、。訊いた人が勝手に「短冊家の歴史が楽鉢の歴史」であると思い込んで、そこから話を出発させるもんだから、大きな誤解を信じ込んだまま雑誌などに記事を書いて来ました、。五柳鉢をややっこしくして来たのにはそういう経緯があったからでしょう、。

まぁ楽鉢を売る商人も「五柳は江戸時代の鉢で・・・」と言って売ったという話は聞くし、短冊家先代の奥さんが「楽鉢は私どもの先祖が文化文政年に創業して作り始めました・・・」という風に誤解を招きやすい話し方をされたらしいから、聞いた人が自分の都合の良いように誤解してしまったという側面はありますね、。

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「京都祇園」というのは、おおよそ南北は「祇園八坂神社」から「清水寺」(きよみずでら)の少し南側の「鳥辺山」(とりべやま)のある祇園馬町(うままち)辺りまで、。東西は加茂川から東山までの事を指し、平安以来ここは葬送の地だた、。(加茂川は結界とされ、西側は人間界、川を渡った東側は冥界とされていた)、。今もまぁそうだのに、京都観光の中心地で多くの寺があることから観光客が集まり、賑やかな事この上も無い、。京都の人にとっては昔と何も変わらない、。「骸骨飴」(がいこつあめ)という飴だけを売る店もあるほどだ、。

その中に、「短冊家」も「浮田楽徳窯」も「佐々木松楽窯」も「大虎窯」もあった、。東山を挟んだ所には「福井楽印窯」もあった、。(福井楽印窯は以前に描いた地図よりも東山に近い所だったと思う)、。<br>
「五柳の住まい」も、恐らくは八坂神社と清水寺の間、もっと言うと「短冊家と楽徳窯との間」だったのだろうと思う、。今は東山の山すそに沿って「片側1車線の東大路通り」が南北に走るが、明治時代の古地図を見ると、牛車が1台ようやく通れるほどの曲がりくねった細い道(農道に近い)だ、。道の両側からはススキが生い茂っている様子が描かれている、。こんな所で「楽焼鉢」は焼かれていたんだなぁと妙な気分になる、。<br>
「京楽鉢」だけが、妙に暗く落ち着いて見え、それゆえの良さを発揮するのかの原因は案外こんなところにあるのかも知れない、。その「京楽鉢だけが持つ暗さ」のようなものを見分けるのが、京楽鉢と東京楽鉢や三河楽鉢との見分けの方法であるかも知れない、。パッと見の印象だけど、。


ここんとこ大阪の展示会にエビアン所有の短冊家のコピー鉢を使った出品がある、。某相生園芸センターが2015年1月の風来記鉢の画像(下画像の鉢)を千葉県の布施覚さんに送ってコピーを作ってもらったらしい、。相生の顧客が買ってその鉢で出品して来るのだ、。先日の展示会にも出ていた、。それでエビアンのと2つ並べてみたんだけど、布施さんの鉢は”明るい”のだ、。暗さが無い、。布施鉢てのは大体が非常に明るい、。千葉県人の性格が出ている、。</div>
<div>布施鉢に限らず、手島にしろ福富にしろ、明るい、。三河鉢の中には妙に暗いというか陰気臭い鉢はあるが、京楽の暗さとは異質だ、。
京楽鉢はなんしろ1000年の墓場の中で作られたんだもんなぁ、。年季が入った暗さがある、。
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by evian_th | 2017-10-23 00:45



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