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京楽鉢「楽徳蘭鉢」                         No.578
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◆2017年1月、。


新年おめでとうございます、。今年も「東洋蘭風来記」の風来記ページを宜しくお願いします、。


◆京楽鉢「浮田楽徳製菊花唐草紋蘭鉢」、。
新年は楽徳蘭鉢です、。珍しく無傷完品、。楽徳鉢にしては見た目よりも重く、短冊家製品ほどの重みがあります、。
1の足、2の足、3の足の正面に菊花紋を置き、他は唐草模様とその間の空間は緑色の点々(ドット)を細かく打ってあります、。段替わりの横線は描かず、腰の部分には金泥で雷紋をきっちりと描いてある鉢、。ヘリ上面には雲形のような唐草紋のような文様を金で描いてあり、高級品だった事をうかがわせます、。

高級品というよりも高価格品だった様子です、。が、どうもこの鉢は大旦那の注文制作だったらしく、楽徳が喜んでは製作していなかったような印象を受けます、。”楽徳らしさ”を発揮させてもらえなかったような気がします、。「金を多用せよ」「足の正面に菊の花を描け」とかいう小うるさい注文をされて、嫌々ながらというほどではないにしろ、何かしら”楽徳が乗ってない”ような気がするのです、。旦那からは相当ふんだくって鬱憤を晴らしたことでしょう、。最下段7枚目は前所有者さんの頃に撮影された画像で、金色や緑色が少し強すぎますが、この鉢の色を表しています、。(142mm×180mm)

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ところで、この鉢の「唐草紋」の隙間にビッシリと描き込まれた「細かな点々」は、「正式には何と呼ぶべきなのだろう」と常々考えて来た、。風来記では過去には「細かな点々」などと書いてきたのだが、ヒョンなことから判明したので書いておきます、。
奈良春日大社の社殿から発見された平安時代の「金鈿荘の太刀(きんでんそうのたち)」の純金のツカ部分に掘られた文様の隙間にビッシリと鏨で打ち込まれた細かな点々を「魚子(ななこ)」とNHKBSで放送していました、。800年ぶりに複製を作り春日大社に収蔵することになり、現代の人間国宝の人たちが協力して2年半かかって複製品を造り上げる様子を記録した番組中にスーパーインポーズで表示されたから信頼できる情報だと思います、。
楽焼鉢の世界では、「魚の子紋」は別個にイッチン描きや筆描きで「魚の子文様」は存在しますが、本来の意味からすれば「魚の卵に似せた細かな点々」は「魚の子紋」と呼ばれるようですから、今後は説明を加えながら「魚の子紋」という呼び名も使っていこうと思います、。


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浮田楽徳は京狩野大和絵派の絵師でしたが、1830年生まれで1861年(明治維新7年前)に窯を開き、大正元年に他界しており、その作品は紛れもなく明治時代の製作で、こんなに安心して時代が分かる窯元もめずらしいものです、。残された作品の多さを見ると短冊家や手島揫二と同数程度残っていて、絵師から窯元へ転身してからは、楽鉢製作一筋に打ち込んだのでしょう、。絵師といっても職人ですから、お客の旦那が買ってくれてこその商売で、この点でも旦那筋にも愛されたのでしょう、。

「浮田家」といえば、宇喜多秀家と加賀前田藩から嫁いだ豪姫は徳川家康に対する逆族として八丈島へ流刑に処されますが、その間も加賀前田家は毎年お金と米とを八丈島へ送り続けます、。家康の死後は一部親族は許され江戸へ戻りますが、この人たちも前田藩の江戸屋敷に住まわせて面倒を見ます、。代々それは引き継がれ、270年後の明治2年に赦免された時に浮田家の人々の職探しなどの面倒を見たのも加賀前田家だったといいますから、加賀前田家の義理堅さは大したものです、。凄いものです、。

浮田家の一族は現在は中国地方と九州地方、一部は東京方面に住んでおり、京都で探しましたが京都には居られないようでした、。(浮田一蕙や浮田楽徳の子孫の方が現在も京都にお住まいなら、伺ってご先祖のお話を聞こうと思い探したところ、現在の京都市に浮田姓のお宅が3軒あり、うち一軒は歯科医を開業されているので、人を介してその歯科医さんに聞いてもらったのです、。残念ながら浮田一蕙や楽徳の血縁者ではなく、エビアンが探している浮田姓の人は現在は京都には居られない、と歯科医さんから聞きました、。)

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歴史を振り返れば、西暦1600年代に絵師尾形光琳・陶工尾形乾山兄弟のように、京都の呉服商・雁金屋の次男三男という恵まれた環境に生まれ、才能に恵まれたのに、膨大な親の遺産を遊郭に入り浸って使い果たすような(ある種)天才も居り、様々だなぁと感じます、。余談ながら、尾形兄弟の曾祖母は本阿弥光悦の姉に当たり、従兄弟は楽家4代目の養子に入り、楽家5代目になった宗入であったという芸術家の血筋も引いています、。

この尾形光琳乾山と同時代の1600年代後半には、オランダ・デルフトの絵師(というより画家)フェルメールも出ています、。フェルメールも親から娼婦の館(まぁ売春宿)を受け継ぎ、自分は画商として生計を立てていましたが、ある時、自分でも絵を描いてみたところ評判が良く、生涯で34点の名画を残しますが、途中でアフガニスタンで産しヨーロッパで精製されたラピスラズリのウルトラマリン顔料に憑りつかれ、死んだ時には膨大な借金が残ったと言われます、。

真面目に楽鉢製作に取り組んで生涯を送った絵師も居れば、才能とお金に恵まれながら後世に名作品と名を残したけれどお金は使い果たした絵師も居たという歴史の皮肉も知ることになる楽焼鉢の研究です、。

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「画家とお金」の関係では、フェルメールと同じオランダデルフト出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホも思い出します、。日本の明治時代に当たる時代の画家(わずか100年チョイ前の人)で、その存命中に描いた絵は1点しか売れず、生活は苦しく、ゴッホの生活と絵画用品代金は弟のテオが結婚もせずに働いて支えたといいます、。今になってヨーロッパではゴッホ美術館ができ、その絵は高価に取引され、郷土が生んだ大芸術家のように自慢しますが、わずか100年前に理解して買ってもやらずに今頃になって何だ、とエビアンは思うのです、。












by evian_th | 2017-01-03 21:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽家                               No.564
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◆2016年6月24日、。   楽家


「楽鉢」の記事を書くに当たって、エビアンは自分が分かっていることを念頭に置きながら勝手なことを書きますが、ここで一応「楽焼」の「楽家」の初めの頃の人の事を書いておきます、。楽家2代目常慶の弟宗味が「楽焼鉢」に関係してくるからです、。

「楽家」の初めの頃に関しては、資料曖昧で諸説あり、「何がどうなっているのか全く分からない状態」です、。生誕年も没年も(本によりまちまちで)不確実です、。
「楽焼」の「植木鉢」に関係する事以外は、風来記が知った事ではないので、ここでは、講談社・1999年出版の「やきもの名鑑3・楽と京焼」を基本的に採用して書いておきます、。一部、昭和5年出版の楽家12代(と思う)の「楽焼」も参考、。


◆楽焼始祖「阿米也」(阿米夜・帰化名宗慶・弥吉・政吉)
阿米也が焼いた作品は知られていない、。残ってないことになっています、。
阿米也の死後、妻の佐々木氏(何故か名前は不明)は「尼焼」という窯を開き、作品は少数ながら残っているようです、。

◆楽家初代「佐々木長次郎」(長二郎・長祐)、~1589年没
後に「千利休」から利休の旧姓「田中」を与えられ「田中長次郎」と名乗る、。
優秀な作品がそこそこの数量知られていますが「落款」はありません、。
田中姓を名乗っていたから秀吉から与えられた「楽」を名乗らず、「楽の落款」を使用しなかったのか、
「楽」の姓と「落款」を与えられたのは2代目常慶だったから「長次郎作品には楽の落款」は無いのか、は不明です、。


◆楽家12代の本では初代長次郎の弟が2代目常慶ということになっていますが、講談社の本では、初代と2代の間に「謎の人物・田中宗慶」という人物が存在し、2代目常慶は田中宗慶の子供ということになっています、。
2代目常慶には「宗味」という弟が居ますが、楽家の「楽焼」では2代目は長次郎と10歳違いの弟という事になっており、2代目が初代長次郎の弟なら「宗味」も長次郎の弟ということになり、他と矛盾しますので、風来記では「田中宗慶」の存在を認めるものです、。田中宗慶の存在は、5代宗入の「宗入文書」(元禄元年・1688)によって知られることとなりました、。

◆楽家2代「楽常慶」、~1635年没
この辺がややっこしいのですが、豊臣秀吉より「楽の金印」と「楽の名字」を与えられたのは2代目常慶だということになっています、。常慶の作品には「楽の落款」が入ったり無かったりします、。3代目以降は全部の作品に「楽の落款」が入ります、。
「長次郎の作った寿楽第(邸)の鬼瓦の出来栄えが素晴らしかったので、その功績により」というエピソードも怪しくなって来ます、。長次郎の作った瓦は二条城のための物であったとする意見もあります、。
この、初代長次郎・二代常慶までの作品を「古楽」と称して、3代目道入以後の作品と区別するらしいです、。

常慶には「宗味」という弟がおり、「長次郎窯では、長次郎・田中宗慶・常慶・宗味」の4人が働いていた筈だと書いてあります、。


◆1589年に長次郎が他界し、1635年に兄常慶が他界すると「宗味」は「脇窯」として独立したようです、。
楽家「楽焼」には「2代常慶の弟の窯は脇窯だ」と書いてあります、。
この「宗味」が開いた窯こそが「楽雅亭」だろうと確信しています、。当時他に脇窯として独立した人は居なかったのですから、。
このスレッドで言いたかったことは、この事です、。

従って「楽・宗味」が「楽雅亭窯」を開くのは、兄常慶の死後1635年から、「三代目道入の弟道楽が楽忠窯を開く1656年」までの間21年間のどこかの時点でしょう、。京都では開くことは許されないので、大阪府堺市でしょう、。後に、甥にあたる「道楽(忠右衛門)が楽忠窯」を同所でを開く先鞭をつけたのでしょう、。
すると、例の「瑠璃釉」を「黒楽鉢に初めて使用したのも、宗味の楽雅亭」だろうということになります、。


◆楽家3代「道入」(別名ノンコウ)、1599~1656

楽家歴代の中で最も人気の高い作品を残した、。
弟の「道楽」は兄道入の死後、同年に「楽忠窯」を開いた事になります、。
それまでは京都で兄の仕事を手伝っていたのでしょう、。

◆楽家4代「一入」
これ以後は「楽焼植木鉢」には関係しませんので、以下略、。

◆結局、渡来人阿米也が創始し、長男である長次郎に引き継がれた「血縁」は、資料上からは「長次郎」で途絶えたことになりますね、。「精神と技法」とは伝承されているでしょうが、。
田中長次郎には子供が居なかったのか、結婚はしたのか、などなど、何も分かっていません、。



◆「宗味が開窯した楽雅亭」に関しては、以前から上記のように考えていましたが資料的には証明できません、。、「園芸ジャパン2016年1月号」では資料に基づいた記事を無難に書く事を選び、「1656年・楽忠窯の開窯」のみを記しました、。楽雅亭は楽忠から見れば叔父、楽忠は甥、年齢的にも「楽雅亭」が先に開窯したと見るのが妥当な判断だと思います、。楽雅亭の宗味、楽忠の道楽、共に生年没年などは不明です、。
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by evian_th | 2016-06-25 12:47 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢特集号が出るらしい                   No.550
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◆2015年11月22日、。   「楽焼鉢特集号」が出版されるらしい


「園芸JAPAN」誌が次の号(12月14日発売)で「楽焼鉢特集」を出すらしい、。
それでエビアンに「楽焼鉢の歴史」についての原稿依頼が来た、。

まぁ、いずれは「楽焼鉢」もネットのバーチャル空間で取り上げるだけではなく、リアルの世界で活字にするべきなのだろうけど、突然に言われるとまごついてしまう、。
ネットでは、その時々に思い付いた話題を断片的に取り上げてればすむ話でも、出版物となると、その生い立ちから連続して時系列に沿った形で論じなければならないという難しさがある、。

そもそも、「ネット東洋蘭風来記」を見て下さっている人以外は、「楽焼」や「楽焼鉢」が江戸時代に大阪で焼き始められた事すら御存知ないわけです、。いきなり「楽焼は大阪焼から始まった、」と聞けば気を失いかねない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

でも「大阪焼」から始めないと話が進まないから、今回初めてリアル世界に「大阪焼」(大阪楽)を登場させる決断をした、。その後、江戸時代後期になって、楽焼植木鉢は「京都」へ移るのですが、「京楽焼」は「短冊家」と、証拠が出て来てしまった「佐々木松楽鉢」だけで済ませて、その他は「その他古京楽」に分類してお茶を濁そうと思ったのに、一群の銘絵付けを施した「浮田楽徳鉢」を「古京楽」に分類する訳にも行かず、「浮田楽徳窯」も初めてリアル世界デビューさせることになってしまった、。

同じく、明治時代にカタログまで発行している「東京楽」の「福富京楽堂」も隠す訳には行かない、。で、出すことになった、。


今までネットをしない人、東洋蘭風来記を見た事も無い多くの人、にとっては驚天動地モノだろう思う、。
人を驚かせて喜ぶような趣味は持ち合わせてない、。それでここしばらくは奥部屋更新や余剰苗にも気分が乗らず、考え込んでました、。
ネット上で楽しんで来ただけだったし、出版物にしたいとも思ってなかったので気分が乗らなくて考え込んでた、。まぁしようがない、いつかはこういう日が来るのは必然だったのだろうと腹を決めたところです、。

ネットとリアルとの間にどれほどの温度差があるのかを知ることも楽しい、。

(掲載画像は短冊家(だと思う、下の方は怪しいけど)、青蔭さん所蔵)




by evian_th | 2015-11-23 00:37 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼蘭鉢「8割がた大虎窯」                 No.544
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◆2015年9月、。   楽焼鉢蘭鉢「8割がた大虎窯製」


例年よりも早くから秋の雰囲気漂う9月の入りです。皆様方にはお元気に高温度の夏を乗り切られましたでしょうか、お見舞い申し上げます。



今月の鉢は「8割がた大虎窯製の蘭鉢」です、。

持ち主さんから画像を頂いた時には、チョッと見に「あ、佐々木松楽窯ね、」と思った鉢です、。
9月はこれで行こうと決めて風来記用に画像修正を進めると”あれ、おかしいぞ”となったのです、。
「佐々木松楽窯」にしては絵付けに吉兆の絵が見当たらずテーマ性が無い、。足の絵付けが「菊花に唐草紋」ではなく「牡丹図に唐草紋」である、足の作りが「大虎風」だ、と感じるようになったのです、。

「1の足」には「老松に止まる雄の孔雀図」、「2の足」「3の足」には正面に絵付けが無く、見せ場の絵付けは足と足の間に描いてある、と言う変則型、。描かれているのは「老松」「孔雀一対」「牡丹」の組み合わせです、。孔雀図自体が珍しい上に松や牡丹と組み合わせるところが珍しい鉢になっています、。
段替わりを全く取らない総絵付け、。明治後期から大正時代の製作だと思います、。

「8割がた大虎窯」と書いたのは、細い金泥のイッチンで縁取りする絵付けテクニックを施す絵師は三河鉢にも1ヶ所存在するから、と言う理由と、実物を触ってないので他の窯の可能性も2割程度残してのことです、。
口径12.8センチ、高さ16.7センチ。(飛田邦之氏蔵)



◆確たる証拠あっての話ではありませんが、「佐々木松楽窯の楽焼鉢の素焼鉢は外注だった、」と聞こえて来たことがあります、。今月の鉢を見た時に「あ、佐々木松楽ね、」とエビアンが感じてしまった所からすると、もし万一その噂が正しかったとするならば、「佐々木松楽窯」へ「素焼鉢(楽焼鉢で”素焼”と言う場合には加茂黒釉薬を施した黒楽鉢の段階を指す言葉です、)」を納めていたのは、地理的に見て「大虎窯」しかありません、。「短冊家」や「浮田楽徳」は「素焼」を売って他の窯元の下請け仕事のような事はしなかっただろうと思われるからです、。




by evian_th | 2015-09-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢「浮田楽徳鉢」                    No.541
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◆2015年7月、。   京楽焼「浮田楽徳鉢」


◆京楽焼鉢「浮田楽徳鉢」のルーツを求めて
と、大そうなタイトルを付けるほど大して新しい情報は何もないのだけど、なぜどうして浮田楽徳が幕末1861年に「狩野派絵師」から「植木鉢窯元」へと転身することになったのかを自分なりに納得したくて思いを馳せた、。

「浮田楽徳」は、戦国時代「豊臣五大老」の一人、「備前岡山64万石城主・宇喜多秀家」の七世の孫に当たる「幕末の狩野派絵師・浮田一蕙」の血縁者でほぼ間違いのないところでしょう、。
戦国時代には「宇喜多」と記し、その後の直系の血族を「浮田」と記したようです、。このことから「浮田楽徳」も「宇喜多秀家や一蕙の血縁者」だと判断できます、。

宇喜多秀家は西暦1600年、西軍の副将として「関ヶ原の戦」に敗れ、一時は逃れるも、囚われて「八丈島へ流刑」の身となりますが、加賀前田家から豪姫が嫁いでいる関係で前田家から絶大な支援を受け続けます、。
まぁ、我々「楽鉢愛好家視点」では、徳川幕府から徹底的に虐げられた家系の様子、。1616年・徳川家康の死後(今年は家康没後400年に当たる、)、刑が解かれ血縁者は江戸に移り、現在「浮田姓の人々」は八丈島・東京・京都・九州に住んで居られます、。「楽徳直系の人」を探したのですが、京都には居られないようです、。

幕末、京都の狩野派絵師の中でも、「討幕派」の家系ではあるし、狩野派は主流が「唐絵」を描くのに反して楽徳は「大和絵」を描くし、「家長の浮田一蕙」は安政の大獄の罪人だし、1859年に一蕙の死後は狩野派には居辛くなったのでしょうね、。1861年に窯を開いて「陶芸の道」へと進むことになります、。

「浮田楽徳」は1830年生まれ大正元年83歳で没します、。上画像の「腰部分」に描かれた「雲形」を楽焼鉢に描くのは「浮田楽徳」と「五柳寿運」だけだと思います、。(短冊家さんの鉢にも無いと思いますが、見落としがあるかも知れません。)
この「金絵具」による「雲形」を楽焼鉢に初めに描いたのが「浮田楽徳」だろうと思っています、。「五柳」もこの雲形を見事に描き、このことが以前からエビアンが「楽徳と五柳とは師弟関係だ」と言っている根拠となっています、。筆先に金絵具を付けて、サッサッサッと実に手馴れた様子で雲形を描くのはこの二人だけです、。

古典園芸界には「五柳鉢」は数十個存在しますが、中には怪しげな鉢もあり、この「雲形の描き方の手馴れ加減」で見るのも一つの見分けのポイントになるかも知れません、。
筆をトンッと入れた所が太い線になり、スッと細くなり、曲がり角でまた太くなるという風に筆跡にリズム感を感じさせるのが手馴れている証拠、。チリチリチリと同じ太さの線で雲形を恐る恐る描いた風なのは手馴れてない印しでしょう、。

話は前後しますが、「宇喜多姓の人々」が正式に赦免されるのは、「関ヶ原の戦」から270年も後の明治2年に明治政府によって赦免されたのですから、江戸時代270年間は宇喜多秀家直系の人達の無念は想像を絶します、。
まぁ、そういう中での「浮田楽徳」の独立だったのでしょうね、。徳川藩の支配する江戸へは行けない、大きい仕事は江戸狩野が全部請け負ってしまう、京都の狩野派に居て「大和絵」を描いていても先が見えない、京狩野は狩野山楽の直系が主流だ、といった心境だったのでしょう、。その無念さを胸に秘めこつこつと楽焼鉢絵付けに打ち込む姿が目に浮かびますし、作品に甘さ(妥協)が見られないのも「浮田楽徳鉢」の特徴だと感じます、。

みなさんが江戸時代の絵師(今ではテレビなどでは「江戸時代の大画家」などと言いますが、絵師です。)と聞いて思い浮かぶ名前の90%以上は「江戸の狩野派絵師」です、。長谷川等伯・狩野探幽・尾形光琳・俵屋宗達・丸山応挙・(まだ誰かたくさん抜けてるな)とかも皆なそうです、。
京都に居て、狩野派と言われながら、浮田姓の大和絵師、と来てはまともな仕事の依頼も来なかったことでしょう、。

(いつもながら、エビアンは下書きなどせずに、画像をアップした後に考えながらの文字打ちですから、文章が変で申し訳ありません、)、。

◆「浮田楽徳」は「浮田一蕙」の血縁者であること、。
◆「楽徳と五柳」とは師弟関係(または血縁)だということ、。
◆萬年青界が言っていたように、「楽焼鉢絵師」は「狩野派」の影響を受けていること、。(どころか、狩野派絵師そのものだった)、。


まぁ、この辺が最近エビアンが思っていることです、。(まだ何か書き忘れている気がする)




by evian_th | 2015-07-29 01:30 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
第3回・華幸園展示即売会                   NO.538
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◆2015年6月、。   第3回・華幸園展示即売会


急な話なのだけど、四国の華幸園さんが「第3回・華幸園展」を開催されることが決まったらしい、。
ごく一部の人は別にして、こういう「古典植木鉢」を見せて貰える機会は少ないんだから、拝見して目に貯金しておくことは無駄にはならない、。何といっても、実物を見ない事にはね、。目の肥やしになると思います、。




花ごよみ 夏の蘭展
時:2015年6月26日~29日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)



兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2015年7月5日(11am~16pm)
所:相生園芸センター




三香園 富貴蘭展
時:2015年7月4日・5日
所:三香園




by evian_th | 2015-06-03 13:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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