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タグ:東洋蘭・楽鉢 ( 16 ) タグの人気記事
三河鉢繕い完了                          No.588
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◆2017年7月28日、。   三河楽鉢の金繕いが完了した。


この鉢は昨年初夏の頃に入手し、繕いに出して一応出来上がったものを、今年2017年2月のトップ画面に使用した鉢、。
今回は、2月に掲載した後に再度繕いに出して、「金繕い」を施してもらったので掲載、。

「繕い」というのは、一般の陶磁器の世界で漆や金や銀を使って「ひび(ニュウ)の入った部分」や「欠けた部分」や「割れてしまった部分」を美術的価値あるように補修し、愛玩する道具に生き返らせる技術のことだ、。

古典園芸界に於いては、この「一般的な繕い」という技術は重要視されず、「ひび割れも欠けや割れ」も何も無かったかのように「あたかも無傷であるかのように修復する」のが当たり前に通用して来た、。「誤魔化し技」で補修して来たのだ、。これを高価に売りつけるというのは、一種の騙しとか詐欺のようなものなのだ、。そういう風な技術が一般化して来た、。

「割れや欠け」があろうが「にゅう」が入っていようが、鉢の文化的な価値には何も関係はない、。価格的には「無傷完品」には及ばないかも知れないが、150年前に短冊家や浮田楽徳たちが精魂込めて製作した鉢であることに変わりはない、。大戦争や火災や地震や洪水などという日本列島に住む者には運命のような苦難を乗り越えて受け継がれて来た鉢々である、。大切にしてやりたい思う、。


それで、こそこそ隠れるような補修をするのではなく、堂々と「金繕いを施して繕い痕も全部丸ごと楽しむ」ようにするのが今後の楽鉢界の正しい姿ではないかと考えるようになった、。

このような考えに至った原因の第一は、「決定的に古典楽鉢の現存数が少ない」からだ、。
「ひび割れがある」「欠けている」などと傷物扱いして破棄できるほどの数が園芸界に現存していない、。金繕いを施して大切にし、後世へ引き継ぎたいと思ってる、。

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「金繕いの本」という本。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。が園芸ジャパン誌を出している出版社から出た、。
この本を読んで(写真多し)「金繕いを楽鉢界も始めましょう」などという気は無い、。「金繕い」の全てが理解できる本だとは思う、。1800円。

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by evian_th | 2017-07-28 00:18 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
霞取り白唐草紋蘭鉢                       No.586
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◆2017年7月、。   縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

栄養成長期の終盤に入り、蘭が最も活発に成長する季節になりますね、。

縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

こういう「白唐草文様の鉢」は窯元判断が困難です、。京都にも三河にも、恐らく東京の手島にもあり、描き方も顔料もそっくり同じようなので、紋様からは窯元も製作年も判断は不可能です、。
愛知県三河鉢では興楽園・杉浦勘之助がこの紋様の鉢を比較的多く製造しましたし、ということは、勘之助と組んで楽鉢販売をした東京の手島鉢にもあったのでしょう、。福富京楽堂にも唐草紋はありました、。

描き方には2種類みられます、。「線状の蔦」が描かれた絵と、「蔦はなく貝殻のような花のような紋様」を中央部に描き「葉」だけを描いたものとが見受けられ、「唐草紋」と呼んでいて良いものかどうか迷う事があります、。「唐草紋」は中国から伝わったのでしょうが、楽鉢へのこの描き方は日本独自に作り出された模様だと思います、。
鉢ヘリの「細かな縄縁紋」は、古くは大阪楽でも見られるので、これも判断材料とはなりません、。
「霞取り」も京楽・三河楽・東京楽に共通したデザインです、。
結局は「鉢の台部分」でしか判断できないという困った分野の鉢です、。

足の形などから判断すると、「京楽」でしょうが、鋏み痕が足にあるようなので、「浮田楽徳窯」か「大虎窯」の製品だと判断できます、。明治後期くらいでしょうか、。
展示会用には重宝しそうな鉢です、。13.7cm×17.3cm、(飛田邦之氏蔵)




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by evian_th | 2017-06-30 02:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
武者絵万年青鉢                          No.581
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◆2017年4月、。   武者絵(?)万年青鉢


8年ほど前から、風来記の植木鉢画像保存フォルダーの中に上掲の鉢画像があり気になっていました、。1の足方向からの画像しか無くて、上から鉢の中を覗き込んだ画像や鉢の底から見た画像が無かったもので、窯元の特定どころか京都の楽鉢なのか三河の楽鉢なのかの判断さえ出来ない状況でしたので、画像を使いかねていました、。
「三河鉢」の話も書くようになったのですから、不完全ながら画像を使うことにします、。このままお蔵入りさせるに忍びない良い鉢ですから、。

という訳で、「窯元判定」や「年代判断」「産地判定」も不能なのですが、「総絵付け」された絵付けの素晴らしさは目を引くものがあります、。
描かれた主役は「武者絵」とは見えず、何と書けばよいのか迷います、。エビアン不勉強で、この絵付けは「歴史上の有名なシーン」なのではないかと感じるのですが、どなたか描かれたテーマを御判断頂いてお教え下さい、。

これほどの絵付けをできるのは、京都では浮田楽徳窯か佐々木松楽窯でしょう、。総絵付け得意な三河地方にはこういう絵付けを得意とした窯元はありました、。「鉢底画像」があれば時代判断が可能になり、明治時代の古さがあれば京楽鉢、昭和初期ごろの製作なら三河鉢、という風に判断が可能なのですが、。

3枚目画像をご覧ください、。撮影者が、鉢の口径と高さとをメモった紙を鉢の足に立てかけて撮影した画像ですが、素晴らしい絵付けが施された片鱗が窺がえます、。足の「金の下地の上から金泥で唐草模様を描く」という実に粋で贅沢な絵付けをしています、。余程の大棚の注文制作だったのでしょう、。2の足・3の足の画像も見たい、鉢底も見たい、という焦燥感に襲われる逸品です、。銘鉢ですね、。(15㎝×15㎝)
画像撮影時には四国にあった鉢ですが、その直後に東京方面へ買われて行ったという噂です、。









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by evian_th | 2017-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
三河鉢                              No.579
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◆2017年2月、。   東洋蘭・三河楽鉢


東洋蘭「三河楽」、。
昨2016年初夏に入手の鉢、。画像で伝わるかどうかは不明ながら、妙に惹かれる所が有って、エビアン割合気に入りの鉢です、。先日来宅の万年青商人さんも席に着くなり、隣室の棚に並べた10個ほどの鉢の中からこの鉢を指して「あれはいい鉢ですね、どこの鉢ですか?」と問いかけたほどだから、妙に人の目を引くものを持った鉢なのだろうと思います、。

「三河鉢」だと思います、。
エビアンが「三河鉢」とか「三河楽」と呼ぶのは、大雑把に「愛知県産」の鉢全体をそう呼んでいるだけで、厳密に「尾張」「三河」と分けて考えているものではありません、。じゃ、どうして「愛知県産の鉢」と呼ばないかというと、陶芸の世界では習慣的に「尾張鉢(伊万里焼に似た磁器の鉢に使う場合が多い)」「三河鉢」と呼んで来たのでその習慣にならっただけです、。

「三河楽鉢」が何時の頃から焼かれるようになったのかという問題については、「大阪楽」「京楽」を調べる内に徐々に一つの結論に辿り着きました、。
愛知県三河地方に「楽焼そのもの」の製法が伝わったのは、おそらく江戸時代幕末(1853~1867)の事だったろうと思います、。その楽焼の技術で「楽焼植木鉢」を作り始めたのは、明治に入ってからであろうと思っています、。
「三河楽鉢」に1600年代のような古い鉢を見ない事、。
「大阪楽」の形跡も見えない事が、その理由です、。

「大阪楽」は「太鼓胴の鉢」から始まり、「鉢縁下」(はちべりした)と「腰」の部分に鋲を打ち、3段の「段替わり(だんがわり)」を取って、三段階に徐々に胴回りが細くなります、。

「京楽」は、「短冊家」が「三段階に徐々に絞る事を廃止し、段替わりの名残りとして「鉢縁下と胴の間」と「胴と腰の間」に「1本か2本の帯線」を緑土(テールベルト)や金泥で書き込むという画期的な革命を起こし、主役の絵付けは胴部分に描き、「鉢縁下」と「腰」には日本古来の伝統文様を描くという京楽独特の形式を作り出しました、。短冊家以外の京楽窯もそれに倣った鉢を作りました、。

「三河楽」には、この大阪楽が現在の鉢へと変化する”過渡期の形をした鉢”が見られないのです、。
従がって、「三河楽」は「京楽に倣った」のだと思われます、。
それと、「大阪楽」の特徴である「段替わり」の意味も伝わってないようです、。「京楽鉢」に描かれた「段替わりの名残りの2本線」の意味も伝わらなかったようで、「名残りの2本線」を省略した総絵付け鉢が多い」のも三河鉢の特徴です、。総絵付け鉢で、絵付けの良いものは三河鉢に多いように感じています、。
製作された年代は、明治時代後期から大正時代を通して昭和初期の頃が多かったと思われます、。

「三河鉢」が、どの地方へ販路を求めたかというと、これはもう東京・関東地方でしょう、。京都には京楽窯が6窯もあったのですから東京へ売るために製作しただろうことは明白です、。
「京都は公家文化」「東京は武家文化」「大阪は商人文化」の都市ですから、「武者絵」「富士山」「城」などの東日本・関東人好みの絵付けが多く見られます、。(逆に言うと、西の人間には馴染みが薄いから京楽鉢にはそれらの絵付けは少ない)、。
「万年青鉢」に良い鉢が多い、のも三河鉢の特徴です、。
「絵付けの題材」「鉢の陶土」「足の形」などで「三河鉢」の多くは見分けが可能です、。良い鉢が多いですよ、。
中には「短冊家」を完全に真似た窯元もあり、チョッと見に短冊家と見間違えます、。京楽鉢よりも軽い鉢と京楽鉢よりも重い鉢とがあります、。鉢の形は一定せず、三河独自の形のものもあれば京楽そっくりなものまで幅広く作られました、。
「無地の加茂黒鉢」の大部分は三河鉢です、。京楽は絵付けをして付加価値を付けて高価に売ることを目指したので、京楽に黒鉢は少ないものです、。
「鉢縁下」と「腰部分」には京楽では着物界や工芸界の伝統文様を忠実に描くのですが、三河鉢ではこの部分に伝統文様を半端に真似たような文様が描かれてあります、。


さて、今月のトップ画面の鉢は、これは何と表現すればよいか、「花菱繋紋三河鉢」なのですが、単純な花菱繋紋ではありません、。金線で囲い、花菱繋紋と金泥で岡本太郎画伯の描くような文様が描いてあり、何とも魅力的な文様です、。
買った時は割れ鉢で、下部を持つとギシギシと音がして今にも割れてしまいそうな鉢でした、。底穴周囲も割れて部分的に欠け落ちている状態でした、。買った翌日に繕い屋さんへ持ち込んで秋までに繕いを依頼しました、。秋の展示会前に引き取りに行くと、ひび割れは漆と金繕い、底穴まで何かの素材で直してくれてありました、。その部分にも金繕いをしてもらおうと再度持って行くつもりで居ます、。エビアン自身は1月の鉢よりも今月の鉢の方が好きです、。価格は遥かに安価でしたが、。口径14.5センチ、高さ14センチ、。

「三河の今川義元」と「尾張の織田信秀」の関係がどういう風であって、今も地元ではゴッチャにされるのは許されないというような雰囲気が尾を引いているのならお教えください、。表現方法を考えます、。
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現在のところで判明している大正時代から昭和初期の愛知県下の楽鉢窯元名を列挙しておきます、。残念なことに、その多くは窯元名と製品とが一致しません、。京楽鉢のように「これは○○窯」という訳には行かないのです、。

京楽焼三河元祖・杉浦勘之助(三河碧海郡)・・・陶楽園・山田政吉(三河碧海郡)・・・開楽園・鳥居彦四郎(三河碧海郡)・・・愛楽園・杉浦重平(三河安城)・・・京楽焼窯元・横山孫一(三河碧海郡)・・・改楽園・神谷長平(三河碧海郡)・・・三河楽焼窯元・坂倉周一・・・昭楽園・石川万太郎・・・澤製陶所(三河碧海郡)、その他、都築勝士、亀井謙一郎、藤浦留吉、などです、。

(この窯元名項目参考文献・水野豊明園「万年青の歴史」、米谷青彰園提供「園芸新報・昭和14年8月1日号」)、協力:華幸園

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by evian_th | 2017-02-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳菊花紋万年青鉢                     No.574
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◆2016年12月、。   五柳・菊花紋万年青鉢


師走!!!,、。
今年も誠にお世話になりました、。東洋蘭風来記も13年目に入っています、。これからも引き続きましてご訪問下さいますようお願いします、。

「五柳・菊花紋万年青鉢」、。
年末に相応しく、背筋がシャキッと伸びるような鉢をご覧頂きます、。

台の鉢は短冊家製、。五柳の持てる技を存分に注ぎ込んだ逸品です、。
残念ながら1の足方向からの画像しかありません、。2の足・3の足の絵付けも是非見てみたいと思わせる鉢です、。
「腰」部分には五柳の青海波紋様、「鉢縁下」(はちべりした)は唐草紋(?)、「胴」には写実的な菊花紋を散らしてあります、。ま、上出来の格調高い「五柳鉢」です、。

このクラスになると価格も跳ね上がるてもんです、。五柳もいろいろだから、。
短冊家の作りもいいですね、。時代乗りもいいけど元々の鉢の造り自体が素晴らしいと感じます、。
万年青鉢のこの形、全体のフォルムを完成させたのは「京都・短冊家」だと思います、。
西暦1800年代初頭の「大阪楽の万年青鉢」からいきなりこの形の「短冊家の京楽鉢」へ飛びます、。短冊家の極く初期の作品は既に大阪楽とは違い完成度が高いのです、。
大阪楽の万年青鉢の最後の方は「園芸ジャパン2016年1月号の16ページ17ページ」に掲載の2個ですが、その後に古典園芸用楽鉢の製造が京都へ移ると、突然完成度の高い短冊家鉢が登場します、。デザイン的にその途中の移行期の作品は見ません、。(今後出て来るかも知れませんが)、。

そう考えると「京都・短冊家」というのは大したものです、。特に初代が凄かったのだと感じています、。
その後に出て来る多くの窯元、浮田楽徳・福富京楽堂・愛知県三河地方の窯元、などなど、みんな「短冊家のフォルム」を継承しています、。他のデザインを工夫させる余地も無い程の完成度の高さを江戸時代・文化文政年には完成していたのですから短冊家というのは大したものです、。それから200年経った今現在も同一のデザインなんですからねぇ、。驚きですよ、。

激動の2016年を終えるに当たって、素晴らしい鉢をご覧下さい、。
口径14センチ高さ14センチ、。(河野祝之氏蔵)






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上画像、1枚目と2枚目とは同じ画像に見えますが、2枚目の方は少し緑色を強調して少しクッキリとさせてあります、。実物の見た目は1枚目画像のようでしょうが、絵付けの説明は2枚目の方が分かり良いと思います、。






大阪東洋蘭会 2017年 春季展示会
時:2017年3月12日。(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会








by evian_th | 2016-12-01 00:29 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「白唐草文様蘭鉢」                    No.571
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◆2016年10月、。   楽鉢「霞取りに白唐草紋蘭鉢」


「白胴に薄緑色の透明釉薬を掛けた上から白唐草紋」を描く楽鉢を最初に製作したのは江戸後期の「初代・京都・短冊家」だろうと思います、。「短冊堂」の落款入り6寸万年青鉢が残っています、。
それ以前の「大阪楽」には、このデザインの鉢を今までのところでは見かけません、。

結構難しいイッチン技術が必要だと見えるのですが、明治・大正・昭和初期にかけて、全国各地の多くの窯元が同様の模様の鉢を作っています、。
愛知県の興楽園・杉浦勘之助窯の製品も多く残っていますし、東京の手島揫二窯・福富京楽堂窯ほか京都の窯元も製作した様子です、。このデザインに関しては、どこの窯元製品も出来具合が良く、比較的完成度の高い鉢が多いデザインです、。

今年1月号の「園芸ジャパン楽鉢特集」では「短冊家」に分類してありますが、今回トップ画面で使おうと思って改めて見てみると、鋏み痕が足にあるような気がしますし、内掛けの釉薬の切れ方も短冊家らしくない気もします、。何しろ実物を触った訳でも無いので、窯元特定の判断に迷う部分があります、。

鉢の出来具合は良く、全体に上品な出来具合に仕上がっていると感じます、。花物柄物どちらに使っても似合いそうな雰囲気です、。鉢の胴部分の色は、1枚目と2枚目画像の中間的な色ではないかと思います、。(飛田邦之氏蔵)





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by evian_th | 2016-09-30 11:01 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」           No.566
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◆2016年7月9日、。   「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」

この文章を読んで頂くには、下2つの記事も参考に見て頂きたいので、クリックで各スレッドへ飛ぶようにしています、。
◆2015年12月、スレッドNo.553、「瑠璃釉薬の顔料」


◆2010年12月、スレッドNo.378、「楽焼鉢の顔料」


(このスレッドは、下スレNo.563「京焼から進化した楽焼」の最後の章の続きです)
黒一色だった「楽焼植木鉢」に最初に絵付けされた「顔料」が上画像にありますように「瑠璃釉」です、。
ところが今のところ、この時の「瑠璃釉薬」に用いられた「顔料」が判明しておりません、。

江戸時代初期(1600年代)、丹波の国桑田郡野々村に生まれた「清右衛門」という陶工がいました、。若い頃は京都粟原口(あわたぐち)や瀬戸で修業を積み、1644年~1648年頃に金閣寺の西方の仁和寺の門前に「御室窯」(おむろがま)を開き、生まれ故郷から姓を取り、仁和寺の「仁」と「清右衛門」の「清」を取って名を取り「野々村仁清」(ののむらにんせい)と名乗るようになります、。
江戸初期の京焼は、この野々村仁清と絵師・尾形光琳の弟で陶工の尾形乾山という二大巨匠によって非常に栄えます、。
尾形乾山はどちらかというと土着の落ち着いた陶器を製作したのとは対照的に野々村仁清は多彩な色調とモダンな意匠の陶器を作りました、。Google検索窓に「野々村仁清」と打ち込んで頂くと沢山の作品画像が出て来ます、。

その野々村仁清が「青色」「紺色」「紫色」を出すのに用いた顔料は風来記2010年12月スレッドNo.378「楽焼鉢の顔料」の末尾に書いています、。
ただし、「瑠璃色」というのは「青色」でも「紺色」でも「紫色」でもなく、もっと輝くような艶のある色だと思うのです、。野々村仁清の作品画像の中から瑠璃色に近いかなと感じる茶碗画像を上に掲載しました、。似ているかも知れないし違うかも知れませんが、もし同一なら、「ラピスラズリ(瑠璃)」を使わずにあの時代に「瑠璃色」は出すことが出来た事になります、。
ただし、上段の瑠璃色に見える所の下半分は緑色になって来ていますから。ここは「岩群青(アズライト)」を使用してあり、350年という時間の経過で酸化が進み「岩緑青(マラカイト)」に変化したものと思われます、。このように「岩群青」だけでは化学的安定性に欠けるのです、。下画像の楽鉢の「瑠璃釉」は同時期の製作なのに「瑠璃色」は変色せず安定していますから、「岩群青」よりも安定性の良い顔料を使用してあります、。それが「瑠璃(ラピスラズリ)」だったのではないかとエビアンは考えるのです、。



瑠璃色と言うのはもっと輝く様な、しかも深みがあると感じるので、それを出すには「ラピスラズリ(瑠璃)」か少なくとも「アズライト(岩群青)」を混ぜて使わないと発色しないのではないかと思います、。
この頃(1600年代)はこれら顔料の多くは中国からの輸入品に頼っており、400年後の現在でさえ信用のおけない中国人が、注文通りの物を送ったかどうかという点にも疑問はあります、。「岩紺青」という注文に「岩群青」を送ったほどなのですから、。

「支那呉須」では瑠璃色は出ない、。「岩群青」だけでも出ない、。「瑠璃」を日本人陶工が使ったという記録が見当たらない、。しかし、それらの混合によって「陶器の瑠璃色」は出されたに違いないと思います、。


◆京都の「野々村仁清」と大阪の「楽忠や楽雅亭」とは、製作年は1650年前後からという風にほぼ重なりますが、お互いに交流があったかというと、相互の作品に共通点は見当たらないので、交流は全く無かったのだろうと思います、。
◆野々村仁清はあの時代には珍しい芸術家肌の作品を製作したのと比べ、楽忠・楽雅亭は生活雑器の製作を主とした職人だったように見受けられます、。
◆時代が一致するので一応参考に両者の使用した顔料を比べてみました、。



今現在の時点で分かる所はこの辺までです、。後の時代に解明される事を期待しています、。

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by evian_th | 2016-07-09 01:43 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「五柳万年青鉢」                    No.565
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◆2016年7月、。   京楽鉢「五柳青海波紋万年青鉢」


現代陶画工の第一人者である「布施覚さん」が絵付けした鉢は「布施鉢」と呼んで古典園芸界から親しまれ、絵付けの腕前も高く評価されていて、台として使用している鉢が「澤製陶所の利山鉢」とは呼ばない、。同じように「五柳寿運が絵付けの鉢」は「五柳鉢」と呼んで、愛好家垂涎的であるけど、「短冊家」とは呼ばれない、。
昭和平成と明治の秀でた二人の絵師は、それほどまでに親しまれ愛された作品を描くのである、。


「五柳・青海波紋万年青鉢」(10センチ×高さ9センチ)
「五柳」定番の「青海波紋」鉢なんだけど、五柳の鉢を掲載すると、ホッとするような安定感のある雰囲気が漂うのは、「五柳鉢」の持つ神秘的な奥深さやポテンシャルエネルギーの高さを感じさせられます、。今更面白い絵付けではないのに、見ると落ち着く、風来記サイトが安心するように思うのです、。流石ですよ、。

「五柳定番の雲形」、「五柳独自の青海波」、「段替わりの横線のピシッとした引き方」、どこを見ても「あ~、五柳だなぁ~」と感心するばかりです、。
鉢内側の「白丸とその両側の紅ポッチ」はこの鉢の場合、削り落としたか鉢を使用中に自然に落ちてしまったらしく、赤い丸状の線の中に元々の紅点の痕跡が見られます、。いい鉢ですね、。
                             (西口郁夫氏蔵)








by evian_th | 2016-07-01 00:40 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京焼から進化した楽焼                     No.563
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◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


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この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
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◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
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<奥部屋記事から転載>




by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼蘭鉢                          No.561
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◆2016年6月、。   古典楽焼蘭鉢


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)



今月の鉢は非常に判断が難しい蘭鉢です、。画像だけを普通に見れば「三河鉢」の中の優秀品と判断される人も多いかと思いますが、この鉢画像はエビアンの撮影で、撮影時に手で持って触っています、。その時の印象から、一概に三河鉢とは決められない、。京楽鉢の可能性も多いと感じたので、従前なら「古京楽」と言う分類になるのでしょうが、風来記では鉢のチョットした特徴から「大虎一群の鉢」であるかも知れないと思います、。

下に掲載の「京楽5窯の位置関係図」の内、「短冊家窯」「浮田楽徳窯」「佐々木松楽窯」は単独の窯元ですが、その後の調べで「大虎窯」というのは、どうも一つの窯を指すのではなく、3~5窯の集合体であったようです、。(誤解を招く表現でした、。祇園馬町の周辺には明治時代以来多くの陶磁器窯元があり、馬町の窯元の中で、現在のところ名前の判明しているのは”大虎窯”だけなので、祇園馬町に在った窯元の代表として”大虎窯”と書いた訳です、。今後の調べで個別の名前が判明すれば、それぞれ独立させます、。)

下に掲載の2枚目画像は、明治12年ごろの京都東山・清水寺近辺の地図です、。(この地図では上が東の方角になっています)、。
現在のように東山山麓に沿って南北に直線状に通る「東大路通り」などは無く、農道のような道が込み入ってます、。
①は、清水寺(きよみずでら)
②は、葬送の地である「鳥辺野」(とりべの)
③は、鳥辺山の南側一帯が「祇園馬町」(ぎおん・うままち)です、。
鳥辺野一帯は平安京以来1000年に渡って葬送の地であり、こんな不気味な場所に多くの陶磁器窯元が窯を開いていた訳です、。この馬町には現在も「清水焼」(きよみずやき・磁気)の窯元が多くあるようです、。
陶磁器を焼く窯元などは嫌われていたのかも知れませんね、。
徒然草に「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ・・・」と書かれている通り、鳥辺野は火葬の地でした、。陶磁器窯元も煙が出ますので、そういう所へ集まったのかも知れません、。

現在の京都は観光地化されていて、清水寺へ昇る東大路通りと五条通の交差する五条の交差点は広い道路で、馬町の信号で止まっていると、1回の青信号で京阪電車からの観光客が数百人も交差点を渡り清水坂を昇って行きます、。平安京以来の屍が埋まった上を踏みつけているのも知らないで、。清水坂の右側の土産物店の裏側は「鳥辺山の墓地」なのも知らず、気味悪い場所であるのも知らず、明るい観光客で溢れています、。

「鳥辺野」の南側一帯の馬町に在った窯元の内、「楽焼鉢」を焼いて現在名前が判明しているのは「大虎窯」だけです、。風来記では、便宜上この馬町周辺の窯を「大虎窯」と表現することがあるかも知れません、。ご承知おきください、。「福井楽印窯」についてもエビアンの気持ちの中では、最近は新しい考えになりつつあります、。いずれ機会があれば、。

今月の鉢は「桐唐草に十六枚菊花一重紋」の蘭鉢です、。
菊花紋が描かれているから皇室関係献上品という訳ではありません、。菊花の花弁の描き方が雑ですし、皇室献上品の場合は「十六枚八重菊」の筈です、。まぁ、献上品は絶対に無いでしょうね、。絵付け全体も隙だらけですし、。
この鉢の良い所は、何といっても使い心地の良さそうなところです、。口径と高さのバランスがいいし、足の広がり具合も良い、。嫌味な所が感じられない、。柄物春蘭を入れると一段と映える鉢でしょう、。好もしい蘭鉢に仕上がっています、。使い勝手の良さそうな蘭鉢です、。
大正時代から昭和初期の製作、。口径13cm高さ17cm、。(鈴木学氏蔵)


下画像の地図は大きめサイズで掲載しています、。画像をクリックして拡大してご覧下さい、。
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以前風来記ページか奥部屋かに「京楽鉢に第六の窯元が在ったかも知れない」と書いた時に、エビアンの頭にあったのは下画像の、「足が腰へ着く部分を横から見ると、ポコンと丸く出た一群の鉢」です、。
この鉢は窯元不明のままに置くにはあまりにも惜しい鉢なのです、。台の作りもいいし絵付けも非常に巧み、。高級感あふれる鉢に仕上がっています、。この鉢の窯元名は是非とも調べたいと願っています、。

陶磁器の資料を調べていても「楽鉢」は本当に出て来ないのです、。大々的な登り窯などは必要が無く、民家のような家の中で焼けてしまうものですから、陶磁器窯元として資料に出て来ない場合が多いのです、。短冊家さんでさえ資料的には出て来ないのですよ、。
浮田楽徳は出て来ました、。しかしそれも「楽焼を焼いたらしい」というような短い一文だけです、。「植木鉢を焼いた」とは出て来ません、。植木鉢を焼く事は陶磁器窯元としては恥ずかしい事だったかのように、「楽焼」とは出ても「楽鉢」とは書いてありません、。「京楽」や「大阪楽」を調べるのは想像を超えて困難な作業なのです、。それでもなお、下画像の鉢の窯元は突き止めたいと思っています、。

「祇園馬町」の周辺も不明な窯元が多いのですが、エビアンが気になっているのは、東山の「八坂神社や知恩院の裏側」にあたる「粟田口近辺」です、。この辺にも江戸時代以後、陶磁器、特に「陶器の窯元」が集まっていた記録があります、。下画像の鉢は、この辺の「粟田焼」「京薩摩焼」の系統に属する鉢ではないかと考えています、。
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「京都平安京」を開いた「桓武天皇」という人は大変な怖がりでした、。
京都に都を開くに当たり、「四神相応の土地」にすべく、東に琵琶湖からの流れを引き「青龍の気」とし、南に「巨椋池」を置いて「朱雀の気」とし、西に「西国街道」を引いて「白虎の気」とし、「北に北山」があって「玄武の気」としました、。
都の東西南北に大きい石を置いて「岩倉」とし「荒ぶる神様であった素戔嗚尊(すなのおのみこと)」を降臨させて都を護らせ、「大将軍八神社」を置いて都の守りとし、死者の怨霊を閉じ込めるために変死者が出るとその場所に多くの寺を建て、死者の怨霊を弔う「祇園祭」をし、陰陽師安部の清明のような「陰陽師」に「式神」を使って悪霊を払わせ、「白拍子」「かむろ」を使って市民を見張らせたほどです、。また、北東の「表鬼門」には数々の「鬼門除け」の神社を置き、北東の奥には「比叡山延暦寺」を置いて「表鬼門払い」としたのです、。

「表鬼門」をそれほどまでに気味悪がったのに、吉祥事が入って来る南東の「風門」の「鳥辺野を火葬の地」とし、主人(桓武天皇自身)を護る北西の「天門」に「風葬の地・化野(あだしの)」を置いたのが、どうにも合点が行かないのです、。

◆在りし日の「巨椋池」(おぐらいけ)
京都十条の辺から宇治市を含み、南は大阪・淀の競馬場までを含むほど大きい池でした、。湖と呼べるほどの広さがあったのです、。南の「朱雀の気」を失うわけです、。これを埋め立てると京都が四神相応の地ではなくなるのに埋めてしまったのでした、。
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明治から昭和20年頃へかけて埋め立ててしまった、。近年話題の伊藤若冲が描いた「蓮の葉の下を泳ぐアユ(鮎)」は、この巨椋池でのみ見られる光景でした、。(蓮は濁った水に咲き、鮎は清流を好みますから、伊藤若冲の代表的な絵の中に「蓮の葉の下を泳ぐ鮎の絵」があるのはおかしいのではないか、という文句をつける学者が居り、調べた結果「巨椋池」でのみ見られる現象だったことが判明しました、。伊藤若冲の観察眼の鋭さが見直された出来事でした)、。







by evian_th | 2016-06-01 00:14 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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