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五柳                              No.592
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◆2017年10月20日、。   五柳




上掲の画像は、「万年青界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」と「蘭界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」のサイン部分の抜出画像です、。
園芸ジャパン誌」に五柳を書く時も「栃の葉書房」に五柳を書く時も、出版社が最も警戒するのが「著作権・画像の所有権」の問題です、。
だから、この2つの鉢を比べて同時に掲載することは出版社では無理なのです、。


ネットじゃ構わないのか?てと、やはりマズイにはマズイのですが、蘭界の分は野田谷君の上野の展示会に展示されスナップ撮影も禁止じゃなかったし、萬年青界の分は現在の所有者が判然とせず、画像の所有者から流れ出た写真だから、まぁ風来記では使ってます、。


この2枚の画像を揃えないと説明がつかない話もあるからです、。


画像向かって左の万年青界にある分は「芳古園主・五柳寿運」と本人が描いており
向かって右の蘭界にある分には「芳虎斎・五柳寿運」と描いています、。
これらの事から判断できることは、五柳は五柳寿運と名乗っていた絵師で、「芳古園」の暖簾を出し、「芳虎斎・五柳寿運」を名乗っていたこと、。
<div>昔の人はいくつもの名や号を持ち、本名も3つくらいは平気で名乗っていた、。この事で、初めの頃に「楽家の人名」で苦労した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、一人で5個くらいも名前を持っているんだもの、。


「五柳」は短冊家の雇われ絵師ではありません、。独立した陶画工(陶磁器専門絵師)でした、。
他の窯元の鉢にも絵付けをしましたが非常に少数です、。余程高価だったのでしょう、。


「京都」という特殊な土地柄は、京都自体がお互いに助け合いながら動いている一つのシステムのような都市で、あの道路沿いにずらりと並ぶ「京町屋」の2階部分は「各種職人の仕事場」になっている、。
<div>「京扇子」一つ作るにも、竹を削る人、扇状に割る人、扇面に絵付けする人、絵付けされた紙に竹の骨を入れる専門職の人、仕上げする人、売る人、などと、京都の町をアチコチ回って、ようやく1本の「京扇子」が完成する、。
<div>基本的に、人を雇わず「身内だけの家内工業」が多く、このことが不況に強く100年以上の「老舗」を多く残す原因に繋がっている、。


こういうことを考え合わせると、「芳虎斎・五柳寿運さん」は「芳古園」という暖簾のかかった町屋の奥の離れで「持ち込まれた楽鉢に絵付けだけをしていた」のでしょう、。短冊家には全盛時には内窯が5個も存在したらしいから、絵付けを終えた楽鉢を短冊家の窯で最後の焼付作業をしたのかも知れません、。この事が、短冊家以外の窯元への絵付けの少なさの証明になるかも知れない、。


「五柳寿運」は80歳くらいまで生きたようです、。
短冊家が「短冊家錦画鉢模様控」を作った明治25年は、短冊家が「高級楽鉢」の注文が殺到した全盛期でしょう、。この短冊家の全盛期を「外注絵師」として強力に支えたのが五柳です、。この時「五柳が30歳」だったとすると(大体そんなもんでしょう)、短冊家が「短冊家楽鉢価格表」を出した昭和10年には、五柳寿運さんは75歳、。まぁこの辺までなら職人として絵を描ける、。どう見ても昭和初期の製作だと思われる蘭鉢を2個ほど見たことが有ります、。風来記でも紹介しています、。そうだとすると、五柳の生誕年は「江戸幕末・文久3年」ということになり、文久元年に31歳で窯を開いた「浮田楽徳」との関係があるように思えてならないのです、。もしかすると、「五柳は浮田楽徳の子供かな?」、。窯を開いた翌年か欲翌年に子供が生まれたんじゃないか、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、これはエビアンの飛躍した”夢”ですよ、。



「五柳さんは大酒飲みで、酒代が切れると仕事をした」という噂話も根拠がなく眉唾ものです、。
<div>調べ初めの頃に聞いた噂話ですが、五柳と会ったという人が居た、。東京の手島窯でのエピソードとして聞いたのだたが、五柳が手島鉢に絵付けした形跡も見当たらず、東京へ流れて行った事自体が信憑性に欠けます、。最後まで京都に居て絵付け仕事をしていたものと思われます、。昭和初期の短冊家鉢への絵付け鉢の存在が、その根拠です、。



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出版物には書けない”あやふやな話”もネットになら残せる、。世間であれやこれやと噂話が実話のように伝わることも多いから、「五柳」に関する話を一応総括しておきました、。
「楽鉢の歴史」を調べる人は過去に万年青界にも蘭界にも数人居られた、。それらの人は、まず初めの取っ掛かりに「京都・短冊家」へ話を訊きに行っておられる、。短冊家は「短冊家の歴史」を語る、。訊いた人が勝手に「短冊家の歴史が楽鉢の歴史」であると思い込んで、そこから話を出発させるもんだから、大きな誤解を信じ込んだまま雑誌などに記事を書いて来ました、。五柳鉢をややっこしくして来たのにはそういう経緯があったからでしょう、。

まぁ楽鉢を売る商人も「五柳は江戸時代の鉢で・・・」と言って売ったという話は聞くし、短冊家先代の奥さんが「楽鉢は私どもの先祖が文化文政年に創業して作り始めました・・・」という風に誤解を招きやすい話し方をされたらしいから、聞いた人が自分の都合の良いように誤解してしまったという側面はありますね、。

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「京都祇園」というのは、おおよそ南北は「祇園八坂神社」から「清水寺」(きよみずでら)の少し南側の「鳥辺山」(とりべやま)のある祇園馬町(うままち)辺りまで、。東西は加茂川から東山までの事を指し、平安以来ここは葬送の地だた、。(加茂川は結界とされ、西側は人間界、川を渡った東側は冥界とされていた)、。今もまぁそうだのに、京都観光の中心地で多くの寺があることから観光客が集まり、賑やかな事この上も無い、。京都の人にとっては昔と何も変わらない、。「骸骨飴」(がいこつあめ)という飴だけを売る店もあるほどだ、。

その中に、「短冊家」も「浮田楽徳窯」も「佐々木松楽窯」も「大虎窯」もあった、。東山を挟んだ所には「福井楽印窯」もあった、。(福井楽印窯は以前に描いた地図よりも東山に近い所だったと思う)、。<br>
「五柳の住まい」も、恐らくは八坂神社と清水寺の間、もっと言うと「短冊家と楽徳窯との間」だったのだろうと思う、。今は東山の山すそに沿って「片側1車線の東大路通り」が南北に走るが、明治時代の古地図を見ると、牛車が1台ようやく通れるほどの曲がりくねった細い道(農道に近い)だ、。道の両側からはススキが生い茂っている様子が描かれている、。こんな所で「楽焼鉢」は焼かれていたんだなぁと妙な気分になる、。<br>
「京楽鉢」だけが、妙に暗く落ち着いて見え、それゆえの良さを発揮するのかの原因は案外こんなところにあるのかも知れない、。その「京楽鉢だけが持つ暗さ」のようなものを見分けるのが、京楽鉢と東京楽鉢や三河楽鉢との見分けの方法であるかも知れない、。パッと見の印象だけど、。


ここんとこ大阪の展示会にエビアン所有の短冊家のコピー鉢を使った出品がある、。某相生園芸センターが2015年1月の風来記鉢の画像(下画像の鉢)を千葉県の布施覚さんに送ってコピーを作ってもらったらしい、。相生の顧客が買ってその鉢で出品して来るのだ、。先日の展示会にも出ていた、。それでエビアンのと2つ並べてみたんだけど、布施さんの鉢は”明るい”のだ、。暗さが無い、。布施鉢てのは大体が非常に明るい、。千葉県人の性格が出ている、。</div>
<div>布施鉢に限らず、手島にしろ福富にしろ、明るい、。三河鉢の中には妙に暗いというか陰気臭い鉢はあるが、京楽の暗さとは異質だ、。
京楽鉢はなんしろ1000年の墓場の中で作られたんだもんなぁ、。年季が入った暗さがある、。
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by evian_th | 2017-10-23 00:45
鳳凰紋様蘭鉢                           No.591
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◆2017年10月、。   東洋蘭蘭鉢、。


変な気候の夏も過ぎ、展示会シーズンの10月に入りました、。

多分東京楽、福富京楽堂製「緑土鳳凰紋様蘭鉢」、。
1枚目画像、1の足の上方に金色と肉色の2羽の鳳凰が描かれ、その周辺には全く余白(余黒か?)が見当たらないほどビッシリと鳳凰の羽を天然緑土で描いた蘭鉢です、。
3の足画像と、腰部分に「桐の葉」を描いてあるので、1の足は鳳凰なのでしょう、。

福富京楽堂は、台の鉢の作りがシッカリしてますね、。足の作りもいい、。天然緑土(テールベルト)もかなり
上質なものを使用してます、。

1段目の段替わりを省略して広く絵付けをし、2段目の段替わりの線は描くという描法は五柳でも使ったようなので、明治も後半になると、「段替わりの横線」ももはやデザインの一部程度に考えられるようになっていたのでしょう、。
楽鉢全体で見ると、「鳳凰紋」の方が「飛龍紋」よりも多いような気がします、。龍図は空間が多く、埋めるのに苦労するからでしょうね、。

展示会に使い勝手の良さそうな逸品、。明治後期ごろの製作、。(飛田邦之氏蔵)

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by evian_th | 2017-10-01 00:10 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
多分楽徳七々子紋蘭鉢  No.590
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◆2017年9月1日、。   多分楽徳七々子紋蘭鉢


浮田楽徳窯製「魚の子紋楽焼蘭鉢」、。
この鉢画像は、5年も前から貰っていたのだたが、パッと見に「うん楽徳鉢ね、」と思って見ると何だか気持ちの中に納得しない部分があって、過去に何度か使おうと思っては踏ん切りがつかず、先延ばしにして来た鉢画像です、。

縁の横張りが少なくてバランスを崩している、。それと、正面の1の足画像はまぎれもなく楽徳鉢なのですが、後ろの2の足・3の足の横から画像の形が何となくヤボッたく見えて楽徳らしさが感じられない、というのが躊躇させた理由です、。
浮田楽徳は1830年生まれで、京都狩野派で絵師としての修業を積み、1861年に独立して「楽徳窯」を開き、大正元年没ですから、その間、50年以上に渡って楽焼鉢を作り続けた訳です、。多くの作品を作る中には、時には「楽徳らしくない鉢」があっても不思議じゃないな、と思い直したのです、。

今月の鉢画像を探す中で、今回は、この鉢は楽徳鉢で間違いない、と初めて思えたのでご紹介、。
鉢の上部は楽徳鉢や短冊家に見えて、足元が何となくヤボッたく感じる三河鉢の窯が存在したので、これを見誤ることがあってはならなくて、ここんとこのエビアンは、より慎重になってしまいがちです、。

鉢全体の形は楽徳らしさは無いのですが、何度も見る内に、その野暮っぽさも魅力的だと感じるようになりました、。不思議な魅力を持った鉢です、。

「鉢縁下」「胴」「腰」に描かれた文様は、エビアンの好きな「魚の子(なのこ)紋」、。細めの口金を使ったイッチン描きで、ビッシリと「魚の子」を描いてあります、。使われている釉薬は「天然緑土(テールベルト)」と「金泥」のみ、。質素な釉薬を使って、ネットリとした魅力を描き出してあります、。明治中期ごろの製作、。
(口径14センチ、高さ17.5センチ)新倉善秀氏蔵、。



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by evian_th | 2017-09-01 00:06 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
三河鉢繕い完了                          No.588
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◆2017年7月28日、。   三河楽鉢の金繕いが完了した。


この鉢は昨年初夏の頃に入手し、繕いに出して一応出来上がったものを、今年2017年2月のトップ画面に使用した鉢、。
今回は、2月に掲載した後に再度繕いに出して、「金繕い」を施してもらったので掲載、。

「繕い」というのは、一般の陶磁器の世界で漆や金や銀を使って「ひび(ニュウ)の入った部分」や「欠けた部分」や「割れてしまった部分」を美術的価値あるように補修し、愛玩する道具に生き返らせる技術のことだ、。

古典園芸界に於いては、この「一般的な繕い」という技術は重要視されず、「ひび割れも欠けや割れ」も何も無かったかのように「あたかも無傷であるかのように修復する」のが当たり前に通用して来た、。「誤魔化し技」で補修して来たのだ、。これを高価に売りつけるというのは、一種の騙しとか詐欺のようなものなのだ、。そういう風な技術が一般化して来た、。

「割れや欠け」があろうが「にゅう」が入っていようが、鉢の文化的な価値には何も関係はない、。価格的には「無傷完品」には及ばないかも知れないが、150年前に短冊家や浮田楽徳たちが精魂込めて製作した鉢であることに変わりはない、。大戦争や火災や地震や洪水などという日本列島に住む者には運命のような苦難を乗り越えて受け継がれて来た鉢々である、。大切にしてやりたい思う、。


それで、こそこそ隠れるような補修をするのではなく、堂々と「金繕いを施して繕い痕も全部丸ごと楽しむ」ようにするのが今後の楽鉢界の正しい姿ではないかと考えるようになった、。

このような考えに至った原因の第一は、「決定的に古典楽鉢の現存数が少ない」からだ、。
「ひび割れがある」「欠けている」などと傷物扱いして破棄できるほどの数が園芸界に現存していない、。金繕いを施して大切にし、後世へ引き継ぎたいと思ってる、。

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「金繕いの本」という本。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。が園芸ジャパン誌を出している出版社から出た、。
この本を読んで(写真多し)「金繕いを楽鉢界も始めましょう」などという気は無い、。「金繕い」の全てが理解できる本だとは思う、。1800円。

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by evian_th | 2017-07-28 00:18 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
霞取り白唐草紋蘭鉢                       No.586
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◆2017年7月、。   縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

栄養成長期の終盤に入り、蘭が最も活発に成長する季節になりますね、。

縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

こういう「白唐草文様の鉢」は窯元判断が困難です、。京都にも三河にも、恐らく東京の手島にもあり、描き方も顔料もそっくり同じようなので、紋様からは窯元も製作年も判断は不可能です、。
愛知県三河鉢では興楽園・杉浦勘之助がこの紋様の鉢を比較的多く製造しましたし、ということは、勘之助と組んで楽鉢販売をした東京の手島鉢にもあったのでしょう、。福富京楽堂にも唐草紋はありました、。

描き方には2種類みられます、。「線状の蔦」が描かれた絵と、「蔦はなく貝殻のような花のような紋様」を中央部に描き「葉」だけを描いたものとが見受けられ、「唐草紋」と呼んでいて良いものかどうか迷う事があります、。「唐草紋」は中国から伝わったのでしょうが、楽鉢へのこの描き方は日本独自に作り出された模様だと思います、。
鉢ヘリの「細かな縄縁紋」は、古くは大阪楽でも見られるので、これも判断材料とはなりません、。
「霞取り」も京楽・三河楽・東京楽に共通したデザインです、。
結局は「鉢の台部分」でしか判断できないという困った分野の鉢です、。

足の形などから判断すると、「京楽」でしょうが、鋏み痕が足にあるようなので、「浮田楽徳窯」か「大虎窯」の製品だと判断できます、。明治後期くらいでしょうか、。
展示会用には重宝しそうな鉢です、。13.7cm×17.3cm、(飛田邦之氏蔵)




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by evian_th | 2017-06-30 02:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
武者絵万年青鉢                          No.581
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◆2017年4月、。   武者絵(?)万年青鉢


8年ほど前から、風来記の植木鉢画像保存フォルダーの中に上掲の鉢画像があり気になっていました、。1の足方向からの画像しか無くて、上から鉢の中を覗き込んだ画像や鉢の底から見た画像が無かったもので、窯元の特定どころか京都の楽鉢なのか三河の楽鉢なのかの判断さえ出来ない状況でしたので、画像を使いかねていました、。
「三河鉢」の話も書くようになったのですから、不完全ながら画像を使うことにします、。このままお蔵入りさせるに忍びない良い鉢ですから、。

という訳で、「窯元判定」や「年代判断」「産地判定」も不能なのですが、「総絵付け」された絵付けの素晴らしさは目を引くものがあります、。
描かれた主役は「武者絵」とは見えず、何と書けばよいのか迷います、。エビアン不勉強で、この絵付けは「歴史上の有名なシーン」なのではないかと感じるのですが、どなたか描かれたテーマを御判断頂いてお教え下さい、。

これほどの絵付けをできるのは、京都では浮田楽徳窯か佐々木松楽窯でしょう、。総絵付け得意な三河地方にはこういう絵付けを得意とした窯元はありました、。「鉢底画像」があれば時代判断が可能になり、明治時代の古さがあれば京楽鉢、昭和初期ごろの製作なら三河鉢、という風に判断が可能なのですが、。

3枚目画像をご覧ください、。撮影者が、鉢の口径と高さとをメモった紙を鉢の足に立てかけて撮影した画像ですが、素晴らしい絵付けが施された片鱗が窺がえます、。足の「金の下地の上から金泥で唐草模様を描く」という実に粋で贅沢な絵付けをしています、。余程の大棚の注文制作だったのでしょう、。2の足・3の足の画像も見たい、鉢底も見たい、という焦燥感に襲われる逸品です、。銘鉢ですね、。(15㎝×15㎝)
画像撮影時には四国にあった鉢ですが、その直後に東京方面へ買われて行ったという噂です、。









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by evian_th | 2017-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
三河鉢                              No.579
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◆2017年2月、。   東洋蘭・三河楽鉢


東洋蘭「三河楽」、。
昨2016年初夏に入手の鉢、。画像で伝わるかどうかは不明ながら、妙に惹かれる所が有って、エビアン割合気に入りの鉢です、。先日来宅の万年青商人さんも席に着くなり、隣室の棚に並べた10個ほどの鉢の中からこの鉢を指して「あれはいい鉢ですね、どこの鉢ですか?」と問いかけたほどだから、妙に人の目を引くものを持った鉢なのだろうと思います、。

「三河鉢」だと思います、。
エビアンが「三河鉢」とか「三河楽」と呼ぶのは、大雑把に「愛知県産」の鉢全体をそう呼んでいるだけで、厳密に「尾張」「三河」と分けて考えているものではありません、。じゃ、どうして「愛知県産の鉢」と呼ばないかというと、陶芸の世界では習慣的に「尾張鉢(伊万里焼に似た磁器の鉢に使う場合が多い)」「三河鉢」と呼んで来たのでその習慣にならっただけです、。

「三河楽鉢」が何時の頃から焼かれるようになったのかという問題については、「大阪楽」「京楽」を調べる内に徐々に一つの結論に辿り着きました、。
愛知県三河地方に「楽焼そのもの」の製法が伝わったのは、おそらく江戸時代幕末(1853~1867)の事だったろうと思います、。その楽焼の技術で「楽焼植木鉢」を作り始めたのは、明治に入ってからであろうと思っています、。
「三河楽鉢」に1600年代のような古い鉢を見ない事、。
「大阪楽」の形跡も見えない事が、その理由です、。

「大阪楽」は「太鼓胴の鉢」から始まり、「鉢縁下」(はちべりした)と「腰」の部分に鋲を打ち、3段の「段替わり(だんがわり)」を取って、三段階に徐々に胴回りが細くなります、。

「京楽」は、「短冊家」が「三段階に徐々に絞る事を廃止し、段替わりの名残りとして「鉢縁下と胴の間」と「胴と腰の間」に「1本か2本の帯線」を緑土(テールベルト)や金泥で書き込むという画期的な革命を起こし、主役の絵付けは胴部分に描き、「鉢縁下」と「腰」には日本古来の伝統文様を描くという京楽独特の形式を作り出しました、。短冊家以外の京楽窯もそれに倣った鉢を作りました、。

「三河楽」には、この大阪楽が現在の鉢へと変化する”過渡期の形をした鉢”が見られないのです、。
従がって、「三河楽」は「京楽に倣った」のだと思われます、。
それと、「大阪楽」の特徴である「段替わり」の意味も伝わってないようです、。「京楽鉢」に描かれた「段替わりの名残りの2本線」の意味も伝わらなかったようで、「名残りの2本線」を省略した総絵付け鉢が多い」のも三河鉢の特徴です、。総絵付け鉢で、絵付けの良いものは三河鉢に多いように感じています、。
製作された年代は、明治時代後期から大正時代を通して昭和初期の頃が多かったと思われます、。

「三河鉢」が、どの地方へ販路を求めたかというと、これはもう東京・関東地方でしょう、。京都には京楽窯が6窯もあったのですから東京へ売るために製作しただろうことは明白です、。
「京都は公家文化」「東京は武家文化」「大阪は商人文化」の都市ですから、「武者絵」「富士山」「城」などの東日本・関東人好みの絵付けが多く見られます、。(逆に言うと、西の人間には馴染みが薄いから京楽鉢にはそれらの絵付けは少ない)、。
「万年青鉢」に良い鉢が多い、のも三河鉢の特徴です、。
「絵付けの題材」「鉢の陶土」「足の形」などで「三河鉢」の多くは見分けが可能です、。良い鉢が多いですよ、。
中には「短冊家」を完全に真似た窯元もあり、チョッと見に短冊家と見間違えます、。京楽鉢よりも軽い鉢と京楽鉢よりも重い鉢とがあります、。鉢の形は一定せず、三河独自の形のものもあれば京楽そっくりなものまで幅広く作られました、。
「無地の加茂黒鉢」の大部分は三河鉢です、。京楽は絵付けをして付加価値を付けて高価に売ることを目指したので、京楽に黒鉢は少ないものです、。
「鉢縁下」と「腰部分」には京楽では着物界や工芸界の伝統文様を忠実に描くのですが、三河鉢ではこの部分に伝統文様を半端に真似たような文様が描かれてあります、。


さて、今月のトップ画面の鉢は、これは何と表現すればよいか、「花菱繋紋三河鉢」なのですが、単純な花菱繋紋ではありません、。金線で囲い、花菱繋紋と金泥で岡本太郎画伯の描くような文様が描いてあり、何とも魅力的な文様です、。
買った時は割れ鉢で、下部を持つとギシギシと音がして今にも割れてしまいそうな鉢でした、。底穴周囲も割れて部分的に欠け落ちている状態でした、。買った翌日に繕い屋さんへ持ち込んで秋までに繕いを依頼しました、。秋の展示会前に引き取りに行くと、ひび割れは漆と金繕い、底穴まで何かの素材で直してくれてありました、。その部分にも金繕いをしてもらおうと再度持って行くつもりで居ます、。エビアン自身は1月の鉢よりも今月の鉢の方が好きです、。価格は遥かに安価でしたが、。口径14.5センチ、高さ14センチ、。

「三河の今川義元」と「尾張の織田信秀」の関係がどういう風であって、今も地元ではゴッチャにされるのは許されないというような雰囲気が尾を引いているのならお教えください、。表現方法を考えます、。
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現在のところで判明している大正時代から昭和初期の愛知県下の楽鉢窯元名を列挙しておきます、。残念なことに、その多くは窯元名と製品とが一致しません、。京楽鉢のように「これは○○窯」という訳には行かないのです、。

京楽焼三河元祖・杉浦勘之助(三河碧海郡)・・・陶楽園・山田政吉(三河碧海郡)・・・開楽園・鳥居彦四郎(三河碧海郡)・・・愛楽園・杉浦重平(三河安城)・・・京楽焼窯元・横山孫一(三河碧海郡)・・・改楽園・神谷長平(三河碧海郡)・・・三河楽焼窯元・坂倉周一・・・昭楽園・石川万太郎・・・澤製陶所(三河碧海郡)、その他、都築勝士、亀井謙一郎、藤浦留吉、などです、。

(この窯元名項目参考文献・水野豊明園「万年青の歴史」、米谷青彰園提供「園芸新報・昭和14年8月1日号」)、協力:華幸園

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by evian_th | 2017-02-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳菊花紋万年青鉢                     No.574
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◆2016年12月、。   五柳・菊花紋万年青鉢


師走!!!,、。
今年も誠にお世話になりました、。東洋蘭風来記も13年目に入っています、。これからも引き続きましてご訪問下さいますようお願いします、。

「五柳・菊花紋万年青鉢」、。
年末に相応しく、背筋がシャキッと伸びるような鉢をご覧頂きます、。

台の鉢は短冊家製、。五柳の持てる技を存分に注ぎ込んだ逸品です、。
残念ながら1の足方向からの画像しかありません、。2の足・3の足の絵付けも是非見てみたいと思わせる鉢です、。
「腰」部分には五柳の青海波紋様、「鉢縁下」(はちべりした)は唐草紋(?)、「胴」には写実的な菊花紋を散らしてあります、。ま、上出来の格調高い「五柳鉢」です、。

このクラスになると価格も跳ね上がるてもんです、。五柳もいろいろだから、。
短冊家の作りもいいですね、。時代乗りもいいけど元々の鉢の造り自体が素晴らしいと感じます、。
万年青鉢のこの形、全体のフォルムを完成させたのは「京都・短冊家」だと思います、。
西暦1800年代初頭の「大阪楽の万年青鉢」からいきなりこの形の「短冊家の京楽鉢」へ飛びます、。短冊家の極く初期の作品は既に大阪楽とは違い完成度が高いのです、。
大阪楽の万年青鉢の最後の方は「園芸ジャパン2016年1月号の16ページ17ページ」に掲載の2個ですが、その後に古典園芸用楽鉢の製造が京都へ移ると、突然完成度の高い短冊家鉢が登場します、。デザイン的にその途中の移行期の作品は見ません、。(今後出て来るかも知れませんが)、。

そう考えると「京都・短冊家」というのは大したものです、。特に初代が凄かったのだと感じています、。
その後に出て来る多くの窯元、浮田楽徳・福富京楽堂・愛知県三河地方の窯元、などなど、みんな「短冊家のフォルム」を継承しています、。他のデザインを工夫させる余地も無い程の完成度の高さを江戸時代・文化文政年には完成していたのですから短冊家というのは大したものです、。それから200年経った今現在も同一のデザインなんですからねぇ、。驚きですよ、。

激動の2016年を終えるに当たって、素晴らしい鉢をご覧下さい、。
口径14センチ高さ14センチ、。(河野祝之氏蔵)






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上画像、1枚目と2枚目とは同じ画像に見えますが、2枚目の方は少し緑色を強調して少しクッキリとさせてあります、。実物の見た目は1枚目画像のようでしょうが、絵付けの説明は2枚目の方が分かり良いと思います、。






大阪東洋蘭会 2017年 春季展示会
時:2017年3月12日。(1日限り)
所:兵庫県宝塚市山本 山本園芸流通センター(広い駐車場の中に展示会場あり)
午前10時~午後1時展示、午後1時~午後4時交換会








by evian_th | 2016-12-01 00:29 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽鉢「白唐草文様蘭鉢」                    No.571
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◆2016年10月、。   楽鉢「霞取りに白唐草紋蘭鉢」


「白胴に薄緑色の透明釉薬を掛けた上から白唐草紋」を描く楽鉢を最初に製作したのは江戸後期の「初代・京都・短冊家」だろうと思います、。「短冊堂」の落款入り6寸万年青鉢が残っています、。
それ以前の「大阪楽」には、このデザインの鉢を今までのところでは見かけません、。

結構難しいイッチン技術が必要だと見えるのですが、明治・大正・昭和初期にかけて、全国各地の多くの窯元が同様の模様の鉢を作っています、。
愛知県の興楽園・杉浦勘之助窯の製品も多く残っていますし、東京の手島揫二窯・福富京楽堂窯ほか京都の窯元も製作した様子です、。このデザインに関しては、どこの窯元製品も出来具合が良く、比較的完成度の高い鉢が多いデザインです、。

今年1月号の「園芸ジャパン楽鉢特集」では「短冊家」に分類してありますが、今回トップ画面で使おうと思って改めて見てみると、鋏み痕が足にあるような気がしますし、内掛けの釉薬の切れ方も短冊家らしくない気もします、。何しろ実物を触った訳でも無いので、窯元特定の判断に迷う部分があります、。

鉢の出来具合は良く、全体に上品な出来具合に仕上がっていると感じます、。花物柄物どちらに使っても似合いそうな雰囲気です、。鉢の胴部分の色は、1枚目と2枚目画像の中間的な色ではないかと思います、。(飛田邦之氏蔵)





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by evian_th | 2016-09-30 11:01 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」           No.566
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◆2016年7月9日、。   「野々村仁清の紺や紫」と「楽忠の瑠璃」

この文章を読んで頂くには、下2つの記事も参考に見て頂きたいので、クリックで各スレッドへ飛ぶようにしています、。
◆2015年12月、スレッドNo.553、「瑠璃釉薬の顔料」


◆2010年12月、スレッドNo.378、「楽焼鉢の顔料」


(このスレッドは、下スレNo.563「京焼から進化した楽焼」の最後の章の続きです)
黒一色だった「楽焼植木鉢」に最初に絵付けされた「顔料」が上画像にありますように「瑠璃釉」です、。
ところが今のところ、この時の「瑠璃釉薬」に用いられた「顔料」が判明しておりません、。

江戸時代初期(1600年代)、丹波の国桑田郡野々村に生まれた「清右衛門」という陶工がいました、。若い頃は京都粟原口(あわたぐち)や瀬戸で修業を積み、1644年~1648年頃に金閣寺の西方の仁和寺の門前に「御室窯」(おむろがま)を開き、生まれ故郷から姓を取り、仁和寺の「仁」と「清右衛門」の「清」を取って名を取り「野々村仁清」(ののむらにんせい)と名乗るようになります、。
江戸初期の京焼は、この野々村仁清と絵師・尾形光琳の弟で陶工の尾形乾山という二大巨匠によって非常に栄えます、。
尾形乾山はどちらかというと土着の落ち着いた陶器を製作したのとは対照的に野々村仁清は多彩な色調とモダンな意匠の陶器を作りました、。Google検索窓に「野々村仁清」と打ち込んで頂くと沢山の作品画像が出て来ます、。

その野々村仁清が「青色」「紺色」「紫色」を出すのに用いた顔料は風来記2010年12月スレッドNo.378「楽焼鉢の顔料」の末尾に書いています、。
ただし、「瑠璃色」というのは「青色」でも「紺色」でも「紫色」でもなく、もっと輝くような艶のある色だと思うのです、。野々村仁清の作品画像の中から瑠璃色に近いかなと感じる茶碗画像を上に掲載しました、。似ているかも知れないし違うかも知れませんが、もし同一なら、「ラピスラズリ(瑠璃)」を使わずにあの時代に「瑠璃色」は出すことが出来た事になります、。
ただし、上段の瑠璃色に見える所の下半分は緑色になって来ていますから。ここは「岩群青(アズライト)」を使用してあり、350年という時間の経過で酸化が進み「岩緑青(マラカイト)」に変化したものと思われます、。このように「岩群青」だけでは化学的安定性に欠けるのです、。下画像の楽鉢の「瑠璃釉」は同時期の製作なのに「瑠璃色」は変色せず安定していますから、「岩群青」よりも安定性の良い顔料を使用してあります、。それが「瑠璃(ラピスラズリ)」だったのではないかとエビアンは考えるのです、。



瑠璃色と言うのはもっと輝く様な、しかも深みがあると感じるので、それを出すには「ラピスラズリ(瑠璃)」か少なくとも「アズライト(岩群青)」を混ぜて使わないと発色しないのではないかと思います、。
この頃(1600年代)はこれら顔料の多くは中国からの輸入品に頼っており、400年後の現在でさえ信用のおけない中国人が、注文通りの物を送ったかどうかという点にも疑問はあります、。「岩紺青」という注文に「岩群青」を送ったほどなのですから、。

「支那呉須」では瑠璃色は出ない、。「岩群青」だけでも出ない、。「瑠璃」を日本人陶工が使ったという記録が見当たらない、。しかし、それらの混合によって「陶器の瑠璃色」は出されたに違いないと思います、。


◆京都の「野々村仁清」と大阪の「楽忠や楽雅亭」とは、製作年は1650年前後からという風にほぼ重なりますが、お互いに交流があったかというと、相互の作品に共通点は見当たらないので、交流は全く無かったのだろうと思います、。
◆野々村仁清はあの時代には珍しい芸術家肌の作品を製作したのと比べ、楽忠・楽雅亭は生活雑器の製作を主とした職人だったように見受けられます、。
◆時代が一致するので一応参考に両者の使用した顔料を比べてみました、。



今現在の時点で分かる所はこの辺までです、。後の時代に解明される事を期待しています、。

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by evian_th | 2016-07-09 01:43 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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