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白胴青海波紋蘭鉢                         No.596
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◆2017年12月、。   白胴に青海波紋七寸蘭鉢


師走、。
本年もたくさんの愛好家のご訪問を賜り、深く感謝!!!,、。

7寸白胴に青海波紋様蘭鉢、。
歳の瀬はなんと7寸の大鉢、。恐らく浮田楽徳製、。
製作年は明治後期と思われますが、その時代に7寸という大鉢の蘭鉢の需要があった事は驚きです、。
楽徳窯の製品は短冊家などに比べると陶器としての強度が少し柔らかいのですが、7寸もの鉢の鉢べりを垂れ下がりもせずによくぞ作ったものだと、まずはそこに感心しました、。

浮田楽徳は1830年生まれ大正元年他界だから、この鉢は新しそうに見えても明治時代であると分かるのです、。他の窯元はそうは簡単には行かないものですが、。

鉢の台の作りに感心してる場合か、とは思いますが、他には「白胴に楽徳らしくキッチリとした青海波紋」を上から下へと描き下ろしてある所が見所でしょう、。画像をネットに挙げてしまうと面白味に欠ける鉢のようですが、展示会での使い心地は良さそうな大鉢です、。
この鉢は7~8年前の展示会に出品され、即日商人の手に渡り、東京へ納まったと聞いていた、。
(22×26㎝、新倉善秀氏蔵)


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by evian_th | 2017-12-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
万年青鉢                           No.594
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◆2017年11月、。   万年青鉢


月日の経つのは早いもので、もう11月、。気忙しくなりました、。

今月の鉢は「万年青鉢」、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。実はよく分からない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。
こういう窯元名も産地さえも判然としない鉢は多いのです、。実物を手に持てばもう少し判断もできるのでしょうが、。
良く出来た鉢ですよ、。余程使い勝手の良い大きさなのか、よく使い込まれて鉢底が見えないほど石灰分が付着しています、。それでよけいに分からない、。
チョッと見に「台は短冊家かな」と思ったのですが、短冊家がこういう絵付けをするかなぁ、などと思い始めるともう分らなくなります、。京都か三河かさえも判断できません、。短冊家にそっくりな台の作りをする三河鉢があったのです、。
鉢べり直下には天然緑土と金線、。他は霞取りの総絵付け、。唐草風な模様も描き慣れた風で躊躇が見られない、。同一絵付けを幾つか作ったようで、絵付けが少しぞんざい、。
台の鉢の作りの良さと、絵付けの手抜きとがミスマッチ、。どうにも判断できず、今月はお手上げです、。すみません、。(大きさ不明。飛田邦之氏蔵)


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by evian_th | 2017-10-31 20:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪楽                              No.593
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◆2017年10月28日、。   大阪楽(大坂楽)


「大坂楽」(大阪楽)、。
大阪楽は「楽焼初期の頃、大阪で焼かれた楽焼」を指すのですが、そうすると、楽家初代の佐々木長次郎が焼いた茶器・茶碗も含んでしまうので、風来記では「楽焼植木鉢」限定で使っているとご理解ください、。

「楽焼」は、中国福建省から渡来の「阿米也(阿米夜)とも、帰化名を常慶といい、通称は弥吉とも政吉ともいう)」が京都・上長者町西洞院東入るに住み、加茂黒を使って手捻りの柔らかい陶器に焼き付けた焼き物です、。この阿米也(常慶)の時点では京都で作られていたのは確実でしょう、。
この阿米也(常慶)と佐々木氏の娘(不思議に名前がどこにも出て来ない)との間に出来た長男が佐々木長次郎です、。天正2年常慶(阿米也)死去、。ここまで読んで、鋭い風来記ご常連ならお気付きと思うけど、阿米也の帰化名と楽家の2代目とがどちらも「常慶」であり、2代目常慶は長次郎の弟だと13代目は書いているので、つまり阿米也の息子ということになり、楽鉢調べ初めの頃のエビアンの混乱ぶりがご想像頂ける思う、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

天正5年織田信長の命により佐々木長次郎が田中利休(後の千利休)の好みを受けて父・常慶(阿米也)の遺法に基づいた「赤黒の茶碗」(赤楽と黒楽のことだと思われ)を製して献上したる史実がある、・・・と楽家13代目が書いています、。その後、本能寺の変で信長が他界すると、利休の引きで豊臣秀吉の茶碗を作るようになるのですが、信長→秀吉→利休、という流れを見ると、科学的証明を待たずとも、「楽焼は初代佐々木長次郎が天正2年から天正5年の間で大阪・堺で窯を開いて作っていた、と考えるのは極く自然です、。利休は信長から3000石を貰っていたとも書いてあります、。楽家も200石を貰ってお抱えの身分だったようです、。(2代目が自由な作陶をしたくて返上してしまいますが)、。

ですから、時代は少し下りますが、江戸明暦2年(1656年)楽家2代目常慶の弟・宗味や、楽家3代目道入の弟・道楽が「楽雅亭」「楽忠」の窯を大阪の堺で開くに至ったのだと思います、。
宗味の「楽雅亭窯」は明暦以前数年~数十年前に開窯したものと思われますが、それを裏付ける証拠となる文書には出会っていません、。

織田信長が大坂に目を付け、上町台地の最北端に「大坂城」を作ろうと思うに至った一番の原因は、その地の利です、。上町台地は南北に長い台地で、南へ低く北へ高くなっています、。その北の端の最も高い場所へ大坂城を置くことの理由は、当時の上町台地の周辺は、南以外の西の大阪湾までの方位も東も北の方面も「三方が大湿地帯(泥沼状態)で敵が攻めて来にくい」からという理由らしいです、。だから南の方向に「真田丸」を置いて大坂城を守らせれば、非常に安心できるからだったようです、。

で、南にしか開けた(乾いた)土地が無かったので、南の「堺」とは非常に便利な行き来しやすい土地だった、。ここで窯を作っていたと思います、。
なんしろ、運搬が海運に限られていたその頃の「大坂・堺の港」というのは、国内外の物品の集積所であり、松前船も外国船も国内の船も、九州と下関との間から波の静かな瀬戸内海へ入ってしまえば、後は瀬戸内海を東へ東へと進むだけで、突き当りの「大坂・堺の港」へ到着したわけです、。日本中の米も外国からの物産も堺に集まり、米相場が立ち、物が溢れて「堺は日本一の経済の中心地」になっていたのですから、。その後の江戸時代になってもそれは変わらず、270年間繁栄し続けた都市でした、。
長次郎が作る「茶碗」も大阪で最も多く消費されたのでしょう、。
京都寿楽第(邸)の完成後、豊臣秀吉は京都へ上洛し、千利休も長次郎も行動を共にしたので、「楽雅亭」「楽忠」という「楽家脇窯」も開窯しやすい環境が整ったのだと思います、。

明治維新とその後の「廃藩置県」で大阪の両替商の100兆円を超える「大名貸し」は踏み倒され、両替商は銀行へと組織を替えて生き残りを図ったのですが、副業に始めた大同生命が残るだけで大阪の両替商は姿を消し、「大阪不況」に陥ります、。気が付くと海運の時代は終わり、陸蒸気による陸運へと時代は変わっていました、。
おまけに京都から東京の別宅へと天皇が移り、皇城の地でもなくなった京都も不況になるのですが、京都人は商売が上手いので観光業で何とか立ち直っています、。
大坂の堺はなんしろ日本一の商業の中心地だったというプライドは高いので、廃藩置県時には旧:大和の国(今の奈良県)の全域を含めた「堺県」として独立し大阪とは一線を引いて来たのですが、明治20年ごろには大阪府に含まれ、独立した奈良県が誕生します、。だから堺市は今も大阪維新の党に逆らって橋下徹氏の「大阪都構想」には賛成しておりません、。残念ながら「堺」は、70数年前の大戦時に米軍の徹底的な空襲によって焼き尽くされ、原爆投下直後の広島のような都市になり、今は見る影もない貧弱な都市になっています、。仁徳天皇陵など古墳群があるのが不自然に見えるほどの廃れ様です、。市内にほんの数軒ですが戦災を免れた商人住居が残りますが、それはそれは立派な江戸時代そのままの豪邸です、。(こういう家に楽鉢が残っているかも知れない)、。
大阪が再び活気を取り戻すのは不可能と思われます、。


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下画像は、江戸後期になって園芸植物が古典園芸植物を意識し始めた頃の「京都・短冊家の極く初期の鉢」です、。1820年~1830年ごろの鉢、。長野田中家や九州、飛田邦之氏や西口郁夫氏にもあって、案外この加茂黒鉢は残っています、。6寸鉢、。下画像は九州の愛好家蔵、。
大阪楽のデザインの太鼓胴や段替わりは残しながらも、胴部分には形容しがたい微妙な反り(カーブ)を取って、大阪楽に比べると、この頃既に「新しい楽鉢」に変わりつつある感じは受けます、。
「短冊家」が段替わりを取っ払って、一気に引き上げ「段替わりの名残りの2本線」を入れるようになるのは、それから更に30年ー40年近く経った江戸幕末の事でしょう、。1861年開窯の浮田楽徳鉢には段替わりの鉢は見られないので、短冊家のデザイン革命はその頃までには完成していたものと思われます、。


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by evian_th | 2017-10-28 14:58 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳                              No.592
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◆2017年10月20日、。   五柳




上掲の画像は、「万年青界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」と「蘭界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」のサイン部分の抜出画像です、。
園芸ジャパン誌」に五柳を書く時も「栃の葉書房」に五柳を書く時も、出版社が最も警戒するのが「著作権・画像の所有権」の問題です、。
だから、この2つの鉢を比べて同時に掲載することは出版社では無理なのです、。


ネットじゃ構わないのか?てと、やはりマズイにはマズイのですが、蘭界の分は野田谷君の上野の展示会に展示されスナップ撮影も禁止じゃなかったし、萬年青界の分は現在の所有者が判然とせず、画像の所有者から流れ出た写真だから、まぁ風来記では使ってます、。


この2枚の画像を揃えないと説明がつかない話もあるからです、。


画像向かって左の万年青界にある分は「芳古園主・五柳寿運」と本人が描いており
向かって右の蘭界にある分には「芳虎斎・五柳寿運」と描いています、。
これらの事から判断できることは、五柳は五柳寿運と名乗っていた絵師で、「芳古園」の暖簾を出し、「芳虎斎・五柳寿運」を名乗っていたこと、。
<div>昔の人はいくつもの名や号を持ち、本名も3つくらいは平気で名乗っていた、。この事で、初めの頃に「楽家の人名」で苦労した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、一人で5個くらいも名前を持っているんだもの、。


「五柳」は短冊家の雇われ絵師ではありません、。独立した陶画工(陶磁器専門絵師)でした、。
他の窯元の鉢にも絵付けをしましたが非常に少数です、。余程高価だったのでしょう、。


「京都」という特殊な土地柄は、京都自体がお互いに助け合いながら動いている一つのシステムのような都市で、あの道路沿いにずらりと並ぶ「京町屋」の2階部分は「各種職人の仕事場」になっている、。
<div>「京扇子」一つ作るにも、竹を削る人、扇状に割る人、扇面に絵付けする人、絵付けされた紙に竹の骨を入れる専門職の人、仕上げする人、売る人、などと、京都の町をアチコチ回って、ようやく1本の「京扇子」が完成する、。
<div>基本的に、人を雇わず「身内だけの家内工業」が多く、このことが不況に強く100年以上の「老舗」を多く残す原因に繋がっている、。


こういうことを考え合わせると、「芳虎斎・五柳寿運さん」は「芳古園」という暖簾のかかった町屋の奥の離れで「持ち込まれた楽鉢に絵付けだけをしていた」のでしょう、。短冊家には全盛時には内窯が5個も存在したらしいから、絵付けを終えた楽鉢を短冊家の窯で最後の焼付作業をしたのかも知れません、。この事が、短冊家以外の窯元への絵付けの少なさの証明になるかも知れない、。


「五柳寿運」は80歳くらいまで生きたようです、。
短冊家が「短冊家錦画鉢模様控」を作った明治25年は、短冊家が「高級楽鉢」の注文が殺到した全盛期でしょう、。この短冊家の全盛期を「外注絵師」として強力に支えたのが五柳です、。この時「五柳が30歳」だったとすると(大体そんなもんでしょう)、短冊家が「短冊家楽鉢価格表」を出した昭和10年には、五柳寿運さんは75歳、。まぁこの辺までなら職人として絵を描ける、。どう見ても昭和初期の製作だと思われる蘭鉢を2個ほど見たことが有ります、。風来記でも紹介しています、。そうだとすると、五柳の生誕年は「江戸幕末・文久3年」ということになり、文久元年に31歳で窯を開いた「浮田楽徳」との関係があるように思えてならないのです、。もしかすると、「五柳は浮田楽徳の子供かな?」、。窯を開いた翌年か欲翌年に子供が生まれたんじゃないか、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、これはエビアンの飛躍した”夢”ですよ、。



「五柳さんは大酒飲みで、酒代が切れると仕事をした」という噂話も根拠がなく眉唾ものです、。
<div>調べ初めの頃に聞いた噂話ですが、五柳と会ったという人が居た、。東京の手島窯でのエピソードとして聞いたのだたが、五柳が手島鉢に絵付けした形跡も見当たらず、東京へ流れて行った事自体が信憑性に欠けます、。最後まで京都に居て絵付け仕事をしていたものと思われます、。昭和初期の短冊家鉢への絵付け鉢の存在が、その根拠です、。



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出版物には書けない”あやふやな話”もネットになら残せる、。世間であれやこれやと噂話が実話のように伝わることも多いから、「五柳」に関する話を一応総括しておきました、。
「楽鉢の歴史」を調べる人は過去に万年青界にも蘭界にも数人居られた、。それらの人は、まず初めの取っ掛かりに「京都・短冊家」へ話を訊きに行っておられる、。短冊家は「短冊家の歴史」を語る、。訊いた人が勝手に「短冊家の歴史が楽鉢の歴史」であると思い込んで、そこから話を出発させるもんだから、大きな誤解を信じ込んだまま雑誌などに記事を書いて来ました、。五柳鉢をややっこしくして来たのにはそういう経緯があったからでしょう、。

まぁ楽鉢を売る商人も「五柳は江戸時代の鉢で・・・」と言って売ったという話は聞くし、短冊家先代の奥さんが「楽鉢は私どもの先祖が文化文政年に創業して作り始めました・・・」という風に誤解を招きやすい話し方をされたらしいから、聞いた人が自分の都合の良いように誤解してしまったという側面はありますね、。

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「京都祇園」というのは、おおよそ南北は「祇園八坂神社」から「清水寺」(きよみずでら)の少し南側の「鳥辺山」(とりべやま)のある祇園馬町(うままち)辺りまで、。東西は加茂川から東山までの事を指し、平安以来ここは葬送の地だた、。(加茂川は結界とされ、西側は人間界、川を渡った東側は冥界とされていた)、。今もまぁそうだのに、京都観光の中心地で多くの寺があることから観光客が集まり、賑やかな事この上も無い、。京都の人にとっては昔と何も変わらない、。「骸骨飴」(がいこつあめ)という飴だけを売る店もあるほどだ、。

その中に、「短冊家」も「浮田楽徳窯」も「佐々木松楽窯」も「大虎窯」もあった、。東山を挟んだ所には「福井楽印窯」もあった、。(福井楽印窯は以前に描いた地図よりも東山に近い所だったと思う)、。<br>
「五柳の住まい」も、恐らくは八坂神社と清水寺の間、もっと言うと「短冊家と楽徳窯との間」だったのだろうと思う、。今は東山の山すそに沿って「片側1車線の東大路通り」が南北に走るが、明治時代の古地図を見ると、牛車が1台ようやく通れるほどの曲がりくねった細い道(農道に近い)だ、。道の両側からはススキが生い茂っている様子が描かれている、。こんな所で「楽焼鉢」は焼かれていたんだなぁと妙な気分になる、。<br>
「京楽鉢」だけが、妙に暗く落ち着いて見え、それゆえの良さを発揮するのかの原因は案外こんなところにあるのかも知れない、。その「京楽鉢だけが持つ暗さ」のようなものを見分けるのが、京楽鉢と東京楽鉢や三河楽鉢との見分けの方法であるかも知れない、。パッと見の印象だけど、。


ここんとこ大阪の展示会にエビアン所有の短冊家のコピー鉢を使った出品がある、。某相生園芸センターが2015年1月の風来記鉢の画像(下画像の鉢)を千葉県の布施覚さんに送ってコピーを作ってもらったらしい、。相生の顧客が買ってその鉢で出品して来るのだ、。先日の展示会にも出ていた、。それでエビアンのと2つ並べてみたんだけど、布施さんの鉢は”明るい”のだ、。暗さが無い、。布施鉢てのは大体が非常に明るい、。千葉県人の性格が出ている、。</div>
<div>布施鉢に限らず、手島にしろ福富にしろ、明るい、。三河鉢の中には妙に暗いというか陰気臭い鉢はあるが、京楽の暗さとは異質だ、。
京楽鉢はなんしろ1000年の墓場の中で作られたんだもんなぁ、。年季が入った暗さがある、。
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by evian_th | 2017-10-23 00:45
鳳凰紋様蘭鉢                           No.591
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◆2017年10月、。   東洋蘭蘭鉢、。


変な気候の夏も過ぎ、展示会シーズンの10月に入りました、。

多分東京楽、福富京楽堂製「緑土鳳凰紋様蘭鉢」、。
1枚目画像、1の足の上方に金色と肉色の2羽の鳳凰が描かれ、その周辺には全く余白(余黒か?)が見当たらないほどビッシリと鳳凰の羽を天然緑土で描いた蘭鉢です、。
3の足画像と、腰部分に「桐の葉」を描いてあるので、1の足は鳳凰なのでしょう、。

福富京楽堂は、台の鉢の作りがシッカリしてますね、。足の作りもいい、。天然緑土(テールベルト)もかなり
上質なものを使用してます、。

1段目の段替わりを省略して広く絵付けをし、2段目の段替わりの線は描くという描法は五柳でも使ったようなので、明治も後半になると、「段替わりの横線」ももはやデザインの一部程度に考えられるようになっていたのでしょう、。
楽鉢全体で見ると、「鳳凰紋」の方が「飛龍紋」よりも多いような気がします、。龍図は空間が多く、埋めるのに苦労するからでしょうね、。

展示会に使い勝手の良さそうな逸品、。明治後期ごろの製作、。(飛田邦之氏蔵)

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by evian_th | 2017-10-01 00:10 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
多分楽徳七々子紋蘭鉢  No.590
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◆2017年9月1日、。   多分楽徳七々子紋蘭鉢


浮田楽徳窯製「魚の子紋楽焼蘭鉢」、。
この鉢画像は、5年も前から貰っていたのだたが、パッと見に「うん楽徳鉢ね、」と思って見ると何だか気持ちの中に納得しない部分があって、過去に何度か使おうと思っては踏ん切りがつかず、先延ばしにして来た鉢画像です、。

縁の横張りが少なくてバランスを崩している、。それと、正面の1の足画像はまぎれもなく楽徳鉢なのですが、後ろの2の足・3の足の横から画像の形が何となくヤボッたく見えて楽徳らしさが感じられない、というのが躊躇させた理由です、。
浮田楽徳は1830年生まれで、京都狩野派で絵師としての修業を積み、1861年に独立して「楽徳窯」を開き、大正元年没ですから、その間、50年以上に渡って楽焼鉢を作り続けた訳です、。多くの作品を作る中には、時には「楽徳らしくない鉢」があっても不思議じゃないな、と思い直したのです、。

今月の鉢画像を探す中で、今回は、この鉢は楽徳鉢で間違いない、と初めて思えたのでご紹介、。
鉢の上部は楽徳鉢や短冊家に見えて、足元が何となくヤボッたく感じる三河鉢の窯が存在したので、これを見誤ることがあってはならなくて、ここんとこのエビアンは、より慎重になってしまいがちです、。

鉢全体の形は楽徳らしさは無いのですが、何度も見る内に、その野暮っぽさも魅力的だと感じるようになりました、。不思議な魅力を持った鉢です、。

「鉢縁下」「胴」「腰」に描かれた文様は、エビアンの好きな「魚の子(なのこ)紋」、。細めの口金を使ったイッチン描きで、ビッシリと「魚の子」を描いてあります、。使われている釉薬は「天然緑土(テールベルト)」と「金泥」のみ、。質素な釉薬を使って、ネットリとした魅力を描き出してあります、。明治中期ごろの製作、。
(口径14センチ、高さ17.5センチ)新倉善秀氏蔵、。



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by evian_th | 2017-09-01 00:06 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
三河鉢繕い完了                          No.588
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◆2017年7月28日、。   三河楽鉢の金繕いが完了した。


この鉢は昨年初夏の頃に入手し、繕いに出して一応出来上がったものを、今年2017年2月のトップ画面に使用した鉢、。
今回は、2月に掲載した後に再度繕いに出して、「金繕い」を施してもらったので掲載、。

「繕い」というのは、一般の陶磁器の世界で漆や金や銀を使って「ひび(ニュウ)の入った部分」や「欠けた部分」や「割れてしまった部分」を美術的価値あるように補修し、愛玩する道具に生き返らせる技術のことだ、。

古典園芸界に於いては、この「一般的な繕い」という技術は重要視されず、「ひび割れも欠けや割れ」も何も無かったかのように「あたかも無傷であるかのように修復する」のが当たり前に通用して来た、。「誤魔化し技」で補修して来たのだ、。これを高価に売りつけるというのは、一種の騙しとか詐欺のようなものなのだ、。そういう風な技術が一般化して来た、。

「割れや欠け」があろうが「にゅう」が入っていようが、鉢の文化的な価値には何も関係はない、。価格的には「無傷完品」には及ばないかも知れないが、150年前に短冊家や浮田楽徳たちが精魂込めて製作した鉢であることに変わりはない、。大戦争や火災や地震や洪水などという日本列島に住む者には運命のような苦難を乗り越えて受け継がれて来た鉢々である、。大切にしてやりたい思う、。


それで、こそこそ隠れるような補修をするのではなく、堂々と「金繕いを施して繕い痕も全部丸ごと楽しむ」ようにするのが今後の楽鉢界の正しい姿ではないかと考えるようになった、。

このような考えに至った原因の第一は、「決定的に古典楽鉢の現存数が少ない」からだ、。
「ひび割れがある」「欠けている」などと傷物扱いして破棄できるほどの数が園芸界に現存していない、。金繕いを施して大切にし、後世へ引き継ぎたいと思ってる、。

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「金繕いの本」という本。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。が園芸ジャパン誌を出している出版社から出た、。
この本を読んで(写真多し)「金繕いを楽鉢界も始めましょう」などという気は無い、。「金繕い」の全てが理解できる本だとは思う、。1800円。

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by evian_th | 2017-07-28 00:18 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
霞取り白唐草紋蘭鉢                       No.586
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◆2017年7月、。   縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

栄養成長期の終盤に入り、蘭が最も活発に成長する季節になりますね、。

縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

こういう「白唐草文様の鉢」は窯元判断が困難です、。京都にも三河にも、恐らく東京の手島にもあり、描き方も顔料もそっくり同じようなので、紋様からは窯元も製作年も判断は不可能です、。
愛知県三河鉢では興楽園・杉浦勘之助がこの紋様の鉢を比較的多く製造しましたし、ということは、勘之助と組んで楽鉢販売をした東京の手島鉢にもあったのでしょう、。福富京楽堂にも唐草紋はありました、。

描き方には2種類みられます、。「線状の蔦」が描かれた絵と、「蔦はなく貝殻のような花のような紋様」を中央部に描き「葉」だけを描いたものとが見受けられ、「唐草紋」と呼んでいて良いものかどうか迷う事があります、。「唐草紋」は中国から伝わったのでしょうが、楽鉢へのこの描き方は日本独自に作り出された模様だと思います、。
鉢ヘリの「細かな縄縁紋」は、古くは大阪楽でも見られるので、これも判断材料とはなりません、。
「霞取り」も京楽・三河楽・東京楽に共通したデザインです、。
結局は「鉢の台部分」でしか判断できないという困った分野の鉢です、。

足の形などから判断すると、「京楽」でしょうが、鋏み痕が足にあるようなので、「浮田楽徳窯」か「大虎窯」の製品だと判断できます、。明治後期くらいでしょうか、。
展示会用には重宝しそうな鉢です、。13.7cm×17.3cm、(飛田邦之氏蔵)




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by evian_th | 2017-06-30 02:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽鉢「楽徳龍図蘭鉢」                     No.584
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◆2017年6月、。       京楽鉢「浮田楽徳龍図蘭鉢」


京楽焼・浮田楽徳窯「水龍図蘭鉢」、。
なぜだか分からないけど、今月は楽鉢の歴史調べの初期の頃に度々お世話になったこの鉢を見たくなった、。楽鉢調べの原点の鉢の一つだたからだろう思う、。過去に使用の鉢画像の中には幾つかの印象強い気に入りの鉢があって、そういう画像は「植木鉢フォルダー」のトップ画面に置いて普段から眺めている、。気持ちが癒される、。この鉢画像もその一つ、。風来記に掲載して周囲の赤色に囲まれると、見慣れた画像がフォルダーにある時とは違って見えて引き立つ、。

神奈川県の飛田邦之氏の画像、。飛田邦之さんは”先生”と呼ばれる職業の人だが気取る事も驕ることも無くエビアンの無理な注文にも快く応じて下さり、お世話になってる、。誰の紹介で知り合ったのかは忘れた、。恐らく東海園の梅原氏か故・野田谷治男氏によって紹介されたのだろう、。直接はお目に掛かった事は無い、。エビアンの同居人の実家が飛田さんと同じ御町内なので、数年前同居人が実家方面へ同窓会で旅行した時にデジカメを持たせ「飛田先生の所へお邪魔して飛田さんの画像を撮影」してくれるよう依頼した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、今では電話で話してもイメージは湧く、。

飛田さんを初めとする何人かの圧倒的で情熱を持った協力者の存在が無ければ、「楽焼鉢の歴史調べの旅」はこんなにスムースには進まなかったことは確実であり、現代の東洋蘭愛好家と植木鉢数寄者の総合力の結果だろうと感じる事が多い、。楽鉢製作に心血を注いだ江戸・明治・大正・昭和の過去の職人たちに感謝されているだろうと思う、。

「浮田楽徳鉢」について新たな情報がある訳ではありません、。楽徳鉢は分かり易いし、多くは既に調べ尽くしたように感じています、。ただ、BSテレビでは戦国時代・江戸時代・明治維新・明治時代をテーマに取り上げられることも多く、「楽焼植木鉢」という方向から日本史を見る癖が付いてしまって、「宇喜多秀家と宇喜多家一族」の無念には心を痛め続けています、。八丈島から流刑を解かれて江戸へ戻る事を許された浮田一族の人たちも、江戸では徳川家に対する逆賊扱いだったため住む所にも困り、宇喜多秀家の正室豪姫の実家である加賀前田藩の江戸屋敷にかくまわれ面倒をみてもらったのでした、。
今年から「全国春蘭連合会の展示会場」が「上野グリーンクラブ」に替わりました、。上野グリーンクラブの前の道路を南へ100メートルほど下ると、道の東側に「上野不忍池」があり、その道路、不忍池の反対側(西側)には数軒の民家を挟んで、60年安保闘争時に名前を馳せた「安田講堂」や「赤門」を擁する「東京大学」の広大な敷地があります、。この本郷の東京大学敷地こそ、江戸時代は「加賀前田藩江戸屋敷」だったのです、。
本郷には「福富京楽堂」の窯があり、団子坂の上には「手島揫二」の窯もありました、。何だか皆な 近くへ寄って来てますね、。


今月の「浮田楽徳水龍図蘭鉢」は飛田さんにお願いして2度に渡って全方向から撮影してもらいました、。
1の足は、龍の顔部分と下部には「大浪・波涛紋」、。細かい水しぶきの点々は魚の子紋、。「楽徳の描く大浪紋」は、狩野派絵師・尾形光琳が考案」した波を表すユッタリとした曲線が並行して並ぶ、いわゆる「光琳波」であり、波涛部分は絵師・葛飾北斎が「富嶽三十六景」の中で考案した「波の先が人の手指のように割れる」紋様です、。余談ながら、昨年この波を実験室の中で再現する試みが行われ、1秒間に何万カットの撮影ができる高速度カメラで撮影すると、風速がある一定程度を超える風が吹いた時に現れる波の先っぽは見事に北斎の描くところの人の手指状に割れたのでした、。ね、歴史に名を残す絵師の観察眼というのは人並み外れたものがありますね、。

2の足は、龍の胴体部分と後ろ足、。朱色で稲妻を走らせ、絵師としての間を持たせてあります、。これが無ければ寂しい、。
3の足は、龍の尾っぽ画像、。尾っぽをどういう風に処理するかというのは絵師として最も難しいところです、。尾の先を割って描き、画面の寂しさは大浪と波涛紋とを1の足よりも2段、2の足よりも1段高く描くことによってカバーしています、。

鉢の足が腰に付く部分には「金泥でヒラヒラ紋様」を描いて足の菊花唐草紋と腰の大波紋との区切りとしてあります、。隅々まで神経を行き渡らせた浮田楽徳という絵師の腕前に感服、。時代乗りも良し、非常な上品、。
口径11.3センチ×高さ14.3センチ。(飛田邦之氏所蔵・撮影)




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今月の「浮田楽徳水龍図蘭鉢」の画像は、風来記鉢画像掲載当初から何度か使ってます、。が、初めの頃過ぎて、飛田さんも鉢画像撮影に慣れてなく、白色の毛羽立ったバスタオルを広げた上へ楽鉢3個ほどを並べて置いて真上から撮影した画像でした、。鉢を横にした画像と鉢を立てて撮影した画像とは違って見えます、。
そういうこともあって、この鉢を正式に紹介しておきたいと思った訳です、。既に以前に掲載してるかも知れませんが、今月はこの鉢を載せたいと思いました、。同じ鉢でも月日が経てば見え方も変わる、。(変わったのはエビアンの観賞眼の方なのですが)


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by evian_th | 2017-06-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪楽鉢「楽雅亭」                        No.583
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◆2017年5月、。   大阪楽鉢「楽雅亭」


大阪楽鉢「楽雅亭」、。
「大阪楽」の認知度が低くて迷惑しています、。つい最近も出版物に大学教授だか研究員だかが「楽忠・楽雅亭の鉢を見て、明治時代か大正時代の製作」と書いたようで、問い合わせに対して「新しそうに見えたから・・」と答えたそうです、。

盆栽界では「楽忠窯」が「江戸明暦2年に大阪堺(現:大阪府堺市)で開窯した」ことは良く知られている事実なのです、。「楽忠窯」は明治12年まで存在したので、詳しい資料が残っているのでしょう、。
◆2007年「盆器大図鑑上巻24頁」の「楽忠右衛門」の項目には・・・
「楽家脇窯の一。忠右衛門(号・道楽)は楽家三代道入(のんこう)の弟で、明暦2年(1656)頃堺で開窯。茶道具はほとんどつくらず主に食器・雑器を焼いたと伝えられる。楽焼に施釉した軟陶が多く、楽焼と陶器の中間程度のものもある。明治中期まで九代続き、二代以降の製品を本湊焼と称する。」、と書かれています、。

この「江戸明暦2年」という年は、忠右衛門の兄・楽家三代目道入が2月22日に没した年であり、恐らくそれまでは兄の楽焼を手伝っていたものと思われます、。兄の死によって楽家の4代目は3代目道入の長男・一入が継ぐことになったので、忠右衛門は大阪堺で脇窯を開くことになったのだろうと推察します、。江戸「明暦の大火」で炎を逃れた人が墨田川へ飛び込み、多くの死者を出した出来事の前年のことです、。

このように「楽忠窯」が明暦2年に開窯したことは周知の事実なのですが、
さて、今月のトップ画像「楽雅亭」はというと(エビアン現在までの所)資料を発見できず、「楽忠作品」と「楽雅亭作品」との比較による状況証拠に頼っています、。
「楽家2代・常慶の弟・宗味」が同じく脇窯を開いていますが、これが「楽雅亭窯」であろうと考えています、。
つまり、「楽忠・忠右衛門」から見れば「楽雅亭・宗味」は実の叔父に当たる訳です、。

年齢的には「楽雅亭・宗味」の方が歳上で、楽家からの独立開窯も「楽忠・忠右衛門」よりも早かった筈なのですが、「楽雅亭」に関する資料が見つかってない以上は、「資料上からは楽鉢は明暦2年が起点だった」と言わざるを得ず、昨年2016年「園芸ジャパン1月号」にはそのように記しました、。実際は「楽焼植木鉢の焼初め」は「楽雅亭」の製作によってもう少し時間的に遡るかも知れません、。
「楽雅亭の窯の場所」は、これも推測ですが、同じく大阪堺であっただろうと思われます、。千利休の出身地であり、利休の家督を継いだ楽家初代・田中長次郎所縁の土地でもあり、楽忠が後に窯を開いたのですから、「楽雅亭窯も大阪堺」に在ったと考えるのが自然です、。

今月の鉢は「楽雅亭・太鼓胴飴釉花浮き彫り紋花盆」です、。
正直なところ、楽忠・楽雅亭の鉢で、浮き彫り紋が瑠璃釉ではなく飴釉である作品を見るのは初めてです、。
これが瑠璃釉と比べて年代的に前なのか後なのか同時期なのかも判断できません、。この鉢は、口径18センチ高さ13センチと小さ目です、。足が「鬼面足 」ではなく「猫足」なのも普通っぽいのですが、胴部分はきっちりと3段の段替わりをとっています、。使い頃の良さそうな鉢ですね、。

「楽雅亭落款」の入った鉢は、非常に希少です、。「楽忠窯」が九代続き明治12年まで製造していたのに比べると、「楽雅亭」は初代か2代目くらいまでしか製作しなかったのではないかと考えています、。後の時代の作品を見ないからです、。そういう訳で絶対数も少ない上に、「楽雅亭落款」を押印した鉢も少ないので、形はどうあれ、残っているだけで貴重品です、。

「楽忠」「楽雅亭」型には「無落款」の鉢も多く、弟子による制作なのか、どういう訳なのかは不明です、。
(西口郁夫氏所蔵、撮影も同氏)





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by evian_th | 2017-04-30 22:30 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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