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三河鉢繕い完了                          No.588
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◆2017年7月28日、。   三河楽鉢の金繕いが完了した。


この鉢は昨年初夏の頃に入手し、繕いに出して一応出来上がったものを、今年2017年2月のトップ画面に使用した鉢、。
今回は、2月に掲載した後に再度繕いに出して、「金繕い」を施してもらったので掲載、。

「繕い」というのは、一般の陶磁器の世界で漆や金や銀を使って「ひび(ニュウ)の入った部分」や「欠けた部分」や「割れてしまった部分」を美術的価値あるように補修し、愛玩する道具に生き返らせる技術のことだ、。

古典園芸界に於いては、この「一般的な繕い」という技術は重要視されず、「ひび割れも欠けや割れ」も何も無かったかのように「あたかも無傷であるかのように修復する」のが当たり前に通用して来た、。「誤魔化し技」で補修して来たのだ、。これを高価に売りつけるというのは、一種の騙しとか詐欺のようなものなのだ、。そういう風な技術が一般化して来た、。

「割れや欠け」があろうが「にゅう」が入っていようが、鉢の文化的な価値には何も関係はない、。価格的には「無傷完品」には及ばないかも知れないが、150年前に短冊家や浮田楽徳たちが精魂込めて製作した鉢であることに変わりはない、。大戦争や火災や地震や洪水などという日本列島に住む者には運命のような苦難を乗り越えて受け継がれて来た鉢々である、。大切にしてやりたい思う、。


それで、こそこそ隠れるような補修をするのではなく、堂々と「金繕いを施して繕い痕も全部丸ごと楽しむ」ようにするのが今後の楽鉢界の正しい姿ではないかと考えるようになった、。

このような考えに至った原因の第一は、「決定的に古典楽鉢の現存数が少ない」からだ、。
「ひび割れがある」「欠けている」などと傷物扱いして破棄できるほどの数が園芸界に現存していない、。金繕いを施して大切にし、後世へ引き継ぎたいと思ってる、。

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「金繕いの本」という本。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。が園芸ジャパン誌を出している出版社から出た、。
この本を読んで(写真多し)「金繕いを楽鉢界も始めましょう」などという気は無い、。「金繕い」の全てが理解できる本だとは思う、。1800円。

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by evian_th | 2017-07-28 00:18 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
霞取り白唐草紋蘭鉢                       No.586
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◆2017年7月、。   縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

栄養成長期の終盤に入り、蘭が最も活発に成長する季節になりますね、。

縄縁霞取り白唐草紋蘭鉢

こういう「白唐草文様の鉢」は窯元判断が困難です、。京都にも三河にも、恐らく東京の手島にもあり、描き方も顔料もそっくり同じようなので、紋様からは窯元も製作年も判断は不可能です、。
愛知県三河鉢では興楽園・杉浦勘之助がこの紋様の鉢を比較的多く製造しましたし、ということは、勘之助と組んで楽鉢販売をした東京の手島鉢にもあったのでしょう、。福富京楽堂にも唐草紋はありました、。

描き方には2種類みられます、。「線状の蔦」が描かれた絵と、「蔦はなく貝殻のような花のような紋様」を中央部に描き「葉」だけを描いたものとが見受けられ、「唐草紋」と呼んでいて良いものかどうか迷う事があります、。「唐草紋」は中国から伝わったのでしょうが、楽鉢へのこの描き方は日本独自に作り出された模様だと思います、。
鉢ヘリの「細かな縄縁紋」は、古くは大阪楽でも見られるので、これも判断材料とはなりません、。
「霞取り」も京楽・三河楽・東京楽に共通したデザインです、。
結局は「鉢の台部分」でしか判断できないという困った分野の鉢です、。

足の形などから判断すると、「京楽」でしょうが、鋏み痕が足にあるようなので、「浮田楽徳窯」か「大虎窯」の製品だと判断できます、。明治後期くらいでしょうか、。
展示会用には重宝しそうな鉢です、。13.7cm×17.3cm、(飛田邦之氏蔵)




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by evian_th | 2017-06-30 02:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽鉢「楽徳龍図蘭鉢」                     No.584
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◆2017年6月、。       京楽鉢「浮田楽徳龍図蘭鉢」


京楽焼・浮田楽徳窯「水龍図蘭鉢」、。
なぜだか分からないけど、今月は楽鉢の歴史調べの初期の頃に度々お世話になったこの鉢を見たくなった、。楽鉢調べの原点の鉢の一つだたからだろう思う、。過去に使用の鉢画像の中には幾つかの印象強い気に入りの鉢があって、そういう画像は「植木鉢フォルダー」のトップ画面に置いて普段から眺めている、。気持ちが癒される、。この鉢画像もその一つ、。風来記に掲載して周囲の赤色に囲まれると、見慣れた画像がフォルダーにある時とは違って見えて引き立つ、。

神奈川県の飛田邦之氏の画像、。飛田邦之さんは”先生”と呼ばれる職業の人だが気取る事も驕ることも無くエビアンの無理な注文にも快く応じて下さり、お世話になってる、。誰の紹介で知り合ったのかは忘れた、。恐らく東海園の梅原氏か故・野田谷治男氏によって紹介されたのだろう、。直接はお目に掛かった事は無い、。エビアンの同居人の実家が飛田さんと同じ御町内なので、数年前同居人が実家方面へ同窓会で旅行した時にデジカメを持たせ「飛田先生の所へお邪魔して飛田さんの画像を撮影」してくれるよう依頼した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、今では電話で話してもイメージは湧く、。

飛田さんを初めとする何人かの圧倒的で情熱を持った協力者の存在が無ければ、「楽焼鉢の歴史調べの旅」はこんなにスムースには進まなかったことは確実であり、現代の東洋蘭愛好家と植木鉢数寄者の総合力の結果だろうと感じる事が多い、。楽鉢製作に心血を注いだ江戸・明治・大正・昭和の過去の職人たちに感謝されているだろうと思う、。

「浮田楽徳鉢」について新たな情報がある訳ではありません、。楽徳鉢は分かり易いし、多くは既に調べ尽くしたように感じています、。ただ、BSテレビでは戦国時代・江戸時代・明治維新・明治時代をテーマに取り上げられることも多く、「楽焼植木鉢」という方向から日本史を見る癖が付いてしまって、「宇喜多秀家と宇喜多家一族」の無念には心を痛め続けています、。八丈島から流刑を解かれて江戸へ戻る事を許された浮田一族の人たちも、江戸では徳川家に対する逆賊扱いだったため住む所にも困り、宇喜多秀家の正室豪姫の実家である加賀前田藩の江戸屋敷にかくまわれ面倒をみてもらったのでした、。
今年から「全国春蘭連合会の展示会場」が「上野グリーンクラブ」に替わりました、。上野グリーンクラブの前の道路を南へ100メートルほど下ると、道の東側に「上野不忍池」があり、その道路、不忍池の反対側(西側)には数軒の民家を挟んで、60年安保闘争時に名前を馳せた「安田講堂」や「赤門」を擁する「東京大学」の広大な敷地があります、。この本郷の東京大学敷地こそ、江戸時代は「加賀前田藩江戸屋敷」だったのです、。
本郷には「福富京楽堂」の窯があり、団子坂の上には「手島揫二」の窯もありました、。何だか皆な 近くへ寄って来てますね、。


今月の「浮田楽徳水龍図蘭鉢」は飛田さんにお願いして2度に渡って全方向から撮影してもらいました、。
1の足は、龍の顔部分と下部には「大浪・波涛紋」、。細かい水しぶきの点々は魚の子紋、。「楽徳の描く大浪紋」は、狩野派絵師・尾形光琳が考案」した波を表すユッタリとした曲線が並行して並ぶ、いわゆる「光琳波」であり、波涛部分は絵師・葛飾北斎が「富嶽三十六景」の中で考案した「波の先が人の手指のように割れる」紋様です、。余談ながら、昨年この波を実験室の中で再現する試みが行われ、1秒間に何万カットの撮影ができる高速度カメラで撮影すると、風速がある一定程度を超える風が吹いた時に現れる波の先っぽは見事に北斎の描くところの人の手指状に割れたのでした、。ね、歴史に名を残す絵師の観察眼というのは人並み外れたものがありますね、。

2の足は、龍の胴体部分と後ろ足、。朱色で稲妻を走らせ、絵師としての間を持たせてあります、。これが無ければ寂しい、。
3の足は、龍の尾っぽ画像、。尾っぽをどういう風に処理するかというのは絵師として最も難しいところです、。尾の先を割って描き、画面の寂しさは大浪と波涛紋とを1の足よりも2段、2の足よりも1段高く描くことによってカバーしています、。

鉢の足が腰に付く部分には「金泥でヒラヒラ紋様」を描いて足の菊花唐草紋と腰の大波紋との区切りとしてあります、。隅々まで神経を行き渡らせた浮田楽徳という絵師の腕前に感服、。時代乗りも良し、非常な上品、。
口径11.3センチ×高さ14.3センチ。(飛田邦之氏所蔵・撮影)




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今月の「浮田楽徳水龍図蘭鉢」の画像は、風来記鉢画像掲載当初から何度か使ってます、。が、初めの頃過ぎて、飛田さんも鉢画像撮影に慣れてなく、白色の毛羽立ったバスタオルを広げた上へ楽鉢3個ほどを並べて置いて真上から撮影した画像でした、。鉢を横にした画像と鉢を立てて撮影した画像とは違って見えます、。
そういうこともあって、この鉢を正式に紹介しておきたいと思った訳です、。既に以前に掲載してるかも知れませんが、今月はこの鉢を載せたいと思いました、。同じ鉢でも月日が経てば見え方も変わる、。(変わったのはエビアンの観賞眼の方なのですが)


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by evian_th | 2017-06-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪楽鉢「楽雅亭」                        No.583
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◆2017年5月、。   大阪楽鉢「楽雅亭」


大阪楽鉢「楽雅亭」、。
「大阪楽」の認知度が低くて迷惑しています、。つい最近も出版物に大学教授だか研究員だかが「楽忠・楽雅亭の鉢を見て、明治時代か大正時代の製作」と書いたようで、問い合わせに対して「新しそうに見えたから・・」と答えたそうです、。

盆栽界では「楽忠窯」が「江戸明暦2年に大阪堺(現:大阪府堺市)で開窯した」ことは良く知られている事実なのです、。「楽忠窯」は明治12年まで存在したので、詳しい資料が残っているのでしょう、。
◆2007年「盆器大図鑑上巻24頁」の「楽忠右衛門」の項目には・・・
「楽家脇窯の一。忠右衛門(号・道楽)は楽家三代道入(のんこう)の弟で、明暦2年(1656)頃堺で開窯。茶道具はほとんどつくらず主に食器・雑器を焼いたと伝えられる。楽焼に施釉した軟陶が多く、楽焼と陶器の中間程度のものもある。明治中期まで九代続き、二代以降の製品を本湊焼と称する。」、と書かれています、。

この「江戸明暦2年」という年は、忠右衛門の兄・楽家三代目道入が2月22日に没した年であり、恐らくそれまでは兄の楽焼を手伝っていたものと思われます、。兄の死によって楽家の4代目は3代目道入の長男・一入が継ぐことになったので、忠右衛門は大阪堺で脇窯を開くことになったのだろうと推察します、。江戸「明暦の大火」で炎を逃れた人が墨田川へ飛び込み、多くの死者を出した出来事の前年のことです、。

このように「楽忠窯」が明暦2年に開窯したことは周知の事実なのですが、
さて、今月のトップ画像「楽雅亭」はというと(エビアン現在までの所)資料を発見できず、「楽忠作品」と「楽雅亭作品」との比較による状況証拠に頼っています、。
「楽家2代・常慶の弟・宗味」が同じく脇窯を開いていますが、これが「楽雅亭窯」であろうと考えています、。
つまり、「楽忠・忠右衛門」から見れば「楽雅亭・宗味」は実の叔父に当たる訳です、。

年齢的には「楽雅亭・宗味」の方が歳上で、楽家からの独立開窯も「楽忠・忠右衛門」よりも早かった筈なのですが、「楽雅亭」に関する資料が見つかってない以上は、「資料上からは楽鉢は明暦2年が起点だった」と言わざるを得ず、昨年2016年「園芸ジャパン1月号」にはそのように記しました、。実際は「楽焼植木鉢の焼初め」は「楽雅亭」の製作によってもう少し時間的に遡るかも知れません、。
「楽雅亭の窯の場所」は、これも推測ですが、同じく大阪堺であっただろうと思われます、。千利休の出身地であり、利休の家督を継いだ楽家初代・田中長次郎所縁の土地でもあり、楽忠が後に窯を開いたのですから、「楽雅亭窯も大阪堺」に在ったと考えるのが自然です、。

今月の鉢は「楽雅亭・太鼓胴飴釉花浮き彫り紋花盆」です、。
正直なところ、楽忠・楽雅亭の鉢で、浮き彫り紋が瑠璃釉ではなく飴釉である作品を見るのは初めてです、。
これが瑠璃釉と比べて年代的に前なのか後なのか同時期なのかも判断できません、。この鉢は、口径18センチ高さ13センチと小さ目です、。足が「鬼面足 」ではなく「猫足」なのも普通っぽいのですが、胴部分はきっちりと3段の段替わりをとっています、。使い頃の良さそうな鉢ですね、。

「楽雅亭落款」の入った鉢は、非常に希少です、。「楽忠窯」が九代続き明治12年まで製造していたのに比べると、「楽雅亭」は初代か2代目くらいまでしか製作しなかったのではないかと考えています、。後の時代の作品を見ないからです、。そういう訳で絶対数も少ない上に、「楽雅亭落款」を押印した鉢も少ないので、形はどうあれ、残っているだけで貴重品です、。

「楽忠」「楽雅亭」型には「無落款」の鉢も多く、弟子による制作なのか、どういう訳なのかは不明です、。
(西口郁夫氏所蔵、撮影も同氏)





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by evian_th | 2017-04-30 22:30 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
武者絵万年青鉢                          No.581
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◆2017年4月、。   武者絵(?)万年青鉢


8年ほど前から、風来記の植木鉢画像保存フォルダーの中に上掲の鉢画像があり気になっていました、。1の足方向からの画像しか無くて、上から鉢の中を覗き込んだ画像や鉢の底から見た画像が無かったもので、窯元の特定どころか京都の楽鉢なのか三河の楽鉢なのかの判断さえ出来ない状況でしたので、画像を使いかねていました、。
「三河鉢」の話も書くようになったのですから、不完全ながら画像を使うことにします、。このままお蔵入りさせるに忍びない良い鉢ですから、。

という訳で、「窯元判定」や「年代判断」「産地判定」も不能なのですが、「総絵付け」された絵付けの素晴らしさは目を引くものがあります、。
描かれた主役は「武者絵」とは見えず、何と書けばよいのか迷います、。エビアン不勉強で、この絵付けは「歴史上の有名なシーン」なのではないかと感じるのですが、どなたか描かれたテーマを御判断頂いてお教え下さい、。

これほどの絵付けをできるのは、京都では浮田楽徳窯か佐々木松楽窯でしょう、。総絵付け得意な三河地方にはこういう絵付けを得意とした窯元はありました、。「鉢底画像」があれば時代判断が可能になり、明治時代の古さがあれば京楽鉢、昭和初期ごろの製作なら三河鉢、という風に判断が可能なのですが、。

3枚目画像をご覧ください、。撮影者が、鉢の口径と高さとをメモった紙を鉢の足に立てかけて撮影した画像ですが、素晴らしい絵付けが施された片鱗が窺がえます、。足の「金の下地の上から金泥で唐草模様を描く」という実に粋で贅沢な絵付けをしています、。余程の大棚の注文制作だったのでしょう、。2の足・3の足の画像も見たい、鉢底も見たい、という焦燥感に襲われる逸品です、。銘鉢ですね、。(15㎝×15㎝)
画像撮影時には四国にあった鉢ですが、その直後に東京方面へ買われて行ったという噂です、。









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by evian_th | 2017-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽鉢「楽徳蘭鉢」                         No.578
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◆2017年1月、。


新年おめでとうございます、。今年も「東洋蘭風来記」の風来記ページを宜しくお願いします、。


◆京楽鉢「浮田楽徳製菊花唐草紋蘭鉢」、。
新年は楽徳蘭鉢です、。珍しく無傷完品、。楽徳鉢にしては見た目よりも重く、短冊家製品ほどの重みがあります、。
1の足、2の足、3の足の正面に菊花紋を置き、他は唐草模様とその間の空間は緑色の点々(ドット)を細かく打ってあります、。段替わりの横線は描かず、腰の部分には金泥で雷紋をきっちりと描いてある鉢、。ヘリ上面には雲形のような唐草紋のような文様を金で描いてあり、高級品だった事をうかがわせます、。

高級品というよりも高価格品だった様子です、。が、どうもこの鉢は大旦那の注文制作だったらしく、楽徳が喜んでは製作していなかったような印象を受けます、。”楽徳らしさ”を発揮させてもらえなかったような気がします、。「金を多用せよ」「足の正面に菊の花を描け」とかいう小うるさい注文をされて、嫌々ながらというほどではないにしろ、何かしら”楽徳が乗ってない”ような気がするのです、。旦那からは相当ふんだくって鬱憤を晴らしたことでしょう、。最下段7枚目は前所有者さんの頃に撮影された画像で、金色や緑色が少し強すぎますが、この鉢の色を表しています、。(142mm×180mm)

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ところで、この鉢の「唐草紋」の隙間にビッシリと描き込まれた「細かな点々」は、「正式には何と呼ぶべきなのだろう」と常々考えて来た、。風来記では過去には「細かな点々」などと書いてきたのだが、ヒョンなことから判明したので書いておきます、。
奈良春日大社の社殿から発見された平安時代の「金鈿荘の太刀(きんでんそうのたち)」の純金のツカ部分に掘られた文様の隙間にビッシリと鏨で打ち込まれた細かな点々を「魚子(ななこ)」とNHKBSで放送していました、。800年ぶりに複製を作り春日大社に収蔵することになり、現代の人間国宝の人たちが協力して2年半かかって複製品を造り上げる様子を記録した番組中にスーパーインポーズで表示されたから信頼できる情報だと思います、。
楽焼鉢の世界では、「魚の子紋」は別個にイッチン描きや筆描きで「魚の子文様」は存在しますが、本来の意味からすれば「魚の卵に似せた細かな点々」は「魚の子紋」と呼ばれるようですから、今後は説明を加えながら「魚の子紋」という呼び名も使っていこうと思います、。


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浮田楽徳は京狩野大和絵派の絵師でしたが、1830年生まれで1861年(明治維新7年前)に窯を開き、大正元年に他界しており、その作品は紛れもなく明治時代の製作で、こんなに安心して時代が分かる窯元もめずらしいものです、。残された作品の多さを見ると短冊家や手島揫二と同数程度残っていて、絵師から窯元へ転身してからは、楽鉢製作一筋に打ち込んだのでしょう、。絵師といっても職人ですから、お客の旦那が買ってくれてこその商売で、この点でも旦那筋にも愛されたのでしょう、。

「浮田家」といえば、宇喜多秀家と加賀前田藩から嫁いだ豪姫は徳川家康に対する逆族として八丈島へ流刑に処されますが、その間も加賀前田家は毎年お金と米とを八丈島へ送り続けます、。家康の死後は一部親族は許され江戸へ戻りますが、この人たちも前田藩の江戸屋敷に住まわせて面倒を見ます、。代々それは引き継がれ、270年後の明治2年に赦免された時に浮田家の人々の職探しなどの面倒を見たのも加賀前田家だったといいますから、加賀前田家の義理堅さは大したものです、。凄いものです、。

浮田家の一族は現在は中国地方と九州地方、一部は東京方面に住んでおり、京都で探しましたが京都には居られないようでした、。(浮田一蕙や浮田楽徳の子孫の方が現在も京都にお住まいなら、伺ってご先祖のお話を聞こうと思い探したところ、現在の京都市に浮田姓のお宅が3軒あり、うち一軒は歯科医を開業されているので、人を介してその歯科医さんに聞いてもらったのです、。残念ながら浮田一蕙や楽徳の血縁者ではなく、エビアンが探している浮田姓の人は現在は京都には居られない、と歯科医さんから聞きました、。)

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歴史を振り返れば、西暦1600年代に絵師尾形光琳・陶工尾形乾山兄弟のように、京都の呉服商・雁金屋の次男三男という恵まれた環境に生まれ、才能に恵まれたのに、膨大な親の遺産を遊郭に入り浸って使い果たすような(ある種)天才も居り、様々だなぁと感じます、。余談ながら、尾形兄弟の曾祖母は本阿弥光悦の姉に当たり、従兄弟は楽家4代目の養子に入り、楽家5代目になった宗入であったという芸術家の血筋も引いています、。

この尾形光琳乾山と同時代の1600年代後半には、オランダ・デルフトの絵師(というより画家)フェルメールも出ています、。フェルメールも親から娼婦の館(まぁ売春宿)を受け継ぎ、自分は画商として生計を立てていましたが、ある時、自分でも絵を描いてみたところ評判が良く、生涯で34点の名画を残しますが、途中でアフガニスタンで産しヨーロッパで精製されたラピスラズリのウルトラマリン顔料に憑りつかれ、死んだ時には膨大な借金が残ったと言われます、。

真面目に楽鉢製作に取り組んで生涯を送った絵師も居れば、才能とお金に恵まれながら後世に名作品と名を残したけれどお金は使い果たした絵師も居たという歴史の皮肉も知ることになる楽焼鉢の研究です、。

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「画家とお金」の関係では、フェルメールと同じオランダデルフト出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホも思い出します、。日本の明治時代に当たる時代の画家(わずか100年チョイ前の人)で、その存命中に描いた絵は1点しか売れず、生活は苦しく、ゴッホの生活と絵画用品代金は弟のテオが結婚もせずに働いて支えたといいます、。今になってヨーロッパではゴッホ美術館ができ、その絵は高価に取引され、郷土が生んだ大芸術家のように自慢しますが、わずか100年前に理解して買ってもやらずに今頃になって何だ、とエビアンは思うのです、。












by evian_th | 2017-01-03 21:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「大阪焼」2つの提案                        No.577
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◆2016年12月28日、。   「大阪焼」の呼称の提案


早いもので、今年もこのスレッドまでです、。インフルエンザウイルスやノロウイルスや食中毒の菌が繁殖しているようです、。12月の末になってもウイルスや菌の活動が活発だということは、蘭の方もフザリウム菌などが動いていると考えられますので、雨の当たる外棚物は乾き気味に管理するのが重要だと思います、。(昨日、外棚物で葉が黒くなって枯れる株を見付けたのでね)、。


「大阪焼」という呼称の提案、。

1枚目画像は、先日BBSのkumasannが入手の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」です、。
この鉢の落款は「楽忠」とあるように「楽忠窯の製品」なのですが、これを「楽焼鉢」と呼べるのかと考えると、少し無理があるように思われます、。古典園芸界では一般的に「楽焼」と言えば「加茂黒釉」を分厚く掛けた鉢を指す用語だからです、。

「楽焼」というのは、豊臣秀吉が「京都寿楽第(邸)」の出来栄えが素晴らしく良かったので、「佐々木家」に対して「寿楽第」の一字を取って「楽の金印」と共に「楽家」という姓(苗字)を与えたもので、以来、「楽家の焼き物」という意味で使われるべき呼称です、。従って、「楽家の焼き物はどんなものであっても楽焼」な訳ですし、楽家以外の人が作る「加茂黒釉の焼き物」は「楽焼」と名乗ってはいけない筈なのです、。

しかし、楽家と血縁の無い「本阿弥光悦」の造った「白楽茶碗・白富士」が国宝に選ばれているのを初め、江戸後期には短冊家も楽焼を名乗り、明治時代には東京の福富京楽堂も「京楽東京本舗」を名乗っているのが実情です、。

ですから、「楽焼は楽家が焼いた製品だけを指す言葉」であるべきところが、「楽焼は加茂黒釉を掛けた焼き物を指す言葉」へと転用されて使われつ続けて来ました、。今となっては動かしがたい既成事実化しています、。

では、紛れも無く楽家3代目道入の弟道楽が開窯した楽窯「楽忠窯」の製品である1枚目画像の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」は「楽焼鉢」と呼べるのかというと、詳しい事情を知らない人には違和感を感じられるでしょう、。
楽家の焼き物であっても加茂黒釉薬を掛けてない鉢は「楽鉢」とは認められないのです、。

では、この「楽忠鉢」を何鉢と呼べば良いのかと考えると、当て嵌まるカテゴリーが存在しないのです、。
2枚目画像の2つの万年青鉢には「大阪楽」という呼び名を2016年1月号の「園芸ジャパン誌」で与えて頂きました、。しかし、この大阪で楽家の手で焼かれたのに加茂黒を使ってない鉢は「大阪楽」には含まれないでしょうから、新たな別個の呼び名が必要です、。

そこで、大阪で焼かれ、楽焼とは呼べない鉢には「大阪焼」というカテゴリーを作り「大阪焼」と呼んではいかがでしょうか、というのが風来記の提案です、。(「大阪焼」と聞くと「たこ焼き」か「お好み焼き」のイメージ強くて、何かしら食べ物それも粉もん(こなもん)の感じを受けますが、いくら考えてもこれしか思い浮かばない)、。

強いて別な呼び方というと「浪速(難波・浪花)焼」(いずれも・なにわやき)と呼べないことは無いのですが、。
競技かるた大会(注1)の初めの序歌として詠まれる事が多い、「難波津(なにわず)に、咲くやこの花冬籠り、いまは春べと咲くやこの花」というような歌を平素から耳にしているような粋人なら、「難波焼」も受け入れられるかも知れません、。どうしたものでしょう?

「大阪」は江戸時代には「大坂」と呼ばれていた、。更にそれ以前には「なには」と呼ばれていた事を御存知の方には通用するかも知れませんが、一般には興味も無く、「なには?、なにそれ?」という程度の理解だと思います、。

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もう一つ、画像3枚目は「頂山鉢」です、。
盆栽界では、「頂山鉢」は「京焼」に含まれ「謎の京焼」ということになっています、。
が、この鉢に使われている「チョコレートのような色をした陶土」を見て下さいよ、。京都にこの陶土は出ないでしょう、。「京土」にも存在しないじゃないですか、。(京土は壁土として現在でも各種の土が販売されている)、。
1枚目画像の「楽忠」に使用の陶土を見れば、この手の「チョコレート色陶土」は大坂南の産の陶土だということは一目瞭然、。
風来記では「頂山鉢」というのは、江戸後期1830年ごろに紀州徳川藩の御庭焼「偕楽園」へ呼ばれた陶工が、和歌山からの帰路、大阪の世話になった貝塚市水間寺で窯を開いて焼いた「水間焼」(貝塚焼)(みずまやき)というのが、この「頂山」だろうと思っています、。従って「頂山鉢」も「大阪焼(または難波焼)」に分類すべきではないかと思っています、。いかがなもんでしょうか?
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(注1)競技かるた大会、。
毎年お正月に滋賀県大津市近江神宮で開催される「競技かるたの全国大会」で、クイーン戦と名人戦が行われる、。2016年のかるたクイーン「坪田クイーン」は目元が涼しいなかなかの美人ですよ、。ただし人妻、。
「近江神宮」には「百人一首の第一番目の歌を詠んだとされる天智天皇が祀られており競技かるた人の聖地」とされている、。この時の名人戦やクイーン戦で詠まれる序歌が「難波津に咲くやこの花・・・」なのです、。
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「なにわ(なには)」というのも一定しないんですよねぇ、。PC変換すると「難波」「浪速」「浪花」と3つにも変換される始末、。「浪曲・なにわぶし」の場合は「浪花節」だし、高校野球で名を馳せた「なにわ商業高校」は「浪華商業高校」だし、昔の芸人「なにわ千栄子」は「浪花千栄子」だった、。百人一首の「なにわず」は「難波津」だしなぁ~、。こういうの困るなぁ~、。
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楽家12代目だかが執筆した「楽焼」という本によると・・・
豊臣秀吉から「楽」の金印と「楽の姓」を賜ったのは、2代目常慶ではないかという事です、。初代佐々木長次郎が製作した「お茶碗」は「無落款」らしいです、。2代目常慶のお茶碗には「楽の落款」が有ったり無かったりで、3代目道入以降の作品には全部の作品に「楽の印」が押してあるそうです、。

その事ともう一つ、「楽姓」を賜るきっかけになったと言い伝えられる「瓦職人・佐々木長次郎」が作ったとされる「寿楽第のための鬼瓦」が残り伝わっているそうです、。この瓦には長次郎が書いたと思われる「製作年号」が入っているらしいですが、その年号が寿楽第の作られた年代とは一致しないのだそうです、。
この2つの事から、楽家に伝わる初期の頃の話の信憑性に疑問があると書いてあります、。初代長次郎と2代目常慶とが10歳しか年齢が離れてなかったことから、親子とも思えないとも書いてあります、。

「楽家」に関しては、その誕生の頃の話にあやふやな部分が多く、楽家の人でさえこの状態ですから、他の人が書く文章が一致しないのも当然で、この辺が「楽焼は京焼に含まれない」ということや、「国宝に選ばれた楽焼は本阿弥光悦のお茶碗である」ことなどの原因ではないかと思われます、。
風来記が、楽焼の初めの頃は大阪府堺市で焼かれていた、楽雅亭も大阪堺だったであろう、と書くのには、このように楽家の初期に疑問があるからです、。

また別な本では、楽家の初期に「田中宗慶」という人物が登場して、「田中宗慶」というのは「2代目常慶の父親である」とか、千利休の旧姓が「田中」であることから、「田中宗慶」とは「千利休本人の事である」とか「千利休の息子が2代目常慶である」とか、まぁ言いたい放題、書きたい放題であり、風来記ではその辺の事を無視して伏せて来ました、。今となっては真実は闇の中なのです、。
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by evian_th | 2016-12-30 00:41 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢の形状の歴史                      No.576
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◆2016年12月20日、。   楽鉢の形状からの歴史


12月のトップ画面に使用した「五柳鉢」の件に関してBBSに書き込みがあった、。その時に返信レスを書いた中に「楽焼鉢の形状の大革命を起こしたのは京都・短冊家である。」と書いた、。そこのところ説明スレを一度書いておかねばならないと思う、。

画像は手持ちの写真を古いと思われる順に並べたものです、。エビアンの鉢は3個だけで他の3個は別な所有者さんの鉢です、。
①は1650年過ぎに大阪の堺市で「楽雅亭」や「楽忠」が作り始めた頃の「楽鉢の造り始めのパターン」なので、これを一応1650年型とした、。
②は同じ「楽雅亭」の鉢ですが、少し古典園芸風な形をしているので、これを時代を少し下って1700年型としました、。
③は、「大阪楽」ではあるけれど窯元が違うので比較の対称としては変ですが、縁のつば部分が「黒鍔(くろつば)風な形」なので、これを1700年後半型とします、。
④は、3よりも足やヘリに工夫の痕跡が見られ、ツバも横広がりに完成して来たので、1800年型としました、。

④の画像の時代までは「太鼓胴・段替わり」という形を忠実に引き継ぎ、「段替わりの度に鉢の太さを3段階に細く削って」います、。今まで見た大阪楽鉢はみんな同一パターンのデザインです、。③の右横に引いた線はその事を示しています、。

⑤ところが、楽鉢製造が京都へ移った(というか1820年頃に短冊家が製作を始めると)直後から、楽鉢の形に変化が起こり始めます、。⑤の鉢は一応は大阪楽の太鼓胴・段替わりを引き継いでいるように見えるのですが、よく見ると、胴部分にカーブを付けて、段替わりでも絞り込まれてない、。
⑥は、⑤を作ることで短冊家は「ロクロで下から上まで一気に引き上げる方式」を思い付いたのでしょうね、。⑥の鉢は「総絵付け」ですが、これ以後の作品には「段替わりの名残」として「鉢縁下・下部」と「腰部分・上部」とに「イッチン描きで1本か2本の線を描き、これを段替わりの名残とした」のでしょう、。


このことによって、製造に掛かる時間の短縮が出来る、鉢の肉厚を薄く出来る、自由な絵付けが出来る、などなどの利点が生まれ、これ以後「楽焼鉢」は大きく発展して行く事になりました、。
この「短冊家が作り始めた形状の変化は、楽鉢の世界における大革命」だったと思います、。以降、現在まで200年弱の時間が経過しますが、完璧なデザインでしかも簡単な製造方法であるために、他に工夫の余地も無く、同じデザインが引き継がれています、。「初代短冊家」というのは大したものです、。


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上に掲載の画像は楽忠楽雅亭の小型楽鉢です、。植わっているのは中春梅弁代表花「宋梅」、。これを見ると、随分小さい鉢も作ったんですね、。同じデザインの鉢は「楽忠窯の中盤1800年頃」まで造られたようです、。
画像は50年近く前に大阪府枚方市牧野に住んでいた竹島健太郎氏方で開催の「幽香会」の折に出品された貝塚市の道浦氏の作品、。道浦氏は当時「植木鉢数寄者」として知られ、没後はそのコレクションの多くは静岡の新谷氏経由で高木禮二氏(明光商会会長・msシュレッダー)コレクションに集められた、。撮影はエビアン、カメラはゼンザブロニカ、。







by evian_th | 2016-12-21 15:08 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭風来記お蔭様で12年                  No.573
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◆2016年11月、。     お蔭様で12年



「東洋蘭風来記」、お蔭様で満12年、。
多くのご訪問に感謝します、。
これからも「東洋蘭」や「植木鉢」の楽しい話題を続けて行こうと思います、。
今後とも、何卒宜しくお願いします、。




<お蔭様で満12年>
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by evian_th | 2016-11-16 00:32 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「梅花紋万年青鉢」                   No.572
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◆2016年11月、。   楽焼鉢「梅花紋万年青鉢」


2012年の「華幸園植木鉢展示会」に出品されていた鉢らしいのですが、手に取って見るチャンスがあったのに気づかず見逃した万年青鉢、。今回使おうとしてフォルダーを見た時には「あ~、短冊家の万年青鉢ね」という軽い気持ちで使用を決めたのでした、。「短冊家万年青鉢」について書く事もあまりないなぁと思いながら、。

画像を作り始めて直ぐに「あれ?、違うかもな」と思い始め、画像が出来上がった時点では「短冊家である確率は50%」程度まで気持ちが変化していた、。
「短冊家」作品に共通する何かが不足していると感じたのでした、。最初に気になったのは「鉢ヘリ」の形、。ヘリ周辺が丸みを持って中央部よりも少し下がっている気がしたのと、一番の気がかりは「短冊家らしさ共通のピシッとした品格」が不足する点でした、。

絵付けは良く描けています、。珍しい梅花紋を肉厚く描いてあります、。使われている「緑土」も非常に上質、。段替わりの上、「鉢縁下」(はちべりした)の絵付けも何の絵かは不明ながら面白い、。「腰部分」には「金泥の花と緑土の唐草模様」が描かれていて纏まりがある、。上品な鉢に仕上がっていると感じます、。

鋏み痕も短冊家風に鉢縁直下にあり、もうほとんど短冊家に見えるんだけど、短冊家ではない可能性の方が多いですね、。「短冊家に見えて短冊家よりも少し色気がある」のは「福井楽印窯」に多いのですが、これも福井楽印かも知れません、。季節感のある良い鉢です、。
(口径8.5㎝、高さ8㎝。野町敦志氏所蔵)


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下に掲載の「大阪楽・太鼓胴楽鉢」は典型的な「段替わり様式」で作られています、。
太鼓の鋲がある「鉢縁下」(はちべりした)は最も太く、「胴部分」で一段胴回りは細くなり、更に「腰部分」でもう一段細くなるという古典の様式です、。
今月の「梅花紋万年青鉢」はこの様式を踏襲しようとしています、。小さい鉢では見栄えがしませんが、。
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by evian_th | 2016-11-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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