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武者絵万年青鉢                          No.581
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◆2017年4月、。   武者絵(?)万年青鉢


8年ほど前から、風来記の植木鉢画像保存フォルダーの中に上掲の鉢画像があり気になっていました、。1の足方向からの画像しか無くて、上から鉢の中を覗き込んだ画像や鉢の底から見た画像が無かったもので、窯元の特定どころか京都の楽鉢なのか三河の楽鉢なのかの判断さえ出来ない状況でしたので、画像を使いかねていました、。
「三河鉢」の話も書くようになったのですから、不完全ながら画像を使うことにします、。このままお蔵入りさせるに忍びない良い鉢ですから、。

という訳で、「窯元判定」や「年代判断」「産地判定」も不能なのですが、「総絵付け」された絵付けの素晴らしさは目を引くものがあります、。
描かれた主役は「武者絵」とは見えず、何と書けばよいのか迷います、。エビアン不勉強で、この絵付けは「歴史上の有名なシーン」なのではないかと感じるのですが、どなたか描かれたテーマを御判断頂いてお教え下さい、。

これほどの絵付けをできるのは、京都では浮田楽徳窯か佐々木松楽窯でしょう、。総絵付け得意な三河地方にはこういう絵付けを得意とした窯元はありました、。「鉢底画像」があれば時代判断が可能になり、明治時代の古さがあれば京楽鉢、昭和初期ごろの製作なら三河鉢、という風に判断が可能なのですが、。

3枚目画像をご覧ください、。撮影者が、鉢の口径と高さとをメモった紙を鉢の足に立てかけて撮影した画像ですが、素晴らしい絵付けが施された片鱗が窺がえます、。足の「金の下地の上から金泥で唐草模様を描く」という実に粋で贅沢な絵付けをしています、。余程の大棚の注文制作だったのでしょう、。2の足・3の足の画像も見たい、鉢底も見たい、という焦燥感に襲われる逸品です、。銘鉢ですね、。(15㎝×15㎝)
画像撮影時には四国にあった鉢ですが、その直後に東京方面へ買われて行ったという噂です、。









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by evian_th | 2017-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽鉢「楽徳蘭鉢」                         No.578
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◆2017年1月、。


新年おめでとうございます、。今年も「東洋蘭風来記」の風来記ページを宜しくお願いします、。


◆京楽鉢「浮田楽徳製菊花唐草紋蘭鉢」、。
新年は楽徳蘭鉢です、。珍しく無傷完品、。楽徳鉢にしては見た目よりも重く、短冊家製品ほどの重みがあります、。
1の足、2の足、3の足の正面に菊花紋を置き、他は唐草模様とその間の空間は緑色の点々(ドット)を細かく打ってあります、。段替わりの横線は描かず、腰の部分には金泥で雷紋をきっちりと描いてある鉢、。ヘリ上面には雲形のような唐草紋のような文様を金で描いてあり、高級品だった事をうかがわせます、。

高級品というよりも高価格品だった様子です、。が、どうもこの鉢は大旦那の注文制作だったらしく、楽徳が喜んでは製作していなかったような印象を受けます、。”楽徳らしさ”を発揮させてもらえなかったような気がします、。「金を多用せよ」「足の正面に菊の花を描け」とかいう小うるさい注文をされて、嫌々ながらというほどではないにしろ、何かしら”楽徳が乗ってない”ような気がするのです、。旦那からは相当ふんだくって鬱憤を晴らしたことでしょう、。最下段7枚目は前所有者さんの頃に撮影された画像で、金色や緑色が少し強すぎますが、この鉢の色を表しています、。(142mm×180mm)

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ところで、この鉢の「唐草紋」の隙間にビッシリと描き込まれた「細かな点々」は、「正式には何と呼ぶべきなのだろう」と常々考えて来た、。風来記では過去には「細かな点々」などと書いてきたのだが、ヒョンなことから判明したので書いておきます、。
奈良春日大社の社殿から発見された平安時代の「金鈿荘の太刀(きんでんそうのたち)」の純金のツカ部分に掘られた文様の隙間にビッシリと鏨で打ち込まれた細かな点々を「魚子(ななこ)」とNHKBSで放送していました、。800年ぶりに複製を作り春日大社に収蔵することになり、現代の人間国宝の人たちが協力して2年半かかって複製品を造り上げる様子を記録した番組中にスーパーインポーズで表示されたから信頼できる情報だと思います、。
楽焼鉢の世界では、「魚の子紋」は別個にイッチン描きや筆描きで「魚の子文様」は存在しますが、本来の意味からすれば「魚の卵に似せた細かな点々」は「魚の子紋」と呼ばれるようですから、今後は説明を加えながら「魚の子紋」という呼び名も使っていこうと思います、。


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浮田楽徳は京狩野大和絵派の絵師でしたが、1830年生まれで1861年(明治維新7年前)に窯を開き、大正元年に他界しており、その作品は紛れもなく明治時代の製作で、こんなに安心して時代が分かる窯元もめずらしいものです、。残された作品の多さを見ると短冊家や手島揫二と同数程度残っていて、絵師から窯元へ転身してからは、楽鉢製作一筋に打ち込んだのでしょう、。絵師といっても職人ですから、お客の旦那が買ってくれてこその商売で、この点でも旦那筋にも愛されたのでしょう、。

「浮田家」といえば、宇喜多秀家と加賀前田藩から嫁いだ豪姫は徳川家康に対する逆族として八丈島へ流刑に処されますが、その間も加賀前田家は毎年お金と米とを八丈島へ送り続けます、。家康の死後は一部親族は許され江戸へ戻りますが、この人たちも前田藩の江戸屋敷に住まわせて面倒を見ます、。代々それは引き継がれ、270年後の明治2年に赦免された時に浮田家の人々の職探しなどの面倒を見たのも加賀前田家だったといいますから、加賀前田家の義理堅さは大したものです、。凄いものです、。

浮田家の一族は現在は中国地方と九州地方、一部は東京方面に住んでおり、京都で探しましたが京都には居られないようでした、。(浮田一蕙や浮田楽徳の子孫の方が現在も京都にお住まいなら、伺ってご先祖のお話を聞こうと思い探したところ、現在の京都市に浮田姓のお宅が3軒あり、うち一軒は歯科医を開業されているので、人を介してその歯科医さんに聞いてもらったのです、。残念ながら浮田一蕙や楽徳の血縁者ではなく、エビアンが探している浮田姓の人は現在は京都には居られない、と歯科医さんから聞きました、。)

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歴史を振り返れば、西暦1600年代に絵師尾形光琳・陶工尾形乾山兄弟のように、京都の呉服商・雁金屋の次男三男という恵まれた環境に生まれ、才能に恵まれたのに、膨大な親の遺産を遊郭に入り浸って使い果たすような(ある種)天才も居り、様々だなぁと感じます、。余談ながら、尾形兄弟の曾祖母は本阿弥光悦の姉に当たり、従兄弟は楽家4代目の養子に入り、楽家5代目になった宗入であったという芸術家の血筋も引いています、。

この尾形光琳乾山と同時代の1600年代後半には、オランダ・デルフトの絵師(というより画家)フェルメールも出ています、。フェルメールも親から娼婦の館(まぁ売春宿)を受け継ぎ、自分は画商として生計を立てていましたが、ある時、自分でも絵を描いてみたところ評判が良く、生涯で34点の名画を残しますが、途中でアフガニスタンで産しヨーロッパで精製されたラピスラズリのウルトラマリン顔料に憑りつかれ、死んだ時には膨大な借金が残ったと言われます、。

真面目に楽鉢製作に取り組んで生涯を送った絵師も居れば、才能とお金に恵まれながら後世に名作品と名を残したけれどお金は使い果たした絵師も居たという歴史の皮肉も知ることになる楽焼鉢の研究です、。

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「画家とお金」の関係では、フェルメールと同じオランダデルフト出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホも思い出します、。日本の明治時代に当たる時代の画家(わずか100年チョイ前の人)で、その存命中に描いた絵は1点しか売れず、生活は苦しく、ゴッホの生活と絵画用品代金は弟のテオが結婚もせずに働いて支えたといいます、。今になってヨーロッパではゴッホ美術館ができ、その絵は高価に取引され、郷土が生んだ大芸術家のように自慢しますが、わずか100年前に理解して買ってもやらずに今頃になって何だ、とエビアンは思うのです、。












by evian_th | 2017-01-03 21:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
「大阪焼」2つの提案                        No.577
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◆2016年12月28日、。   「大阪焼」の呼称の提案


早いもので、今年もこのスレッドまでです、。インフルエンザウイルスやノロウイルスや食中毒の菌が繁殖しているようです、。12月の末になってもウイルスや菌の活動が活発だということは、蘭の方もフザリウム菌などが動いていると考えられますので、雨の当たる外棚物は乾き気味に管理するのが重要だと思います、。(昨日、外棚物で葉が黒くなって枯れる株を見付けたのでね)、。


「大阪焼」という呼称の提案、。

1枚目画像は、先日BBSのkumasannが入手の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」です、。
この鉢の落款は「楽忠」とあるように「楽忠窯の製品」なのですが、これを「楽焼鉢」と呼べるのかと考えると、少し無理があるように思われます、。古典園芸界では一般的に「楽焼」と言えば「加茂黒釉」を分厚く掛けた鉢を指す用語だからです、。

「楽焼」というのは、豊臣秀吉が「京都寿楽第(邸)」の出来栄えが素晴らしく良かったので、「佐々木家」に対して「寿楽第」の一字を取って「楽の金印」と共に「楽家」という姓(苗字)を与えたもので、以来、「楽家の焼き物」という意味で使われるべき呼称です、。従って、「楽家の焼き物はどんなものであっても楽焼」な訳ですし、楽家以外の人が作る「加茂黒釉の焼き物」は「楽焼」と名乗ってはいけない筈なのです、。

しかし、楽家と血縁の無い「本阿弥光悦」の造った「白楽茶碗・白富士」が国宝に選ばれているのを初め、江戸後期には短冊家も楽焼を名乗り、明治時代には東京の福富京楽堂も「京楽東京本舗」を名乗っているのが実情です、。

ですから、「楽焼は楽家が焼いた製品だけを指す言葉」であるべきところが、「楽焼は加茂黒釉を掛けた焼き物を指す言葉」へと転用されて使われつ続けて来ました、。今となっては動かしがたい既成事実化しています、。

では、紛れも無く楽家3代目道入の弟道楽が開窯した楽窯「楽忠窯」の製品である1枚目画像の「瑠璃釉飛龍浮彫紋花盆」は「楽焼鉢」と呼べるのかというと、詳しい事情を知らない人には違和感を感じられるでしょう、。
楽家の焼き物であっても加茂黒釉薬を掛けてない鉢は「楽鉢」とは認められないのです、。

では、この「楽忠鉢」を何鉢と呼べば良いのかと考えると、当て嵌まるカテゴリーが存在しないのです、。
2枚目画像の2つの万年青鉢には「大阪楽」という呼び名を2016年1月号の「園芸ジャパン誌」で与えて頂きました、。しかし、この大阪で楽家の手で焼かれたのに加茂黒を使ってない鉢は「大阪楽」には含まれないでしょうから、新たな別個の呼び名が必要です、。

そこで、大阪で焼かれ、楽焼とは呼べない鉢には「大阪焼」というカテゴリーを作り「大阪焼」と呼んではいかがでしょうか、というのが風来記の提案です、。(「大阪焼」と聞くと「たこ焼き」か「お好み焼き」のイメージ強くて、何かしら食べ物それも粉もん(こなもん)の感じを受けますが、いくら考えてもこれしか思い浮かばない)、。

強いて別な呼び方というと「浪速(難波・浪花)焼」(いずれも・なにわやき)と呼べないことは無いのですが、。
競技かるた大会(注1)の初めの序歌として詠まれる事が多い、「難波津(なにわず)に、咲くやこの花冬籠り、いまは春べと咲くやこの花」というような歌を平素から耳にしているような粋人なら、「難波焼」も受け入れられるかも知れません、。どうしたものでしょう?

「大阪」は江戸時代には「大坂」と呼ばれていた、。更にそれ以前には「なには」と呼ばれていた事を御存知の方には通用するかも知れませんが、一般には興味も無く、「なには?、なにそれ?」という程度の理解だと思います、。

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もう一つ、画像3枚目は「頂山鉢」です、。
盆栽界では、「頂山鉢」は「京焼」に含まれ「謎の京焼」ということになっています、。
が、この鉢に使われている「チョコレートのような色をした陶土」を見て下さいよ、。京都にこの陶土は出ないでしょう、。「京土」にも存在しないじゃないですか、。(京土は壁土として現在でも各種の土が販売されている)、。
1枚目画像の「楽忠」に使用の陶土を見れば、この手の「チョコレート色陶土」は大坂南の産の陶土だということは一目瞭然、。
風来記では「頂山鉢」というのは、江戸後期1830年ごろに紀州徳川藩の御庭焼「偕楽園」へ呼ばれた陶工が、和歌山からの帰路、大阪の世話になった貝塚市水間寺で窯を開いて焼いた「水間焼」(貝塚焼)(みずまやき)というのが、この「頂山」だろうと思っています、。従って「頂山鉢」も「大阪焼(または難波焼)」に分類すべきではないかと思っています、。いかがなもんでしょうか?
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(注1)競技かるた大会、。
毎年お正月に滋賀県大津市近江神宮で開催される「競技かるたの全国大会」で、クイーン戦と名人戦が行われる、。2016年のかるたクイーン「坪田クイーン」は目元が涼しいなかなかの美人ですよ、。ただし人妻、。
「近江神宮」には「百人一首の第一番目の歌を詠んだとされる天智天皇が祀られており競技かるた人の聖地」とされている、。この時の名人戦やクイーン戦で詠まれる序歌が「難波津に咲くやこの花・・・」なのです、。
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「なにわ(なには)」というのも一定しないんですよねぇ、。PC変換すると「難波」「浪速」「浪花」と3つにも変換される始末、。「浪曲・なにわぶし」の場合は「浪花節」だし、高校野球で名を馳せた「なにわ商業高校」は「浪華商業高校」だし、昔の芸人「なにわ千栄子」は「浪花千栄子」だった、。百人一首の「なにわず」は「難波津」だしなぁ~、。こういうの困るなぁ~、。
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楽家12代目だかが執筆した「楽焼」という本によると・・・
豊臣秀吉から「楽」の金印と「楽の姓」を賜ったのは、2代目常慶ではないかという事です、。初代佐々木長次郎が製作した「お茶碗」は「無落款」らしいです、。2代目常慶のお茶碗には「楽の落款」が有ったり無かったりで、3代目道入以降の作品には全部の作品に「楽の印」が押してあるそうです、。

その事ともう一つ、「楽姓」を賜るきっかけになったと言い伝えられる「瓦職人・佐々木長次郎」が作ったとされる「寿楽第のための鬼瓦」が残り伝わっているそうです、。この瓦には長次郎が書いたと思われる「製作年号」が入っているらしいですが、その年号が寿楽第の作られた年代とは一致しないのだそうです、。
この2つの事から、楽家に伝わる初期の頃の話の信憑性に疑問があると書いてあります、。初代長次郎と2代目常慶とが10歳しか年齢が離れてなかったことから、親子とも思えないとも書いてあります、。

「楽家」に関しては、その誕生の頃の話にあやふやな部分が多く、楽家の人でさえこの状態ですから、他の人が書く文章が一致しないのも当然で、この辺が「楽焼は京焼に含まれない」ということや、「国宝に選ばれた楽焼は本阿弥光悦のお茶碗である」ことなどの原因ではないかと思われます、。
風来記が、楽焼の初めの頃は大阪府堺市で焼かれていた、楽雅亭も大阪堺だったであろう、と書くのには、このように楽家の初期に疑問があるからです、。

また別な本では、楽家の初期に「田中宗慶」という人物が登場して、「田中宗慶」というのは「2代目常慶の父親である」とか、千利休の旧姓が「田中」であることから、「田中宗慶」とは「千利休本人の事である」とか「千利休の息子が2代目常慶である」とか、まぁ言いたい放題、書きたい放題であり、風来記ではその辺の事を無視して伏せて来ました、。今となっては真実は闇の中なのです、。
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by evian_th | 2016-12-30 00:41 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢の形状の歴史                      No.576
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◆2016年12月20日、。   楽鉢の形状からの歴史


12月のトップ画面に使用した「五柳鉢」の件に関してBBSに書き込みがあった、。その時に返信レスを書いた中に「楽焼鉢の形状の大革命を起こしたのは京都・短冊家である。」と書いた、。そこのところ説明スレを一度書いておかねばならないと思う、。

画像は手持ちの写真を古いと思われる順に並べたものです、。エビアンの鉢は3個だけで他の3個は別な所有者さんの鉢です、。
①は1650年過ぎに大阪の堺市で「楽雅亭」や「楽忠」が作り始めた頃の「楽鉢の造り始めのパターン」なので、これを一応1650年型とした、。
②は同じ「楽雅亭」の鉢ですが、少し古典園芸風な形をしているので、これを時代を少し下って1700年型としました、。
③は、「大阪楽」ではあるけれど窯元が違うので比較の対称としては変ですが、縁のつば部分が「黒鍔(くろつば)風な形」なので、これを1700年後半型とします、。
④は、3よりも足やヘリに工夫の痕跡が見られ、ツバも横広がりに完成して来たので、1800年型としました、。

④の画像の時代までは「太鼓胴・段替わり」という形を忠実に引き継ぎ、「段替わりの度に鉢の太さを3段階に細く削って」います、。今まで見た大阪楽鉢はみんな同一パターンのデザインです、。③の右横に引いた線はその事を示しています、。

⑤ところが、楽鉢製造が京都へ移った(というか1820年頃に短冊家が製作を始めると)直後から、楽鉢の形に変化が起こり始めます、。⑤の鉢は一応は大阪楽の太鼓胴・段替わりを引き継いでいるように見えるのですが、よく見ると、胴部分にカーブを付けて、段替わりでも絞り込まれてない、。
⑥は、⑤を作ることで短冊家は「ロクロで下から上まで一気に引き上げる方式」を思い付いたのでしょうね、。⑥の鉢は「総絵付け」ですが、これ以後の作品には「段替わりの名残」として「鉢縁下・下部」と「腰部分・上部」とに「イッチン描きで1本か2本の線を描き、これを段替わりの名残とした」のでしょう、。


このことによって、製造に掛かる時間の短縮が出来る、鉢の肉厚を薄く出来る、自由な絵付けが出来る、などなどの利点が生まれ、これ以後「楽焼鉢」は大きく発展して行く事になりました、。
この「短冊家が作り始めた形状の変化は、楽鉢の世界における大革命」だったと思います、。以降、現在まで200年弱の時間が経過しますが、完璧なデザインでしかも簡単な製造方法であるために、他に工夫の余地も無く、同じデザインが引き継がれています、。「初代短冊家」というのは大したものです、。


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上に掲載の画像は楽忠楽雅亭の小型楽鉢です、。植わっているのは中春梅弁代表花「宋梅」、。これを見ると、随分小さい鉢も作ったんですね、。同じデザインの鉢は「楽忠窯の中盤1800年頃」まで造られたようです、。
画像は50年近く前に大阪府枚方市牧野に住んでいた竹島健太郎氏方で開催の「幽香会」の折に出品された貝塚市の道浦氏の作品、。道浦氏は当時「植木鉢数寄者」として知られ、没後はそのコレクションの多くは静岡の新谷氏経由で高木禮二氏(明光商会会長・msシュレッダー)コレクションに集められた、。撮影はエビアン、カメラはゼンザブロニカ、。







by evian_th | 2016-12-21 15:08 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭風来記お蔭様で12年                  No.573
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◆2016年11月、。     お蔭様で12年



「東洋蘭風来記」、お蔭様で満12年、。
多くのご訪問に感謝します、。
これからも「東洋蘭」や「植木鉢」の楽しい話題を続けて行こうと思います、。
今後とも、何卒宜しくお願いします、。




<お蔭様で満12年>
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by evian_th | 2016-11-16 00:32 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「梅花紋万年青鉢」                   No.572
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◆2016年11月、。   楽焼鉢「梅花紋万年青鉢」


2012年の「華幸園植木鉢展示会」に出品されていた鉢らしいのですが、手に取って見るチャンスがあったのに気づかず見逃した万年青鉢、。今回使おうとしてフォルダーを見た時には「あ~、短冊家の万年青鉢ね」という軽い気持ちで使用を決めたのでした、。「短冊家万年青鉢」について書く事もあまりないなぁと思いながら、。

画像を作り始めて直ぐに「あれ?、違うかもな」と思い始め、画像が出来上がった時点では「短冊家である確率は50%」程度まで気持ちが変化していた、。
「短冊家」作品に共通する何かが不足していると感じたのでした、。最初に気になったのは「鉢ヘリ」の形、。ヘリ周辺が丸みを持って中央部よりも少し下がっている気がしたのと、一番の気がかりは「短冊家らしさ共通のピシッとした品格」が不足する点でした、。

絵付けは良く描けています、。珍しい梅花紋を肉厚く描いてあります、。使われている「緑土」も非常に上質、。段替わりの上、「鉢縁下」(はちべりした)の絵付けも何の絵かは不明ながら面白い、。「腰部分」には「金泥の花と緑土の唐草模様」が描かれていて纏まりがある、。上品な鉢に仕上がっていると感じます、。

鋏み痕も短冊家風に鉢縁直下にあり、もうほとんど短冊家に見えるんだけど、短冊家ではない可能性の方が多いですね、。「短冊家に見えて短冊家よりも少し色気がある」のは「福井楽印窯」に多いのですが、これも福井楽印かも知れません、。季節感のある良い鉢です、。
(口径8.5㎝、高さ8㎝。野町敦志氏所蔵)


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下に掲載の「大阪楽・太鼓胴楽鉢」は典型的な「段替わり様式」で作られています、。
太鼓の鋲がある「鉢縁下」(はちべりした)は最も太く、「胴部分」で一段胴回りは細くなり、更に「腰部分」でもう一段細くなるという古典の様式です、。
今月の「梅花紋万年青鉢」はこの様式を踏襲しようとしています、。小さい鉢では見栄えがしませんが、。
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by evian_th | 2016-11-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大隈重信侯と蘭1  楽鉢                   No.570
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◆2016年9月4日、。   大隈重信侯と蘭、その1     楽鉢の事など



今読んでいる本に面白い記述があるので抜粋してご紹介しとこ、。

「愛蘭の中興は大隈老侯」
文章は当時大隈重信侯邸に住み込んで蘭の手入れをしていた栗原彦三郎という人の書いたものから抜粋しました、。
(中略)
大隈侯爵はご自分で蘭を愛し、沢山栽培せられた許りで無く、愛蘭家の少なくなり蘭栽培の方法なども後世に伝はらなく成る事を憂ひられて、余に愛蘭家の会を作れと命じたので、当時東京に蘭商を本業として只壹人残って居り、亦栽培にも精通した新井仙之助翁を世話役として大正九年十月明治15・6年頃より31・2年頃までに東京市内に2・3百名の蘭商人があり、現今の組合組織の如き会もあったそうであるが蘭の廃れると共に段々減って大隈侯爵を総裁に、後藤新平伯を副総裁に、私が会長となって大日本蘭蕙会を組織し、全国から5百余名の愛蘭家を集めて、日本橋倶楽部で発会式を挙げ、同時に日本で最初の蘭蕙陳列観賞会を開催したのであった。

「当代の愛蘭家」
この大隈侯の蘭を愛されたのと同じ頃今の岩崎両男爵家の御先代弥太郎弥之助の両氏が素心蘭を好み、上等のものなら値を問はず買ったのが動機となって、明治18年頃から27・8年迄蘭が非常な勢いで日本全国に流行したのである。(注*岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者)
(後略)

上掲の写真説明文には「後藤新平伯大日本蘭蕙会副総裁親任式」と書いてあります、。

****************************

長文の極く一部分の抜粋だけど、驚くね、。明治中期に「東京で商う蘭商人だけでも200~300人も居た、」という記述に驚く、。
それと、ここには書いてないのですが、明治時代には既に「春蘭」という概念が確立されていて、それも「日本春蘭花物」の栽培が盛んにされていたという記述も、上記以外の箇所に書いてあります、。「日本春蘭の葉や花の鑑賞の仕方」とかもちろん「栽培法」とかも、。

上記の文章は、できるだけ「原文のまま」に載せました、。どうしても今では存在しない漢字を除いては、。句読点も原文まま、少し読みにくいというか意味不明の部分もありますね、。


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画像の鉢は「五柳寿運絵付けの6寸万年青鉢」、。
15年ほど前にこの鉢を現在の所有者に商ったのは横浜の蘭商故野田谷治男君で、売値はたしか280万だったと記憶しています、。
280万で驚いてちゃいけないのであって、明治時代の「古典楽焼鉢」の価格は、現在の貨幣価値で、数十万から数百万、それも1千万に近い数百万だったといいますから、蘭も鉢も、ごく限られたエリートたちの遊び場だったわけですね、

それにしても、現存する鉢が少なすぎて、鉢市場に活気が出ない、。古典の楽鉢が現在どの程度残っているかと考えると、現在古典園芸界と盆栽界と植物には興味はないけど鉢だけは買っている人の分・蔵の奥にしまってあって所有者さんさえ気付かないで居る鉢も含めても、最大数で現在の2倍程度じゃないかと思いますね、。

いや、違うな、。上に書いたことは正しくないかも知れないな、。
明治時代中頃には東京だけで蘭商が300人も生計を立てていた、。
一方大阪や京都は、大阪不況が起きたり、天皇陛下が東京へ居を移されたりして、明治中期には京大阪は不況だった筈で、お金持ちは東京に集中していた、。
京楽6窯の窯元が最も多くの錦鉢を作ったのは明治中期を中心とした時期である、。それらを買ったのは東京も多かったかも知れない、。
だとすると、東京に現存する古典楽鉢の数が少なすぎる気がする、。まだ多くが東京で隠れている可能性は大いにあるね、。大正12年に関東大震災があり、昭和16年―20年に大東亜戦争があったにしろ、それらの要因を差し引いても、まだ残っている筈だ、。希望はあるね、。





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by evian_th | 2016-09-04 12:49 | 東洋蘭(春蘭)
楽鉢「魚の子紋万年青鉢」                   No.569
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◆2016年9月、。     楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」


◆楽鉢「魚の子紋様万年青鉢」、。
久々登場、エビアンの好きな「魚の子紋様鉢」です、。
非常に良く描けている紋様です、。描き方は過去に掲載した飛田邦之氏やエビアンの「楽徳製魚の子石斛鉢」にも似ています、。よほど研究したのでしょう、。違いはと言えば、飛田邦之氏の分は「魚の卵1個の中に金色の点々が2~3個」だったのに対して、画像の鉢では「卵1個に金点1個」であることくらいです、。下に過去に使用の石斛鉢の「魚の子紋様」を掲載しておきます、。

使われている「緑土」も同じ質の製品で、乾燥すると何とも言えぬ「緑青色」になる分を使用しています、。まぁ「緑土テールベルト」は乾いても緑色濃い方が上質とされ、価格も高価だったので、浮田楽徳窯の製品に使われた緑土はあまり高価な品質ではなかった様子で、そこがこの「魚の子紋」に一層の良さを醸し出しています、。短冊家は一概には言えませんが、比較的高価な「緑色が濃い緑土」を使っていることが多いようです、。

下方から霞取りを残し、「金泥で雲形風模様」も描いて手の込んだ絵付けです、。鉢の大きさは4寸3分くらいと大きく、画像からは予想外に大きな鉢です、。
鉢数寄泣かせの垂涎の一品ですね、。
窯元はというと、これが判断できないのです、。「楽徳鉢」ではない、「短冊家」とは足の作りと足に描かれた5本の金線と縁のツバの作りや内掛けの刷毛を使わず釉薬が分厚く垂れ下がって溜まっていることなどの点で疑問符が付きます、。1ヶ所だけ思い当たる窯元はありますが、そこがこれほどの絵付けをできたかというと疑問もあるので、窯元は不明ということでお願いします、。
飛田邦之氏蔵、4.3号鉢、。





下画像は浮田楽徳窯の石斛鉢の魚の子模様部分
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by evian_th | 2016-08-31 14:20 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽長生蘭鉢                        No.560
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◆2016年5月、。   京楽鉢・石斛鉢


5月の鉢は「長生蘭鉢」、。
江戸時代後期1830年頃から、京都の公家を中心に流行し始めた「長生蘭」、。明治時代に入ってからは一般の町衆にも広まり「長生蘭鉢」も作られたのですが、現存数は非常に少ないものです、。
1835年には「長生草」という色刷りの本も出版されている所を見ると、ある程度の流行はあったのだろうと推察できますが、今に残る鉢は少数です、。「長生草」に描かれた鉢も見かけません、。
流行は京都から始まり、どこまで流行したのかをエビアンは知りません、。江戸まで広まったのかどうかが、今月の画像の鉢の特定に影響します、。

今月の鉢は、一見して「手島揫二窯」の製品ではないことは風来記御常連なら見抜いておられる事でしょう、。やはり「京楽鉢」と見るのが妥当だと思います、。

2の足、3の足を左右揃えると1の足が芯をそれる事から「短冊家」と見える人もおられると思いますが、「短冊家」と決めるには何か微妙な違和感があります、。「短冊家」も「大波紋」は描きます、。この鉢の大波紋も「光琳波」に似て品良く描かれてます、。大波を描いた絵具が貫入の様にひび割れているところは「短冊家」らしくないと思います、。波涛紋の描き方も「短冊家」らしくない、むしろ「手島風」です、。
「大波」の上部には鉢縁下までイッチンで点々を打ってますが、等間隔すぎて短冊家風ではない、などと感じてしまうのです、。

鉢底は轆轤挽きの糸切り痕も鮮明で、真っ平らに作られており、非常に好もしい印象を受けます、。一般論として、時代が下るほど鉢底にはクレーター状に傾斜が付けられる傾向がありますから、この点だけを見れば”台の作りは古い”と見えます、。そこが迷わせられる所ですが、全体を総合して、エビアンは「佐々木松楽窯」の製造だろうと思うのです、。それとても決定的な確信があってのことではありませんが、。

大波紋の絵の具使いに色気があって、鉢下部に良さがあり、何とも好ましい鉢です、。
口径13センチ・高さ8センチ、(飛田邦之氏蔵)





兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター





by evian_th | 2016-04-30 11:15 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢                  No.551
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◆2015年12月、。   短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢


師走~、。
本年も「東洋蘭風来記」をご覧いただきまして、ありがとう御座いました、。寒い季節ですから、お身体をお大切にお過ごしください、。


短冊家神獣浮彫紋瑠璃六角鉢、。

「楽焼鉢」ではありませんが、楽鉢窯元の短冊家の極く初期の頃の製作になる鉢で、非常に珍しいのでご紹介、。
よほど大切に保存されて伝わって来た鉢の様子、。一見すると新しそうに見える鉢ですが、この鉢は製作されてから200年経っています、。江戸後期・文化文政年(1804年~1829年)の製作だと思います、。


この鉢を作るには、一般の楽焼窯元にとっては誰かに2つの事を教わらないと製作できない鉢なのです、。
◆柔らかい感じのする半磁器(磁陶という)の作り方
◆型押しの方法と6枚の面の張り合わせ技術
この事を一人で教えることが出来たのは、江戸後期の第二期京焼ブーム時に出て来た京都の陶工「欽古堂亀祐」しか居なかったと思われます、。


「欽古堂亀祐」(きんこどうきすけ)明和2年(1765年)生まれ、天保8年(1837年)没は、毎度御馴染みの「奥田頴川」(おくだえいせん)の門下生の筆頭とも言って良い程の存在、。奥田頴川は亀祐よりも12歳年上で、家業の質屋は弟に任せて京都三条粟田口に窯を開き、中国陶磁を学びながら人柄を慕って寄って来る多くの陶工を育てた後期・京焼盛隆の功労者です、。
この奥田頴川が「磁陶」の作り方を門下生に教えたのでのです、。後に欽古堂亀祐が陶芸指導に行く「三田青磁」なども、この「磁陶」の分類に入る焼き物です、。
当時の京都粟田口には陶磁器の窯元は多く、清水焼のような硬質の白くて硬い磁器とは違って、温かみのある焼き物です、。

また、欽古堂亀祐は京都伏見の「伏見人形作り」の家の出身、。伏見人形は前姿と後姿とを別々の2枚の木型に押し付けて陶板を作り、薄く溶いた陶土で張り合わせて作ります、。この「木版に押し型技術」と「張り合わせ技術」とで一体の人形を作るのです、。

これら2つの技を併せ持った陶工は欽古堂亀祐だけだったと思われ、初代短冊家が祇園短冊楼から窯を開いた時期と亀祐が活躍した時期とが一致するのです、。


短冊家初代は余程研究熱心な人だったらしく、亀祐に執拗に頼み込んだのでしょう、。というのも、普通一般的には、6面の神獣の鉢を作るには、同じ獣が繋がらないように、2~3種の版木を使用して別々の神獣を繋げる筈なのですが、画像をご覧頂くとお分かりのように、全部が同一の神獣です、。つまり亀祐は版木を1枚だけしか短冊家に使わせなかったものと思われます、。

そういう苦労をして短冊家初代はこの鉢を製作したのです、。その研究心は脱帽ものです、。
江戸後期なのにテールベルトが手に入らない筈なのに緑色があるじゃないか、と思われるでしょうが、ここに使われる顔料は日本古来(といっても、江戸時代直前の頃)からある顔料で、江戸初期の陶工・野々村仁清などが使用した天然顔料で、主として磁器専用のものです、。透明感があり、非常に高価な顔料だったのだろうと思います、。

鉢裏には初代が使ったと思われる「短冊堂」の落款、。
この鉢は、エビアンが知る限りは2個現存し、他に盆栽界の蒐集家に残っているとしても、あと1~2個でしょう、。大量に作るほどは亀祐も木型を貸さなかったと思われるからです、。
いずれにしても非常に貴重な鉢であることは間違いのない事実です、。
贅沢を言わせてもらえるなら、少しは使っておいて欲しかったですね、。時代乗りが欲しかった、。
(現在の所有者は不明)









by evian_th | 2015-12-01 00:05 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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