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楽焼万年青鉢                         No.536
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◆2015年5月、。   楽焼万年青鉢


明るく暖かい初夏の気候に誘われて、華やかな鉢を掲載したくなりました、。「楽焼万年青鉢」、。
「御所車に白鶴図」、。
この鉢画像は随分前からもらっていたのに使えなかったのは、この鉢の正体が判明しなかったからです、。白状すると、今も分からないのです、。

製作された年代は、製法と土目・顔料などから、明治後期(明治30年)~大正~昭和初期までの45年間のどこかでしょう、。「京楽焼」とも言えない、「東京楽」とも言えない、「三河楽」かも知れないが出来過ぎだ、などと考える内に時間が経過してしまいました、。同じ窯元、同年代、同様の絵付けを施した「蘭鉢」もあり画像を頂いているのに、それでも決め手にならないのですからお手上げです、。

「三段の段替わり」を取っている所は古典の決まり事を守ってますし、足に描かれた菊花とも言えないような絵も一応古典鉢の形式を踏襲しています、。正面の「御所車図」も古典の紋様です、。が、古典はそこまでで、腰部分には古典紋様は描かれず、「鉢縁下」の一段目の片輪紋のような花模様も曖昧です、。
強いて言えば、2枚目・3枚目画像には「白鶴」の他に「松」と「笹(竹)」が描かれており、だとすると、この「コスモス」のように見える花は「梅」なのかな、「松竹梅紋様」かなとも思ったり、。まぁ、決め手に欠ける鉢です、。「陶土」もベージュ色で、これもどこの土かが分からない原因の一つです、。

こういう絵付けは愛楽園杉浦重平さんが錦園堂・手島揫二窯での修行を終えた初期の頃に作られた鉢にも存在します、。事実、この鉢の現所有者の前の持ち主は東京の人だったそうですから、手島時代の終わり頃に杉浦重平氏や勘之助氏が作っていたとしてもおかしくはないのです、。
それに第一、「錦園堂・手島揫二窯」と言えば「波千鳥紋様」と決め込んでいる人が多いのですが、昭和7年出版の本に掲載されている東京の萬年青愛好家棚の写真に写っているのは「手島製の七々子鉢」ばかりで、「波千鳥鉢」などは全く見当たらず、どういう経緯を経て「手島といえば波千鳥」になってしまったのかも判然としません、。この万年青鉢が「手島揫二窯」であっても不思議はないのです、。現所有者は「手に持つと見た目よりも軽い、」と仰ってます、。「手島鉢」かも知れません、。
また、「手島窯に居た杉浦重平」が作った鉢なら「東京楽」なのか「三河楽」と呼べばよいのかも判りません、。

どうも「京楽焼」とも思えない所もあるので、案外上記のような鉢「東京風三河鉢」ではないかと考えてますが決め手はありません、。「手島鉢の陶土」は「灰色」が多いからです、。それと、鉢の胴部分辺りに「鋏み痕」があるらしいからです、。もう、全く混乱してます、。仮説を立てて窯元の特定をするのですが、ことごとく否定されます、。「三河鉢」だとすると、随分出来の良い三河鉢です、。今まで見た中でも秀逸です、。

あ~、でも、やはり「京楽鉢」の線も捨て切れないなぁ、。本当に分からないのです、。これだけ上出来の鉢なのに窯元特定できないのは何とも歯がゆい、。

この鉢のサイズは大きいのです、。「21.5cm×高さ23cm」、7寸鉢ですね、。
鉢底画像で足裏に水抜き穴が開いているから新しいのじゃないか、という疑問は当たりません、。「江戸時代の古い短冊家の万年青鉢」で、サイズの大きい鉢の足には穴が開けてあったのは「短冊堂落款」のある古く大きい鉢で確認済みです、。足穴は必ずしも時代特定の決め手にはなりません、。(飛田邦之氏蔵)




by evian_th | 2015-04-30 22:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢                  No.535
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◆2015年4月、。   楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢


楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢、。
楽鉢の窯元「福富京楽堂」というのは、明治33年発行の「価格表」が唯一の存在の証明で、この価格表(カタログ)が無ければ、その他の「陶磁器」や「植木鉢」の資料のどこを探しても痕跡が見当たらない、。よくぞ価格表を発行してくれたものだと感謝の念をおぼえるほどです、。

鉢の「台の作り」はしっかりしていて、チョッと出の窯元ではないことは作品を見れば判ります、。「楽鉢」を作り始める前に、相当期間の陶磁器製作の経験があったのでしょう、。
カタログ発行が明治33年、ということは、「福富京楽堂」の創業は明治25年~30年のことでしょう、。創業し、試行錯誤の集客の期間があり、ある程度軌道に乗って来た明治33年に至って、更なる飛躍のためにカタログ発行になったのだろうと想像します、。

作風からは「京楽焼」の面影は全く感じ取れないので、京都での修行時代を経験しなかった可能性があります、。同じ東京の「手島揫二窯」とは、この点に於いて大きな違いが見られます、。
では、東京に居ながら、どのようにして「楽焼鉢」の製法を学んだかということになります、。尾張瀬戸の陶工・加藤與八の二男・加藤友太郎という人が明治6年、単身上京して、陶芸家井上良斎の門に入りました、。「専ら楽焼を主とする所にして・・」と記録にあるように、この人が東京へ楽焼製法を持ち込んだ人のようで、福富はこの加藤友太郎に楽焼の製法を学んだのではないかと思われます、。(自分で瀬戸へ出向いて修業した可能性もありますが)、。

絵付けにも「京都風」は感じられず、京都で修業した可能性は低いと思います、。京都では、「西陣」や「友禅」など着物界からの影響は拭えず、日本の伝統紋様を学ぶことが必定でしょうから、。
あくまで「東京」に居て、自由気ままなデザインを創造して絵付けした鉢が大部分です、。そこが、この福富窯の持ち味なのです、。

「鉢の台」の作りは硬く、縁がゆがんだり波打ったりした鉢を見たことがありません、。鉢の胴は直線的です、。陶工としてはかなり上級です、。絵付けのデザインは特徴的ですが、絵具の仕入れ先が瀬戸経由らしく、例えば上掲の鉢にも多用されている「緑土」(テールベルト)はあまり高級品が入手できなかった様子で、窯から出した後では緑色は色褪せ、暗く沈んで見えます、。明治中~後期には国産絵具も出て来たでしょうから、その絵具を使ったように見えます、。京楽鉢とは絵具が違うのです、。

それにしても(と、エビアンは思うのですが)、「福富鉢」は明治時代の関東地方の古典園芸愛好家を独占するほど多くの製品を量産した筈なのに、現存数が少なすぎると感じています、。東海地方以北、関東、北関東、東北地方まで広く残っている筈です、。製品の硬度は高く、割れにくい鉢ですから、。                  11.5×h15センチ、(西口郁夫氏蔵)

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・・・と、断定的に書きましたが、「段替わり」という古典の習慣を踏襲してるし、足回りに緑土で縁取りを描いたりと、古典の決まり事も取り入れてますね、。
鉢底画像で見ると、足裏への加茂黒の掛け方も短冊家や佐々木松楽に通じるものもあります、。少なくとも、「京楽鉢」を参考にはしてますね、。
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江戸東京へ楽焼の製法が伝わるのがずいぶんと遅いと感じられた人も居られるだろう思う、。
江戸時代は(エビアンもさほど詳しくは無いのだけど)、参勤交代に江戸へ出向かねばならなかった諸藩は220とか230とかもあり、距離や贅沢のしようで違っただろうけど、各藩は1回の参勤交代で現在の価格に換算して2億円ものお金を必要としたようです、。
江戸屋敷の維持費もバカにならず、各藩は様々なお金を稼ぐ工夫をしなければならなくなっていたようです、。

当時、大名旗本と名の付く位に居た人は全国で5000人を超え、それに対する役職は2500程度しかなかったというのですから、賄賂心づけが横行したことでしょう、。石300石を超えると、家来を10人雇わねばならない幕府からの決まりもあり、旗本の名跡は長男一人が継ぎ、弟妹の面倒まで見たのですから大変だったろうと思います、。

それら大名旗本のお金は、参勤交代の費用や江戸屋敷の維持費に消費し、どんどん江戸にだけお金が吸収される仕組みが出来上がっていたのです、。

植木鉢や陶磁器のものの本によると、「国焼」(御庭焼)というのは文化文政年以降、競って焼き始められ、京都の陶工(欽古堂亀祐・青木木米・中川嘉助・高橋道八・尾形周平・永楽善五郎保全・永楽和全、)たちは、全国各地の大名や御大臣、大旦那、などに「陶磁器製造の指導」に呼ばれ、東奔西走したようです、。
これら「国焼」(御庭焼)は、出版物によると、大名や大旦那が自分だけの焼き物を焼かせて楽しんだ、いわば道楽だったように書いていますが、江戸時代後期の大名旗本の生活を知ると、伊達や酔狂で作っていたとは思えず、資金作りのための販売目的の窯、御庭焼も多かったのではないかとエビアンは推察しています、。

一方「江戸」は、そういう風に各地大名からお金が入って来る訳ですから資金的には豊かで、「製造業」が発達しなくても、全国から買えば良かったのですから、陶磁器を作ろうという気持ちになるのは日本の他の地方に比べると、本当に遅かったのだと思います、。
道具類は作るよりも安く買って、それを使った文化を発達させる方向へ流れて行ったのは、ごく自然のことです、。東京で「楽焼鉢」の製造が遅くなったのは、そういう時代背景があったからだと思います、。

江戸時代というと、ずいぶん昔のように感じられますが、今から150年前は江戸時代だった訳で、その半分をエビアンは生きていますから、エビアンから見れば、自分の生まれる70年前は江戸時代だった訳です、。30年前は明治時代、。エビアンにとっては身近な時間帯での話です、。それなのに、どうしてもっと資料が見つからないのだという焦りの気持ちを感じるのです、。

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「福富京楽堂の価格表」を追加掲載しておきます、。
大き目サイズで載せておきますので、画像をクリックし、表示された画像の右下の「虫眼鏡画像」を再度クリックし拡大画像で文字をお読みください、。
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拝啓 弊店儀,従来より京楽焼植木鉢を製造販売仕(つかまつ)り,汎(ひろ)く諸君のご愛顧を蒙(こうむ)り,有難く拝謝奉り候(そうろう)。然(しか)るに今回,特に元料〔原料)品を精撰(精選)し,植木培養法に最も適合なる品を製造致し,左表の直段(値段)にて販売仕り候間(あいだ),多少に拘(かか)わらず何卒(なにとぞ)ご注文下されたく,偏(ひとえ)に希(ねが)い奉(たてまつ)り候。
追って販売お望みのお方は,ご照会次第ご相談仕るべく,尚(な)お遠国よりご注文の節は,ご送金は駒込郵便局宛ご送付下されたく此の段予(あらかじ)め申し上げ候也。敬具




by evian_th | 2015-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼「短冊家蘭鉢」                   No.533
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◆2015年3月、。   京楽焼「短冊家・蘭鉢」

今春の展示会情報は、No.531に掲載しています。


◆「短冊家」の製品で「明治時代」の「蘭鉢」は非常に少ない、。
1月に続いて「明治時代の短冊家蘭鉢」をご紹介、。
画像を見れば、一見して「短冊家」なのですが、「京楽鉢5窯」の窯元が判明してからは、以前と違って、逆に、慎重に慎重に見るようになりました、。短冊家に似た鉢も多いからです、。

「楽焼鉢の歴史調べ、」を始めるまでは、「短冊家」「古京楽」「手島」「重平」「勘之助」「信楽」程度に大雑把に分類されていて、古い楽焼鉢が手に入ると、とりあえず「短冊家」と言っておくのが無難だった時代が永かったのです、。
それで、なんでもかんでも「短冊家」で取引したもので「短冊家鉢」は多いように思われてますが、分かってみると案外少なく貴重なものです、。

画像の鉢を手で触ったことはありません、。画像を見ると一見して短冊家なのでしたが、5枚目の鉢底画像の上へ伸びた足の形が「福富京楽堂」に見えて、2~3日置いて3~4回考え、やはり短冊家だと確信しました、。
「鉢縁下」(はちべりした)の「鋸歯紋(ぎょしもん)」、「腰部分」の「雷紋」、段替わりの緑土の線の描き方、台の鉢の作り、足の形、鉢底の雰囲気、胴部分の曲線、などなど、短冊家独自の雰囲気を感じ取りました、。

「胴部分」の絵付けは、「花散らし紋」ですが、こういう絵柄を見たのは初めてでした、。派手に見えて実は非常に落ち着いている絵付けです、。花の散らし方の配置も見事なものです、。「1の足」は、1枚目画像の「金色の花」が正面に来る足だと思います、。12.5×16センチ、(飛田邦之氏蔵)


「楽焼鉢」のルーツは中国福建省の「交趾鉢」だと以前に書きました、。
柔らかく厚みが薄い陶器の表面に分厚目に釉薬を掛けてあります、。
「楽焼鉢」の場合は、この釉薬に「加茂川真黒石」を混ぜて焼き付けるので、表面は石なのです、。”石”というのは人の思いを吸収します、。古典園芸を愛し、楽焼鉢を愛おしむ人に使われ触られて今日まで何人かの愛好家の手を得て今ここにあります、。
ですから、楽焼鉢は比較的良い思いを吸収しています、。集めて、手元に置くと、代々の所有者の、その良いエネルギーを感じるのです、。






by evian_th | 2015-03-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼鉢「短冊家紫金牛鉢」              No.532
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◆2015年2月、。   京楽鉢「短冊家・紫金牛鉢」(こうじばち)


◆京楽焼・短冊家製紫金牛鉢、。
久々に「紫金牛鉢」、。いいですねぇ、。明治の福富京楽堂のカタログにある「紫金牛鉢」というのや、大正時代の錦園堂・手島揫二窯のカタログにある「仙人掌鉢」(サボテン鉢)というのは「風蘭鉢」を含むのだろうと思います、。「風蘭鉢」は明治20年前後に「紫金牛鉢」を基本にして、旦那さんの注文に応じて、その高さを様々に変えた結果としての鉢型だったろうと見当を付けています、。

画像の「紫金牛鉢」は「菊花散らし紋」の総絵付け、。見事なバランスで各種の菊花を描いています、。鉢の窯元は短冊家、。製造年代は古くは無く、見た目に昭和の初め、。使用法や保存法で時代乗りは変わるものですが、多分まぁ、あまり古くは無いと思われ、。しかし、いい鉢です、。(口径9.3センチ、高さ8.3センチ、西口郁夫氏蔵)

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今月この鉢をトップ画面に使うのには相当考えました、。最も大切な「正面画像」が無いからです、。しかし、この鉢の良さを使わずにしておくのは可哀想だし、エビアンが紫金牛鉢を好きなので、。
「植木鉢画像撮影」には、どうしても「正面画像」は必要です、。「お見合い写真」でも「運転免許証写真」でも正面から写します、。横顔や上から頭頂部を見下ろし画像では役立ちません、。当然のことですよね、。

下画像は上掲の1枚目と2枚目とを継ぎ合せて合成しました、。
これが「正面画像」です、。

1枚目は頭頂部見下し画像、2枚目は横顔画像、。第一、和服美人が脚を開いて膝を曲げたような角度は下品です、。足を左右に開いた画像は、その部分の胴の絵付け説明にどうしても必要な場合に限られる角度だとエビアンは考えます、。

3本の足を順に正面に据えて眺めると、3本のどこかに必ず「正面」が存在します、。同じように見えても、必ず「正面」は在ります、。「一の足」「二の足」「三の足」とある筈です、。無神経に撮影せずに正面を確認しましょう、。せめてもの絵付け絵師に対する敬意を払って、。
脚は「一の足」を正面としますが「二の足」「三の足」は左右均等に見えるような角度で、。
上部の「鉢縁」は「横一直線」になる角度、かまたは、縁上面の向こう側が少しだけ見える程度、。この「正面画像」が必ず必要ですし、これ一枚の撮影には随分と神経を使います、。
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by evian_th | 2015-01-31 21:04 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
短冊家東洋蘭鉢                     No.530
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◆2015年1月、。   短冊家東洋蘭鉢(と万年青鉢)

謹賀新年
本年も東洋蘭風来記の「風来記ページ」を宜しくお願いします、。

短冊家「伝統紋様蘭鉢」
過去に何度か「短冊家が見切れない症候群」に罹り、一昨年後半にも過去最長の迷いの期間に入っていた時、昨年1月にこの鉢を入手して「あ~、やはり、な」という思いで腑に落ちました、。一気に迷いから脱出した記念すべき鉢です、。
一昨年くらいから立て続けに「福井楽印鉢」と思しき鉢と出会い、迷いの期間に入っていたのでした、。

「明治の短冊家蘭鉢を手に入れて自分の手で触ってみたい、」と願っていたのでしたが、明治の短冊家の蘭鉢となると、製作数が少なくてそうおいそれとは品物もなく、ましてや高級絵付け鉢となると見る機会さえほとんどない状況です、。世間で言われるほどには実物は存在しないですよ、。「これは、」と思っても、どこかが違う、腑に落ちないモヤモヤした気分が残る鉢がほとんどです、。

画像の鉢は割れ鉢です、(大きくニューが入ってます、)が、本物だけが持つ雰囲気を伝えるには十分、。鉢内側から接着剤で着け、鉢表面にはあえてニューを残しました、。無理な繕いは不要、エビアンにはこれで十分です、。展示会で使おうと考えています、。

この鉢は手に取ると見た目よりも”重い”と感じます、。
短冊家の鉢(万年青鉢・蘭鉢を問わず)の見分けのポイントとして重要な、ヘリ上面から見込みへの落ち込み部分にエッジが立ってません、。一旦製作した後に角部分をヘラで削ぎ取ってあります、。「短冊家の鉢は落ち込み部分が鋭く角張る」という過去記事が間違いだったと証明しています、。こういう風に作った鉢もあったのだと知ったことは単純な見分け方をしがちなエビアンには新鮮な驚きでした、。


緑土(テールベルト)を多用し、絵付け職人の腕の冴えを「これでもか」と見せつける仕事っぷりです、。
正面は「亀甲繋ぎ紋」の場所でしょうが、見た目に派手な「花菱繋ぎ紋」の足を正面の画像をトップ画面に選びました、。残る足には「青海波」が描かれています、。
「鉢縁下」(はちべりした)と腰部には「鋸歯紋(ぎょしもん)、を描いて段替わりとし、胴部分はS字状曲線で「片身替わり」を取り、3本の足の間の胴には「蛸唐草紋」のようなものが描かれています、。

品良く仕上げるために使われている顔料も「テールベルト」と「金」と「白」と「少しの黄色」のみに抑えています、。見るべきは絵付け職人の腕の良さでしょう、。
「短冊家」を初め「楽焼鉢の窯元」の規模に関しては風来記は過去に大きな誤解をしていたかも知れません、。「京町屋」(間口が狭く奥行きの長い屋敷)で鉢や茶碗を細々と焼いていたのです、。そんなに大規模な制作場所ではありません、。職人といってもその大部分は窯元の当主自身とせいぜいその家族程度だったでしょう、。極端に言えば「町の豆腐屋さん程度」と同規模の家内工業だったと最近のエビアンは思っています、。
「窯元絵付け」というのは「窯元に住み込みの絵付け職人の仕事」ではなく「窯元自身の絵付け」だったものが大部分だったと考えるようになって来ています、。

上掲の鉢も短冊家当主自身の絵付けだった可能性が大きいと思います、。それにしては凄い絵付けの腕前ですね、。

◆下画像の短冊家万年青鉢は10年ほど前に蘭商人野田谷治男氏から購入したものです、。
上掲の蘭鉢と、同一時代、同一デザイン、同一職人による絵付け、である事は一目瞭然で、この「蘭鉢と万年青鉢をもって一対」とするのではないかと考えている所です、。この件については、
◆2014年7月、京楽焼短冊家「五柳雲鶴図万年青鉢」(クリックで表示)
にも書きました、。
決定事項ではありませんが、現時点ではそのように考えています、。

これらの鉢が「短冊家」のご先祖さん自身の作陶・絵付けなら、「短冊家さん」のご先祖はなるほど凄い腕前をした人だったと感心しきり、。

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by evian_th | 2015-01-03 00:11 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
なぜ楽焼は京焼ではないのか?           No.529
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◆2014年12月25日、。   なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

少し以前(といっても5年ほども前のことだですが)、「なぜ楽焼は京焼ではないのか?」というテーマに関して、曖昧な記憶から引用文を書いたのでしたが、その引用元の本を積読の中から見付けたので、楽焼鉢と関係がありそうな部分を抜き書きしておきます、。

元本は、「茶道誌淡交・2007年10月号増刊」の「江戸期の京焼」という本でした、。その中の・・・
「京焼の本質と定義」(副題:~それが判れば苦労しない~)  京都国立博物館主任研究員 尾野善裕


(中略)
なぜ、楽焼は京焼ではないのか?

京都のやきものといえば、昔から楽焼が有名だが、楽焼は京焼ではないらしい。「らしい」というのは、私が決めたからではないからで、ものの本にそう書いてある、。
もっとも、こういう話をすると、「えっ!楽焼って京焼の一種じゃないの」という反応がしばしば返ってくるし、「それは、おかしい」と反論までされることも珍しくない、。しかし、意外に思われるかもしれないが、かつて「京焼」という言葉が、楽焼をその範疇に含まない概念として、たびたび用いられていたことは厳然とした事実である、。だから、いくら「おかしい!」と言われたって、そんなことは「あっしには関わりねぇことでござんす」、。

むしろ、なぜ楽焼が京焼ではないとされたのか、それを問うことのほうがよほど生産的な議論だろう、。そうした視点を抜きにして、楽焼を京焼に含めるべきか、否かをとやかく言うことにあまり意味があるとは思われない、。ただ、なぜ楽焼を京焼に含めないことになっているのか、その経緯や理由がよく判らないから困るのである、。

もっとも、こうした問題意識を頭の片隅にとどめておきながら、楽焼あるいは楽焼風のやきものの出土事例を概観してみると、年代的に古い事例が妙に大阪(以下、歴史的表記を重視して「大坂」)に偏っていることに気付く、。何故だろうか、。
実は、この現象は当時の政治・経済の中心がどこであったか、を象徴的に示している、。豊臣秀吉が建設させた寿楽第(邸)が完成し、彼が大坂から京都へ移って来るのは天正15年(1587年)のこと、。それゆえ、「松屋会記」の天正14年(1586年)10月13日条などから、それ以前に創始されていたと考えられる楽焼(あるいは楽焼風やきもの)が、京都よりも秀吉の本拠地であった大坂でたくさん用いられていたらしいことは、別に驚くほどのことではない、。千利休が秀吉の茶堂であり、楽焼初代の長次郎の作陶に利休が深く関与していたに違いないことを考えれば、むしろ当然のことと言ってようだろう、。

このように考えてくると、果たして楽焼は京都で創始されたのだろうか、という疑問も自ずから湧いてこよう、。大坂にいた秀吉と利休、そして利休と長次郎の関わりの深さを考えるならば、楽焼が大坂で焼き初められていたってよさそうである、。時代背景を重視するならば、そう考えることだって不可能ではない、。

「とんでもないことを口にする奴だ」という非難は覚悟の上で、あえて言わせて貰うならば、楽焼を京焼に含めないことに対する疑問の背景には、楽焼は京都のやきものだという先入観があるのではないか、。そして、もしこのように考えることが許されるならば、楽焼を京焼の範疇に含めない理由は、説明するまでもないだろう、。 なにしろ(最初は)京都で焼かれていなかったのであるから、。

もっとも、決定的証拠があるわけでもない以上、こんな話は単なる憶測に過ぎず、そうかもしれないという根拠薄弱な一仮説に過ぎない、。そこで、ついついこういう言葉も吐きたくなるのである、。「だから、そんなに簡単にはいかないんだってば・・・・・」、。
(中略)
なるほど、京焼が京焼であるのは、それが京都(もしくは京都近郊)で焼かれたものであるからだ、。

(以下略)

------------------------------------------------------------<以上>

◆上記のように、楽焼は大坂で焼き始められました、。「楽焼植木鉢」も同じです、。特に植木鉢の方は秀吉や千利休や佐々木長次郎が上洛(京都へ昇る)した後も大坂で作り続けられ、明治に入って京都の楽焼鉢のスタイル(小萬年青の流行に合った形)に追い抜かれるまで200年間の長きにわたって作られたのです、。

◆楽焼鉢の歴史を調べ始めてくれたのは萬年青界です、。この点では萬年青界には感謝しなければならないなぁと常々思っています、。
ただ、萬年青界はその調べ初めに京都の短冊家さんへ行って先代の奥方から「楽焼鉢は短冊家の先祖が文化文政年に作り始め・・・」と聞かされた事から始まっています、。この言葉には、その前文として「京都では、」という言葉が抜けています、。短冊家さんのご先祖が植木鉢を作ったのは事実ですが、京都で初めて、のことであり、楽焼鉢自体はその200年も前から大坂の堺で作り始められていたのです、。

◆京都には国立博物館があり研究員も居られ、愛知県には陶磁博物館というものがあって同じく研究がされているのに、今後大阪を調べようとしてもどこへ行けば、という壁に突き当たるのです、。堺市役所へ電話凸したのですが、古墳を売り込むことには熱心ですが、千利休旧邸は目印1個あるのみ、堺の文化的歴史には興味なしと来ています、。楽忠窯・楽雅亭窯がどこに在ったのか、他の楽焼窯は、となると遠い遠い道のりです、。少しずつでも進歩すればよいと願っています、。
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by evian_th | 2014-12-25 12:17 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢の顔料                       No.378
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◆2010年12月、。     顔料から見た楽焼鉢

「上絵付け」と「下絵付け」
釉薬をかける前に素焼きした素地上に絵付けをするものを「下絵付け」と呼び、代表的なものには「呉須」を用いた「古染付」や「酸化鉄」を使った鉄絵の唐津や志野などがあります、。
これに対して、本焼きした陶磁器の表面にかかった上釉(うわぐすり)の上に、赤、緑、黄、青、紫、などの色釉で彩画着色することを「上絵付け」とよび、九谷焼、有田焼、薩摩焼、などがあります、。

我が「楽焼錦鉢」の絵付けは、一種の「上絵付け」でしょうけど、イッチン絵付けの顔料が盛り上がった絵付けは、一般的に呼ばれる「上絵付け」とは少し異なると感じます、。九谷や有田や薩摩よりも絵付け部分が盛り上がっています、。このような「顔料」は、他の焼き物よりも歴史は新しいように感じられます、。
「楽焼鉢」自体は、盆栽鉢よりも遥かに歴史の古い焼き物ですが、あの多彩な顔料を使った楽焼鉢はいつごろから焼かれたのかを「陶磁器の顔料」の面から見ると・・・

慶応3年(1867年・明治維新の前年)、瑞穂屋卯三郎という人が「パリ万国博覧会」を見物の帰路、「陶磁用絵具」数十種を持ち帰り、佐賀藩に売り込んだと盆栽鉢の本に出てきます、。九州佐賀藩は有田を中心とした陶磁器産地です、。
その4年後の明治3年にはドイツ人化学者ワグネル(陶磁器の世界では有名な人)を佐賀藩が雇い入れ、陶絵具使用法の解明の研究をしたようです、。
同じ明治3年には、「京都舎密局」(化学局)が設立され、ワグネルの指導の元、永楽善五郎や入江道仙などが「陶磁器顔料の研究助手」として加わったと記述されています、。

これらのことから、どうも我が「楽焼鉢」に使用される顔料(釉薬)は、一部の「呉須」や「瑠璃」や「金彩」を除けば、この時期辺りが「楽焼鉢」に華やかな彩色を施され始めた最古の時期ではないかと思われます、。
資料的には出て来ませんが、少しゆずっても、1853年~1868年の幕末くらいまでで、それ以前に多彩な彩色を施した「楽焼鉢」が存在したとは考えにくいのです、。

江戸幕府は、庶民が贅沢に溺れるのを抑制するため、たびたび「奢侈禁止令(しゃしきんしれい・贅沢禁止令)を出しています、。効き目は直後のみで、たびたび禁止令を出していたようで、奢侈禁止令を最後に出したのは1842年のことです、。それまでは、庶民の着物の布地の種類や色まで地味な色に指定していたほどですから、陶磁器に派手な彩色を施すことは世情から見ても無理だったと思われます、。

こうして、「明治維新」を境に、楽焼鉢の彩色も、顔料供給面や政府の束縛などの制約から解き放たれ、一気に彩色文化が開花したものと思われます、。楽焼鉢の絵付けに使用されている顔料(釉薬)は、見ようによっては「油絵具」のような見た目と手触りですから、この頃に研究開発された顔料(釉薬)だったのでしょう、。

これが、「楽焼鉢」に於ける「江戸時代」と「明治時代」との境界です、。(画像提供:飛田邦之氏)

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ついでながら、同じ頃(明治6年)、尾張瀬戸の窯元の息子で加藤友太郎という人物が上京し、陶芸家・井上良斉門下に入り、もっぱら「楽焼」を焼いていたようです、。現在の帝国ホテルの地に明治政府が「勧業寮」という洋式陶磁器試験所を作り、加藤友太郎は明治9年に勧業寮を卒業後、明治15年独立して、牛込区新小川町に製陶所「友玉園」を作りました、。
これは想像ですが、「福富京楽堂」は、この「友玉園」の指導の元、東京で楽焼鉢を製造し始めたのではないかと思われます、。東京での楽焼鉢は、明治15年過ぎに製造し始められ、明治30年頃にはカタログを発行して全盛を誇るまでになっていたようです、。(京都にも、こういう資料が出てくればいいのに、)

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「京焼」というのは、もともと京都に住んでいた陶工が興した焼き物ではなく、安土桃山時代から江戸初期に、皇城の地であり、華やかな王朝文化が花咲く京都に憧れた瀬戸や信楽や備前の陶工たちが上洛し、東山一帯に住み着いて窯を開いたものです、。
京都の焼き物は「茶道」と共に発展し、町衆の中の「茶道具数寄者」の影響により発展した焼き物です、。この茶道具コレクターを「茶数寄」と呼び、彼らの好みが京焼を育てて行ったのでした、。

「京焼」は、江戸初期に野々村仁清や尾形乾山などの名工が出て隆盛を極めた時期と、江戸後期・文化文政年間に奥田頴川や青木木米や欽古堂亀佑や三文字屋嘉助などの名工が出た時期とに隆盛を極めるのですが、この江戸初期のころ、既に「楽焼」の「蘭鉢」や「菖蒲鉢」は作られていたようです、。
ただ、「楽焼」は、その生い立ちが日本の陶工が作ったものではない点と、千利休などを介して時の朝廷と結び付いた焼き物であったために、通常「京焼」と呼ぶような焼き物とは区別され、いわゆる「京焼」には含まれません、。それだけ特殊な焼き物であった訳です、。

江戸初期の「京焼」の名工・野々村仁清の「上絵の具」には・・・
赤色は「金珠」と呼ばれる「特殊な紅柄丹土」を材料とし、萌黄(緑)色は「岩緑青」と「舶来の萌黄ガラス」を用い、紺色には中国産の「岩紺青」を、紫色には中国産の「呉須」と「丹土」「金珠」を混合したものを、黒色は「銕粉」(刀鍛冶が使う鉄粉)と「中国産呉須」の混合、をそれぞれ使用しました、。「金銀彩」は漆蒔絵に使う金箔・銀箔を粉にして膠で溶き、金銀泥にしたものを使用しました、。
非常に高価貴重な顔料を手の込んだ技法で使用したもので、とても後の世の楽焼鉢に使用されるものではありませんが、「明治以前の京焼にも彩色上絵付けしたものが存在するじゃないか、だから楽焼鉢も江戸時代の古くから絵付け物が有ったのじゃないのか、」という疑問に応えるために、一応記しておきます、。
by evian_th | 2014-12-09 13:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東洋蘭楽焼鉢「楽徳花鳥図」              No.527
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◆2014年12月、。   楽焼鉢「楽徳花鳥図万年青鉢」

師走、。
今年も多くの御訪問を頂きまして誠にありがとう御座います、。来年以降も「植木鉢記事」を掲載して行こうと思いますので、何卒よろしく御ひいきのほどをお願いします、。


京楽焼「浮田楽徳製花鳥図万年青鉢」
風来記で楽徳の万年青鉢を取り上げる事は少なかった、。というのも下に掲載の鉢を入手してから、楽徳には2種類の万年青鉢があるのか、それとも窯元が違うのかと悩んだせいです、。結局、下の鉢が「石斛鉢」だと判明して疑問は解決したのでした、。

白胴部分にイッチンで細かなポツポツを密に打ち、その上から花鳥図の大和絵を描いてあります、。楽徳絵付けはデザイン化した紋様が多く、写実的な絵は少ないので貴重品、。鳥の種類は不明ですが、表は羽を広げた姿、背後には羽を閉じた姿を描いています、。金泥を使った高級品で、注文主の特注品だったのでしょう、。上品な仕上がりになっています、。腰部分下部「高台脇」に絵具が剥げ落ちたような白い所があり、何度も見返したのですが、やはり一旦塗った白色泥漿が部分的に剥げ落ちたものだと思います、。

白地に金色絵付けなので目立ちにくく、コントラストを強めに修正しました、。少しドギツイ画像になっているかも知れません、。(口径15センチ・高さ14センチ、第2回・華幸園展より、数寄者蔵)

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「浮田楽徳製魚の子紋様石斛鉢」
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by evian_th | 2014-12-01 00:05 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢2種類の窯元                   No.526
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◆2014年11月2日、。   楽焼鉢・陶工窯と絵師窯


画像は杉野達実氏所蔵の「浮田楽徳製鳳凰紋蘭鉢」、。
2枚目画像の「大和絵の鷲」を見ても大和絵師が鳥を描く時の鳥の構図処理に癖が出ているのが分かる、。鷲を鳳凰に置き換えただけ、。浮田楽徳の腕前を充分に発揮した見事な絵付け鉢です、。


◆楽鉢窯元を「陶工系」と「絵師系」に分けると・・・
◆「陶工系窯元」・・・短冊家、福井楽印、手島揫二、福富京楽堂
◆「絵師系窯元」・・・浮田楽徳、大虎、佐々木松楽
・・・ということになります、。



「東洋蘭風来記」は今月2014年11月中旬に満10年を迎えます、。
多くの御訪問者様に支えられてここまで続きました、。奥部屋訪問者様、風来記の植木鉢数寄者様、BBSに書き込んで下さる御常連様、余剰苗を買い支えて運営費を助けて下さる皆様、お一人お一人の御訪問者様に心から御礼申し上げます、。






蘭遊楽座 柄物展
時:2014年12月7日
所:東京 大森 「大林寺」




寒蘭 土佐愛蘭会 本部展
時:2014年11月14日15日16日
所:南国市農協会館




東洋蘭センター  蘭の杜 寒蘭花展
時:2014年11月5日~29日
所:東洋蘭センター 蘭の杜



兵庫春蘭友の会 秋季柄物展示会
時:2014年11月30日(12:30~16:30時)
所:相生園芸センター内
参加費:500円


杭州寒蘭展示会
時:2014年12月6日・7日
所:三重 メッセウイングみえ

by evian_th | 2014-11-25 23:52 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京楽焼楽徳鉢                      No.525
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◆2014年11月、。   京楽焼浮田楽徳窯大和絵万年青鉢

京楽焼鉢の窯元に「もともと陶器の窯元」だった窯と「絵師が窯を持って鉢を作るようになった」窯との別方向からの2種類の窯元が有ったことが判明しました、。
陶器の製作が得意な窯は鉢の台の作りがシッカリしており、絵師出身の窯は多彩な絵付け鉢を製作したようです、。

前回までに書いたように、浮田楽徳は「京狩野」の「大和絵派」の絵師の系統から陶芸の道に入った人でした、。
「大和絵」(やまとえ)というのは、中国の絵の手法「唐絵」(からえ)に対する「日本古来の絵」という意味付けで呼ばれる呼称です、。平安時代に盛隆期を迎え、以後も描き続けられた絵です、。
「錦絵」(にしきえ)は佐々木松楽窯がその出身ですが、「浮世絵」の下絵の事で「絵師・彫り師・刷り師」が居て一枚の元絵から同じ絵を大量に刷る木版画の元絵のことです、。

まぁ、そんなに明確な区別は無かったかもしれませんが、「錦絵」が木版画の元絵で同じ絵が何枚も刷られたのに対して、「大和絵」は紙に直接描くので1枚しか出来ない、という程度の違いです、。

今月の鉢に描かれた絵は何でしょうね、。「平安朝の貴族の絵」でしょうか、。何か絵にテーマがありそうですね、。絵付けはイッチンと筆描きとの混合、技術的に少したどたどしく感じますが、複雑な絵で難しかったのでしょう、。鉢を横から見た時は窯元が判然とはしませんでしたが、鉢底画像を見れば浮田楽徳窯で決まりです、。

「陶工が作った鉢」と「絵師が作った鉢」との2種類がある事が判明したのが最近の風来記の新発見です、。   (16センチ×高さ15センチ)    (新倉善秀氏所蔵)



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下画像の2鉢は「芳虎斎五柳寿運」の鉢です、。五柳も大和絵師の系統の絵師だったことは一目瞭然ですね、。(花岡昭治氏蔵)
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by evian_th | 2014-11-01 00:05 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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