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楽焼鉢の顔料                       No.378
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◆2010年12月、。     顔料から見た楽焼鉢

「上絵付け」と「下絵付け」
釉薬をかける前に素焼きした素地上に絵付けをするものを「下絵付け」と呼び、代表的なものには「呉須」を用いた「古染付」や「酸化鉄」を使った鉄絵の唐津や志野などがあります、。
これに対して、本焼きした陶磁器の表面にかかった上釉(うわぐすり)の上に、赤、緑、黄、青、紫、などの色釉で彩画着色することを「上絵付け」とよび、九谷焼、有田焼、薩摩焼、などがあります、。

我が「楽焼錦鉢」の絵付けは、一種の「上絵付け」でしょうけど、イッチン絵付けの顔料が盛り上がった絵付けは、一般的に呼ばれる「上絵付け」とは少し異なると感じます、。九谷や有田や薩摩よりも絵付け部分が盛り上がっています、。このような「顔料」は、他の焼き物よりも歴史は新しいように感じられます、。
「楽焼鉢」自体は、盆栽鉢よりも遥かに歴史の古い焼き物ですが、あの多彩な顔料を使った楽焼鉢はいつごろから焼かれたのかを「陶磁器の顔料」の面から見ると・・・

慶応3年(1867年・明治維新の前年)、瑞穂屋卯三郎という人が「パリ万国博覧会」を見物の帰路、「陶磁用絵具」数十種を持ち帰り、佐賀藩に売り込んだと盆栽鉢の本に出てきます、。九州佐賀藩は有田を中心とした陶磁器産地です、。
その4年後の明治3年にはドイツ人化学者ワグネル(陶磁器の世界では有名な人)を佐賀藩が雇い入れ、陶絵具使用法の解明の研究をしたようです、。
同じ明治3年には、「京都舎密局」(化学局)が設立され、ワグネルの指導の元、永楽善五郎や入江道仙などが「陶磁器顔料の研究助手」として加わったと記述されています、。

これらのことから、どうも我が「楽焼鉢」に使用される顔料(釉薬)は、一部の「呉須」や「瑠璃」や「金彩」を除けば、この時期辺りが「楽焼鉢」に華やかな彩色を施され始めた最古の時期ではないかと思われます、。
資料的には出て来ませんが、少しゆずっても、1853年~1868年の幕末くらいまでで、それ以前に多彩な彩色を施した「楽焼鉢」が存在したとは考えにくいのです、。

江戸幕府は、庶民が贅沢に溺れるのを抑制するため、たびたび「奢侈禁止令(しゃしきんしれい・贅沢禁止令)を出しています、。効き目は直後のみで、たびたび禁止令を出していたようで、奢侈禁止令を最後に出したのは1842年のことです、。それまでは、庶民の着物の布地の種類や色まで地味な色に指定していたほどですから、陶磁器に派手な彩色を施すことは世情から見ても無理だったと思われます、。

こうして、「明治維新」を境に、楽焼鉢の彩色も、顔料供給面や政府の束縛などの制約から解き放たれ、一気に彩色文化が開花したものと思われます、。楽焼鉢の絵付けに使用されている顔料(釉薬)は、見ようによっては「油絵具」のような見た目と手触りですから、この頃に研究開発された顔料(釉薬)だったのでしょう、。

これが、「楽焼鉢」に於ける「江戸時代」と「明治時代」との境界です、。(画像提供:飛田邦之氏)

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ついでながら、同じ頃(明治6年)、尾張瀬戸の窯元の息子で加藤友太郎という人物が上京し、陶芸家・井上良斉門下に入り、もっぱら「楽焼」を焼いていたようです、。現在の帝国ホテルの地に明治政府が「勧業寮」という洋式陶磁器試験所を作り、加藤友太郎は明治9年に勧業寮を卒業後、明治15年独立して、牛込区新小川町に製陶所「友玉園」を作りました、。
これは想像ですが、「福富京楽堂」は、この「友玉園」の指導の元、東京で楽焼鉢を製造し始めたのではないかと思われます、。東京での楽焼鉢は、明治15年過ぎに製造し始められ、明治30年頃にはカタログを発行して全盛を誇るまでになっていたようです、。(京都にも、こういう資料が出てくればいいのに、)

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「京焼」というのは、もともと京都に住んでいた陶工が興した焼き物ではなく、安土桃山時代から江戸初期に、皇城の地であり、華やかな王朝文化が花咲く京都に憧れた瀬戸や信楽や備前の陶工たちが上洛し、東山一帯に住み着いて窯を開いたものです、。
京都の焼き物は「茶道」と共に発展し、町衆の中の「茶道具数寄者」の影響により発展した焼き物です、。この茶道具コレクターを「茶数寄」と呼び、彼らの好みが京焼を育てて行ったのでした、。

「京焼」は、江戸初期に野々村仁清や尾形乾山などの名工が出て隆盛を極めた時期と、江戸後期・文化文政年間に奥田頴川や青木木米や欽古堂亀佑や三文字屋嘉助などの名工が出た時期とに隆盛を極めるのですが、この江戸初期のころ、既に「楽焼」の「蘭鉢」や「菖蒲鉢」は作られていたようです、。
ただ、「楽焼」は、その生い立ちが日本の陶工が作ったものではない点と、千利休などを介して時の朝廷と結び付いた焼き物であったために、通常「京焼」と呼ぶような焼き物とは区別され、いわゆる「京焼」には含まれません、。それだけ特殊な焼き物であった訳です、。

江戸初期の「京焼」の名工・野々村仁清の「上絵の具」には・・・
赤色は「金珠」と呼ばれる「特殊な紅柄丹土」を材料とし、萌黄(緑)色は「岩緑青」と「舶来の萌黄ガラス」を用い、紺色には中国産の「岩紺青」を、紫色には中国産の「呉須」と「丹土」「金珠」を混合したものを、黒色は「銕粉」(刀鍛冶が使う鉄粉)と「中国産呉須」の混合、をそれぞれ使用しました、。「金銀彩」は漆蒔絵に使う金箔・銀箔を粉にして膠で溶き、金銀泥にしたものを使用しました、。
非常に高価貴重な顔料を手の込んだ技法で使用したもので、とても後の世の楽焼鉢に使用されるものではありませんが、「明治以前の京焼にも彩色上絵付けしたものが存在するじゃないか、だから楽焼鉢も江戸時代の古くから絵付け物が有ったのじゃないのか、」という疑問に応えるために、一応記しておきます、。
by evian_th | 2014-12-09 13:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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