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大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」「頂山鉢」                No.454
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◆2012年8月、。   大阪焼き蘭鉢「楽忠鉢」

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◆風来記側の都合で、「大阪楽」の過去スレッドを上に上げます、。(2015年6月22日)
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「楽忠」赤土(中国風では紫泥または朱泥)六角瑠璃釉浮彫文鉢、。
「楽忠窯」は、楽家三代目道入(通称:のんこう)の弟・道楽(別名:忠右衛門)が明暦2年(1656年)に大阪堺に開いた窯で、主として生活雑貨を焼いた窯だったようです、。明治11年まで続きました、。

画像の「赤土六角瑠璃釉浮彫鉢」の形は、一般には「欽古堂亀祐型」と呼ばれる形状の鉢です、。江戸期の京焼の名工「欽古堂亀祐」(きんこどうきすけ・きんこどうかめすけ)に同じタイプの鉢が残っており、京焼の方が有名なのでそういう風に呼ばれたのだと思いますが、欽古堂亀佑は江戸時代・明和2年(1765年)生まれですから、この形を初めに作ったのが欽古堂亀祐が先か、欽古堂より100年以上も古い楽忠窯が先かは判然としません、。

楽焼鉢の表面に瑠璃釉の浮彫で花唐草文様をデザインし作り始めたのは「楽雅亭」や「楽忠」です、。
このデザインをそのまま「赤土六角鉢」に使うようになったのも「楽忠窯」の方ではないか、と考える方が自然です、。


では、京焼の有名な陶工であった欽古堂亀祐が大阪で作られたデザインを真似たのかと考えると、これもあり得ません、。京都が大阪のまねをする筈が無いからです、。
逆に、大阪の「楽忠窯」が京焼を真似たのかと考えると、これもまたあり得ない、。「楽家」本家血筋を引く「楽忠窯」が他の陶工のデザインを真似るとは考え難いからです、。


このタイプの鉢は「欽古堂亀祐窯」や「楽忠窯」の製品は数が少なく、最も多く製造したのは「頂山」落款の窯元と、無落款の窯元です、。


これらのことから導き出せる結論は一つ、。
「赤土六角瑠璃釉浮彫文鉢」は全て大阪で作られたのではないか、というものです、。


紀州徳川藩お庭焼き「偕楽園」を作るに当たって、徳川治宝が京焼の陶工を指導者として招いた事は過去スレに書きました、。
これら陶工が紀州に滞在したのは、数か月から1年未満ていどの期間で、その内の幾人かの陶工は、紀州偕楽園の帰途、大阪に寄り窯を開いたりしています、。この時に、この大阪焼きのデザインを試作したのではないかと考えるのです、。

次回掲載の「頂山」落款の鉢も、現在は「窯元や製作者不明の謎の京焼」という分類をされてますが、「京焼」は歴史的に詳しく調べられ、あれほど多くの作品を残した窯が「不明」というのは、いかにも不自然です、。

そもそも、この「赤黒茶色くきめの細かなチョコレートのような陶土が「京都産の京土」とは考えにくいのです、。「京土」にも赤土はあるにはあるのですが、もっと明るい桃色を含んだ色の土です、。
大阪南の堺市から南や東、貝塚市・岸和田市・和泉市・大阪狭山市、などの方面の陶土ではないかと思われます、。

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さて、大阪という所は、陶芸文化的に言うと日本最古の製作地なのです、。

5世紀の終わり雄略天皇の時に大阪府北部の豊能郡来狭狭村(くささむら)で天皇家の食器類を焼き始めました、。
一方、大阪南部の和泉の国大鳥群を初め、大阪狭山市から堺市・岸和田市・貝塚市などの地方の丘陵地帯には1000基以上の「須恵器」の窯跡が発掘調査されており(陶邑窯群・すえむらかま)、また北部の吹田市・豊中市の千里丘陵一帯にも多数の「須恵器」窯跡が見られ、発掘調査されています、。今ではそれらの調査結果に基づいて得られた情報を使って日本各地で発掘される「須恵器窯跡」の年代特定に用いられているほどです、。
行基焼という窯があり、日本で最初の「轆轤」(ロクロ)を使って陶器を焼いたのも和泉の国、つまり大阪なのです、。5世紀ごろから平安京の頃まで続きました、。

これらの「ロクロ」を使った「須恵器」製造の技術と、南部地方の「赤色陶土」とが後世になって出会った結果に生まれたのが「赤土瑠璃釉浮彫文鉢」ではないかとエビアンは想像しています、。

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現在知られている大阪での陶磁器生産窯元は・・・(順序不同)

音羽焼、。・・・1627年~1883年(明治16年)、大阪府貝塚市堀新町で開窯、。陶器を焼いた、。
御室焼、。・・・和泉の国(関空のある方面)、別名・湊焼、。1818年~1870年、に開窯、。交趾風陶器、。一種の楽焼といえる焼き物を製造した、。京都の御室焼とは別、。
貝塚焼、。・・・和泉の国貝塚御坊願泉寺のお庭焼き、。
仁阿弥道八と、その実弟・尾形周平が紀州偕楽園に招かれた帰路、願泉寺住職・南冥上人のために興したお庭焼き、。偕楽園風の作品を作り、「吟花園製」「清月軒焼」と称した、。
吉向焼、。(亀甲焼とも)・・・1761年、大阪十三(じゅうそう・三十国船で京都伏見から数えて13番目の船着き場、)で開窯、。1861年没、。楽焼を焼いたらしい、。
玄斎焼、。・・・和泉の国堺で天正年間に開窯、。
高津焼、。・・・大阪高津で開窯、。難波近辺で焼いたので別名・難波焼とも、。
古曽部焼、。・・・摂津の国島上郡古曽部(高槻市古曽部)で1790年~1911年まで開窯、。高取・唐津・高麗・南蛮などの写しを制作した、。
堺焼、。・・・「楽忠窯」のこと、。
菱古山焼、。・・・1854年~1900年代初めまで開窯、。陶器を焼いた、。
桜井の里焼、。・・・三島郡島本町桜井で1782年~大正時代初期まで茶器を焼いた、。別名・楠公焼、。二代目・清水太左衛門清太の時、尾形周平が身を寄せ、多彩な作品を多く製作した、。
汐見焼、。・・・1830年頃の開窯、。堺の楽焼、。主として茶器を製造、。赤楽に白釉薬を掛け、茶人垂涎の的といわれる、。
半田焼、。・・・八田焼とも、。焙烙(ほうろく)を焼いた、。
吉田焼、。・・・江戸中期に興った大阪の楽焼の一種、。大阪市東区や枚方市で開窯、。
水間焼、。・・・貝塚市で開窯、。京焼の流れをくんだ窯、。
高槻焼、。・・・高槻市で永楽保全が晩年の短期間だけ磁器を焼いた、。1852年ごろの事、。
高原焼、。・・・摂津から大阪市内で窯を開き、楽焼風焼き物を製造、。
那古焼、。・・・1798年~1898年まで製造、。陶器、。


桃原、。・・・雄略天皇7年(西暦463年)、朝鮮半島人の進言により、その半島人自身が出向いて百済から高貴という名の陶工を連れて帰り、河内の国・桃原に窯を開いた、。これにより、百済の陶磁器製法が日本に伝わり、諸国の陶業がようやく始まった、。このことは、日本の各種技術は奈良県で始まったのに(過去スレNo.430(クリック))、なぜ陶業の中心が大阪であったのかの疑問の答えになる思う、。

◆「楽忠窯」は大阪堺市にあったのですが、「堺市」が陶業などで栄えたのは、摂津の国・和泉の国・河内の国の三国の境目に位置していたので「堺、」と呼ばれるようになり、漁港として、西日本の海運の拠点として、貿易港として非常に繁栄したからなのです、。
1868年(明治元年)に「大阪府」が誕生した時には、「堺」は大阪府には含まれませんでした、。その頃の「堺」は、和泉の国・河内の国・大和の国(現在の奈良県全域)をも含む「堺県」を形成し(明治4年)隆盛を極めていたからです、。(奈良県ができるのは明治20年のことです)、。

ね、こうして見て来ると、「大阪焼」は「京焼」よりも古く、窯元も多く、「頂山落款の鉢」も上記のどこかの窯で焼かれた可能性が非常に高いと思いませんか、。それを真似た「赤土瑠璃釉浮彫鉢」も多く大阪で作られた可能性がありますね、。
これがエビアンが「大阪焼」という陶芸分野の独立を進める所以です、。
(口径17.5センチ、高さ14センチ、。鉢所蔵:半田太氏)


「貝塚焼」の項と「桜井の里焼」の項に追記あり、。
「御庭焼き」の項目に追記あり、。
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どうも、上品に書こうとすると本音を書けなくて、なんだか内容が理解し辛くなっているので、エビアンが感じていることを率直に書きますが、・・・

この「赤土瑠璃釉薬浮彫文六角鉢」には、「大・中・小の三つ組み」が存在したり、中型や小型の分の中には、「どう見ても型押しもの、」が存在したりするので、ある時期には相当大量に作られたデザインではないか、と思われます、。
「大量生産・大量販売」は、京都の商風じゃないと思うのです、。そこだけを見ても、「こりゃぁ大阪だな、」と感じてしまうのです、。
大阪堺は経済的に繁栄していて、こういうものの需要も相当多かったのだと思います、。「京都の商風」は、需要が多かろうと信念は曲げない、というか、「細く長く引っ張ろう、」という商風です、。「売れるなら売れる内にどんどん作れ、」というのは「大阪風」だな~、と感じています、。

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江戸時代後期から幕末へかけて、各地大名が競って「お庭焼き」を開窯したので、京焼の陶工達はあちこちの窯へ指導に呼ばれたのと、自分からもあちこちへ出かけて行って陶工を指導し、自分の作品も残したのです、。
「紀州瑞芝焼」は奥田潁川の命により青木木米と永楽善五郎保全が出かけて窯を開いたものですし、「三田青磁」は欽古堂亀祐が開窯2年目から出かけて行って指導し再興したものです、。そういう時には欽古堂亀祐が作っても、地元に遠慮して自分の個人落款を押すことをしなかった場合も多いと聞きます、。
こういう風によく知られた窯だけでなく無名の窯へも出かけて行っていたのです、。ずっと京都に居座って作品を作っていたのではありません、。日本中のどこの地方に京焼の陶工の作品が残っていても不思議ではないのです、。
「お庭焼き」は、大名や大旦那や茶人が個人的に自分好みの作品を作ったもので、販売を目的としなかったために作品が広く知られることなく全国に眠っています、。

代表的な御庭焼、。
御庭焼に特に力を注いだのは「徳川御三家」です、。

尾州徳川家御庭焼「御深井焼」(おふけやき)
  「魁翆園焼」(かいすいえんやき)
紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」(かいらくえん)
  「清寧軒焼」(せいねいけんやき・治宝候の後、斎順候の御庭焼)
  「大福山焼」(御庭焼には含まれないかも知れないが、偕楽園を模した作品が作られた。)
  「瑞芝焼」(ずいしやき)
水戸徳川家御庭焼「後楽園焼」(こうらくえん)
  「三楽園焼」(江戸で焼いたもの)

その他、御庭焼として有名なものは・・・
「湖東焼」「三井御浜焼」「柳原焼」
などがあります、。

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<旧国名>関西の旧国名地図、。「摂津の国」は現在の大阪府北部と兵庫県南東部を含みます、。「和泉の国」と「河内の国」は現在は大阪府南部に含まれます、。「大和の国」はほぼ現在の奈良県です、。「山城の国」は現在の京都府南部地方です、。
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by evian_th | 2015-06-22 23:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
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