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和鉢コレクター「新谷慶馬さん高木禮二さん」       No.518
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◆2014年7月7日、。   日本鉢数寄者「新谷慶馬さん」「高木禮二さん」

和鉢コレクター「新谷(あらたに)慶馬」さん
昭和40年代には古典園芸界の商人で「新谷さん」の名を知らない者は居ないほど有名な「和鉢コレクター」だった、。上掲の切り抜きは今から42年ほど前の雑誌に掲載された記事のコピーなのだが何という雑誌からのスクラップだったかが分からない、。引用先の雑誌名も書けないので、全部で7ページの記事なのだが出だしの3ページを掲載して「新谷慶馬さん」をご紹介、。(「盆栽世界」だったらしいです、。当時は樹石社でしたが現在は「自然と野生ラン」と同じ「エスメディア出版」から「盆栽世界」として出版され続けています)、。

「新谷慶馬さん」(静岡県浜北市)は明治39年生まれ、。「日本人作家の造った鉢」「和鉢」のコレクター、。ある時の盆栽の全国大会である「国風展」の席で盆栽を紹介してくれた盆栽協会の偉い人が「鉢はポン鉢です。」というのを聞いて、「和鉢コレクション」に目覚めたという経緯を持つ、。(日本製鉢=日本鉢=ニッポン鉢=ポン鉢)当時は支那鉢全盛時で、日本鉢は「ポン鉢」と呼んで下に見られていた、。「ポン鉢」は蔑称である、。(こういう舶来崇拝主義、日本自虐思想はエビアンの最も嫌うところだ)、。

このインタビュー時点でコレクションは2000鉢を越していたらしいから最終的には3000鉢くらい集めたかも知れない、。和鉢美術館を作ったらどうかなどの声もあったが、結局は昭和40年代から台頭して来た更に更に大物コレクター「高木コレクション」に2億円とかで全コレクションを買われてしまった、。

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和鉢コレクター「新谷慶馬さん高木禮二さん」       No.518_d0103457_1372513.jpg「高木コレクション」は70億とも90億とも言われる大金を植木鉢の買い集めに注ぎ込んだとんでもないコレクターだった、。「高木コレクション」というのは「msシュレッダー」の開発で有名な「明光商会」の「高木禮二会長」のことだ、。
写真右)主として盆栽と盆栽鉢に肩入れした人なので東洋蘭界には馴染みが薄いかも知れない、。
2007年5月3日、高木会長の他界に伴って「高木コレクション」の全ては売りに出され、中国へも大量に出て行ったが、「和鉢」は日本国内で盆栽界と園芸界の愛好家に買い取られた、。風来記でも時々ご紹介している「華幸園植木鉢展示即売会」などはこの時の「高木コレクション」の鉢が大部分だった、。楽焼鉢も有った筈なのに棚整理品からは楽鉢はほとんど出なかった、。































新谷さんはご自分ではただ集めるだけで産地や窯元別に分類などの作業は何もされなかった、。この事について新谷さんはインタビューの中で「自分ではただ集めておくだけでよい、。後に続くべき日本鉢についての具体的な研究は他の人にまかせたい、。」と述べておられる、。
そうなのだ、。集めて研究までするには人生はあまりにも短い、。「植木鉢を集めよう、」と思うのが大概は相当な高齢になってからのことだし資金的にも高齢にならざるを得ないからだ、。これの繰り返しで「植木鉢についての研究」の分野が今まで遅れているのだた、。


今回、「楽焼鉢の各部の名称」を考えていて、ふと新谷さんを思い出してスクラップを探した、。偉大なコレクター2人(新谷さんと高木社長)が居られたことをご紹介しておきます、。

2ページ目下段の「湖東焼金襴手鉢」は三重県の西口さんに行き昨年風来記でご紹介しました、。3ページ目中段左の「欽古堂亀祐」は高知県の愛好家に入り、エビアンが撮影した画像が風来記にありますので、いずれご紹介、。
画像は相当大きいサイズで掲載してあります、。画像クリック・虫眼鏡クリックで拡大します

和鉢コレクター「新谷慶馬さん高木禮二さん」       No.518_d0103457_2551637.jpg古典園芸界の商人は、植木鉢にしても「研究者になってはダメなんだ、。買うだけの旦那でいいんだ、」というのが商人の本音で、こういうのが「植木鉢分野」の文化的な発展を妨げて来た主犯なのである、。「茶数寄」(ちゃすき)に比べて「鉢数寄」が何の文化的な進歩もして来なかった原因の一つがここにある、。ハッキリ言うけど集めるだけじゃ馬鹿じゃないか、。商人は愛好家がバカであってほしいのだ、。だが時代は大変化している、。時代の変化に付いて行けない(上のようなことを言う商人のような)人達は何時の時代どの分野にも居る、。風来記は御常連の鉢数寄とエビアンとの合作であると常々思ってる、。記事を書いているのはエビアンだけど鉢を買って画像撮影して協力してくれる人やBBSに鉢の話題を取り上げて掘り下げてくれる人などの合作サイトだと思ってます、。これらの人たち全体が現代の「鉢数寄」(はちすき)を形成しているのです、。

「植木鉢」も研究して我々日本人の先達の偉大な業績を後の世に伝える時が来ているのだ、。日本人職人の偉大さを全世界へ発信していく時なのだ、。日本人がその民族的文化的素晴らしさを世界に知らせる時代だろう思う、。


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*注*<茶数寄>(ちゃすき)
一言で言えば「茶道具コレクター」のこと、。
茶人・千利休は西暦1500年代後半の人ですが、この千利休が世に出る以前から京都に「茶道」はありました、。京都の茶人は「奥高麗の茶碗、」を非常に珍重して茶の湯を楽しんでいましたが、1500年代後半に「我々も奥高麗に負けないような日本製の茶碗を持ちたい、」と思い、中国から呼び寄せたのが「楽焼の始祖」と言われる「阿米也」(佐々木家の子女と結婚し日本名を佐々木宗慶という)です、。この「佐々木宗慶の造った手捻りの陶器が楽焼の始まりだと言われています、。宗慶の長男が「楽家初代」の「佐々木長次郎」で、後に田中利休が「千家」を名乗る時に「田中姓」を譲られ、終生「田中長次郎」を名乗り大阪堺の田中家の家督も引き継ぎました、。
そういう訳で、「京都の茶数寄」が「楽焼」を作らせ育てたとも言える訳です、。


千利休は「利休百選」の中で茶数寄を皮肉った歌を詠んでいる・・・
◆釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚かな
◆数多くある道具をば押しかくし無きがまねする人も愚かな


この場合の「茶道具」というのは主として「茶釜」だったらしく、「お茶碗」の楽家は売れなくてむしろ貧乏だったのに比べて「茶釜」の鑄家は七郎左衛門以下の人たちが隆盛を極めたようです、。

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by evian_th | 2014-07-10 02:10 | 東洋蘭鉢・ラン鉢
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