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カテゴリ:東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢( 212 )
手島鉢の全て                           No.601
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◆2018年4月、。   手島鉢の全て、。永久保存版!!


今年1月の「手島鉢スレッドNo.598」の項目で、資料に基づく大部分は書き尽くしたと思っていました、。ところが、「事実は小説よりも奇なり、」という言葉は2月に入っても再現したのです、。

愛知県・中部蘭趣会の鈴木正彦会長のお口添えで、愛知県安城市の楽鉢窯元・愛楽園三代目・杉浦慎治氏が手元に集まった「郷土史誌」文中の「手嶋揫二」に関する資料をお送り下さった、。
今年1月に特集した「東京駒込・手島窯」が出来る過程が判明したので、1月記事の訂正を兼ねて記しておきます、。
元になる資料は学術研究論文ではなく、郷土愛に満ちた名文(郷土史)であるため、事実関係が食い違う個所もあり、それらを整理してなるべく時系列で記します、。

「手嶋揫二の全て」「手嶋揫二は愛知県の人だった」「三河楽鉢の黎明期」

愛知県三河地方、知多半島と渥美半島に抱きかかえられるように海沿いに碧南市西端(にしばた)という地方があります(下方の地図1参照)、。この辺りの碧海台地の下には良質の粘土を産することから、古くから瓦生産や漁業で生計を立てて来た地方です、。また、「西端粘土」を使って趣味で陶器作りをする人も居ました、。

明治14年、陶器制作の趣味家(村長・原田高敏、栄願寺僧侶・杉浦秋湖、医師・吉岡立斎)達が集まり「桃源社」という愛好会を結成し、常滑から伊藤善三郎を招いて「西端粘土」を陶器化する技法を会得した、。これが「西端焼」(にしばたやき)で、当初は土鍋・徳利などの生活雑器が主体だった、。

明治15年、桃源社のメンバーの中でも特に作陶に熱心で秀でていたのが元・西端藩士の「手嶋揫二」(てじましゅうじ)だったようです、。手嶋揫二は桃源社設立のメンバーの援助で京都へ出向き、「京都帝室技芸員」を務めた「三代目・清風与平」(せいふうよへい)から「京楽焼」の教授を受けます、。その当時、京都では既に「短冊家」や「浮田楽徳」など「楽焼鉢窯元」はあったのですが、この時点では「楽焼鉢」に興味は無かったようで、あくまでも「京楽焼」の製法を習って来ます、。弟子入りした期間はおよそ6カ月間程度で西端へ帰り、同年(明治15年)西端で「釜揫・手嶋揫二」として開窯し、鍋釜・土瓶・徳利の製作に努めました、。手嶋(てじま)は京都滞在中に手嶋(てじま)から手嶋(てしま)へと姓名の読みが替わっていたと三代目・杉浦勘之助は語っている、。

明治16年、桃源社のメンバーはその後、更なる高みを目指して「常滑陶芸」(とこなめ)の名工・滝田椿渓(たきたちんけい)を招いて指導を仰ぐことにした、。明治16年、滝田椿渓は弟子の伊藤善之助と西端で2年間の指導に当たった、。教え子は多数であったらしい、。滝田椿渓は常滑の陶土よりもはるかに軟質で亀裂度の高い「西端陶土」の焼成に研究を重ね、「軟質楽焼」の焼成に成功した、。

◆明治18年、滝田椿渓は2年間の滞在を終えて常滑へ帰って行くが、弟子の伊藤善之助は西端に残り手嶋揫二らと「西端楽焼」の研鑽を重ね、後に「鉢善」の名で「黒楽釉金彩万年青鉢」に主力を注ぎます、。この郷土史からは、「西端楽鉢」を完成させたのは「伊藤善之助」ということになります、。
またこの頃、「西端楽焼」は「硬くて珍しい焼き物」というので「剛珍焼き」(ごうちんやき)と名乗るようになって行きます、。

◆明治22年、事務方と職工11人で西端初の「株式会社・剛珍社」を設立するも折からの不景気のあおりを受け販路が開けず、
◆明治26年、「剛珍社」は一旦解散し、後に「西端焼組合」として再出発することになります、。

◆明治28年、「京都内国勧業博覧会」に「鉢善・伊藤善之助」は剛珍焼き土瓶・徳利を出品し、「釜揫・手嶋揫二」は「楽焼万年青鉢」「蘭鉢」を出品し、鳥居只吉は剛珍焼き柳川鍋を出品します、。この資料上では、ここで初めて「釜揫・手嶋揫二が楽鉢を焼いた」ことになりますが、実際はもっと以前から「西端楽焼万年青鉢や蘭鉢」を焼いていたのでしょう、。

◆明治30年、「釜揫こと初代・手嶋揫二」は販路を求めて東京本郷団子坂上へ活動の拠点を移し、「西端万年青鉢」の名で「剛珍焼き黒楽釉金彩」の秘法を関東へ広めて行った、。(これ以降、手島と名乗る)
この本郷団子坂上で大阪から窯を移して来ていた「楽忠」と「手島揫二」とが出会うことになる、。「楽忠は手島の師なり」と1月のスレッドNo.598の添付資料に書いてあるように、手島揫二は楽忠から「瑠璃釉の調合法」を習ったものと思われます、。これ以後の手島鉢には「瑠璃釉を使った青海波紋」を描いた鉢が見られるようになります、。

◆明治38年、東京へ移った手島揫二の元へ愛知県から2人の若者が修行に行きます、。明治38年には「杉浦勘之助」が弟子入りし、大正3年に修行を終えて愛知県西端へ帰郷し西端で「興楽園窯」を開窯します、。
もう1人は大正15年か昭和元年に「杉浦重平」が「2代目・錦園堂・手島揫二」に弟子入りし、愛知県安城市へ帰郷後「愛楽園窯」を開窯します、。今回お世話になった「愛楽園3代目(当代)杉浦慎治氏」の祖父です、。(杉浦重平:大正2年生まれ~没年は平成9年、86歳)、。

◆大正7年、数々の実績と功績を残した「初代・釜揫こと手島揫二」は、大正7年(1918年)に逝去します、。故郷の「西端粘土」に拘った人生でした、。「手島窯」はその後自然の流れで娘婿である「2代目・錦園堂・手島揫二」へと引き継がれて行きます、。2代目は西端への思い入れが無いため「キブシ粘土」を使った鉢作りでした、。

◆従がって、釜揫・手嶋揫二達が明治中期に研究し完成させた「西端楽鉢」の正当な継承者は「興楽園・杉浦勘之助」と「愛楽園・杉浦重平」だけであると言う事が出来ます、。

明治中期に地元産の粘土を使った「西端楽鉢(剛珍焼き)」と昭和期に考案された「西端楽」とは別物です、。
それは主原料の粘土が全くの別物で、昭和期の西端焼きの粘土は「猿投(さなげ)・設楽山(したらさん)系の地中40メートルの深くから採取される木節粘土(キブシ粘土)」(下地図1参照)を用いることが最大の特徴であるからです、。理由は耐火温度の違いであるらしく、「キブシ粘土」は焼成後は乳白色になる、。(西端粘土は茶色く砂混じりである)
この、鉢の陶土の色目の違いは「明治の西端楽鉢」と「昭和の西端楽」との見分けのポイントになりそうです、。

◆「初代・釜揫・手嶋揫二」
嘉永5年(1852年)三河国幡豆郡(はずぐん)釜谷(鎌谷)村の生まれ、明治9年西端村へ転居、明治30年東京文京区本郷へ転居、大正7年(1918年)東京で逝去(66歳)、。西端時代は「手嶋」であったが、東京へ出てからは「手島」と名乗ったようです、。

◆「3代目・清風与平」(1851年~1914年)
2代目与平の妹婿、明治の名工として名高く陶芸家として初めて帝室技芸員に選ばれる、。初代・清風与平は加賀から京都へ出て「仁阿弥道八(高橋道八)」の元で楽焼を学び文政初年「桃山三夜荘」を開窯、。清風家は4代続き、4代目は3代目の次男、。

◆この項目のご協力者様
中部蘭趣会会長:鈴木正彦様
愛楽園当代:杉浦慎治様
地図製作協力:園芸ジャパン編集子:大塚剛史様、および、愛好家:大鐘久生様
掲載画像の西端楽と思われる蘭鉢は飛田邦之氏所蔵

◆「手嶋鉢」(現在では手島鉢と呼ばれる)は「西端楽鉢」であり「三河鉢」の原点なんですね、。昭和の三河鉢の陶土が白い理由が理解できました、。「黒楽釉金彩鉢」というのは平たく言えば「縁足金鉢」のことでしょね、。
三河鉢に関するモヤモヤした不明な部分が判明し、気持ちが晴れました、。手島揫二は字面から受ける洒脱さから、てっきり東京の人だと思っていました、。

◆西端楽(古い三河鉢)は、なぜ軽い。奥部屋No.1866(文字クリック)
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◆「三河鉢」に関しては、登場人物名などここに書かなかった事もありますが、それはいずれの機会に・・・、。











by evian_th | 2018-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二鉢                           No.598
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◆2018年1月、。   手島揫二窯

謹賀新年。本年もよろしくお願いします。



東京・手島揫二窯の新事実、。
新年は「手島揫二窯」の2つの事実のお話から始めます、。

手島揫二は2人存在した、。
この事をエビアンが知ったのは、楽焼鉢を調べ始めた直後(10年以上前になりますが)に最初に出会った真実です、。上画像、7枚目資料の向かって左端の古い書籍の記述に「団子坂上に住する手島揫二氏の先代同名」という文章を見つけたのでした、。「錦園堂・手島揫二」には「同名の親」が居た、ということになります、。「これは大変な事を知ってしまった、鉢相場に影響するといけないので人には言えないな、」と思い、風来記では隠し通して来たのでした、。

その後、初代・手島揫二が明治39年1月に「万年青と仙人掌の銘鑑」(7枚目画像右端)を発行していた事実を知った人が出て来て、もう隠せないかな、と思い始めてはいました、。昨年2017年12月になって、8枚目画像の資料を入手するに至り、その左端に「楽忠は、駒込動坂・錦園堂・手島揫二氏義父の師なりし」という記述を見て、これはもう本当のことを書いておかねばならないと観念したのです、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。


ここで2つばかり整理しておきますが、初代は「楽焼植木鉢製造販売・手島揫二」と名乗り、二代目(7枚目画像中央)が「錦園堂・手島揫二」と名乗っていたようです、。初代は、明治15年頃に「東京市本郷駒込千駄木林町11番地」に窯を開き、二代目は大正7年に「東京市本郷区駒込林町11番地」に窯があったようですから、同一場所ですね、。
訂正になりますが、7枚目画像の書籍文中から、エビアンは過去に「手島窯」の場所について「団子坂上がる」に存在したと書きましたが、8枚目画像の資料による「動坂の上」が正しい場所であったようです、。
千駄木は坂の多い土地で、名前の付いた坂だけでも7つ8つ存在します、。初めに読んだ本の筆者が「動坂と団子坂」とを取り違えたようです、。訂正しておきます、。「動坂」はドウザカと読み、不動坂の略称だそうです、。


「楽忠は、駒込動坂・錦園堂手島揫二氏義父の師なりしという」という記述には驚きました、。
「手島鉢」に多く存在する「青海波紋を使った波千鳥文様」に使われる釉薬は「金」と「瑠璃」とだけです、。その「瑠璃釉」の混合などは、なんと「大坂の楽忠に教わっていた」のです、。
上画像「万年青鉢」と「蘭鉢(未使用)」は初代手島揫二の作品ですが、そういわれれば「瑠璃釉」の混合などは人に教わらなければ自分で出せる色ではありませんものねぇ、。いやぁ驚きました、。「手島の瑠璃釉のルーツは楽忠にあり」でしたか、。

もう一つ、「楽忠窯」は明治12年ごろに閉窯した、と聞いていましたが、明治初期に大阪の市場の将来性に見切りをつけた「楽忠」が「東京・動坂」へ明治初期に窯を移し、明治12年に閉窯したのか、それとも、明治12年に大阪堺の窯を一旦畳んだ後に東京動坂で再び窯を開いたのかは、現在までのところ判明していません、。
8枚目画像の挿絵にあるように「動坂」落款と「楽忠」落款とを押印して「大坂楽忠」と区別したのでしょう、。こういう鉢が現存するのかどうかも分かりませんが、見てみたいものです、。

いずれにせよ、初代手島揫二に鉢作りを教えたのは、東京動坂で窯を開いた楽忠だったという驚愕の事実が判明したことは、誠に喜ばしい出来事です、。

事実は小説よりも奇なり、という言葉を思い知った出来事でした、。

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この項目ご協力者様(順不同)
華幸園住田幸弘様・蛭田梅里園様・米谷青彰園様・立岩信彦様・杉野達実様・笠原信雄様

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万年青鉢7.5x7cm。蘭鉢9x13cm。
「手島揫二」の初代と二代目との関係は実の親子ではありませんね、。「義父」というのですから「娘婿」か「養子」かでしょう、。いずれにしろ「手島鉢の相場」には何の関係もありません、。

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この項目は、2018年4月「手島鉢の全て、スレッドNo.601」で、一部訂正および追加になります、。








by evian_th | 2018-03-26 14:54 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
福富京楽堂蘭鉢                         No.600
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◆2018年3月、。   東京楽「福富京楽堂蘭鉢」


さて、春、三月に入りました、。蘭界人には楽しく気忙しい季節で気持ちも華やぎますね、。
それで、画像的にも華やかな印象を受ける「福富京楽堂の蘭鉢」を掲載、。

福富京楽堂に関しては、資料的には楽鉢調べ初めの頃に茨城県の蛭田梅里園さんから貰った「明治33年発行の福富の価格表」が存在するのみ、。他の窯元も資料は多いとは言えないのですが、福富窯に関してはこの価格表だけが、かつて明治の昔に(と言っても120~130年ほど前に過ぎないのだが)その存在があったことを示しているだけなのです、。
以来、風来記も楽鉢窯元を調べてますが、今の所、これ以上の事は判明していません、。

丁度、昨日のこと、某窯元に関する新資料を送って下さった、。こういう風に、楽鉢資料は出る時には出るもんだなぁと感動したばかりです、。
「福富京楽堂窯」に関しても、東京という土地柄ですから郷土史を研究しておられる人も多い事でしょうから、諦めずに探し続けたいと思っています、。

画像は「福富京楽堂」の特徴を良く表した蘭鉢、。
福富は京楽鉢の短冊家の系統に、エビアンの頭の中では分類される鉢です、。テールベルト(天然緑土)でキッチリと「段替わり」の古典様式を踏み、鉢縁下に鋸歯紋(ぎょしもん)を描く所など、京楽とは一見似て居ないようでありながら、エビアンの目には京楽鉢が透けて見えるのです、。いずれ資料も出るだろうと楽観しています、。
w13×h17cm、。(鈴木学氏所蔵)


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資料提供:蛭田梅里園さん

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by evian_th | 2018-03-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東城山一角鉢                        No.599
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◆2018年2月、。   東城山一角鉢、。


東洋蘭風来記が「古典鉢」と定義付けている鉢は、戦前の製作鉢で素焼き時に加茂黒釉を掛けてあるもの、ということになります、。今月の鉢は戦後の鉢であることと化学薬品釉薬を使った鉢であって「古典楽鉢」ではありません、。

現代陶画工は多数おられます、。その第一人者は「布施覚氏」であることは疑問の余地もありませんが、戦後の「陶工」は、というと楽鉢工場での大量生産に重きが置かれ、陶工として目立った人は居りません、。

その中で、「中里五代・東城山一角」は驚異的な腕前を持った陶工だと思います、。
今回、現所有者が一角らしい一角鉢を入手されたので、ご紹介、。

東城山一角に関しては、奥部屋の過去スレに掲載したので、ここではリンクを2スレッド張っておきます、。文字クリックでリンク先スレッドへ飛びます、。


◆東城山一角


◆今月の画像の鉢のテーマは「雲龍鉢」、。
鉢の胴部分全体に「雲」を描き、足には雲から突き出る「龍頭」を陶土で作ってある、。
こんな思い切ったアイデアを過去のどの陶工が思い付いただろうか、東城山一角の真骨頂である、。
一角は「龍」や「鯉」を「炭を練り込んだ黒い陶土」で作った、。
台の鉢は澤製陶所に身を寄せていた時代に作ったものだろう、。「利山落款」が無いところを見ると、鉢本体を作ったのも一角自身だと思われます、。
東城山一角鉢は価格的にはもっともっと高く評価を受けるべきだと思われます、。

東城山一角は鉢の足やヘリや胴の陶土そのものに細工する鬼才の持ち主です、。この鉢は「古典鉢」に準ずる資格を有した鉢だと思います、。
13.5×h13cm、(堀籠浩史氏蔵)

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「東城山一角の茶器」
急須の蓋の取っ手は「蜘蛛」、。画像提供:杉野達実氏
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by evian_th | 2018-01-31 21:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
白胴青海波紋蘭鉢                         No.596
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◆2017年12月、。   白胴に青海波紋七寸蘭鉢


師走、。
本年もたくさんの愛好家のご訪問を賜り、深く感謝!!!,、。

7寸白胴に青海波紋様蘭鉢、。
歳の瀬はなんと7寸の大鉢、。恐らく浮田楽徳製、。
製作年は明治後期と思われますが、その時代に7寸という大鉢の蘭鉢の需要があった事は驚きです、。
楽徳窯の製品は短冊家などに比べると陶器としての強度が少し柔らかいのですが、7寸もの鉢の鉢べりを垂れ下がりもせずによくぞ作ったものだと、まずはそこに感心しました、。

浮田楽徳は1830年生まれ大正元年他界だから、この鉢は新しそうに見えても明治時代であると分かるのです、。他の窯元はそうは簡単には行かないものですが、。

鉢の台の作りに感心してる場合か、とは思いますが、他には「白胴に楽徳らしくキッチリとした青海波紋」を上から下へと描き下ろしてある所が見所でしょう、。画像をネットに挙げてしまうと面白味に欠ける鉢のようですが、展示会での使い心地は良さそうな大鉢です、。
この鉢は7~8年前の展示会に出品され、即日商人の手に渡り、東京へ納まったと聞いていた、。
(22×26㎝、新倉善秀氏蔵)


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by evian_th | 2017-12-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
万年青鉢                           No.594
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◆2017年11月、。   万年青鉢


月日の経つのは早いもので、もう11月、。気忙しくなりました、。

今月の鉢は「万年青鉢」、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。実はよく分からない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。
こういう窯元名も産地さえも判然としない鉢は多いのです、。実物を手に持てばもう少し判断もできるのでしょうが、。
良く出来た鉢ですよ、。余程使い勝手の良い大きさなのか、よく使い込まれて鉢底が見えないほど石灰分が付着しています、。それでよけいに分からない、。
チョッと見に「台は短冊家かな」と思ったのですが、短冊家がこういう絵付けをするかなぁ、などと思い始めるともう分らなくなります、。京都か三河かさえも判断できません、。短冊家にそっくりな台の作りをする三河鉢があったのです、。
鉢べり直下には天然緑土と金線、。他は霞取りの総絵付け、。唐草風な模様も描き慣れた風で躊躇が見られない、。同一絵付けを幾つか作ったようで、絵付けが少しぞんざい、。
台の鉢の作りの良さと、絵付けの手抜きとがミスマッチ、。どうにも判断できず、今月はお手上げです、。すみません、。(大きさ不明。飛田邦之氏蔵)


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by evian_th | 2017-10-31 20:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪楽                              No.593
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◆2017年10月28日、。   大阪楽(大坂楽)


「大坂楽」(大阪楽)、。
大阪楽は「楽焼初期の頃、大阪で焼かれた楽焼」を指すのですが、そうすると、楽家初代の佐々木長次郎が焼いた茶器・茶碗も含んでしまうので、風来記では「楽焼植木鉢」限定で使っているとご理解ください、。

「楽焼」は、中国福建省から渡来の「阿米也(阿米夜)とも、帰化名を常慶といい、通称は弥吉とも政吉ともいう)」が京都・上長者町西洞院東入るに住み、加茂黒を使って手捻りの柔らかい陶器に焼き付けた焼き物です、。この阿米也(常慶)の時点では京都で作られていたのは確実でしょう、。
この阿米也(常慶)と佐々木氏の娘(不思議に名前がどこにも出て来ない)との間に出来た長男が佐々木長次郎です、。天正2年常慶(阿米也)死去、。ここまで読んで、鋭い風来記ご常連ならお気付きと思うけど、阿米也の帰化名と楽家の2代目とがどちらも「常慶」であり、2代目常慶は長次郎の弟だと13代目は書いているので、つまり阿米也の息子ということになり、楽鉢調べ初めの頃のエビアンの混乱ぶりがご想像頂ける思う、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

天正5年織田信長の命により佐々木長次郎が田中利休(後の千利休)の好みを受けて父・常慶(阿米也)の遺法に基づいた「赤黒の茶碗」(赤楽と黒楽のことだと思われ)を製して献上したる史実がある、・・・と楽家13代目が書いています、。その後、本能寺の変で信長が他界すると、利休の引きで豊臣秀吉の茶碗を作るようになるのですが、信長→秀吉→利休、という流れを見ると、科学的証明を待たずとも、「楽焼は初代佐々木長次郎が天正2年から天正5年の間で大阪・堺で窯を開いて作っていた、と考えるのは極く自然です、。利休は信長から3000石を貰っていたとも書いてあります、。楽家も200石を貰ってお抱えの身分だったようです、。(2代目が自由な作陶をしたくて返上してしまいますが)、。

ですから、時代は少し下りますが、江戸明暦2年(1656年)楽家2代目常慶の弟・宗味や、楽家3代目道入の弟・道楽が「楽雅亭」「楽忠」の窯を大阪の堺で開くに至ったのだと思います、。
宗味の「楽雅亭窯」は明暦以前数年~数十年前に開窯したものと思われますが、それを裏付ける証拠となる文書には出会っていません、。

織田信長が大坂に目を付け、上町台地の最北端に「大坂城」を作ろうと思うに至った一番の原因は、その地の利です、。上町台地は南北に長い台地で、南へ低く北へ高くなっています、。その北の端の最も高い場所へ大坂城を置くことの理由は、当時の上町台地の周辺は、南以外の西の大阪湾までの方位も東も北の方面も「三方が大湿地帯(泥沼状態)で敵が攻めて来にくい」からという理由らしいです、。だから南の方向に「真田丸」を置いて大坂城を守らせれば、非常に安心できるからだったようです、。

で、南にしか開けた(乾いた)土地が無かったので、南の「堺」とは非常に便利な行き来しやすい土地だった、。ここで窯を作っていたと思います、。
なんしろ、運搬が海運に限られていたその頃の「大坂・堺の港」というのは、国内外の物品の集積所であり、松前船も外国船も国内の船も、九州と下関との間から波の静かな瀬戸内海へ入ってしまえば、後は瀬戸内海を東へ東へと進むだけで、突き当りの「大坂・堺の港」へ到着したわけです、。日本中の米も外国からの物産も堺に集まり、米相場が立ち、物が溢れて「堺は日本一の経済の中心地」になっていたのですから、。その後の江戸時代になってもそれは変わらず、270年間繁栄し続けた都市でした、。
長次郎が作る「茶碗」も大阪で最も多く消費されたのでしょう、。
京都寿楽第(邸)の完成後、豊臣秀吉は京都へ上洛し、千利休も長次郎も行動を共にしたので、「楽雅亭」「楽忠」という「楽家脇窯」も開窯しやすい環境が整ったのだと思います、。

明治維新とその後の「廃藩置県」で大阪の両替商の100兆円を超える「大名貸し」は踏み倒され、両替商は銀行へと組織を替えて生き残りを図ったのですが、副業に始めた大同生命が残るだけで大阪の両替商は姿を消し、「大阪不況」に陥ります、。気が付くと海運の時代は終わり、陸蒸気による陸運へと時代は変わっていました、。
おまけに京都から東京の別宅へと天皇が移り、皇城の地でもなくなった京都も不況になるのですが、京都人は商売が上手いので観光業で何とか立ち直っています、。
大坂の堺はなんしろ日本一の商業の中心地だったというプライドは高いので、廃藩置県時には旧:大和の国(今の奈良県)の全域を含めた「堺県」として独立し大阪とは一線を引いて来たのですが、明治20年ごろには大阪府に含まれ、独立した奈良県が誕生します、。だから堺市は今も大阪維新の党に逆らって橋下徹氏の「大阪都構想」には賛成しておりません、。残念ながら「堺」は、70数年前の大戦時に米軍の徹底的な空襲によって焼き尽くされ、原爆投下直後の広島のような都市になり、今は見る影もない貧弱な都市になっています、。仁徳天皇陵など古墳群があるのが不自然に見えるほどの廃れ様です、。市内にほんの数軒ですが戦災を免れた商人住居が残りますが、それはそれは立派な江戸時代そのままの豪邸です、。(こういう家に楽鉢が残っているかも知れない)、。
大阪が再び活気を取り戻すのは不可能と思われます、。


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下画像は、江戸後期になって園芸植物が古典園芸植物を意識し始めた頃の「京都・短冊家の極く初期の鉢」です、。1820年~1830年ごろの鉢、。長野田中家や九州、飛田邦之氏や西口郁夫氏にもあって、案外この加茂黒鉢は残っています、。6寸鉢、。下画像は九州の愛好家蔵、。
大阪楽のデザインの太鼓胴や段替わりは残しながらも、胴部分には形容しがたい微妙な反り(カーブ)を取って、大阪楽に比べると、この頃既に「新しい楽鉢」に変わりつつある感じは受けます、。
「短冊家」が段替わりを取っ払って、一気に引き上げ「段替わりの名残りの2本線」を入れるようになるのは、それから更に30年ー40年近く経った江戸幕末の事でしょう、。1861年開窯の浮田楽徳鉢には段替わりの鉢は見られないので、短冊家のデザイン革命はその頃までには完成していたものと思われます、。


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by evian_th | 2017-10-28 14:58 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
鳳凰紋様蘭鉢                           No.591
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◆2017年10月、。   東洋蘭蘭鉢、。


変な気候の夏も過ぎ、展示会シーズンの10月に入りました、。

多分東京楽、福富京楽堂製「緑土鳳凰紋様蘭鉢」、。
1枚目画像、1の足の上方に金色と肉色の2羽の鳳凰が描かれ、その周辺には全く余白(余黒か?)が見当たらないほどビッシリと鳳凰の羽を天然緑土で描いた蘭鉢です、。
3の足画像と、腰部分に「桐の葉」を描いてあるので、1の足は鳳凰なのでしょう、。

福富京楽堂は、台の鉢の作りがシッカリしてますね、。足の作りもいい、。天然緑土(テールベルト)もかなり
上質なものを使用してます、。

1段目の段替わりを省略して広く絵付けをし、2段目の段替わりの線は描くという描法は五柳でも使ったようなので、明治も後半になると、「段替わりの横線」ももはやデザインの一部程度に考えられるようになっていたのでしょう、。
楽鉢全体で見ると、「鳳凰紋」の方が「飛龍紋」よりも多いような気がします、。龍図は空間が多く、埋めるのに苦労するからでしょうね、。

展示会に使い勝手の良さそうな逸品、。明治後期ごろの製作、。(飛田邦之氏蔵)

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by evian_th | 2017-10-01 00:10 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
多分楽徳七々子紋蘭鉢  No.590
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◆2017年9月1日、。   多分楽徳七々子紋蘭鉢


浮田楽徳窯製「魚の子紋楽焼蘭鉢」、。
この鉢画像は、5年も前から貰っていたのだたが、パッと見に「うん楽徳鉢ね、」と思って見ると何だか気持ちの中に納得しない部分があって、過去に何度か使おうと思っては踏ん切りがつかず、先延ばしにして来た鉢画像です、。

縁の横張りが少なくてバランスを崩している、。それと、正面の1の足画像はまぎれもなく楽徳鉢なのですが、後ろの2の足・3の足の横から画像の形が何となくヤボッたく見えて楽徳らしさが感じられない、というのが躊躇させた理由です、。
浮田楽徳は1830年生まれで、京都狩野派で絵師としての修業を積み、1861年に独立して「楽徳窯」を開き、大正元年没ですから、その間、50年以上に渡って楽焼鉢を作り続けた訳です、。多くの作品を作る中には、時には「楽徳らしくない鉢」があっても不思議じゃないな、と思い直したのです、。

今月の鉢画像を探す中で、今回は、この鉢は楽徳鉢で間違いない、と初めて思えたのでご紹介、。
鉢の上部は楽徳鉢や短冊家に見えて、足元が何となくヤボッたく感じる三河鉢の窯が存在したので、これを見誤ることがあってはならなくて、ここんとこのエビアンは、より慎重になってしまいがちです、。

鉢全体の形は楽徳らしさは無いのですが、何度も見る内に、その野暮っぽさも魅力的だと感じるようになりました、。不思議な魅力を持った鉢です、。

「鉢縁下」「胴」「腰」に描かれた文様は、エビアンの好きな「魚の子(なのこ)紋」、。細めの口金を使ったイッチン描きで、ビッシリと「魚の子」を描いてあります、。使われている釉薬は「天然緑土(テールベルト)」と「金泥」のみ、。質素な釉薬を使って、ネットリとした魅力を描き出してあります、。明治中期ごろの製作、。
(口径14センチ、高さ17.5センチ)新倉善秀氏蔵、。



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by evian_th | 2017-09-01 00:06 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
仙人掌鉢                             No.589
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◆2017年8月、。   仙人掌鉢(サボテン鉢)、。


「サボテン鉢」、。
サボテンの事を深く調べる気持ちは無いのでネット検索でザッと調べてみた、。
「サボテン」が日本へ渡来したのは、何と16世紀のことであるらしい、。室町時代とか戦国時代とか安土桃山時代のことではないか、。驚いた、。

「サボテン」に「仙人掌」の文字を当てたのは中国での事らしい、。中国に最初に入ったサボテンが「ウチワサボテン」であるらしく、その見た目からこの文字を当てられたのだろうということだた、。

日本へ渡来してからの流行については分からないが、明治時代後期から大正時代を通じ昭和の初期まで東京でのみ流行したのではないかと思われます、。根拠は東京本郷の「錦園堂・手島揫二窯」のみがカタログに「仙人掌鉢」を掲載しているからです、。

それで、今月のトップ画面の鉢を見ると、「仙人掌鉢」である事と「波千鳥文様」であることから、「あ~、手島鉢ね、」と思ってしまいがちですが、チョッと待って頂きたい、。
この鉢の造りは相当な上手物なのです、。

まず「足の形と作りの良さ」は秀逸です、。1の足は勿論、画像左奥に見える3の足の横顔の作りの良さには惚れ惚れします、。
更には「縄縁の造りや縁上面の加茂黒の様子の良さ」、「内側への曲がり角のエッジの鋭さ」「内掛けの加茂黒釉薬の深さ」、「使用してある温かみのある陶土」、などなどから、これは相当な上手物であることが見て取れます、。

「手島揫二の波千鳥」を見て、「下手な作り、下手な絵付けだ」と思うのは間違いでしょう、。
この白胴に青海波を拙く描き、千鳥饅頭のような千鳥を飛ばし、隙間を七々子紋の点々で埋めるというこの図柄は、図柄そのもの全体が一つの「紋様(パターン)」なのではないかと思われます、。そうでなきゃ、この足や縁を作れる腕を持った陶工が、こんな下手な絵付けをする筈が無い、と思うのです、。

この鉢は、まぁ、仙人掌鉢だし波千鳥紋だし、「錦園堂・手島揫二窯」の製品でよいでしょうが、仮にこれが「短冊家」の製作であっても何の不思議もないほどの出来栄えの良さを持った鉢だと思います、。
口径12センチ・高さ5㎝、。(西口郁夫氏蔵)


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by evian_th | 2017-07-31 21:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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