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カテゴリ:東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢( 220 )
短冊家万年青鉢                      No.613
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◆2018年12月、。   短冊家「雲取りに青海波紋万年青鉢」、


早くも”師走”、。
今年は「手島鉢と三河鉢の始まり」に明け暮れた一年でした、。締めは「短冊家の万年青鉢」です、。

短冊家「雲取りに青海波紋万年青鉢」、。
月替わりでトップ画面が更新されている事に気付かない人も多いのではないでしょうか、。それほどまでに、先月の「楽徳鉢」と今月の「短冊家鉢」とは似ています、。別個に見せられたら見分けられないほどです、。
この2つの存在が、「11月使用分は浮田楽徳窯で12月使用分は短冊家窯」だと自信を持てるまでに5年以上もの時間を要した所以です、。
今月の短冊家も製作年は土製顔料ばかりなので、江戸時代、。短冊家の技術の凄さが全て盛り込まれています、。見る人の背筋が伸びるような縁(へり)の造り、。胴の絞り具合、。しっかりした足の造り、。全ての面で完成度の高さが見られます、。
短冊家って凄いなぁ~、と思い知らされる鉢、。

この画像が撮影された当時には、上掲のように”横から画像1枚だけ”で事足りた時代(と云っても10年チョッと前のことですが)でしたから、画像はこの1枚しかありません、。それで十分にこの鉢の持てる良さを伝えるのですから凄いものです、。
口径や高さなどは不明、現所有者も不明です、。

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by evian_th | 2018-11-30 00:26 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽徳万年青鉢                        No.611
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◆2018年11月、。   浮田楽徳万年青鉢、。


気が付けば日暮れも随分と早くなり、朝晩は冷え込みが厳しい季節になりました、。日本の晩秋の景色は美しいものです、。

浮田楽徳窯万年青鉢、。
この鉢画像は数年前から持っていました、。窯元の特定が難しく、自信を持てるまでに5年以上の時間がかかったのです、。簡単に窯元や製造年代を特定できる鉢もあれば、この鉢の様に少しずつ見えてくる鉢もあるということです、。鉢の各部の特徴が気持ちの中で矛盾する間は特定は駄目で、ある時それらが一致した時は喜びを感じるものです、。

浮田楽徳には珍しく鉢縁下(はちべりした)まで黒楽釉を雲取りに使ってあり、胴部分と腰とは青海波紋と少しの波涛紋を白い泥漿で描いただけの簡素な絵付けの一品です、。雲取りにしろ簡素な青海波にしろ、楽徳が描くことは珍しく、その事に窯元特定の判断を躊躇させられた鉢です、。
使われている釉薬や時代乗りを考え合わせると、江戸時代幕末の製作でほぼ間違いはないと思います、。風来記が製作年を江戸時代と判断することは珍しく、大阪楽を除けば短冊家と極々まれに楽徳窯製がある程度なのですから難しい判断でした、。

古いからといっても、古さと価格は必ずしも一致せず、明治時代の五柳絵付け鉢や豪華な絵付けを施した鉢の方が価格は上であることが多いものです、。需要の多い鉢の方が高価格になるのは仕方のない事かも知れません、。(15cm×15cm)

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by evian_th | 2018-11-24 00:16 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二・二代目                      No.610
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◆2018年10月、。   二代目・錦園堂・手島揫二、


今秋の展示会情報は、前スレッドNo.609にあります、

今年は「手嶋揫二鉢」と「三河鉢」の誕生に関して、画期的な資料が出て来て「楽鉢界の不明の部分」が一気に解明できた年です、。
1月には、大阪府堺市に窯のあった「楽忠」が、明治11年に大阪の窯を閉じて東京本郷駒込「動坂」で再び窯を開いていた事が分かりました、。
4月・7月には、「初代手島揫二鉢」と「三河鉢」の誕生が、同じ根っこから発生していた事が判明しました、。

これで完璧だなと思っていたら、今回更に「二代目・手島揫二」に関する追加資料を愛楽園さんがお送りくださったので下記します、
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二代目・手島揫二、
初代の手嶋揫二は、常滑の陶工・滝田椿渓とともに「西端楽焼」を生み出し、「釜揫」と称する窯を起こし、明治30年まで西端で窯を続けたが、後を弟子の杉浦良平に譲って東京に移住した、。揫二45歳の時でした、。
本郷駒込「団子坂」に窯を起こし、万年青の流行に乗って関東に西端楽鉢を広めて行き、業界で「手島鉢」と呼ばれるほどのブランドとなって行ったのでした、。そして大正7年に66歳で逝去します、。

初代の手島揫二には跡継ぎの男児がいなかったので、娘に愛知県西端から杉浦文次郎(明治16年生まれ)を婿養子として迎えていました、。大正7年、この婿養子が「二代目・手島揫二」を襲名し、その家業をますます発展させたのです、。二代目手島揫二は窯の屋号を「錦園堂」と名付け、万年青鉢・蘭用高鉢・仙人掌鉢を製作しました、。

昭和18年1月28日、空襲によって窯が破壊されると、二代目手島揫二は窯を閉じ、戦禍を逃れて娘婿の故郷高浜へ疎開した、。目を悪くした二代目手島揫二は二度と窯を開くことはなかったといいます、。そして、昭和44年(ちょうど50年前だ)、86歳で逝去しました、。

◆したがって「手島鉢」は、明治18年に初代釜揫手嶋揫二によって愛知県で誕生し、
明治30年に東京へ窯を移し、
大正7年に初代の逝去にともなって二代目に引き継がれ、
昭和18年に二代目錦園堂手島揫二によって閉窯された、ということになります、。

手島家の墓所は西端栄願寺東にあり杉浦家が管理していたが、墓じまいをして東京へ移されました、。(二代目手島揫二の孫手島功氏談)、。

(*訂正)
風来記では過去記事で、「娘婿である二代目手島揫二は西端粘土などには愛着も何も無い東京の人だろう、」と書きましたが間違いでした、。訂正しておきます、。
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「手島鉢」といえば「波千鳥紋」の絵付けばかりが有名ですが、下の広告の写真を見れば、豪華な絵付けを施した「錦鉢」も制作していた事が分かります、。この写真は、以前ご紹介した広告とは違い、手嶋揫二の肩書の「錦園堂」とも書いてないし、杉浦勘之助の窯元名の「興楽園」とも書いてないので、初代の手嶋揫二が修行を終えて西端へ帰郷した杉浦勘之助を応援するために共同で広告を出したものと思われます、。
なんしろ、明治38年に勘之助が上京して手島に弟子入りした時には義務教育の小学4年生を終えたばかりの10歳の少年だったといいます、。それから10年間修業をし、勘之助20歳の時に西端へ帰郷したのですから、応援したくなろうというものです、。
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2018年は1月4月7月10月と2か月置きに「手島鉢と三河鉢」とを取り上げました、。非常に有意義な特集を書けたことは光栄です、。多くの御協力者様のお陰であると、感謝しています、。
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今月のトップ画面の鉢画像(上の4枚)は、有賀蘭万園さんが持っていたものを野田谷治夫君に頼んで買って来てもらったもの、。蘭用高鉢とはいえど高いにもほどがあるというほど不釣り合いに背が高い鉢です、。5号鉢、。この鉢を買う時に野田谷君に持ち出された楽徳鉢の方を何時まで経っても思い出す、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。変な取引をしてしまったなぁ~、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

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資料提供:愛楽園さん、梅里園さん。









by evian_th | 2018-10-01 00:15 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳万年青鉢                        No.608
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◆2018年9月、。   五柳万年青鉢


40℃超えの猛暑とその後の残暑も過ぎようかという月替わりです、。

五柳「万年青鉢」、。
代表的な五柳の得意とする文様の鉢、。胴部分に描かれた主題は「雪輪紋を窓に使った青海波紋」、空間は花唐草紋を描き、更にドット(魚の子紋)で埋めています、。
下方に2段の段替わりを取り、その間には中央に花をあしらった雲形、。腰部分は雷紋、足は五柳の蔦唐草紋という五柳尽くしの逸品です、。

明治後期ごろの製作、。台の鉢は短冊家製、。12㎝×12㎝という胴返し、。撮影時の所有者はその後蘭栽培をやめてしまっているので現在の所有者は不明です、。
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by evian_th | 2018-08-31 21:01 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
浮田楽徳窯蘭鉢                  No.607
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◆2018年8月、。   浮田楽徳「七宝花菱繋ぎ紋蘭鉢


非常な猛暑と気候異変とに見舞われている2018年の夏ですが、皆さんはお元気ですか?
暑中お見舞い申し上げます、。

2018年は「三河鉢」に関する新事実が次々と判明した記念すべき年になりました、。
その関係から、今年は「三河鉢」とその発祥に関係した「手嶋揫二鉢」の記事が一年の前半を占めました、。三河鉢も一段落したので、久々に「京楽鉢」を見たいという欲望に駆られて、今月は「楽徳蘭鉢」を掲載、。

掲載画像は10年以上前に撮影の古い画像です、。風来記が「楽鉢の歴史調べ」を始めた頃までは、上掲のような「横から撮影画像」だけが「植木鉢画像の常識」でした、。それで十分だったのですね、。
風来記が楽鉢を解説するようになってから、「鉢べりはどうなっているか」とか「内側のロクロ引きの指痕がどう」とか「鉢底の土目がどうこう」とか言い始めて、撮影者も「横から画像」だけではなく「斜め上から画像」や「鉢底画像」も撮影するような時代に入って行った訳です、。だから、上画像には「上から画像」も「下から画像」も存在しません、。その必要も感じなかった頃の撮影です、。

風来記も御多分に漏れず、「京楽鉢」から調べ始めたのです、。ところが、最も古い筈の「短冊家鉢」でさえその形が完成されてることに不信感を持ちました、。それで、この「短冊家の製品の形はどこから来たのだろう。」と疑問を持ち、古い本を(高い本は買えないので、安価な本を沢山)読み調べ、ある時、「明暦2年、大阪の堺で楽忠窯が開窯。」という記事に出会った訳です、。幸いなことに「楽忠窯」製品と「楽雅亭」製品には「落款」があり、実物を見つけやすく、記事を立証できたのです、。その後しばらくは「大阪楽の研究」に没頭することになります、。

京都の丸山健氏と千葉県の笠原信雄氏とからの情報提供には随分助けられました、。丸山氏が短冊家から「古い窯元の名前」を聞き出して下さったお陰で「京楽鉢」の歴史調べは一気に進展して行ったのです、。
同じころの「メルマガ」に「日本の古い窯元の解説文シリーズ」が掲載されたという幸運にも恵まれました、。「浮田楽徳窯や浮田楽徳という人物」は、こうして見つかった典型的な例です、。窯の在った住所まで判明したのですから、。

「楽徳窯の鉢」はいいねぇ~、。「短冊家鉢」と共に「京楽鉢の双璧」ですね、。楽徳が狩野派絵師からの転身絵師だという事や、先祖が「関ケ原の戦い」に関係していた事も幸運でした、。なんしろ日本人は「戦国時代」と「幕末・明治維新」の日本史を大好きで、「楽焼お茶碗」は戦国時代に、「楽焼鉢」は幕末と明治維新とに深く影響を受けたのですから、調べるエビアンも楽しかったし、読む方も興味を持ってもらい易かったという幸運に恵まれたのです、。

「楽鉢の歴史調べ」は、何も資料がない所からの出発でしたから、多くの人のご協力でここまでわずか10数年で調べられた事は奇跡に近い事でしょう、。
残る課題はかなり高次元の調べになると思われますが、風来記では今後も続けて行こうと決意しているところです、。

掲載画像は、何も解説する必要もないくらい素晴らしい完成度と使用感とを併せ持った蘭鉢です、。「七宝紋」というのは「4つの円形」を重ねて出来る紋様です、。その繋ぎ目に花を描いてあるから「七宝花菱繋ぎ紋」、。七宝紋は金泥で、花は天然緑土で描いてあり、「鉢縁下」の緑土の横線以外は「総絵付け」です、。明治中期の作、。
(w11.5xh15.5)、撮影時の持ち主は分かっていますが、その棚の鉢の多くはそれ以後に動いたので現在は愛好家所蔵、。

絵師・浮田楽徳の世界をじっくりとお楽しみ頂ければ幸い、。


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全日本東洋蘭連合会 新芽会
時:2018年8月22日
所:東京 大森 「八幡自治会館」(東京都大田区大森中3-8、京浜急行梅屋敷駅下車3分)










by evian_th | 2018-08-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島六角鉢・三河鉢                      No.606
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◆2018年7月、。   手島揫二「六角鉢」


「7月の月替わりなのに風来記のトップ画面の更新が無いぞ、と皆さんが心配しているが、元気なのか?生きてるか?」と京都の丸山健氏から電話を頂いた、。。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。生きてます、。先日の地震以来、考え事があったり個人的な用事が有ったりする内に、月が替わってしまっている事に全く気付かなかった、。風来記を始めて以来13年半になりますが、こんな事は初めてです、。ご心配を頂きまして、ありがとう御座いました、。

◆手島揫二「六角鉢」と三河鉢のことなど・・・、。
「手島六角鉢」に関しては、何年か前に書いた通り現在の古典園芸界に10個ー15個程度現存します、。「手島六角鉢」には手島揫二自身が製作した鉢と手島の弟子である興楽園杉浦勘之助が製作した鉢とが含まれます、。どちらも「手島鉢」として販売されたので、見た目や手触り感に多少の違いはあっても「全部が手島鉢」です、。その全部に「瑠璃釉薬」が使用されているところから、製昨年は明治30年以降~大正時代のものです、。落款は「ひらかなで”てじま”」というものと、漢字で「手島」というものとの2種類があります、。

掲載画像は釜揫手島揫二自身の製作で、使用されている陶土は「西端粘土」、。京土を使って何かを植え込まれていたらしく、京土の染み出た使用感が何とも言えない良い時代乗りを表現しています、。京土は「七条土」とも呼ばれ、京都七条近辺(JR京都駅を中心とする東西数キロ範囲)の”どぶ土”を乾燥させて砕いたもので、植込み用土として明治・大正の両時代から昭和18年頃まで広く古典園芸界で使用された用土です、。この土が水やりの水に溶け、鉢から染み出て鉢表面にこびり付いた様子が、古典楽鉢愛好家にとっては何とも言えない良さを感じさせるのです、。

「手島鉢」というのは、東京市本郷区駒込林町11(現・東京都文京区千駄木5丁目)に窯があった「東京楽」ではありますが、来歴が判明してみれば、半分は「三河楽鉢東京支店」のようなものです、。強いて言うなら、2代目錦園堂・手島揫二鉢は「東京楽鉢」と呼べるかも知れません、。元は、初代釜揫手島揫二が「愛知県碧南市西端の楽鉢」の宣伝と販路を広げる目的で東京に窯を構えたのでした、。

三河楽鉢は、明治18年頃に西端の桃源社メンバーが常滑から指導を受けようと呼び寄せた滝田椿渓の弟子・伊藤善之助と西端の手嶋揫二とが西端粘土を使った楽鉢を完成させたものです、。
手嶋揫二が東京へ転居した明治30年以降は、手嶋揫二が西端に残した愛弟子の杉浦良平と鳥居只吉とが西端楽鉢を製作していたのですが、折からの不況で鉢は売れず、明治38年に閉窯に至ります、。

大正3年に東京の釜揫・手島揫二の元で修業を終えた杉浦勘之助が西端へ帰り「興楽園」を開窯し、その杉浦勘之助の元へ弟子入りしたのが「京樂園・横山孫一」と「三華庵・杉浦清司」です、。
「改楽園・神谷長平」は、子息の良弘氏いわく「おやじは勘之助さんの所へ遊びに行ってる内に勝手に作り方を覚えた」ようで、昭和28年から44年まで楽鉢を製造しました、。ですから技術を盗んだだけで弟子という訳ではありません、。
京樂園は平成25年に、興楽園は平成18年に楽鉢不況のために閉窯し、三華庵は楽焼茶器の方向へ向かったので、西端楽鉢を受け継ぐ窯元は三河安城の「愛楽園」のみという時代になっています、。

明治の三河鉢創成期に、手島たちとは別に西端陶器を焼き始めた中里家初代の鉢も残っているでしょうから、現在我々が見る「三河鉢」がどこの窯元の製品なのかの見分けは非常に困難なものになっています、。
昭和期に焼かれた三河鉢の陶土となる「木節粘土(キブシ粘土)」も、猿投設楽山系の数ヶ所から掘り出されたもので、色も純白から黄色・灰色・鼠色と範囲が広く、余程見慣れないと三河鉢の見分けはつきません、。

掲載画像の手島六角鉢のサイズは、w15.5xh12cm、西口郁夫氏所蔵。

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本年、2018(平成30年)の1月・4月・7月(イースーチーのスジと覚えて頂くと便利,^^;。)の3か月に渡り「手島鉢」と「三河鉢の黎明期」について、お伝えしなければならない人名や正確な年代などの事項は全部書いたと思います、。後の資料となるなら幸い、。
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by evian_th | 2018-07-02 12:53 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」               No.604
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◆2018年6月、。   福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」


福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」、。
東京駒込団子坂上の「錦園堂・手島揫二」の先代「初代・釜揫・手島揫二」は、大阪堺市から明治12~13年頃に窯を移して来ていた「楽忠」の弟子だった、。しかし手島鉢を見ると「楽忠らしさ、」は「絵付けに瑠璃釉を使う」こと以外には見当たらないのです、。手島の鉢の台の作り方は、愛知県西端時代に完成しており、東京へ出てからの特段の変化は見られません、。

その事を考えている時にフッと思い付いたのですが、「福富京楽堂こそが楽忠の東京での一番弟子だったのではないか」という考えです、。
福富窯の製造する鉢の質は、熟練した陶工のものです、。鉢質は硬く割れにくいのは相当期間の陶工としての修業の賜物でしょう、。東京本郷上駒込にポツンと1軒だけこれほどの完成度の高さを誇る楽鉢窯元が存在したこと自体が不自然で、誰か必ず師匠筋に当たる窯元は在ったはずです、。それが「楽忠」だったのではないだろうか、と最近のエビアンは考えています、。

但し、エビアンが思い付いたこの「福富は楽忠の弟子だった」という説には、一つだけ大きな落とし穴(欠点)があります、。それは福富京楽堂の鉢には「瑠璃釉が使用された作品が無い」という点です、。この点で、そう言い切るには自信を持てないでいるのです、。江戸幕末から明治初年の楽忠窯の製品の多くには瑠璃釉薬が多用されたのに、弟子が瑠璃釉を使わない筈がないからです、。
福富窯の製品には「京楽」の影響が濃く見受けられます、。福富と京都とを結び付ける証拠資料を探しているところです、。

今月画像の鉢は、明治後期の万年青鉢で、6寸の大鉢です、。鉢べり直下に少し鋸歯紋を描いた他は、鉢全面に赤色顔料が目立つ華やかな絵付け鉢です、。見事な大鉢で人目を惹きますよね、。
(6号鉢、撮影所蔵・米谷青彰園さん)


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by evian_th | 2018-05-31 23:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二二代七々子蘭鉢                     No.603
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◆2018年5月、。    二代目手島揫二七々子蘭鉢


先月(2018年4月)は「初代・手島揫二」のことを資料に基づいて書きました、。楽鉢数寄者に役立つとは思えないけど、資料として残すという意味合いでした、。
今月は「二代目・錦園堂・手島揫二」の「七々子紋蘭鉢」です、。

大正7年、初代の逝去に伴って「初代の娘婿」が二代目手島揫二を引き継いだ訳です、。二代目については出身も何も知られてませんが、単行本に記事を執筆したり、銘鑑に名前を登場させたり、愛知県西端へ帰郷した興楽園・杉浦勘之助と組んで同一デザインの鉢を東京と愛知県とで製作し「手島鉢」として販売したりという風に商売は上手かったようです、。
昭和18年製作の献上鉢の存在は知られていますが、それ以後の鉢の存在は知られてません、。昭和27~28年頃に興楽園が「押し型成形鉢」を完成させ大量生産時代に入ったので、「ろくろ引き手作り」だった手島窯は閉窯に追いやられたと愛知県の郷土史に掲載が有りますから、昭和27年ごろまで続いていたのかも知れません、。

今月画像の蘭鉢は「七々子紋」です、。手島鉢といえば「波千鳥鉢」が有名ですが、昭和の初めの本の写真を見ると、手島の七々子紋万年青鉢が沢山写っていますから、七々子紋様鉢も多く製作したのでしょう、。
使用されている顔料は天然緑土の乾燥すると緑青色になる分です、。浮田楽徳が使ったのと同じ程度の緑土ですね、。緑色部分と緑青とが混ざり合い、何とも言えぬ良い味わいを出しています、。

使われた粘土は、先月に書いた愛知県猿投設楽山系の「キブシ粘土」です、。キブシ粘土はこの鉢のように黄色味がかったものから純白(乳白色」のもの、鼠色がかったものまで幅広く産出したようです、。作る側からすれば使い易い陶土だったのかも知れませんが、観賞する側から見ると、あまり魅力的な陶土とも思えません、。初代手島揫二のように西端粘土に拘って欲しかったな、とエビアンは感じています、。

風来記トップ画面としては珍しい「七々子紋の手島鉢」のご紹介でした、。
(口径13㎝、高さ17㎝、鈴木学氏所蔵)


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by evian_th | 2018-04-30 22:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島鉢の全て                           No.601
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◆2018年4月、。   手島鉢の全て、。永久保存版!!


今年1月の「手島鉢スレッドNo.598」の項目で、資料に基づく大部分は書き尽くしたと思っていました、。ところが、「事実は小説よりも奇なり、」という言葉は2月に入っても再現したのです、。

愛知県・中部蘭趣会の鈴木正彦会長のお口添えで、愛知県安城市の楽鉢窯元・愛楽園三代目・杉浦慎治氏が手元に集まった「郷土史誌」文中の「手嶋揫二」に関する資料をお送り下さった、。
今年1月に特集した「東京駒込・手島窯」が出来る過程が判明したので、1月記事の訂正を兼ねて記しておきます、。
元になる資料は学術研究論文ではなく、郷土愛に満ちた名文(郷土史)であるため、事実関係が食い違う個所もあり、それらを整理してなるべく時系列で記します、。

「手嶋揫二の全て」「手嶋揫二は愛知県の人だった」「三河楽鉢の黎明期」

愛知県三河地方、知多半島と渥美半島に抱きかかえられるように海沿いに碧南市西端(にしばた)という地方があります(下方の地図1参照)、。この辺りの碧海台地の下には良質の粘土を産することから、古くから瓦生産や漁業で生計を立てて来た地方です、。また、「西端粘土」を使って趣味で陶器作りをする人も居ました、。

明治14年、陶器制作の趣味家(村長・原田高敏、栄願寺僧侶・杉浦秋湖、医師・吉岡立斎)達が集まり「桃源社」という愛好会を結成し、常滑から伊藤善三郎を招いて「西端粘土」を陶器化する技法を会得した、。これが「西端焼」(にしばたやき)で、当初は土鍋・徳利などの生活雑器が主体だった、。

明治15年、桃源社のメンバーの中でも特に作陶に熱心で秀でていたのが元・西端藩士の「手嶋揫二」(てじましゅうじ)だったようです、。手嶋揫二は桃源社設立のメンバーの援助で京都へ出向き、「京都帝室技芸員」を務めた「三代目・清風与平」(せいふうよへい)から「京楽焼」の教授を受けます、。その当時、京都では既に「短冊家」や「浮田楽徳」など「楽焼鉢窯元」はあったのですが、この時点では「楽焼鉢」に興味は無かったようで、あくまでも「京楽焼」の製法を習って来ます、。弟子入りした期間はおよそ6カ月間程度で西端へ帰り、同年(明治15年)西端で「釜揫・手嶋揫二」として開窯し、鍋釜・土瓶・徳利の製作に努めました、。手嶋(てじま)は京都滞在中に手嶋(てじま)から手嶋(てしま)へと姓名の読みが替わっていたと三代目・杉浦勘之助は語っている、。

明治16年、桃源社のメンバーはその後、更なる高みを目指して「常滑陶芸」(とこなめ)の名工・滝田椿渓(たきたちんけい)を招いて指導を仰ぐことにした、。明治16年、滝田椿渓は弟子の伊藤善之助と西端で2年間の指導に当たった、。教え子は多数であったらしい、。滝田椿渓は常滑の陶土よりもはるかに軟質で亀裂度の高い「西端陶土」の焼成に研究を重ね、「軟質楽焼」の焼成に成功した、。

◆明治18年、滝田椿渓は2年間の滞在を終えて常滑へ帰って行くが、弟子の伊藤善之助は西端に残り手嶋揫二らと「西端楽焼」の研鑽を重ね、後に「鉢善」の名で「黒楽釉金彩万年青鉢」に主力を注ぎます、。この郷土史からは、「西端楽鉢」を完成させたのは「伊藤善之助」ということになります、。
またこの頃、「西端楽焼」は「硬くて珍しい焼き物」というので「剛珍焼き」(ごうちんやき)と名乗るようになって行きます、。

◆明治22年、事務方と職工11人で西端初の「株式会社・剛珍社」を設立するも折からの不景気のあおりを受け販路が開けず、
◆明治26年、「剛珍社」は一旦解散し、後に「西端焼組合」として再出発することになります、。

◆明治28年、「京都内国勧業博覧会」に「鉢善・伊藤善之助」は剛珍焼き土瓶・徳利を出品し、「釜揫・手嶋揫二」は「楽焼万年青鉢」「蘭鉢」を出品し、鳥居只吉は剛珍焼き柳川鍋を出品します、。この資料上では、ここで初めて「釜揫・手嶋揫二が楽鉢を焼いた」ことになりますが、実際はもっと以前から「西端楽焼万年青鉢や蘭鉢」を焼いていたのでしょう、。

◆明治30年、「釜揫こと初代・手嶋揫二」は販路を求めて東京本郷団子坂上へ活動の拠点を移し、「西端万年青鉢」の名で「剛珍焼き黒楽釉金彩」の秘法を関東へ広めて行った、。(これ以降、手島と名乗る)
この本郷団子坂上で大阪から窯を移して来ていた「楽忠」と「手島揫二」とが出会うことになる、。「楽忠は手島の師なり」と1月のスレッドNo.598の添付資料に書いてあるように、手島揫二は楽忠から「瑠璃釉の調合法」を習ったものと思われます、。これ以後の手島鉢には「瑠璃釉を使った青海波紋」を描いた鉢が見られるようになります、。

◆明治38年、東京へ移った手島揫二の元へ愛知県から2人の若者が修行に行きます、。明治38年には「杉浦勘之助」が弟子入りし、大正3年に修行を終えて愛知県西端へ帰郷し西端で「興楽園窯」を開窯します、。
もう1人は大正15年か昭和元年に「杉浦重平」が「2代目・錦園堂・手島揫二」に弟子入りし、愛知県安城市へ帰郷後「愛楽園窯」を開窯します、。今回お世話になった「愛楽園3代目(当代)杉浦慎治氏」の祖父です、。(杉浦重平:大正2年生まれ~没年は平成9年、86歳)、。

◆大正7年、数々の実績と功績を残した「初代・釜揫こと手島揫二」は、大正7年(1918年)に逝去します、。故郷の「西端粘土」に拘った人生でした、。「手島窯」はその後自然の流れで娘婿である「2代目・錦園堂・手島揫二」へと引き継がれて行きます、。2代目は西端への思い入れが無いため「キブシ粘土」を使った鉢作りでした、。

◆従がって、釜揫・手嶋揫二達が明治中期に研究し完成させた「西端楽鉢」の正当な継承者は「興楽園・杉浦勘之助」と「愛楽園・杉浦重平」だけであると言う事が出来ます、。

明治中期に地元産の粘土を使った「西端楽鉢(剛珍焼き)」と昭和期に考案された「西端楽」とは別物です、。
それは主原料の粘土が全くの別物で、昭和期の西端焼きの粘土は「猿投(さなげ)・設楽山(したらさん)系の地中40メートルの深くから採取される木節粘土(キブシ粘土)」(下地図1参照)を用いることが最大の特徴であるからです、。理由は耐火温度の違いであるらしく、「キブシ粘土」は焼成後は乳白色になる、。(西端粘土は茶色く砂混じりである)
この、鉢の陶土の色目の違いは「明治の西端楽鉢」と「昭和の西端楽」との見分けのポイントになりそうです、。

◆「初代・釜揫・手嶋揫二」
嘉永5年(1852年)三河国幡豆郡(はずぐん)釜谷(鎌谷)村の生まれ、明治9年西端村へ転居、明治30年東京文京区本郷へ転居、大正7年(1918年)東京で逝去(66歳)、。西端時代は「手嶋」であったが、東京へ出てからは「手島」と名乗ったようです、。

◆「3代目・清風与平」(1851年~1914年)
2代目与平の妹婿、明治の名工として名高く陶芸家として初めて帝室技芸員に選ばれる、。初代・清風与平は加賀から京都へ出て「仁阿弥道八(高橋道八)」の元で楽焼を学び文政初年「桃山三夜荘」を開窯、。清風家は4代続き、4代目は3代目の次男、。

◆この項目のご協力者様
中部蘭趣会会長:鈴木正彦様
愛楽園当代:杉浦慎治様
地図製作協力:園芸ジャパン編集子:大塚剛史様、および、愛好家:大鐘久生様
掲載画像の西端楽と思われる蘭鉢は飛田邦之氏所蔵

◆「手嶋鉢」(現在では手島鉢と呼ばれる)は「西端楽鉢」であり「三河鉢」の原点なんですね、。昭和の三河鉢の陶土が白い理由が理解できました、。「黒楽釉金彩鉢」というのは平たく言えば「縁足金鉢」のことでしょね、。
三河鉢に関するモヤモヤした不明な部分が判明し、気持ちが晴れました、。手島揫二は字面から受ける洒脱さから、てっきり東京の人だと思っていました、。

◆西端楽(古い三河鉢)は、なぜ軽い。奥部屋No.1866(文字クリック)
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◆「三河鉢」に関しては、登場人物名などここに書かなかった事もありますが、それはいずれの機会に・・・、。











by evian_th | 2018-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二鉢                           No.598
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◆2018年1月、。   手島揫二窯

謹賀新年。本年もよろしくお願いします。



東京・手島揫二窯の新事実、。
新年は「手島揫二窯」の2つの事実のお話から始めます、。

手島揫二は2人存在した、。
この事をエビアンが知ったのは、楽焼鉢を調べ始めた直後(10年以上前になりますが)に最初に出会った真実です、。上画像、7枚目資料の向かって左端の古い書籍の記述に「団子坂上に住する手島揫二氏の先代同名」という文章を見つけたのでした、。「錦園堂・手島揫二」には「同名の親」が居た、ということになります、。「これは大変な事を知ってしまった、鉢相場に影響するといけないので人には言えないな、」と思い、風来記では隠し通して来たのでした、。

その後、初代・手島揫二が明治39年1月に「万年青と仙人掌の銘鑑」(7枚目画像右端)を発行していた事実を知った人が出て来て、もう隠せないかな、と思い始めてはいました、。昨年2017年12月になって、8枚目画像の資料を入手するに至り、その左端に「楽忠は、駒込動坂・錦園堂・手島揫二氏義父の師なりし」という記述を見て、これはもう本当のことを書いておかねばならないと観念したのです、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。


ここで2つばかり整理しておきますが、初代は「楽焼植木鉢製造販売・手島揫二」と名乗り、二代目(7枚目画像中央)が「錦園堂・手島揫二」と名乗っていたようです、。初代は、明治15年頃に「東京市本郷駒込千駄木林町11番地」に窯を開き、二代目は大正7年に「東京市本郷区駒込林町11番地」に窯があったようですから、同一場所ですね、。
訂正になりますが、7枚目画像の書籍文中から、エビアンは過去に「手島窯」の場所について「団子坂上がる」に存在したと書きましたが、8枚目画像の資料による「動坂の上」が正しい場所であったようです、。
千駄木は坂の多い土地で、名前の付いた坂だけでも7つ8つ存在します、。初めに読んだ本の筆者が「動坂と団子坂」とを取り違えたようです、。訂正しておきます、。「動坂」はドウザカと読み、不動坂の略称だそうです、。


「楽忠は、駒込動坂・錦園堂手島揫二氏義父の師なりしという」という記述には驚きました、。
「手島鉢」に多く存在する「青海波紋を使った波千鳥文様」に使われる釉薬は「金」と「瑠璃」とだけです、。その「瑠璃釉」の混合などは、なんと「大坂の楽忠に教わっていた」のです、。
上画像「万年青鉢」と「蘭鉢(未使用)」は初代手島揫二の作品ですが、そういわれれば「瑠璃釉」の混合などは人に教わらなければ自分で出せる色ではありませんものねぇ、。いやぁ驚きました、。「手島の瑠璃釉のルーツは楽忠にあり」でしたか、。

もう一つ、「楽忠窯」は明治12年ごろに閉窯した、と聞いていましたが、明治初期に大阪の市場の将来性に見切りをつけた「楽忠」が「東京・動坂」へ明治初期に窯を移し、明治12年に閉窯したのか、それとも、明治12年に大阪堺の窯を一旦畳んだ後に東京動坂で再び窯を開いたのかは、現在までのところ判明していません、。
8枚目画像の挿絵にあるように「動坂」落款と「楽忠」落款とを押印して「大坂楽忠」と区別したのでしょう、。こういう鉢が現存するのかどうかも分かりませんが、見てみたいものです、。

いずれにせよ、初代手島揫二に鉢作りを教えたのは、東京動坂で窯を開いた楽忠だったという驚愕の事実が判明したことは、誠に喜ばしい出来事です、。

事実は小説よりも奇なり、という言葉を思い知った出来事でした、。

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この項目ご協力者様(順不同)
華幸園住田幸弘様・蛭田梅里園様・米谷青彰園様・立岩信彦様・杉野達実様・笠原信雄様

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万年青鉢7.5x7cm。蘭鉢9x13cm。
「手島揫二」の初代と二代目との関係は実の親子ではありませんね、。「義父」というのですから「娘婿」か「養子」かでしょう、。いずれにしろ「手島鉢の相場」には何の関係もありません、。

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この項目は、2018年4月「手島鉢の全て、スレッドNo.601」で、一部訂正および追加になります、。








by evian_th | 2018-03-26 14:54 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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