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楽焼万年青鉢                         No.536
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◆2015年5月、。   楽焼万年青鉢


明るく暖かい初夏の気候に誘われて、華やかな鉢を掲載したくなりました、。「楽焼万年青鉢」、。
「御所車に白鶴図」、。
この鉢画像は随分前からもらっていたのに使えなかったのは、この鉢の正体が判明しなかったからです、。白状すると、今も分からないのです、。

製作された年代は、製法と土目・顔料などから、明治後期(明治30年)~大正~昭和初期までの45年間のどこかでしょう、。「京楽焼」とも言えない、「東京楽」とも言えない、「三河楽」かも知れないが出来過ぎだ、などと考える内に時間が経過してしまいました、。同じ窯元、同年代、同様の絵付けを施した「蘭鉢」もあり画像を頂いているのに、それでも決め手にならないのですからお手上げです、。

「三段の段替わり」を取っている所は古典の決まり事を守ってますし、足に描かれた菊花とも言えないような絵も一応古典鉢の形式を踏襲しています、。正面の「御所車図」も古典の紋様です、。が、古典はそこまでで、腰部分には古典紋様は描かれず、「鉢縁下」の一段目の片輪紋のような花模様も曖昧です、。
強いて言えば、2枚目・3枚目画像には「白鶴」の他に「松」と「笹(竹)」が描かれており、だとすると、この「コスモス」のように見える花は「梅」なのかな、「松竹梅紋様」かなとも思ったり、。まぁ、決め手に欠ける鉢です、。「陶土」もベージュ色で、これもどこの土かが分からない原因の一つです、。

こういう絵付けは愛楽園杉浦重平さんが錦園堂・手島揫二窯での修行を終えた初期の頃に作られた鉢にも存在します、。事実、この鉢の現所有者の前の持ち主は東京の人だったそうですから、手島時代の終わり頃に杉浦重平氏や勘之助氏が作っていたとしてもおかしくはないのです、。
それに第一、「錦園堂・手島揫二窯」と言えば「波千鳥紋様」と決め込んでいる人が多いのですが、昭和7年出版の本に掲載されている東京の萬年青愛好家棚の写真に写っているのは「手島製の七々子鉢」ばかりで、「波千鳥鉢」などは全く見当たらず、どういう経緯を経て「手島といえば波千鳥」になってしまったのかも判然としません、。この万年青鉢が「手島揫二窯」であっても不思議はないのです、。現所有者は「手に持つと見た目よりも軽い、」と仰ってます、。「手島鉢」かも知れません、。
また、「手島窯に居た杉浦重平」が作った鉢なら「東京楽」なのか「三河楽」と呼べばよいのかも判りません、。

どうも「京楽焼」とも思えない所もあるので、案外上記のような鉢「東京風三河鉢」ではないかと考えてますが決め手はありません、。「手島鉢の陶土」は「灰色」が多いからです、。それと、鉢の胴部分辺りに「鋏み痕」があるらしいからです、。もう、全く混乱してます、。仮説を立てて窯元の特定をするのですが、ことごとく否定されます、。「三河鉢」だとすると、随分出来の良い三河鉢です、。今まで見た中でも秀逸です、。

あ~、でも、やはり「京楽鉢」の線も捨て切れないなぁ、。本当に分からないのです、。これだけ上出来の鉢なのに窯元特定できないのは何とも歯がゆい、。

この鉢のサイズは大きいのです、。「21.5cm×高さ23cm」、7寸鉢ですね、。
鉢底画像で足裏に水抜き穴が開いているから新しいのじゃないか、という疑問は当たりません、。「江戸時代の古い短冊家の万年青鉢」で、サイズの大きい鉢の足には穴が開けてあったのは「短冊堂落款」のある古く大きい鉢で確認済みです、。足穴は必ずしも時代特定の決め手にはなりません、。(飛田邦之氏蔵)




by evian_th | 2015-04-30 22:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢                  No.535
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◆2015年4月、。   楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢


楽焼鉢「福富京楽堂」蘭鉢、。
楽鉢の窯元「福富京楽堂」というのは、明治33年発行の「価格表」が唯一の存在の証明で、この価格表(カタログ)が無ければ、その他の「陶磁器」や「植木鉢」の資料のどこを探しても痕跡が見当たらない、。よくぞ価格表を発行してくれたものだと感謝の念をおぼえるほどです、。

鉢の「台の作り」はしっかりしていて、チョッと出の窯元ではないことは作品を見れば判ります、。「楽鉢」を作り始める前に、相当期間の陶磁器製作の経験があったのでしょう、。
カタログ発行が明治33年、ということは、「福富京楽堂」の創業は明治25年~30年のことでしょう、。創業し、試行錯誤の集客の期間があり、ある程度軌道に乗って来た明治33年に至って、更なる飛躍のためにカタログ発行になったのだろうと想像します、。

作風からは「京楽焼」の面影は全く感じ取れないので、京都での修行時代を経験しなかった可能性があります、。同じ東京の「手島揫二窯」とは、この点に於いて大きな違いが見られます、。
では、東京に居ながら、どのようにして「楽焼鉢」の製法を学んだかということになります、。尾張瀬戸の陶工・加藤與八の二男・加藤友太郎という人が明治6年、単身上京して、陶芸家井上良斎の門に入りました、。「専ら楽焼を主とする所にして・・」と記録にあるように、この人が東京へ楽焼製法を持ち込んだ人のようで、福富はこの加藤友太郎に楽焼の製法を学んだのではないかと思われます、。(自分で瀬戸へ出向いて修業した可能性もありますが)、。

絵付けにも「京都風」は感じられず、京都で修業した可能性は低いと思います、。京都では、「西陣」や「友禅」など着物界からの影響は拭えず、日本の伝統紋様を学ぶことが必定でしょうから、。
あくまで「東京」に居て、自由気ままなデザインを創造して絵付けした鉢が大部分です、。そこが、この福富窯の持ち味なのです、。

「鉢の台」の作りは硬く、縁がゆがんだり波打ったりした鉢を見たことがありません、。鉢の胴は直線的です、。陶工としてはかなり上級です、。絵付けのデザインは特徴的ですが、絵具の仕入れ先が瀬戸経由らしく、例えば上掲の鉢にも多用されている「緑土」(テールベルト)はあまり高級品が入手できなかった様子で、窯から出した後では緑色は色褪せ、暗く沈んで見えます、。明治中~後期には国産絵具も出て来たでしょうから、その絵具を使ったように見えます、。京楽鉢とは絵具が違うのです、。

それにしても(と、エビアンは思うのですが)、「福富鉢」は明治時代の関東地方の古典園芸愛好家を独占するほど多くの製品を量産した筈なのに、現存数が少なすぎると感じています、。東海地方以北、関東、北関東、東北地方まで広く残っている筈です、。製品の硬度は高く、割れにくい鉢ですから、。                  11.5×h15センチ、(西口郁夫氏蔵)

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・・・と、断定的に書きましたが、「段替わり」という古典の習慣を踏襲してるし、足回りに緑土で縁取りを描いたりと、古典の決まり事も取り入れてますね、。
鉢底画像で見ると、足裏への加茂黒の掛け方も短冊家や佐々木松楽に通じるものもあります、。少なくとも、「京楽鉢」を参考にはしてますね、。
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江戸東京へ楽焼の製法が伝わるのがずいぶんと遅いと感じられた人も居られるだろう思う、。
江戸時代は(エビアンもさほど詳しくは無いのだけど)、参勤交代に江戸へ出向かねばならなかった諸藩は220とか230とかもあり、距離や贅沢のしようで違っただろうけど、各藩は1回の参勤交代で現在の価格に換算して2億円ものお金を必要としたようです、。
江戸屋敷の維持費もバカにならず、各藩は様々なお金を稼ぐ工夫をしなければならなくなっていたようです、。

当時、大名旗本と名の付く位に居た人は全国で5000人を超え、それに対する役職は2500程度しかなかったというのですから、賄賂心づけが横行したことでしょう、。石300石を超えると、家来を10人雇わねばならない幕府からの決まりもあり、旗本の名跡は長男一人が継ぎ、弟妹の面倒まで見たのですから大変だったろうと思います、。

それら大名旗本のお金は、参勤交代の費用や江戸屋敷の維持費に消費し、どんどん江戸にだけお金が吸収される仕組みが出来上がっていたのです、。

植木鉢や陶磁器のものの本によると、「国焼」(御庭焼)というのは文化文政年以降、競って焼き始められ、京都の陶工(欽古堂亀祐・青木木米・中川嘉助・高橋道八・尾形周平・永楽善五郎保全・永楽和全、)たちは、全国各地の大名や御大臣、大旦那、などに「陶磁器製造の指導」に呼ばれ、東奔西走したようです、。
これら「国焼」(御庭焼)は、出版物によると、大名や大旦那が自分だけの焼き物を焼かせて楽しんだ、いわば道楽だったように書いていますが、江戸時代後期の大名旗本の生活を知ると、伊達や酔狂で作っていたとは思えず、資金作りのための販売目的の窯、御庭焼も多かったのではないかとエビアンは推察しています、。

一方「江戸」は、そういう風に各地大名からお金が入って来る訳ですから資金的には豊かで、「製造業」が発達しなくても、全国から買えば良かったのですから、陶磁器を作ろうという気持ちになるのは日本の他の地方に比べると、本当に遅かったのだと思います、。
道具類は作るよりも安く買って、それを使った文化を発達させる方向へ流れて行ったのは、ごく自然のことです、。東京で「楽焼鉢」の製造が遅くなったのは、そういう時代背景があったからだと思います、。

江戸時代というと、ずいぶん昔のように感じられますが、今から150年前は江戸時代だった訳で、その半分をエビアンは生きていますから、エビアンから見れば、自分の生まれる70年前は江戸時代だった訳です、。30年前は明治時代、。エビアンにとっては身近な時間帯での話です、。それなのに、どうしてもっと資料が見つからないのだという焦りの気持ちを感じるのです、。

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「福富京楽堂の価格表」を追加掲載しておきます、。
大き目サイズで載せておきますので、画像をクリックし、表示された画像の右下の「虫眼鏡画像」を再度クリックし拡大画像で文字をお読みください、。
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拝啓 弊店儀,従来より京楽焼植木鉢を製造販売仕(つかまつ)り,汎(ひろ)く諸君のご愛顧を蒙(こうむ)り,有難く拝謝奉り候(そうろう)。然(しか)るに今回,特に元料〔原料)品を精撰(精選)し,植木培養法に最も適合なる品を製造致し,左表の直段(値段)にて販売仕り候間(あいだ),多少に拘(かか)わらず何卒(なにとぞ)ご注文下されたく,偏(ひとえ)に希(ねが)い奉(たてまつ)り候。
追って販売お望みのお方は,ご照会次第ご相談仕るべく,尚(な)お遠国よりご注文の節は,ご送金は駒込郵便局宛ご送付下されたく此の段予(あらかじ)め申し上げ候也。敬具




by evian_th | 2015-04-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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