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楽家                               No.564
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◆2016年6月24日、。   楽家


「楽鉢」の記事を書くに当たって、エビアンは自分が分かっていることを念頭に置きながら勝手なことを書きますが、ここで一応「楽焼」の「楽家」の初めの頃の人の事を書いておきます、。楽家2代目常慶の弟宗味が「楽焼鉢」に関係してくるからです、。

「楽家」の初めの頃に関しては、資料曖昧で諸説あり、「何がどうなっているのか全く分からない状態」です、。生誕年も没年も(本によりまちまちで)不確実です、。
「楽焼」の「植木鉢」に関係する事以外は、風来記が知った事ではないので、ここでは、講談社・1999年出版の「やきもの名鑑3・楽と京焼」を基本的に採用して書いておきます、。一部、昭和5年出版の楽家12代(と思う)の「楽焼」も参考、。


◆楽焼始祖「阿米也」(阿米夜・帰化名宗慶・弥吉・政吉)
阿米也が焼いた作品は知られていない、。残ってないことになっています、。
阿米也の死後、妻の佐々木氏(何故か名前は不明)は「尼焼」という窯を開き、作品は少数ながら残っているようです、。

◆楽家初代「佐々木長次郎」(長二郎・長祐)、~1589年没
後に「千利休」から利休の旧姓「田中」を与えられ「田中長次郎」と名乗る、。
優秀な作品がそこそこの数量知られていますが「落款」はありません、。
田中姓を名乗っていたから秀吉から与えられた「楽」を名乗らず、「楽の落款」を使用しなかったのか、
「楽」の姓と「落款」を与えられたのは2代目常慶だったから「長次郎作品には楽の落款」は無いのか、は不明です、。


◆楽家12代の本では初代長次郎の弟が2代目常慶ということになっていますが、講談社の本では、初代と2代の間に「謎の人物・田中宗慶」という人物が存在し、2代目常慶は田中宗慶の子供ということになっています、。
2代目常慶には「宗味」という弟が居ますが、楽家の「楽焼」では2代目は長次郎と10歳違いの弟という事になっており、2代目が初代長次郎の弟なら「宗味」も長次郎の弟ということになり、他と矛盾しますので、風来記では「田中宗慶」の存在を認めるものです、。田中宗慶の存在は、5代宗入の「宗入文書」(元禄元年・1688)によって知られることとなりました、。

◆楽家2代「楽常慶」、~1635年没
この辺がややっこしいのですが、豊臣秀吉より「楽の金印」と「楽の名字」を与えられたのは2代目常慶だということになっています、。常慶の作品には「楽の落款」が入ったり無かったりします、。3代目以降は全部の作品に「楽の落款」が入ります、。
「長次郎の作った寿楽第(邸)の鬼瓦の出来栄えが素晴らしかったので、その功績により」というエピソードも怪しくなって来ます、。長次郎の作った瓦は二条城のための物であったとする意見もあります、。
この、初代長次郎・二代常慶までの作品を「古楽」と称して、3代目道入以後の作品と区別するらしいです、。

常慶には「宗味」という弟がおり、「長次郎窯では、長次郎・田中宗慶・常慶・宗味」の4人が働いていた筈だと書いてあります、。


◆1589年に長次郎が他界し、1635年に兄常慶が他界すると「宗味」は「脇窯」として独立したようです、。
楽家「楽焼」には「2代常慶の弟の窯は脇窯だ」と書いてあります、。
この「宗味」が開いた窯こそが「楽雅亭」だろうと確信しています、。当時他に脇窯として独立した人は居なかったのですから、。
このスレッドで言いたかったことは、この事です、。

従って「楽・宗味」が「楽雅亭窯」を開くのは、兄常慶の死後1635年から、「三代目道入の弟道楽が楽忠窯を開く1656年」までの間21年間のどこかの時点でしょう、。京都では開くことは許されないので、大阪府堺市でしょう、。後に、甥にあたる「道楽(忠右衛門)が楽忠窯」を同所でを開く先鞭をつけたのでしょう、。
すると、例の「瑠璃釉」を「黒楽鉢に初めて使用したのも、宗味の楽雅亭」だろうということになります、。


◆楽家3代「道入」(別名ノンコウ)、1599~1656

楽家歴代の中で最も人気の高い作品を残した、。
弟の「道楽」は兄道入の死後、同年に「楽忠窯」を開いた事になります、。
それまでは京都で兄の仕事を手伝っていたのでしょう、。

◆楽家4代「一入」
これ以後は「楽焼植木鉢」には関係しませんので、以下略、。

◆結局、渡来人阿米也が創始し、長男である長次郎に引き継がれた「血縁」は、資料上からは「長次郎」で途絶えたことになりますね、。「精神と技法」とは伝承されているでしょうが、。
田中長次郎には子供が居なかったのか、結婚はしたのか、などなど、何も分かっていません、。



◆「宗味が開窯した楽雅亭」に関しては、以前から上記のように考えていましたが資料的には証明できません、。、「園芸ジャパン2016年1月号」では資料に基づいた記事を無難に書く事を選び、「1656年・楽忠窯の開窯」のみを記しました、。楽雅亭は楽忠から見れば叔父、楽忠は甥、年齢的にも「楽雅亭」が先に開窯したと見るのが妥当な判断だと思います、。楽雅亭の宗味、楽忠の道楽、共に生年没年などは不明です、。
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by evian_th | 2016-06-25 12:47 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
京焼から進化した楽焼                     No.563
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◆2016年6月20日、。   京焼から発生した楽鉢



「京楽鉢」の起源は、エビアンが「園芸ジャパン2016年1月号」に書いた通り、楽家2代目の弟と3代目の弟とが1656年頃に大阪府堺市で開いた楽焼窯「楽雅亭」と「楽忠」です、。現在に通じる「楽鉢の形」は、この「大阪焼」の流れを引き継いで発展して来たものです、。
1830年出版の「金生樹譜」に掲載の「京黒らく」なども完全に上記のルートによって発展して来た形を継いでいます、。

ただ、現在に伝わる楽鉢は「唯一そのルートからだけの鉢」か?というと、案外そうでもなく、京都で独自に「京焼の登り窯」を使って作られた「楽鉢」があるのではないかと、しばらく以前から考えるようになっています、。

上掲の画像に見られる鉢は、時代から言うと、製作年は相当古いのに、「大阪楽」の影響を全く受けていない形をしている、。特に「つば」の部分と「足」の部分は「大阪楽」に影響されていない、。「太鼓胴」でもない、。「段替わり」の取り方は「紐状」ではなく幅広の「帯状」だ、。「つば」は古典の「黒つば焼」の形だし、「足」は大坂型の発展型というよりもオリジナル発展したような形をしている(小さくポコンと丸くオデコのような形をした足です)、。

もしも、江戸時代の京都で「楽鉢」が作られたとしても、時代は相当下るだろう、。江戸時代初期~中期(1600年代~1700年代)の京都市内で「楽家」と無縁の者が「楽」を名乗る事は禁じられていた、。桃山時代には「楽焼」は「茶器」として発展し、時の朝廷ともつながりが出来ていて、他の者が「楽焼」を焼く事も名乗る事も禁じられていたからだ、。

江戸時代(1600年代)になると、尾張瀬戸の陶工が京都へ呼ばれ、東山の西側山麓に「登り窯」を開き「陶器」を製作するようになっていた、。「三条粟田口焼(あわたぐち)」「八坂焼(やさか)」「五条坂焼(ごじょうざか)」などだが、この内、「三条粟田口焼(東山沿いに短冊家の北方2~3キロの南禅寺近辺)」と呼ばれる一群の窯の内の一部が、後に「京焼」の登り窯を使って出来た陶器に「加茂黒釉」を掛けた焼き物を作った可能性があるとエビアンは考えている、。この場所には「京都で薩摩焼」を焼いた「京薩摩焼」も作られるようになった、。
その「粟田口焼」に加茂黒釉を掛けた焼き物で「植木鉢」を作るようになったのは時代も下って、江戸後期1800年に入ってからの事だろうと思う、。

上画像の黒鉢は、その初期のものであろうと思う、。1800年頃の作と考えている、。鉢内側のロクロ痕の生々しさやズッシリとした重さや土目や鉢底全体がフックラと外側へ膨らんだ形をしている事などから判断するとそういう結論になる、。口径18センチの大鉢でありながら鋏み痕が見当たらないのは、この鉢が登り窯で焼成され置き冷ましされたことを示している、。その後明治になって、この窯元の作品は「園芸ジャパン1月号の表紙」に掲載の独特な形をした鉢を作るに至ったのだろうと思う、。
台の作りは「大阪楽」の流れを汲んでないし、絵付けは「京狩野・大和絵派」の流れも汲んでいない、。

茶器の「楽焼」にも変なことはあって、以前にも書いたが、日本の国宝に指定されている唯一の楽焼茶碗は「楽家初代長次郎の作品でもなく2代目常慶でもなく3代目道入の作品でもない」、。2代目や3代目へ出入りして「楽焼」の作り方の教えを乞うた趣味人「本阿弥光悦」の「不二山」という白楽茶碗なのである、。「不二山」は確かに素晴らしい茶碗ではあるが、日本の国宝の選定基準はどうなっているのだろう、。それじゃ、筋が通らないじゃないかと思う、。本阿弥光悦というのは多趣味多芸の趣味人で後の時代の「北大路魯山人」のような人だ、。本家楽家が可哀想すぎる、。

だから、江戸時代も後期1800年代には、楽家ゆかりの人でなくても「楽焼」を作れたのだろうし、「楽焼」を用いて「植木鉢などという下級生活雑器」を作っても御咎め無しの時代になっていたのだろう、。

風来記では、この「京都で独自に発達した楽焼」を「粟田口焼」とか「京薩摩焼」と呼称して行こうと思っています、。
そしてこれが、エビアンがかねてから言っていた「京楽鉢・第6の窯」なのです、。


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この鉢は、江戸時代後期1800年~1830年頃の「京薩摩焼」ですが、足の特徴などに共通するものが見られます、。この鉢に加茂黒釉を掛ければ立派な楽焼蘭鉢に見えるのですから、。
◆この鉢は蘭商人野田谷治男君存命の時に、野田谷君が商売したくて何度も何度も粘られた思い出のある鉢です、。釉薬が部分的に剥がれ落ちたりニューが入っていたりする所が「江戸後期の京焼」の特徴を現わしており、余程良い商売になると見ていたのだろう思う、。
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◆「園芸ジャパン2016年1月号」に楽鉢記事の原稿を書いたのが2015年11月末だた、。それから6か月間のブランクの間、「楽鉢」の記事を書く気持ちになれないでいた、。
あの記事の文中に、「瑠璃釉顔料の原石としてアフガニスタン原産のラピスラズリ」のことを書いていたのだったが、「あの瑠璃釉の顔料は支那呉須」じゃないかというクレームが入り、研究し直す時間の余裕も無いので、その項目を原稿から削除した、。そのために記事は途中が抜け落ちた中途半端なものになってしまった、。その事が気持ちの中で自分でも驚くほどのダメージとなり、「楽鉢記事を書く」という気持ちが失せた、。モチベーションが下がってしまったんやね、。

更に研究を進めて、再度のチャンスには「瑠璃釉の事を入れた原稿を書き直そう」という気持ちになれたのは、先日その件を四国の華幸園住田幸弘君に話した時に「呉須というのは青色じゃないですか、呉須があんなに派手な瑠璃色なら古伊万里はド派手な焼き物になった筈ですよ、」と言ってくれたからだ、。それを聞いてから、少し気持ちが晴れて、楽鉢記事を書こうかという気持ちが戻って来た、。助けられた気持ちになれた、。

実際、「初期伊万里」(1615年~1650年)や「古伊万里」(厳密には1650年~1700年)の絵付けを見れば、その頃の「呉須」は「灰色~淡い青色~青色」であり、とても「瑠璃釉」のような派手で強烈な色をしていない、。
「呉須」が派手な瑠璃色に近付くのは、ドイツのマイセンで「化学呉須」(酸化コバルト)が発明され日本へ輸入されてからである、。1800年以後の事だ、。それ以後の「伊万里焼」や尾張焼にその派手さが見える、。このことと、1650年頃の「瑠璃釉」とを混同されては困るのだ、。時間的に150年以上の差がある、。

「加茂黒一色の黒い楽鉢」に最初に使われた釉薬が「楽忠・楽雅亭の瑠璃釉薬」です、。「楽鉢記事」を書くのに、この「初めに登場した瑠璃釉」を抜いては記事が完成しない、。
ラピスラズリに「瑠璃」という漢字表記をしたのは中国でであろう、。それが「瑠璃」という名前で日本へ伝わったのだ、。
残る問題は、その「瑠璃」を陶器の顔料として使ったかどうかという事だけだ、。しかし、もしも「瑠璃釉」が「瑠璃(ラピスラズリ)」を顔料としてなかったら、「呉須でもない、瑠璃でもない」とすれば、1650年頃に「陶器の顔料として瑠璃色を発色させるのに何を顔料としたのか、」という問題が残る、。ここが判らない、。
シルクロードを伝わって来たアフガニスタン原産のラピスラズリ(中国名・和名共に瑠璃)を砕いて瑠璃釉の顔料とした、というエビアンの理論で良かったんじゃないか、という気持ちは今も残っています、。
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<奥部屋記事から転載>




by evian_th | 2016-06-20 14:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
2016年 夏の展示会 風蘭展                   No.562
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◆2016年6月、。


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)




華幸園 富貴蘭展
時:201○年○月○日・○日
所:華幸園展示場(香川県高松市生島町。ナビ用TEL:087-881-0260)



兵庫春蘭友の会 新芽会
時:2016年6月26日(11am~16pm)
所:相生園芸センター








by evian_th | 2016-06-14 21:48 | 東洋蘭春蘭展示会
楽焼蘭鉢                          No.561
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◆2016年6月、。   古典楽焼蘭鉢


花ごよみ 夏の蘭展
時:2016年6月24日~27日
所:花ごよみ(広島市佐伯区薬師が丘)




三香園 富貴蘭展
時:2016年7月1日~3日
所:三香園(香川県観音寺市吉岡町)



今月の鉢は非常に判断が難しい蘭鉢です、。画像だけを普通に見れば「三河鉢」の中の優秀品と判断される人も多いかと思いますが、この鉢画像はエビアンの撮影で、撮影時に手で持って触っています、。その時の印象から、一概に三河鉢とは決められない、。京楽鉢の可能性も多いと感じたので、従前なら「古京楽」と言う分類になるのでしょうが、風来記では鉢のチョットした特徴から「大虎一群の鉢」であるかも知れないと思います、。

下に掲載の「京楽5窯の位置関係図」の内、「短冊家窯」「浮田楽徳窯」「佐々木松楽窯」は単独の窯元ですが、その後の調べで「大虎窯」というのは、どうも一つの窯を指すのではなく、3~5窯の集合体であったようです、。(誤解を招く表現でした、。祇園馬町の周辺には明治時代以来多くの陶磁器窯元があり、馬町の窯元の中で、現在のところ名前の判明しているのは”大虎窯”だけなので、祇園馬町に在った窯元の代表として”大虎窯”と書いた訳です、。今後の調べで個別の名前が判明すれば、それぞれ独立させます、。)

下に掲載の2枚目画像は、明治12年ごろの京都東山・清水寺近辺の地図です、。(この地図では上が東の方角になっています)、。
現在のように東山山麓に沿って南北に直線状に通る「東大路通り」などは無く、農道のような道が込み入ってます、。
①は、清水寺(きよみずでら)
②は、葬送の地である「鳥辺野」(とりべの)
③は、鳥辺山の南側一帯が「祇園馬町」(ぎおん・うままち)です、。
鳥辺野一帯は平安京以来1000年に渡って葬送の地であり、こんな不気味な場所に多くの陶磁器窯元が窯を開いていた訳です、。この馬町には現在も「清水焼」(きよみずやき・磁気)の窯元が多くあるようです、。
陶磁器を焼く窯元などは嫌われていたのかも知れませんね、。
徒然草に「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺野の烟(けむり)立ちさらでのみ・・・」と書かれている通り、鳥辺野は火葬の地でした、。陶磁器窯元も煙が出ますので、そういう所へ集まったのかも知れません、。

現在の京都は観光地化されていて、清水寺へ昇る東大路通りと五条通の交差する五条の交差点は広い道路で、馬町の信号で止まっていると、1回の青信号で京阪電車からの観光客が数百人も交差点を渡り清水坂を昇って行きます、。平安京以来の屍が埋まった上を踏みつけているのも知らないで、。清水坂の右側の土産物店の裏側は「鳥辺山の墓地」なのも知らず、気味悪い場所であるのも知らず、明るい観光客で溢れています、。

「鳥辺野」の南側一帯の馬町に在った窯元の内、「楽焼鉢」を焼いて現在名前が判明しているのは「大虎窯」だけです、。風来記では、便宜上この馬町周辺の窯を「大虎窯」と表現することがあるかも知れません、。ご承知おきください、。「福井楽印窯」についてもエビアンの気持ちの中では、最近は新しい考えになりつつあります、。いずれ機会があれば、。

今月の鉢は「桐唐草に十六枚菊花一重紋」の蘭鉢です、。
菊花紋が描かれているから皇室関係献上品という訳ではありません、。菊花の花弁の描き方が雑ですし、皇室献上品の場合は「十六枚八重菊」の筈です、。まぁ、献上品は絶対に無いでしょうね、。絵付け全体も隙だらけですし、。
この鉢の良い所は、何といっても使い心地の良さそうなところです、。口径と高さのバランスがいいし、足の広がり具合も良い、。嫌味な所が感じられない、。柄物春蘭を入れると一段と映える鉢でしょう、。好もしい蘭鉢に仕上がっています、。使い勝手の良さそうな蘭鉢です、。
大正時代から昭和初期の製作、。口径13cm高さ17cm、。(鈴木学氏蔵)


下画像の地図は大きめサイズで掲載しています、。画像をクリックして拡大してご覧下さい、。
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以前風来記ページか奥部屋かに「京楽鉢に第六の窯元が在ったかも知れない」と書いた時に、エビアンの頭にあったのは下画像の、「足が腰へ着く部分を横から見ると、ポコンと丸く出た一群の鉢」です、。
この鉢は窯元不明のままに置くにはあまりにも惜しい鉢なのです、。台の作りもいいし絵付けも非常に巧み、。高級感あふれる鉢に仕上がっています、。この鉢の窯元名は是非とも調べたいと願っています、。

陶磁器の資料を調べていても「楽鉢」は本当に出て来ないのです、。大々的な登り窯などは必要が無く、民家のような家の中で焼けてしまうものですから、陶磁器窯元として資料に出て来ない場合が多いのです、。短冊家さんでさえ資料的には出て来ないのですよ、。
浮田楽徳は出て来ました、。しかしそれも「楽焼を焼いたらしい」というような短い一文だけです、。「植木鉢を焼いた」とは出て来ません、。植木鉢を焼く事は陶磁器窯元としては恥ずかしい事だったかのように、「楽焼」とは出ても「楽鉢」とは書いてありません、。「京楽」や「大阪楽」を調べるのは想像を超えて困難な作業なのです、。それでもなお、下画像の鉢の窯元は突き止めたいと思っています、。

「祇園馬町」の周辺も不明な窯元が多いのですが、エビアンが気になっているのは、東山の「八坂神社や知恩院の裏側」にあたる「粟田口近辺」です、。この辺にも江戸時代以後、陶磁器、特に「陶器の窯元」が集まっていた記録があります、。下画像の鉢は、この辺の「粟田焼」「京薩摩焼」の系統に属する鉢ではないかと考えています、。
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「京都平安京」を開いた「桓武天皇」という人は大変な怖がりでした、。
京都に都を開くに当たり、「四神相応の土地」にすべく、東に琵琶湖からの流れを引き「青龍の気」とし、南に「巨椋池」を置いて「朱雀の気」とし、西に「西国街道」を引いて「白虎の気」とし、「北に北山」があって「玄武の気」としました、。
都の東西南北に大きい石を置いて「岩倉」とし「荒ぶる神様であった素戔嗚尊(すなのおのみこと)」を降臨させて都を護らせ、「大将軍八神社」を置いて都の守りとし、死者の怨霊を閉じ込めるために変死者が出るとその場所に多くの寺を建て、死者の怨霊を弔う「祇園祭」をし、陰陽師安部の清明のような「陰陽師」に「式神」を使って悪霊を払わせ、「白拍子」「かむろ」を使って市民を見張らせたほどです、。また、北東の「表鬼門」には数々の「鬼門除け」の神社を置き、北東の奥には「比叡山延暦寺」を置いて「表鬼門払い」としたのです、。

「表鬼門」をそれほどまでに気味悪がったのに、吉祥事が入って来る南東の「風門」の「鳥辺野を火葬の地」とし、主人(桓武天皇自身)を護る北西の「天門」に「風葬の地・化野(あだしの)」を置いたのが、どうにも合点が行かないのです、。

◆在りし日の「巨椋池」(おぐらいけ)
京都十条の辺から宇治市を含み、南は大阪・淀の競馬場までを含むほど大きい池でした、。湖と呼べるほどの広さがあったのです、。南の「朱雀の気」を失うわけです、。これを埋め立てると京都が四神相応の地ではなくなるのに埋めてしまったのでした、。
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明治から昭和20年頃へかけて埋め立ててしまった、。近年話題の伊藤若冲が描いた「蓮の葉の下を泳ぐアユ(鮎)」は、この巨椋池でのみ見られる光景でした、。(蓮は濁った水に咲き、鮎は清流を好みますから、伊藤若冲の代表的な絵の中に「蓮の葉の下を泳ぐ鮎の絵」があるのはおかしいのではないか、という文句をつける学者が居り、調べた結果「巨椋池」でのみ見られる現象だったことが判明しました、。伊藤若冲の観察眼の鋭さが見直された出来事でした)、。







by evian_th | 2016-06-01 00:14 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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