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浮田楽徳窯蘭鉢                  No.607
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◆2018年8月、。   浮田楽徳「七宝花菱繋ぎ紋蘭鉢


非常な猛暑と気候異変とに見舞われている2018年の夏ですが、皆さんはお元気ですか?
暑中お見舞い申し上げます、。

2018年は「三河鉢」に関する新事実が次々と判明した記念すべき年になりました、。
その関係から、今年は「三河鉢」とその発祥に関係した「手嶋揫二鉢」の記事が一年の前半を占めました、。三河鉢も一段落したので、久々に「京楽鉢」を見たいという欲望に駆られて、今月は「楽徳蘭鉢」を掲載、。

掲載画像は10年以上前に撮影の古い画像です、。風来記が「楽鉢の歴史調べ」を始めた頃までは、上掲のような「横から撮影画像」だけが「植木鉢画像の常識」でした、。それで十分だったのですね、。
風来記が楽鉢を解説するようになってから、「鉢べりはどうなっているか」とか「内側のロクロ引きの指痕がどう」とか「鉢底の土目がどうこう」とか言い始めて、撮影者も「横から画像」だけではなく「斜め上から画像」や「鉢底画像」も撮影するような時代に入って行った訳です、。だから、上画像には「上から画像」も「下から画像」も存在しません、。その必要も感じなかった頃の撮影です、。

風来記も御多分に漏れず、「京楽鉢」から調べ始めたのです、。ところが、最も古い筈の「短冊家鉢」でさえその形が完成されてることに不信感を持ちました、。それで、この「短冊家の製品の形はどこから来たのだろう。」と疑問を持ち、古い本を(高い本は買えないので、安価な本を沢山)読み調べ、ある時、「明暦2年、大阪の堺で楽忠窯が開窯。」という記事に出会った訳です、。幸いなことに「楽忠窯」製品と「楽雅亭」製品には「落款」があり、実物を見つけやすく、記事を立証できたのです、。その後しばらくは「大阪楽の研究」に没頭することになります、。

京都の丸山健氏と千葉県の笠原信雄氏とからの情報提供には随分助けられました、。丸山氏が短冊家から「古い窯元の名前」を聞き出して下さったお陰で「京楽鉢」の歴史調べは一気に進展して行ったのです、。
同じころの「メルマガ」に「日本の古い窯元の解説文シリーズ」が掲載されたという幸運にも恵まれました、。「浮田楽徳窯や浮田楽徳という人物」は、こうして見つかった典型的な例です、。窯の在った住所まで判明したのですから、。

「楽徳窯の鉢」はいいねぇ~、。「短冊家鉢」と共に「京楽鉢の双璧」ですね、。楽徳が狩野派絵師からの転身絵師だという事や、先祖が「関ケ原の戦い」に関係していた事も幸運でした、。なんしろ日本人は「戦国時代」と「幕末・明治維新」の日本史を大好きで、「楽焼お茶碗」は戦国時代に、「楽焼鉢」は幕末と明治維新とに深く影響を受けたのですから、調べるエビアンも楽しかったし、読む方も興味を持ってもらい易かったという幸運に恵まれたのです、。

「楽鉢の歴史調べ」は、何も資料がない所からの出発でしたから、多くの人のご協力でここまでわずか10数年で調べられた事は奇跡に近い事でしょう、。
残る課題はかなり高次元の調べになると思われますが、風来記では今後も続けて行こうと決意しているところです、。

掲載画像は、何も解説する必要もないくらい素晴らしい完成度と使用感とを併せ持った蘭鉢です、。「七宝紋」というのは「4つの円形」を重ねて出来る紋様です、。その繋ぎ目に花を描いてあるから「七宝花菱繋ぎ紋」、。七宝紋は金泥で、花は天然緑土で描いてあり、「鉢縁下」の緑土の横線以外は「総絵付け」です、。明治中期の作、。
(w11.5xh15.5)、撮影時の持ち主は分かっていますが、その棚の鉢の多くはそれ以後に動いたので現在は愛好家所蔵、。

絵師・浮田楽徳の世界をじっくりとお楽しみ頂ければ幸い、。


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全日本東洋蘭連合会 新芽会
時:2018年8月22日
所:東京 大森 「八幡自治会館」(東京都大田区大森中3-8、京浜急行梅屋敷駅下車3分)










by evian_th | 2018-08-01 00:03 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島六角鉢・三河鉢                      No.606
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◆2018年7月、。   手島揫二「六角鉢」


「7月の月替わりなのに風来記のトップ画面の更新が無いぞ、と皆さんが心配しているが、元気なのか?生きてるか?」と京都の丸山健氏から電話を頂いた、。。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。生きてます、。先日の地震以来、考え事があったり個人的な用事が有ったりする内に、月が替わってしまっている事に全く気付かなかった、。風来記を始めて以来13年半になりますが、こんな事は初めてです、。ご心配を頂きまして、ありがとう御座いました、。

◆手島揫二「六角鉢」と三河鉢のことなど・・・、。
「手島六角鉢」に関しては、何年か前に書いた通り現在の古典園芸界に10個ー15個程度現存します、。「手島六角鉢」には手島揫二自身が製作した鉢と手島の弟子である興楽園杉浦勘之助が製作した鉢とが含まれます、。どちらも「手島鉢」として販売されたので、見た目や手触り感に多少の違いはあっても「全部が手島鉢」です、。その全部に「瑠璃釉薬」が使用されているところから、製昨年は明治30年以降~大正時代のものです、。落款は「ひらかなで”てじま”」というものと、漢字で「手島」というものとの2種類があります、。

掲載画像は釜揫手島揫二自身の製作で、使用されている陶土は「西端粘土」、。京土を使って何かを植え込まれていたらしく、京土の染み出た使用感が何とも言えない良い時代乗りを表現しています、。京土は「七条土」とも呼ばれ、京都七条近辺(JR京都駅を中心とする東西数キロ範囲)の”どぶ土”を乾燥させて砕いたもので、植込み用土として明治・大正の両時代から昭和18年頃まで広く古典園芸界で使用された用土です、。この土が水やりの水に溶け、鉢から染み出て鉢表面にこびり付いた様子が、古典楽鉢愛好家にとっては何とも言えない良さを感じさせるのです、。

「手島鉢」というのは、東京市本郷区駒込林町11(現・東京都文京区千駄木5丁目)に窯があった「東京楽」ではありますが、来歴が判明してみれば、半分は「三河楽鉢東京支店」のようなものです、。強いて言うなら、2代目錦園堂・手島揫二鉢は「東京楽鉢」と呼べるかも知れません、。元は、初代釜揫手島揫二が「愛知県碧南市西端の楽鉢」の宣伝と販路を広げる目的で東京に窯を構えたのでした、。

三河楽鉢は、明治18年頃に西端の桃源社メンバーが常滑から指導を受けようと呼び寄せた滝田椿渓の弟子・伊藤善之助と西端の手嶋揫二とが西端粘土を使った楽鉢を完成させたものです、。
手嶋揫二が東京へ転居した明治30年以降は、手嶋揫二が西端に残した愛弟子の杉浦良平と鳥居只吉とが西端楽鉢を製作していたのですが、折からの不況で鉢は売れず、明治38年に閉窯に至ります、。

大正3年に東京の釜揫・手島揫二の元で修業を終えた杉浦勘之助が西端へ帰り「興楽園」を開窯し、その杉浦勘之助の元へ弟子入りしたのが「京樂園・横山孫一」と「三華庵・杉浦清司」です、。
「改楽園・神谷長平」は、子息の良弘氏いわく「おやじは勘之助さんの所へ遊びに行ってる内に勝手に作り方を覚えた」ようで、昭和28年から44年まで楽鉢を製造しました、。ですから技術を盗んだだけで弟子という訳ではありません、。
京樂園は平成25年に、興楽園は平成18年に楽鉢不況のために閉窯し、三華庵は楽焼茶器の方向へ向かったので、西端楽鉢を受け継ぐ窯元は三河安城の「愛楽園」のみという時代になっています、。

明治の三河鉢創成期に、手島たちとは別に西端陶器を焼き始めた中里家初代の鉢も残っているでしょうから、現在我々が見る「三河鉢」がどこの窯元の製品なのかの見分けは非常に困難なものになっています、。
昭和期に焼かれた三河鉢の陶土となる「木節粘土(キブシ粘土)」も、猿投設楽山系の数ヶ所から掘り出されたもので、色も純白から黄色・灰色・鼠色と範囲が広く、余程見慣れないと三河鉢の見分けはつきません、。

掲載画像の手島六角鉢のサイズは、w15.5xh12cm、西口郁夫氏所蔵。

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本年、2018(平成30年)の1月・4月・7月(イースーチーのスジと覚えて頂くと便利,^^;。)の3か月に渡り「手島鉢」と「三河鉢の黎明期」について、お伝えしなければならない人名や正確な年代などの事項は全部書いたと思います、。後の資料となるなら幸い、。
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by evian_th | 2018-07-02 12:53 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」               No.604
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◆2018年6月、。   福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」


福富京楽堂「赤絵花唐草紋万年青鉢」、。
東京駒込団子坂上の「錦園堂・手島揫二」の先代「初代・釜揫・手島揫二」は、大阪堺市から明治12~13年頃に窯を移して来ていた「楽忠」の弟子だった、。しかし手島鉢を見ると「楽忠らしさ、」は「絵付けに瑠璃釉を使う」こと以外には見当たらないのです、。手島の鉢の台の作り方は、愛知県西端時代に完成しており、東京へ出てからの特段の変化は見られません、。

その事を考えている時にフッと思い付いたのですが、「福富京楽堂こそが楽忠の東京での一番弟子だったのではないか」という考えです、。
福富窯の製造する鉢の質は、熟練した陶工のものです、。鉢質は硬く割れにくいのは相当期間の陶工としての修業の賜物でしょう、。東京本郷上駒込にポツンと1軒だけこれほどの完成度の高さを誇る楽鉢窯元が存在したこと自体が不自然で、誰か必ず師匠筋に当たる窯元は在ったはずです、。それが「楽忠」だったのではないだろうか、と最近のエビアンは考えています、。

但し、エビアンが思い付いたこの「福富は楽忠の弟子だった」という説には、一つだけ大きな落とし穴(欠点)があります、。それは福富京楽堂の鉢には「瑠璃釉が使用された作品が無い」という点です、。この点で、そう言い切るには自信を持てないでいるのです、。江戸幕末から明治初年の楽忠窯の製品の多くには瑠璃釉薬が多用されたのに、弟子が瑠璃釉を使わない筈がないからです、。
福富窯の製品には「京楽」の影響が濃く見受けられます、。福富と京都とを結び付ける証拠資料を探しているところです、。

今月画像の鉢は、明治後期の万年青鉢で、6寸の大鉢です、。鉢べり直下に少し鋸歯紋を描いた他は、鉢全面に赤色顔料が目立つ華やかな絵付け鉢です、。見事な大鉢で人目を惹きますよね、。
(6号鉢、撮影所蔵・米谷青彰園さん)


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by evian_th | 2018-05-31 23:50 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二二代七々子蘭鉢                     No.603
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◆2018年5月、。    二代目手島揫二七々子蘭鉢


先月(2018年4月)は「初代・手島揫二」のことを資料に基づいて書きました、。楽鉢数寄者に役立つとは思えないけど、資料として残すという意味合いでした、。
今月は「二代目・錦園堂・手島揫二」の「七々子紋蘭鉢」です、。

大正7年、初代の逝去に伴って「初代の娘婿」が二代目手島揫二を引き継いだ訳です、。二代目については出身も何も知られてませんが、単行本に記事を執筆したり、銘鑑に名前を登場させたり、愛知県西端へ帰郷した興楽園・杉浦勘之助と組んで同一デザインの鉢を東京と愛知県とで製作し「手島鉢」として販売したりという風に商売は上手かったようです、。
昭和18年製作の献上鉢の存在は知られていますが、それ以後の鉢の存在は知られてません、。昭和27~28年頃に興楽園が「押し型成形鉢」を完成させ大量生産時代に入ったので、「ろくろ引き手作り」だった手島窯は閉窯に追いやられたと愛知県の郷土史に掲載が有りますから、昭和27年ごろまで続いていたのかも知れません、。

今月画像の蘭鉢は「七々子紋」です、。手島鉢といえば「波千鳥鉢」が有名ですが、昭和の初めの本の写真を見ると、手島の七々子紋万年青鉢が沢山写っていますから、七々子紋様鉢も多く製作したのでしょう、。
使用されている顔料は天然緑土の乾燥すると緑青色になる分です、。浮田楽徳が使ったのと同じ程度の緑土ですね、。緑色部分と緑青とが混ざり合い、何とも言えぬ良い味わいを出しています、。

使われた粘土は、先月に書いた愛知県猿投設楽山系の「キブシ粘土」です、。キブシ粘土はこの鉢のように黄色味がかったものから純白(乳白色」のもの、鼠色がかったものまで幅広く産出したようです、。作る側からすれば使い易い陶土だったのかも知れませんが、観賞する側から見ると、あまり魅力的な陶土とも思えません、。初代手島揫二のように西端粘土に拘って欲しかったな、とエビアンは感じています、。

風来記トップ画面としては珍しい「七々子紋の手島鉢」のご紹介でした、。
(口径13㎝、高さ17㎝、鈴木学氏所蔵)


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by evian_th | 2018-04-30 22:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
手島揫二鉢                           No.598
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◆2018年1月、。   手島揫二窯

謹賀新年。本年もよろしくお願いします。



東京・手島揫二窯の新事実、。
新年は「手島揫二窯」の2つの事実のお話から始めます、。

手島揫二は2人存在した、。
この事をエビアンが知ったのは、楽焼鉢を調べ始めた直後(10年以上前になりますが)に最初に出会った真実です、。上画像、7枚目資料の向かって左端の古い書籍の記述に「団子坂上に住する手島揫二氏の先代同名」という文章を見つけたのでした、。「錦園堂・手島揫二」には「同名の親」が居た、ということになります、。「これは大変な事を知ってしまった、鉢相場に影響するといけないので人には言えないな、」と思い、風来記では隠し通して来たのでした、。

その後、初代・手島揫二が明治39年1月に「万年青と仙人掌の銘鑑」(7枚目画像右端)を発行していた事実を知った人が出て来て、もう隠せないかな、と思い始めてはいました、。昨年2017年12月になって、8枚目画像の資料を入手するに至り、その左端に「楽忠は、駒込動坂・錦園堂・手島揫二氏義父の師なりし」という記述を見て、これはもう本当のことを書いておかねばならないと観念したのです、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。


ここで2つばかり整理しておきますが、初代は「楽焼植木鉢製造販売・手島揫二」と名乗り、二代目(7枚目画像中央)が「錦園堂・手島揫二」と名乗っていたようです、。初代は、明治15年頃に「東京市本郷駒込千駄木林町11番地」に窯を開き、二代目は大正7年に「東京市本郷区駒込林町11番地」に窯があったようですから、同一場所ですね、。
訂正になりますが、7枚目画像の書籍文中から、エビアンは過去に「手島窯」の場所について「団子坂上がる」に存在したと書きましたが、8枚目画像の資料による「動坂の上」が正しい場所であったようです、。
千駄木は坂の多い土地で、名前の付いた坂だけでも7つ8つ存在します、。初めに読んだ本の筆者が「動坂と団子坂」とを取り違えたようです、。訂正しておきます、。「動坂」はドウザカと読み、不動坂の略称だそうです、。


「楽忠は、駒込動坂・錦園堂手島揫二氏義父の師なりしという」という記述には驚きました、。
「手島鉢」に多く存在する「青海波紋を使った波千鳥文様」に使われる釉薬は「金」と「瑠璃」とだけです、。その「瑠璃釉」の混合などは、なんと「大坂の楽忠に教わっていた」のです、。
上画像「万年青鉢」と「蘭鉢(未使用)」は初代手島揫二の作品ですが、そういわれれば「瑠璃釉」の混合などは人に教わらなければ自分で出せる色ではありませんものねぇ、。いやぁ驚きました、。「手島の瑠璃釉のルーツは楽忠にあり」でしたか、。

もう一つ、「楽忠窯」は明治12年ごろに閉窯した、と聞いていましたが、明治初期に大阪の市場の将来性に見切りをつけた「楽忠」が「東京・動坂」へ明治初期に窯を移し、明治12年に閉窯したのか、それとも、明治12年に大阪堺の窯を一旦畳んだ後に東京動坂で再び窯を開いたのかは、現在までのところ判明していません、。
8枚目画像の挿絵にあるように「動坂」落款と「楽忠」落款とを押印して「大坂楽忠」と区別したのでしょう、。こういう鉢が現存するのかどうかも分かりませんが、見てみたいものです、。

いずれにせよ、初代手島揫二に鉢作りを教えたのは、東京動坂で窯を開いた楽忠だったという驚愕の事実が判明したことは、誠に喜ばしい出来事です、。

事実は小説よりも奇なり、という言葉を思い知った出来事でした、。

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この項目ご協力者様(順不同)
華幸園住田幸弘様・蛭田梅里園様・米谷青彰園様・立岩信彦様・杉野達実様・笠原信雄様

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万年青鉢7.5x7cm。蘭鉢9x13cm。
「手島揫二」の初代と二代目との関係は実の親子ではありませんね、。「義父」というのですから「娘婿」か「養子」かでしょう、。いずれにしろ「手島鉢の相場」には何の関係もありません、。

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この項目は、2018年4月「手島鉢の全て、スレッドNo.601」で、一部訂正および追加になります、。








by evian_th | 2018-03-26 14:54 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
東城山一角鉢                        No.599
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◆2018年2月、。   東城山一角鉢、。


東洋蘭風来記が「古典鉢」と定義付けている鉢は、戦前の製作鉢で素焼き時に加茂黒釉を掛けてあるもの、ということになります、。今月の鉢は戦後の鉢であることと化学薬品釉薬を使った鉢であって「古典楽鉢」ではありません、。

現代陶画工は多数おられます、。その第一人者は「布施覚氏」であることは疑問の余地もありませんが、戦後の「陶工」は、というと楽鉢工場での大量生産に重きが置かれ、陶工として目立った人は居りません、。

その中で、「中里五代・東城山一角」は驚異的な腕前を持った陶工だと思います、。
今回、現所有者が一角らしい一角鉢を入手されたので、ご紹介、。

東城山一角に関しては、奥部屋の過去スレに掲載したので、ここではリンクを2スレッド張っておきます、。文字クリックでリンク先スレッドへ飛びます、。


◆東城山一角


◆今月の画像の鉢のテーマは「雲龍鉢」、。
鉢の胴部分全体に「雲」を描き、足には雲から突き出る「龍頭」を陶土で作ってある、。
こんな思い切ったアイデアを過去のどの陶工が思い付いただろうか、東城山一角の真骨頂である、。
一角は「龍」や「鯉」を「炭を練り込んだ黒い陶土」で作った、。
台の鉢は澤製陶所に身を寄せていた時代に作ったものだろう、。「利山落款」が無いところを見ると、鉢本体を作ったのも一角自身だと思われます、。
東城山一角鉢は価格的にはもっともっと高く評価を受けるべきだと思われます、。

東城山一角は鉢の足やヘリや胴の陶土そのものに細工する鬼才の持ち主です、。この鉢は「古典鉢」に準ずる資格を有した鉢だと思います、。
13.5×h13cm、(堀籠浩史氏蔵)

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「東城山一角の茶器」
急須の蓋の取っ手は「蜘蛛」、。画像提供:杉野達実氏
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by evian_th | 2018-01-31 21:00 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
万年青鉢                           No.594
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◆2017年11月、。   万年青鉢


月日の経つのは早いもので、もう11月、。気忙しくなりました、。

今月の鉢は「万年青鉢」、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。実はよく分からない、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。
こういう窯元名も産地さえも判然としない鉢は多いのです、。実物を手に持てばもう少し判断もできるのでしょうが、。
良く出来た鉢ですよ、。余程使い勝手の良い大きさなのか、よく使い込まれて鉢底が見えないほど石灰分が付着しています、。それでよけいに分からない、。
チョッと見に「台は短冊家かな」と思ったのですが、短冊家がこういう絵付けをするかなぁ、などと思い始めるともう分らなくなります、。京都か三河かさえも判断できません、。短冊家にそっくりな台の作りをする三河鉢があったのです、。
鉢べり直下には天然緑土と金線、。他は霞取りの総絵付け、。唐草風な模様も描き慣れた風で躊躇が見られない、。同一絵付けを幾つか作ったようで、絵付けが少しぞんざい、。
台の鉢の作りの良さと、絵付けの手抜きとがミスマッチ、。どうにも判断できず、今月はお手上げです、。すみません、。(大きさ不明。飛田邦之氏蔵)


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by evian_th | 2017-10-31 20:49 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
大阪楽                              No.593
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◆2017年10月28日、。   大阪楽(大坂楽)


「大坂楽」(大阪楽)、。
大阪楽は「楽焼初期の頃、大阪で焼かれた楽焼」を指すのですが、そうすると、楽家初代の佐々木長次郎が焼いた茶器・茶碗も含んでしまうので、風来記では「楽焼植木鉢」限定で使っているとご理解ください、。

「楽焼」は、中国福建省から渡来の「阿米也(阿米夜)とも、帰化名を常慶といい、通称は弥吉とも政吉ともいう)」が京都・上長者町西洞院東入るに住み、加茂黒を使って手捻りの柔らかい陶器に焼き付けた焼き物です、。この阿米也(常慶)の時点では京都で作られていたのは確実でしょう、。
この阿米也(常慶)と佐々木氏の娘(不思議に名前がどこにも出て来ない)との間に出来た長男が佐々木長次郎です、。天正2年常慶(阿米也)死去、。ここまで読んで、鋭い風来記ご常連ならお気付きと思うけど、阿米也の帰化名と楽家の2代目とがどちらも「常慶」であり、2代目常慶は長次郎の弟だと13代目は書いているので、つまり阿米也の息子ということになり、楽鉢調べ初めの頃のエビアンの混乱ぶりがご想像頂ける思う、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。

天正5年織田信長の命により佐々木長次郎が田中利休(後の千利休)の好みを受けて父・常慶(阿米也)の遺法に基づいた「赤黒の茶碗」(赤楽と黒楽のことだと思われ)を製して献上したる史実がある、・・・と楽家13代目が書いています、。その後、本能寺の変で信長が他界すると、利休の引きで豊臣秀吉の茶碗を作るようになるのですが、信長→秀吉→利休、という流れを見ると、科学的証明を待たずとも、「楽焼は初代佐々木長次郎が天正2年から天正5年の間で大阪・堺で窯を開いて作っていた、と考えるのは極く自然です、。利休は信長から3000石を貰っていたとも書いてあります、。楽家も200石を貰ってお抱えの身分だったようです、。(2代目が自由な作陶をしたくて返上してしまいますが)、。

ですから、時代は少し下りますが、江戸明暦2年(1656年)楽家2代目常慶の弟・宗味や、楽家3代目道入の弟・道楽が「楽雅亭」「楽忠」の窯を大阪の堺で開くに至ったのだと思います、。
宗味の「楽雅亭窯」は明暦以前数年~数十年前に開窯したものと思われますが、それを裏付ける証拠となる文書には出会っていません、。

織田信長が大坂に目を付け、上町台地の最北端に「大坂城」を作ろうと思うに至った一番の原因は、その地の利です、。上町台地は南北に長い台地で、南へ低く北へ高くなっています、。その北の端の最も高い場所へ大坂城を置くことの理由は、当時の上町台地の周辺は、南以外の西の大阪湾までの方位も東も北の方面も「三方が大湿地帯(泥沼状態)で敵が攻めて来にくい」からという理由らしいです、。だから南の方向に「真田丸」を置いて大坂城を守らせれば、非常に安心できるからだったようです、。

で、南にしか開けた(乾いた)土地が無かったので、南の「堺」とは非常に便利な行き来しやすい土地だった、。ここで窯を作っていたと思います、。
なんしろ、運搬が海運に限られていたその頃の「大坂・堺の港」というのは、国内外の物品の集積所であり、松前船も外国船も国内の船も、九州と下関との間から波の静かな瀬戸内海へ入ってしまえば、後は瀬戸内海を東へ東へと進むだけで、突き当りの「大坂・堺の港」へ到着したわけです、。日本中の米も外国からの物産も堺に集まり、米相場が立ち、物が溢れて「堺は日本一の経済の中心地」になっていたのですから、。その後の江戸時代になってもそれは変わらず、270年間繁栄し続けた都市でした、。
長次郎が作る「茶碗」も大阪で最も多く消費されたのでしょう、。
京都寿楽第(邸)の完成後、豊臣秀吉は京都へ上洛し、千利休も長次郎も行動を共にしたので、「楽雅亭」「楽忠」という「楽家脇窯」も開窯しやすい環境が整ったのだと思います、。

明治維新とその後の「廃藩置県」で大阪の両替商の100兆円を超える「大名貸し」は踏み倒され、両替商は銀行へと組織を替えて生き残りを図ったのですが、副業に始めた大同生命が残るだけで大阪の両替商は姿を消し、「大阪不況」に陥ります、。気が付くと海運の時代は終わり、陸蒸気による陸運へと時代は変わっていました、。
おまけに京都から東京の別宅へと天皇が移り、皇城の地でもなくなった京都も不況になるのですが、京都人は商売が上手いので観光業で何とか立ち直っています、。
大坂の堺はなんしろ日本一の商業の中心地だったというプライドは高いので、廃藩置県時には旧:大和の国(今の奈良県)の全域を含めた「堺県」として独立し大阪とは一線を引いて来たのですが、明治20年ごろには大阪府に含まれ、独立した奈良県が誕生します、。だから堺市は今も大阪維新の党に逆らって橋下徹氏の「大阪都構想」には賛成しておりません、。残念ながら「堺」は、70数年前の大戦時に米軍の徹底的な空襲によって焼き尽くされ、原爆投下直後の広島のような都市になり、今は見る影もない貧弱な都市になっています、。仁徳天皇陵など古墳群があるのが不自然に見えるほどの廃れ様です、。市内にほんの数軒ですが戦災を免れた商人住居が残りますが、それはそれは立派な江戸時代そのままの豪邸です、。(こういう家に楽鉢が残っているかも知れない)、。
大阪が再び活気を取り戻すのは不可能と思われます、。


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下画像は、江戸後期になって園芸植物が古典園芸植物を意識し始めた頃の「京都・短冊家の極く初期の鉢」です、。1820年~1830年ごろの鉢、。長野田中家や九州、飛田邦之氏や西口郁夫氏にもあって、案外この加茂黒鉢は残っています、。6寸鉢、。下画像は九州の愛好家蔵、。
大阪楽のデザインの太鼓胴や段替わりは残しながらも、胴部分には形容しがたい微妙な反り(カーブ)を取って、大阪楽に比べると、この頃既に「新しい楽鉢」に変わりつつある感じは受けます、。
「短冊家」が段替わりを取っ払って、一気に引き上げ「段替わりの名残りの2本線」を入れるようになるのは、それから更に30年ー40年近く経った江戸幕末の事でしょう、。1861年開窯の浮田楽徳鉢には段替わりの鉢は見られないので、短冊家のデザイン革命はその頃までには完成していたものと思われます、。


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by evian_th | 2017-10-28 14:58 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢
五柳                              No.592
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◆2017年10月20日、。   五柳




上掲の画像は、「万年青界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」と「蘭界に存在する五柳寿運サイン入り鉢」のサイン部分の抜出画像です、。
園芸ジャパン誌」に五柳を書く時も「栃の葉書房」に五柳を書く時も、出版社が最も警戒するのが「著作権・画像の所有権」の問題です、。
だから、この2つの鉢を比べて同時に掲載することは出版社では無理なのです、。


ネットじゃ構わないのか?てと、やはりマズイにはマズイのですが、蘭界の分は野田谷君の上野の展示会に展示されスナップ撮影も禁止じゃなかったし、萬年青界の分は現在の所有者が判然とせず、画像の所有者から流れ出た写真だから、まぁ風来記では使ってます、。


この2枚の画像を揃えないと説明がつかない話もあるからです、。


画像向かって左の万年青界にある分は「芳古園主・五柳寿運」と本人が描いており
向かって右の蘭界にある分には「芳虎斎・五柳寿運」と描いています、。
これらの事から判断できることは、五柳は五柳寿運と名乗っていた絵師で、「芳古園」の暖簾を出し、「芳虎斎・五柳寿運」を名乗っていたこと、。
<div>昔の人はいくつもの名や号を持ち、本名も3つくらいは平気で名乗っていた、。この事で、初めの頃に「楽家の人名」で苦労した、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、一人で5個くらいも名前を持っているんだもの、。


「五柳」は短冊家の雇われ絵師ではありません、。独立した陶画工(陶磁器専門絵師)でした、。
他の窯元の鉢にも絵付けをしましたが非常に少数です、。余程高価だったのでしょう、。


「京都」という特殊な土地柄は、京都自体がお互いに助け合いながら動いている一つのシステムのような都市で、あの道路沿いにずらりと並ぶ「京町屋」の2階部分は「各種職人の仕事場」になっている、。
<div>「京扇子」一つ作るにも、竹を削る人、扇状に割る人、扇面に絵付けする人、絵付けされた紙に竹の骨を入れる専門職の人、仕上げする人、売る人、などと、京都の町をアチコチ回って、ようやく1本の「京扇子」が完成する、。
<div>基本的に、人を雇わず「身内だけの家内工業」が多く、このことが不況に強く100年以上の「老舗」を多く残す原因に繋がっている、。


こういうことを考え合わせると、「芳虎斎・五柳寿運さん」は「芳古園」という暖簾のかかった町屋の奥の離れで「持ち込まれた楽鉢に絵付けだけをしていた」のでしょう、。短冊家には全盛時には内窯が5個も存在したらしいから、絵付けを終えた楽鉢を短冊家の窯で最後の焼付作業をしたのかも知れません、。この事が、短冊家以外の窯元への絵付けの少なさの証明になるかも知れない、。


「五柳寿運」は80歳くらいまで生きたようです、。
短冊家が「短冊家錦画鉢模様控」を作った明治25年は、短冊家が「高級楽鉢」の注文が殺到した全盛期でしょう、。この短冊家の全盛期を「外注絵師」として強力に支えたのが五柳です、。この時「五柳が30歳」だったとすると(大体そんなもんでしょう)、短冊家が「短冊家楽鉢価格表」を出した昭和10年には、五柳寿運さんは75歳、。まぁこの辺までなら職人として絵を描ける、。どう見ても昭和初期の製作だと思われる蘭鉢を2個ほど見たことが有ります、。風来記でも紹介しています、。そうだとすると、五柳の生誕年は「江戸幕末・文久3年」ということになり、文久元年に31歳で窯を開いた「浮田楽徳」との関係があるように思えてならないのです、。もしかすると、「五柳は浮田楽徳の子供かな?」、。窯を開いた翌年か欲翌年に子供が生まれたんじゃないか、。・゚・(。つ∀≦。)・゚・。、これはエビアンの飛躍した”夢”ですよ、。



「五柳さんは大酒飲みで、酒代が切れると仕事をした」という噂話も根拠がなく眉唾ものです、。
<div>調べ初めの頃に聞いた噂話ですが、五柳と会ったという人が居た、。東京の手島窯でのエピソードとして聞いたのだたが、五柳が手島鉢に絵付けした形跡も見当たらず、東京へ流れて行った事自体が信憑性に欠けます、。最後まで京都に居て絵付け仕事をしていたものと思われます、。昭和初期の短冊家鉢への絵付け鉢の存在が、その根拠です、。



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出版物には書けない”あやふやな話”もネットになら残せる、。世間であれやこれやと噂話が実話のように伝わることも多いから、「五柳」に関する話を一応総括しておきました、。
「楽鉢の歴史」を調べる人は過去に万年青界にも蘭界にも数人居られた、。それらの人は、まず初めの取っ掛かりに「京都・短冊家」へ話を訊きに行っておられる、。短冊家は「短冊家の歴史」を語る、。訊いた人が勝手に「短冊家の歴史が楽鉢の歴史」であると思い込んで、そこから話を出発させるもんだから、大きな誤解を信じ込んだまま雑誌などに記事を書いて来ました、。五柳鉢をややっこしくして来たのにはそういう経緯があったからでしょう、。

まぁ楽鉢を売る商人も「五柳は江戸時代の鉢で・・・」と言って売ったという話は聞くし、短冊家先代の奥さんが「楽鉢は私どもの先祖が文化文政年に創業して作り始めました・・・」という風に誤解を招きやすい話し方をされたらしいから、聞いた人が自分の都合の良いように誤解してしまったという側面はありますね、。

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「京都祇園」というのは、おおよそ南北は「祇園八坂神社」から「清水寺」(きよみずでら)の少し南側の「鳥辺山」(とりべやま)のある祇園馬町(うままち)辺りまで、。東西は加茂川から東山までの事を指し、平安以来ここは葬送の地だた、。(加茂川は結界とされ、西側は人間界、川を渡った東側は冥界とされていた)、。今もまぁそうだのに、京都観光の中心地で多くの寺があることから観光客が集まり、賑やかな事この上も無い、。京都の人にとっては昔と何も変わらない、。「骸骨飴」(がいこつあめ)という飴だけを売る店もあるほどだ、。

その中に、「短冊家」も「浮田楽徳窯」も「佐々木松楽窯」も「大虎窯」もあった、。東山を挟んだ所には「福井楽印窯」もあった、。(福井楽印窯は以前に描いた地図よりも東山に近い所だったと思う)、。<br>
「五柳の住まい」も、恐らくは八坂神社と清水寺の間、もっと言うと「短冊家と楽徳窯との間」だったのだろうと思う、。今は東山の山すそに沿って「片側1車線の東大路通り」が南北に走るが、明治時代の古地図を見ると、牛車が1台ようやく通れるほどの曲がりくねった細い道(農道に近い)だ、。道の両側からはススキが生い茂っている様子が描かれている、。こんな所で「楽焼鉢」は焼かれていたんだなぁと妙な気分になる、。<br>
「京楽鉢」だけが、妙に暗く落ち着いて見え、それゆえの良さを発揮するのかの原因は案外こんなところにあるのかも知れない、。その「京楽鉢だけが持つ暗さ」のようなものを見分けるのが、京楽鉢と東京楽鉢や三河楽鉢との見分けの方法であるかも知れない、。パッと見の印象だけど、。


ここんとこ大阪の展示会にエビアン所有の短冊家のコピー鉢を使った出品がある、。某相生園芸センターが2015年1月の風来記鉢の画像(下画像の鉢)を千葉県の布施覚さんに送ってコピーを作ってもらったらしい、。相生の顧客が買ってその鉢で出品して来るのだ、。先日の展示会にも出ていた、。それでエビアンのと2つ並べてみたんだけど、布施さんの鉢は”明るい”のだ、。暗さが無い、。布施鉢てのは大体が非常に明るい、。千葉県人の性格が出ている、。</div>
<div>布施鉢に限らず、手島にしろ福富にしろ、明るい、。三河鉢の中には妙に暗いというか陰気臭い鉢はあるが、京楽の暗さとは異質だ、。
京楽鉢はなんしろ1000年の墓場の中で作られたんだもんなぁ、。年季が入った暗さがある、。
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by evian_th | 2017-10-23 00:45
鳳凰紋様蘭鉢                           No.591
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◆2017年10月、。   東洋蘭蘭鉢、。


変な気候の夏も過ぎ、展示会シーズンの10月に入りました、。

多分東京楽、福富京楽堂製「緑土鳳凰紋様蘭鉢」、。
1枚目画像、1の足の上方に金色と肉色の2羽の鳳凰が描かれ、その周辺には全く余白(余黒か?)が見当たらないほどビッシリと鳳凰の羽を天然緑土で描いた蘭鉢です、。
3の足画像と、腰部分に「桐の葉」を描いてあるので、1の足は鳳凰なのでしょう、。

福富京楽堂は、台の鉢の作りがシッカリしてますね、。足の作りもいい、。天然緑土(テールベルト)もかなり
上質なものを使用してます、。

1段目の段替わりを省略して広く絵付けをし、2段目の段替わりの線は描くという描法は五柳でも使ったようなので、明治も後半になると、「段替わりの横線」ももはやデザインの一部程度に考えられるようになっていたのでしょう、。
楽鉢全体で見ると、「鳳凰紋」の方が「飛龍紋」よりも多いような気がします、。龍図は空間が多く、埋めるのに苦労するからでしょうね、。

展示会に使い勝手の良さそうな逸品、。明治後期ごろの製作、。(飛田邦之氏蔵)

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by evian_th | 2017-10-01 00:10 | 東洋蘭鉢・楽焼鉢・古鉢・ラン鉢



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